Translate

2008/11/29

寄らば大樹の、大樹なく

 民主主義の対極にあるのは独裁者による全体主義、というのは中学生でも知っている常識だろう。

 戦前の日本にはその全体主義があった。独裁者だったのかどうかは別として、一応、天皇がこの時代の最高責任者だった。
 戦局が悪化し、二つもの原子爆弾が投下され、武器を持たない多くの市民が犠牲になった挙句、天皇は敗戦を宣言し、天皇の神格は、その日、終わりを告げた。
 今、天皇家は週刊誌や本でさんざんにバッシングを受けるようになった。この天皇が神格者として崇拝されていたことを記憶している人も、もうほとんどいないのだろう。

 独裁者はいない。だが、終わっていないもの、、、それは、日本の全体主義だ。

 誰からも「従え」と言われず、誰からも脅迫されるわけでもないのに、みなが、倣うべき「右」はどっちなのだろう、といつも自身ではない何者かを頼りに、つき従い、同調しようとアンテナを張って暮らし、働いている。言葉にされない社会的圧力が仕事場にも私的領域にも感じられるのだろうか。あてこすり、いじめ、お仕着せ、、、言葉にならない圧力をいち早く察して、摩擦をさけ、平穏に事を済ませようとするうちに、ことあげしない人々は、いつの間にか、みんなで全体主義の社会を支える羽目になっている。しかし、目の前の平穏は、実は、日本人ひとりひとりの幸福を内側から崩し去り、日本という国の未来の基礎をガタガタに覆すものなのだ。気づいていてもどうにもならない社会に大人たちも生きているというのか、、、、、でも、そうだから、未来を生きていかねばならない子どもたちが、未来の社会に希望を持てずに悲鳴を上げているのではないのか、、、

 人々の感情を扇動するようなカリスマ的な政治家は、どこのどんな文化背景を持つ社会にも時として現れるものだ。ポピュリズムという大衆扇動の政治は、状況次第で、どこにでも生まれる。それほどに、人間とは力なく、外からの圧力に左右されやすい。
 けれども、たいていの国には、そういうポピュリズムの危うさに敏感な有識者やメディアが、市民の理性に訴えて、このポピュリズムの蔓延を防止しようと動き出すものだ。しかし、なぜか、日本には、そういう有識者やメディアの力が圧倒的に小さい。有識者やジャーナリストまがいが、自ら進んでカリスマ的な人気を求めて、政治も社会的事件も娯楽番組化してしまう、お祭り騒ぎのテレビに登場する。ポピュリズムに対して論理で戦うべき有識者自身が、自らポピュリズムの力、大衆からの人気取りに屈しているように見える。

 日本人の教育程度は、今でも世界でもトップクラスだ。それなのに、いったいどうしたことだろう、、、

 寄らば大樹のつもりでいても、そこには、寄っていく大樹のような独裁者さえもいないというのに。

 エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」という言葉が心に響く。しかし、その「自由」の意味をすら、ひょっとすると日本の大人たちの大半は本当には知らないし、学校でも知らされたことがないのではないか。

人間の数と同じだけある「良心」

 その著書に感銘を受けてどうしても会わずにおれず尋ねていったオランダの教育学者。しかし、その人は、ある日本の学校の「古い」タイプの、私の目には「権威主義」としか見えない教師を映したドキュメンタリー映画に感銘を受けていた。
 個人主義が究極まで行きついたオランダのような社会で、その人は、教育学者として、子どもたちに、集団として生きること、自分ひとりの勝手な利己的な意見を主張するだけではなく、他の人の意見も受け入れて共に生きる調和的な社会を求めていた。それだけに、権威主義的であるとはいえ、子どもたちの訴えに耳を傾け、最後には、子どもの言い分を聞きいれ、惨敗を認めたこの映画の中の教師が、個人主義の進んだオランダではありえない存在、パートタイムの職業と化し学校の中だけで表面的に事を済まそうとする教師たちが増えている今のオランダの学校には期待できないことに見え、深く感動したらしい。
 しかし、その同じ映画を、私は、嫌悪の感情でしか見ることができなかった。なぜなら、私は、日本的な、個人の自由意志や自立を認めない集団主義に心から嫌気がさしているからだ。日本の学校には、私生活を投げ打って子どものために尽くす教師がいることを知っている。しかし、その映画の中の年配の教師は、まるで、子供に対して軍隊の隊長ような言葉づかいをしていた。その権威主義的な教師が、いうことを聞かない子供に対して、授業の成果としてのイベントに他の子供と共に参加することを禁止した時、他の子供たちは、必死になって、禁止を撤回するように教師に訴えた。その間、この教師は、腕組みをしたまま、子どもらに目を合わせるどころか、目をつぶって天を向いていた。そういう教師を、下から恐る恐る見上げている子供たちは、目に涙さえ浮かべている。 とんでもないことだ、と私は腹が煮えかえるような気持ちがした。

 一体全体、学校という、子供たちにとっては一日の大半を過ごす「生活」の場にあって、どんな理由があるにせよ、子どもの方が涙を流して教師に訴えなくてはならない理由がどこにあるというのだろう。
 大人が、人生の経験者として「権威」を持って子供たちを導かなくてはならない、というのはわかる。子供たちが、勝手に育つのをよしとするような自由放任は、私も望んではいない。だが、腕組みをして顔を天に向けたまま、子供たちが求めている真摯なコミュニケーションを阻むように「目をつぶって」しまう教師など、私はやはりご免こうむりたい。

 オランダのその教育学者が感銘を受けた映画について、私が真っ向から反対の感想を述べた時、この人は、はっと思ったらしい。彼の映画の記憶の中には、腕組みをしている教師が目をつぶって上を向いていたことは残っていなかった。子供たちが涙を流して訴えていたことも。それよりも、一人の子どものために教員に一致団結して訴え続けた子供たちの姿と、万事ことが終って、教師と子どもが仲睦まじく何事もなかったかのように学習の成果を一緒に愉しんでいる様子、そして、教員が子供たちへの「敗北」を率直に認めたことだけが、彼の記憶に強く残っていた。

 自分にとって気がかりなこと、日頃から意識に上っていること、答えを求めて問い続けていること、、、人は、それらによって、自分が見聞きするものから、無意識のうちに情報を取捨選択している。だから、同じことを見ていても、頭に入ってくる情報や考えることが様々に異なる。

 そんな話をしていたら、ある友人がこんなことを話してくれた。
 3人姉妹の末娘、母子家庭で育ったその友人は、豊かではなかった家庭で、母親との関係に様々の苦労があったという。また、3姉妹の関係も、それが原因でぎすぎすとしていた。その母親が90歳を超えて亡くなった後、何年もの隔たりを超えて、3姉妹は一堂に会し、母の思い出話をした。その時に、同じ出来事について、3人が全く別の感情を持って記憶に残していたことに、3人とも初めて気付く。何十年もの長い間、それぞれが自分の心に描いていた母親像は、3人3様にとても違うものだった、という。幸いこうした時間が持てたことで、長い間の誤解が解け、3人がやっと理解し合えた、と彼女は言った。興味深い話だ。

 モノの考え方は、文化の違い、時代の違いによって決まる、などと、したり顔の文化人類学者などがよく言う。確かにそういう面はある。しかし、人間の考えは、そんなに簡単に、分類されるようなものではなかろう。多様な価値観が限りなく広がり、人の交流、情報が飛び交う今の時代、文化的アイデンティティや時代の意識などでくくられる価値観をもう少し超えた意識への考察が大切なのではないのか。文化や時代といった大雑把な価値観の枠組みのほかに、わたしたちの考え方には、個人としての経験や関心、問題意識の違い、その社会の中での自分の立場の違いなどが、大きく反映している。

 「良心の自由」という言葉がある。基本的人権の一つだ。

 「良心の自由」を説明するのに、西洋では、よく漫画などに出てくる右肩の「天使」と左肩の「悪魔」が使われる。「天使」と「悪魔」がどんな顔をしているか、それは、人一人ひとり異なる。ある人の天使と悪魔は、他の人の天使と悪魔とは違う。「良心」とは、すべての人が、一人ひとり、自分が、それまで生きてきた時代や、生まれ育った場所、独自の経験、問題意識などによって、自然と作り上げてきた、ひとまとまりの善悪の判断基準のことだ。だから、「良心の自由」とは、一人ひとり異なる善悪の判断基準を、互いに尊重せよ、ということだ。

 その自由に唯一縛りをかけるのは、人間の命を傷つけたり、それを持って人間の社会の安定を転倒させたりする行為が伴う時だ。それは、テロリズム(暴力)と呼ばれ、民主主義の安寧を覆す最も大きな敵対者だ。それは、「言論の自由」「表現の自由」「信条の自由」など、他のすべての基本的人権としての「自由」にたいする縛りだ。

 「良心」は、すでに死んでしまったものも、今生きているものも、これから生まれてくるものも含め、人間の数と同じだけある。

性は明るい日の下で

 今日11月29日付の読売新聞では、ブラジルで開かれていた「第3回児童の性的搾取に反対する世界会議」で採択された「リオ協定」により、今後、インターネットや携帯電話での児童ポルノ、また、過激な性的描写をしているアニメーションなどに対する規制の対応が強化される見込みで、この対応については遅れていることで知られる日本が、今後国際的な圧力を受けることになるだろう、という記事が発表されていた。

 いじめ、不登校、未成年の自殺、未成熟な子供たちによる殺人、その後の更生教育の不在、など、日本の子供を取り巻く環境はきわめて劣悪だ。そのうえ、上のような記事を読むと、日本の子供たちの生育環境の貧しさに、目を覆ってしまいたくなる。

 日本という国には、世界中の産物が集まってくる。東京には、世界中のありとあらゆる国のレストランがあるという。現に私自身、品川駅の構内のスーパーマーケットで、私が住むハーグ市特産のキャラメルを目にした時には、さすがに口をあんぐり、驚いた。以来、オランダから帰国するたび、いったい何をお土産に日本に持って帰ったらよいのか悩んでしまう。そんな風に、物質的には世界中のものが「何でも手に入る」の日本だというのに、なぜか無いのが「世界の常識」。子どもの権利、未来を支える次世代の人権を守るという意識だ。

 性意識の解放は、欧米にもそれほど長い歴史があるわけではない。
 数年前に、オランダの主要全国紙の一つであるNRC紙の出版局が、「70年代の映画シリーズ」と題して、当時ヨーロッパで作られた話題の映画のコレクションを発売した。12本にまとめられた代表的作品には、ドイツ、フランス、スウェーデン、スペイン、イタリア、トルコなどの映画が含まれ、70年代のヨーロッパで、何が人々の意識を捉えていたのかがうかがえる。
 そこに、共通しているテーマのひとつは、当時の人々の性意識変革への意欲ということだ。当時、ヨーロッパの人々は、西側の消費社会の腐敗、鉄のカーテンの後ろに垣間見る核戦争勃発への恐怖、古い価値観としての教会主義、産業社会モデルの学校、家庭や仕事場での権威者のタテマエなどをやり玉に挙げ、見るものを不快にさせたり、居心地を悪くさせるような、タブーへの切り込みをテーマに、ごつごつと映画を作っていた。
(Bergman, Fanny och Alexander(スウェーデン)、Blier, Les Valseuses(フランス)、Goretta,
L'invitation(イタリア)、Saura,Cria Cuervos(スペイン)など)

 性意識を解放するには、そういう、常識ある人々から顰蹙を受けることを覚悟した、かなり勇気のあるアクションが必要であるらしい。

 性意識をただ解放すればよい、とはもちろん私も思ってはいない。しかし、性の問題について話し合うことを日陰に追いやっている限り、倒錯した性の犠牲になっている人たちの声は聞こえてこないばかりか、人間として最も根源的な性の問題を社会的圧力によって抑圧してしまうのではないか、と思う。性を社会的悪として抑圧することは、人間の生そのものを社会的悪として排除し抑圧することに他ならない。

 冒頭に、「児童ポルノ」の問題を挙げた。
 「児童ポルノ」の問題は、子供たちにとっての人権保護の問題だ。しかし、意識変革を求められているのは大人の方だ。性教育が先進国のなかでも著しく遅れている日本では、実は、大人たちが、まず性的に解放され、その問題を、日の下で論じられるようにならなくてはならないのではないか、大人たちにこそ性教育が必要なのではないのか、と思う。
 今度のリオの世界会議のように「日本が遅れている」といわれることは、とりもなおさず、「日本の大人たちは子供を性虐待の犠牲にしても平気でいるらしい」と言われているのと同じことだ。そういう汚名を着たままで恥ずかしくないのか、、、のほほんと、「最近は日本のアニメが世界でも人気らしい。日本にもいいものはあるんだ。」などと悠長に自己満足に浸っている場合ではない。

 この新聞記事の最後の一文が、「今回の世界会議による協定は、国際条約ではないため法的拘束力はない」と書かれていたのに、私は、ひどく落胆した。早くも抜け道を探しているような表現ではないか。カエルが浸かった水をぬるま湯にし、徐々に温度を上げていけば、カエルはその変化に気づかぬままにその水から跳ね逃げてしまうこともなく死んでしまう、という。しかし、今の日本人は、ぬるま湯どころか、相当な温度になっている水の危険に気づいていないのではないのか。その証拠に、こんなにもたくさん、心を病んで苦しんでいる人や子供がいるというのに、「それも仕方がない」としか考えない大人たちの方が圧倒的な数ではないか。

 では、オランダでは、性教育はどう行われているのか。最近「オランダ通信」で簡単にまとめた記事があるので、関心のある方はそちらを見ていただきたい。
 性教育は、人間関係、人間理解の教育だ。男女の性の仕組み、避妊などについても当然学ぶ。しかし、決してそれがすべてではない。人間が、心だけではなく、からだを持った存在であること、男に生まれ、女に生まれることで、あるいは、同性愛、性倒錯の条件のもとに生まれることで、自分の理性や判断だけでは、時として制御し難い状況が生まれる可能性があるのだ、ということを冷静客観的に学ばせる。そうすることで、人間が、人間自身の体と心にとって凶器となる危険を持った存在であることを学ぶ。同時に、体の仕組みを理解することで、本来、人間には、肉体の制約を超えて、高い精神を持った愛情を築くことができる能力が備えられていること、人間の社会性とは、この肉体の持つ制約を超えて培われるものであるということを、現実から目をそらさずに教えるのが性教育だ。

 日本では、数年前、性教育をどこまでやるのか、やらないのかで、少し政治論議が行われた、と記憶している。その折に、ある保守派の女性政治家が、「性教育などをしたら、子供たちの性交年齢が下がって、望まれない妊娠が増え、風紀が乱れる」とかなんとか尤もらしい理由をつけて、議論を一蹴したと記憶している。浅はかな議論とはこのことだ。望まれない妊娠と堕胎は、そういう風にしたり顔の女性政治家が嘯いている日本の方がはるかに比率が高く、性を日の下で子どもの時から語っているオランダの方が圧倒的に低い。一般に、男性優位の伝統を残している国ほど、性暴力や堕胎数が多いというのは、世界の常識だ。

 本来、性の問題は、女性の人権と深くかかわって論議される。なぜなら、乱れた性の犠牲になるのは、ほとんどの場合女性たちだからだ。だから、性の問題を明るい日の下に持ち出し、男性たちを含め、女性の体がどういう仕組みでできているのか、女性の性が暴力の対象となった時に女の肉体と精神がどのように取り返しのつかない傷を受けるのか、を公共の場でしっかり論じておくことは、人権問題の基本なのだ。女たちの体が安全に守られていてこそ、多くの子供たちは、自分自身がほんとうに愛情のある関係から生まれ、愛情のある家庭で育てられ、未来の社会を支える次世代として健全に育てられていることを確信できよう。

 そんなことに思いをはせることもなさそうなこの女性政治家は、きれいなスーツに身を包み、すまし顔で、「私は育ちが良いので、そういうことは口にすることもできません」とばかりに、性の議論を日陰に追いやってしまった。男たちを仕事の戦場に駆り立てて、自分は、流行の衣服や靴に身を包み、何時間も高いレストランや喫茶店でおしゃべりに興じている主婦たちは、カネやモノではなく、心からの夫との信頼に満たされているのか。妻を、女を、「金」の力で組み伏せている男たちの心は、本当に人間として満たされているのか。性の問題は、やはり、その被害を最も被る可能性のある女たちこそ、口を開いていかなければ本当の議論とはならないのではないか、と思う。

 医学部に通う娘の同級生で、学生アパートの同居人は、全国の医学生から成る性教育振興クラブに属している。オランダの学校は、小学校から中学まで、これでもか、これでもかというほど、たびたび性教育をしてくれるが、中には、人員不足で十分に手が届かない学校もあるらしい。また、非西洋社会を背景に持ち、家庭でも、「性」の問題があまりオープンに語られることのない移民の多い学校などでは、最近、そういう子供たちにどういう性教育をすればいいのか、という悩みもあるらしい。
 この学生クラブのメンバーは、学校からの依頼に応じて、国のカリキュラム研究所が作った教材をもとに、学校訪問をし、子供たちに、性教育の授業をしている。また、それらの学校の教職員チームに性教育実施の研修もやっているという。皆、20歳前後の若い、独身の学生たちだ。イスラム教の背景、アフリカやラテンアメリカなど男性優位の伝統をもつ社会からの子供たちに、どういうアプローチをするか、ということも、教材の中では考慮されている。

 2年ほど前、ある中国系の女子中学生が、誘拐されて性暴力を受けるという事件が起きたことがあった。数日間行方不明だったが、その中学生自身が相手を凶暴にさせないようにコントロールしながら、隙を見つけて無事に救出された。救出後間もなく、この女子中学生は、テレビで事件の経過を報告していた。性的な暴力を受けた後であれば、どんなにか、精神的な痛手が大きかっただろう、と予想しながらその様子を見たが、画面での彼女の様子は、実に落ち着いていたし、経過を冷静に伝えていたのに、私はひどく印象づけられた。
 自分が性暴力の犠牲になったということを、こんなにも客観的に冷静にとらえることができるのか、と感心した。インタビューする側も、「興味本位」の質問をしないし、かといって、その女の子に「気の毒に」というような安っぽい同情を与えるのでもない。「性」へのかかわり方が集団の文化として成熟した社会があるのだ、と強く印象づけられた。

 日本では、最近、高学歴の女性たちの孤独が目立つ。
 良い学歴もあり、仕事もできるが、異性と過ごすプライベートな時間がない、結婚して子供を持つという未来が描けない、残業残業で家庭を顧みることもできない男と結婚しても本当に幸せなのだろうかと悩んでいる、高学歴の自分に見合う男性は自分よりももっと高学歴でなくては、というつまらぬタテ社会の既成概念に縛られている。男も女も、そういう悩みの中で、自然な肉体の欲求を持て余しているのではないのか。欝になったり、引きこもったりしている男や女たちに、心と体を解放できるプライベートな時間がないというのは、人間として、不幸極まりないことなのではないのか。

 数日前に発表された、博報堂の「家庭調査2008」によると、この20年間で、家庭の時間を持ちたいと考えている人の数は、夫の方が圧倒的に増えたのに対して、妻の方は、ずっと減少してしまったという。これは、一体どう解釈すればいいのだろう。
 一概に、ワークシェアリングなどの恵まれた労働条件のない日本では、夫が外で働き妻は家を守る、というパターンがまだ主流であるのだろう。そういう前提で見てみれば、不況に続く不況の中で、夫たちは、いよいよ激しい競争と労働条件の中に追い込まれ、その疲労の度合いは限界を超えているのではないのか。勤労の緊張を解き放ち、人間が「働くために生きるのではなく、生きて、元気な子供たちを育み、そのための環境としての充実した家庭を守るために働く」ものである、ということを思い出させてくれるのは、家族と過ごす時間であるはずだ。身を粉にして働かされている男たちが、家庭でやすらぐ時間を持つことで、自分の仕事の意味を見出したくなるのは当然のこととうなずける。できることなら、家事を分担し子供との時間をもっと持ってみたい、と思っているのだろう。だが、そんな夫の気持ちを理解している妻たちの数は、今、激減しているという。日本の夫婦の間にぎすぎすした関係が増えているように思われ哀しい。そうではない生き方があるはずであるのに。そうではない生き方は、西洋ばかりでなく、開発途上国を含め、多くの、スローな社会に、物質的にはずっと貧しい人々の暮らしの中に生きている。
 この博報堂のデータからは、単に、夫が家庭的になったというような薄っぺらな解釈ではなく、家庭的になりたくても、以前にも増して家庭での充実した時間を持つことがますます難しくなっている、という男たちの悲鳴をこそ読み取るべきなのではないのか。

 働き蜂のように働いても何の疑問も感じなかった団塊の世代。離婚、別居、家庭内離婚、家庭内暴力を体験した世代だ。今、その世代の子供たちが、どうやって家庭を築いていいのかわからず、うつ病や統合失調症に、そして、愛情の薄かった親たちとの生活のトラウマに悩まされている。

 金融危機で不況の打撃はまたしても大きい。しかし、それでも日本は、まだまだ豊かな国だ。少しスローダウンしてみれば?? そして、性や、ひいては、人間愛の問題を、もっと明るい日のもとにおいてみんなで話題にしてみてはどうだろう。そのことに、少し勇気をもって口を開いていかなくてはいけないのは、女たちの方であるかもしれない。「育ちの良い、身だしなみのある、すまし顔の」女を演じることは簡単だ。その方が、今の日本ではずっと生きやすいにちがいない。でも、敢えて勇気をもって、性について男も女も一緒にオープンに語る場を、できることなら女たちの方から作り出していくべきなのではないのか。「育ちの良い、身だしなみのある」女も、性と無関係に生きられるはずはない。

 元来、人間愛、子生み、家庭につながる性の問題は、暖かい「生」そのものの問題だ。

 暖かい「生」を取り戻すことは、それを失って、未成熟で、判断の力もおぼつかない子どもたちから、彼らの温かい「性」を乱暴に奪っている今の日本という社会に、もう一度希望を取り戻し、未来の日本が力強く息を吹き返す基礎を作ることに他ならない。

2008/11/26

いつの時代も若い者は

 シチズンシップ教育という語が、最近、ヨーロッパの国々で盛んに聞かれるようになった。背景に、2001年の9.11事件以後のイスラム教原理主義者の側からのテロによる脅威、また、デンマーク風刺画事件などで露呈した、西側の非西洋文化への理解の浅さ、また、それから来る「後進性」への差別、ひいては我々・彼ら感情による、感情の対立がある。

 現にシチズンシップ教育にかかわっている教育者たちには、実際に、近代化の歴史的な背景も宗教も文化も異なる子供たちが、現に、同じ社会で生きて大人になっていくという現実を前に、相当に深刻な取り組みを始めているように感じる。何せ、取り組んでいる教育者自身が、意識すると否とにかかわらず、独自の生い立ちの中でさまざまに身につけてきた既成概念に何重にも取り巻かれて生きているのだから。

 西側の国の子供たちには、個人主義や自立といった近代的価値が、外の世界では必ずしも自明のことではないことに気づかせなくてはならないし、他方、非西洋の背景を持つ子供たちには、家族や伝統的価値規範に対して、無批判に自分の行動を合わせるのではなく、自分自身で自己責任をもった行動をとらなくてはならない、つまり、近代社会の基本である<良心の自由>を教えなくてはならない。二つの世界の子供たちは、家庭や近隣での生活基盤があまりにも違うために、どう両方の子供たちに、同じ場を通じて、異なる方向のものの考え方を身につけさせていかなくてはならないか、大変深く悩むところだと思う。

 そんな中で、今回来日に同行したユトレヒト大学のこの分野第1線の教授や、彼とともに授業づくりをしている研究者たちは、「仲間市民としての子供たち」ということを大変強調する。子どもに、既成の価値判断の仕方や道徳的理念を教えたり、それについて話し合ったりするだけでは駄目だ、それをこそ対象に、子ども自身が考え、行動し、彼らの考え方感じ方に寄り添いながら、社会参加の訓練の場とすべきだ、というのがこの人たちの立場だ。

 そして、こういう考え方に私も心底同意する。近代意識がほとんど身につかないままに、高度消費社会だけをあたかも近代そのものであると誤解して生きている日本人。唯一、本当の意味での近代市民への取りかかりを見つける手段があるのだとしたら、それは、もう、若い世代に対して、こうして、社会参加の訓練をしていくこと以外にないだろう、と思っている。既成概念を身にまとうことだけに特化された画一教育を受けてきた大人たちを相手にでは、世界市民になるための意識変革など、ひょっとしたら、もう手遅れなのでは、とさえ思う。

 訪問中の東京都内の小中一貫校で、市民科教育に従事している先生方と話し合いの機会をもった。その折に、このオランダ人の教授が語りかけた言葉に、はっとさせられた。

「あなた方は市民教育が必要だ、と言っていますね。しかし、なぜ必要なのですか。あなた方は、今の子供たちの社会行動に問題があるといっておられるようですが、それは、本当にそうなのですか。太古の昔から、人間の社会は、いつもどこでも『いまどきの若い者たちは』と言ってきました。若い者というのはそういうものなのです。そもそも、若い人たちは、新しい時代を生きていかねばならず、大人たちとは違った目で社会を見ているのです。彼らが持っている情報や生活条件は私たち大人のものとは違います。だからこそ行動も異なるのです。しかし、そういう若者たちの行動は、大人たちが矯正していかなくてはいけないものなのでしょうか?」

 日本の先生方との会話が進んでいく間、私は、いろいろなことに思いを巡らしていた。
 私たちは、「問題だ問題だ」と騒ぎたてるジャーナリズムに惑わされているのではないのか。本当に社会にとって問題のある行動が増えているのだとしたら、どれくらいどんな風に増加しているのか、という具体的なデータを持っていなくてもいいのだろうか。私たちが安易に「問題だ」とする子供たちの行動は、果たして、本当に「問題」行動なのだろうか、、、、と。
 意外に、私たちは、自分の目でよりも、新聞や雑誌、テレビでセンセーショナルに伝えられる事件にばかり目を奪われ、現実には良い変化やよい動きがあるにもかかわらず、問題のほうばかりに目をとらわれているのではないのか。 私たち大人が、メディアの操作にまんまと騙されてしまっているのではないのか。

 その時、ある日本の先生がこういわれた。
「子供たちの間にいろいろと問題のある行動が増えているのは確かなことです。いじめもそうですし公共の場でのポイ捨てなども増えている、、人の迷惑を考えない子供たちの行動は確かに増えています。それに、電車の中など、公共の場所で、お化粧をしたり、男女で抱き合ったりキスをしたりしている若者も増えています。」

 と、この最後の言葉を聞いた時に、私は「あ、これはちょっと違うな」と思った。

 「公共の場で抱き合ったりキスをしたりする」

 これは、今、オランダに限らず、ヨーロッパの国々では、もう当たり前の光景だ。国際空港の到着口では、相当な年輩の人にとっても「公共の場で抱き合いキスをする」のは当たり前のことだし、太陽の日が燦々と降り注ぐ初夏の町のカフェテラスでは、若い男女の睦まじい光景は、ごく自然に見られる解放された夏の風物でさえある。
 新緑の萌え出る5月のある日、二つの自転車に乗って颯爽と車輪を回していく二人の男女の若者が、手をしっかりつなぎ、じっと見つめ合っている様子に、まぶしさを感じたことすらある。卒業試験合格の結果が出た日、明らかに合格発表を受け取ったばかりに違いない18歳くらいの男の子が、住宅地の路上をローラースケートを蹴って走ってきて、反対側から、これもローラースケートを蹴りながら髪をなびかせてきた女の子と真正面からぶつかるようにして抱き合い、キスをしながら喜びを分かち合っている光景を微笑ましく目にしたこともある。

 たぶん、こういう光景は、日本人にとってすら、相当な年輩の人であっても、ヨーロッパやアメリカであれば独特の光景として何の抵抗もなく受け入れられたものではないのだろうか。そして、それを見て、「風紀が乱れている」と思う人も、まさかいまい。むしろ、たいていの大人たちは「いいわね、ヨーロッパは人間らしくて」などと嘯くに違いなのだ。なぜ、同じ行動が、ヨーロッパではパチンとまわりの風景に収まり、日本ではだめなのだろう。

 日本の子供たちだって、感情を率直に表現したい、と思っている子は多いだろう。しかし、いろいろな規則や習慣や伝統的な規範がそれを阻止している。
 しかし、私が若いころには、めったに見られることのなかった男女が手をつないで歩く風景は、今の日本の都会では当たり前だ。公共の場で抱き合ったりキスをしたりすることも、ひょっとすると近い将来には、日本でも公然と明るい景色として当たり前のものになっていくのかもしれない。そうならない、という保障は、幸いなことにどこにもない。

 日本の学校の生徒手帳などにはよく「男女交際は公明正大に」と書いてあるではないか。口では「公明正大に」と言っておきながら、子供たちがそうしようとすれば、大人たちが顰蹙のまざしを向ける。子供たちの行動を公明正大にせず、あらぬ罪悪感に閉じ込め、男女の愛情を、あたかもけがらわしいもの汚れたものとして日陰に追いやっているのは、未来を子供に託す覚悟のない、大人になりきれていない大人たちの手前勝手なのではないのか、、、、

 日本の教室で行われた市民科の授業では、子供たちからいろいろな率直な意見が出されたにもかかわらず、最後に、先生が「それでは最後に先生がどう考えるかをまとめてみますね」とやっていた。そうして、「人の迷惑になることをしない、命にかかわるような危険なことをしない、相手の気持ちを考える」などといったありきたりの項目が並べられた。ごもっともなことばかりではある。しかし、そういうことは、はたして先生から「教えられて」学ぶものなのかどうか??? 「教えられ」たからと言って本当に身に付くものなのかどうか???

 子供たちには、オープンエンドで、つまり、いろいろな問いを頭に置かせたた状態で、一度家に帰してみてほしい。授業は、答えを学ぶ場でなくてよい。授業は、子どもが、自分の頭で考える問いかけを生む場所であればよい。
「なぜ、今の日本では、公共の場で抱き合ったりキスをしたりすることが人迷惑になるのだろう」「アメリカやヨーロッパの映画にはそういう光景がよくあるが、なぜ、かの国では、人々はそれを人迷惑だと感じないのだろう」
そういう問いを、若者自身が考え続けてみること。そして、そこから、自分だったら、どこでどうするかを自分自身の判断として生み出していくこと、それが、市民社会の「市民になる」ということだ。そういう、自分の頭での判断と、それとは異なる他人の判断の仕方を受け入れる意欲を持たなければ、未来の日本人は、一歩たりとも外国に足を踏み出し、他の国の人々と対等に生きていくことはできないだろう。そして、今刻一刻と増え続けている、未来の日本を日本人と共に支えるはずの外国からの移民たちは、いつか、そういう日本に嫌気が差して、さっさとお尻をまくってこの国を出て行ってしまうことだろう。
 

 

2008/11/19

自己肯定は他者肯定から

 ラッシュアワーの国電の駅。通勤者の波は人の波とは思えない。まるで、牛馬が牛舎から吐き出され柵に囲われた牧場に向かっているかのような光景だ。そして、夕方にはまた、狭い牛舎に詰め込まれるように、波に乗って小さな電車にきれいにおさまっていく人の群れ。誰一人として望んでそうしているのではないことはわかる。そうしなければ生きていけない社会が、人々に立ちはだかっているという事実が悲しい。
 たぶん、考えている余裕がないというより、考えると、自分たちのそういう姿があまりに虚しく、人間として疎外感だけが高まり、心の病になってしまうことを本能的に察知して、はじめから考えることを辞めてしまうしかないのだろう。週末や夕方、家庭や仲間とともに、少しでも人間らしい会話ができる人は、とりあえず、こういう通勤時間だけでも目をつぶっていればよいということなのかもしれない。しかし、そういうインフォーマルな社会関係を希薄にしか持っていない人々は、牛馬のように場から場へと移動し、どの場でも人としての心の触れ合いを経験することなく日々を繰り返すことになるのだろう。一部の性犯罪や痴漢行為は、まさに、狭い家畜小屋に閉じ込められた牛馬の本能的な行為を連想させる。

 そういうひとにとって必要なのは、おそらく、強制的にでも作られる人と人との触れ合いだろう。子どもの時から家庭にも学校にも人間らしい触れ合いを経験しないで育つケースが増えているらしい。大人になっても社会関係をうまく築けない人が増えているという。専門家に見守られたガイダンスのある社会性の形成は、今、日本では、大人の社会にも必要になっているようだ。

 日本人の自己肯定感が低いといわれる。しかし、それ以前に、他者を肯定するという態度が皆無なのではないか。 人は誰しも、誰か他の人に認められたいという欲望がある。そして、たった一人でも自分をほめてくれる人があれば、それが自分への自信に大きな弾みをつけてくれる。

 国電や地下鉄・私電の中でのありとあらゆるルール、それは、乗客を人間という頭脳をもった存在として信頼していないからに他ならないと思う。人間は、何も言わずに放っておけば、何をやらかすか分からない、自分では善悪の判断のできない存在である、つまりは、性悪説こそが公共ルールを作らせる理由なのだろう。

 もともと、他者に対して、肯定するとか褒めるという意欲はハナからない。そんな日本に「自己肯定感」などが育つはずはない。


 ある私企業の社内研修に行った。30歳前後の若い社員、それも、青少年期には、どちらかというと「できない子」「問題のある子」というレッテルを張られ、暴走族や非行に走ったような経歴を持っている青年たちだ。今は、小さいが、会社の目的に向けて力を合わせて仕事をしている、社員同士の温かい関係と、彼らの仕事の社会貢献への誇りが垣間見られる雰囲気のいい会社だった。

 研修の初日、私は、お互いに共同で何年も仕事を続けてきており、甘いも酸いもお互いに知りつくしているという、この会社の社員たち10人余りに、車座に座ってもらい、こう語りかけた。
「いまさら自己紹介などをしてもつまらないでしょう。なので、今、隣に座っている人を、その人が、この会社にいて、どんな点ですぐれているか、どういう点でこの会社に貢献しているのかを言って、他人紹介としてください」

 そうして、他人紹介が一巡したとき、この子たちの中の数人は、ほんとうに目に涙を浮かべていた。
 これまで、だれからも「褒められる」という体験をしたことがないのだな、と思った。

 「どんな人も完全ではない。みんな一人ひとりよい面も悪い面も持っています。でも、悪い面に目を向けるのではなくて、それにはとりあえず目をつぶることにして、良い面だけに注目してほしい。そうして、お互いの良い面を出し合うことで、何か協力的な雰囲気を生み出してほしいのです。」

 私は、そう、この若い社員たちに伝えた。

 その時以来、この会社では、定期的に集まってテーマを決めて仕事の話し合いをするほか、必ず毎回、ほかの社員を褒め合うということをスケジュールに入れたという。そしてそれだけで、会社の協力的な雰囲気、また、忌憚なくものを言える雰囲気がぐっと高まったという。

 日本人の自己肯定感が低いといわれる。若い者は黙っていろ、大人社会は厳しいものだ、他人の気持ちを推し量れ、空気を読め、謙譲になれ、生意気言うな、、、などなどの脅しの言葉を何度聞かされて日本の若者たちは成長してきているのだろう?自己肯定感が育たないのも無理はない、と思う。自己肯定感を本当に育てたいのならば、必要のないルールを一度外してみることだ。ルールを守らなくてはならない若者たち自身に、自分たちでルールを作るように促すとよい。そして何よりも、お互いに、お互いの良さをどこかに見出す努力をし、それを指摘し合い、他者を肯定する努力を促してみることだと思う。 信頼できる関係を、信じられない目に見えないものであっても、敢えて信頼し合う関係を作っていくことだと思う。

 日本には「謙虚」「謙譲」という言葉があった。それは、日本人の美しい徳の一つだと思っている人は少なくないと思う。だが、「謙虚」も「謙譲」も、一つ間違えば、責任逃れの甘えに転倒してしまう。それは、「謙虚」ぶっている側にも、それを他人に強いる側にも言えることだ。
 思っていることを堂々ということ、反対されることが分かっていてもあえて自分の考え・生き方を示していくことのほうが、はるかに厳しく難しい。しかしそれでも、その方が、自分の生を自分でコントロールしている、自分は自分の人生を自分自身でデザインしながら生きている、という実感をはるかに豊かに与えてくれる。

2008/11/18

殻を破る、、、「らしさ」からの自由

 よいのか、悪いのかはわからない。ただ、他人の期待通り、予想通りに行動することがいやだった。あまのじゃくというだけのことだ。いつの頃からなのかはよくわからない。何か、自分が外から想像されている人々の予想を「裏切って」行動する、そうすることで「えっ」とか「はっ」という表情が相手に瞬間に見え、それがその人との少し立ち入ったコミュニケーションのきっかけになる、というかかわり方が、いつの間にか知らず知らずのうちに自分の中に育って来ていたようだ。

 男の兄弟がいなかったから「女の子なのだから」という縛りを受けずに育った。「女らしく」という役割期待がわたしには初めからなかった。
 大学にいたころ、特に、大学院に進んだころは「研究者の卵」という外からの役割期待と、自身の現実のギャップに耐えかねて、とうとう、そういう肩書から逃げ出してしまったのだと思う。
 外国に暮らし「日本人だからきっと」といわれる視線を感じるようになると、「普通のありきたりの日本人」として振る舞うことを意識して避けてきた。

 「主婦」であるという以外、何の仕事もできなかった長い年月、どうしたら普通の主婦でない主婦になれるかを考えていた。そういう、他人が見たらつまらぬことにエネルギーを注いでいたようにも思う。同じことは「母親」という立場になってもそうだった。子どもたちに、母親らしくない母親、既成の母親像にとらわれない母親になることで、彼らにとってほかには例のないユニークな、彼らだけの母親になりたい、と考えてきた。

 人に言えば笑われるようなこだわりだったと思う。実は、こだわりというほどの自覚は自分にもなく、ほとんど習性のようにそういう行動を選んできた。性格なのだろうと思う。でも、やっとこの頃になって、自分は、ただただ世間というものが漠然とこちらにむけて期待をかけてくる「らしさ」から、自分自身を解放して生きていたかったのだな、と思い至った。

 同時に、思い返してみると、私にとって大事な人たちと出会いのほとんどは、そういう相手の無意識の期待を裏切るような私の言葉や態度に「はっ」としてくれるその瞬間から生まれてきたものがほとんどではなかったか、という気がする。そして、それらの出会いは、そういうものであっただけに、いつも、日本人であるとか、外国人であるということが、はじめに邪魔をしない関係の始まりだったことが何より幸いだった。

 お互いに、「らしさ」というような役割期待にとらわれることなく関われることの嬉しさ。人と人との心の出会いは、そういうことから始まるのではないか、と思う。

 それでもつい最近まで「殻を破れ」と言われることがあった。「らしさ」から逃げ出してはきたものの、自分はそれでもそうやって自分とは違う自分を演じたり自分自身を防衛してきたのかな、と思う。あるがままの自分に心地よくしていられるというのは一通りの易しさではできないものだ。
 「らしさ」や「殻」は、自信を失っているとき、自分自身に迷っている時にひょいと顔を出してくる。

狂気と月並みの間

 世の中の変革というのは、狂気と月並みの間で社会の行方を追う人の頭から生まれるのではないかと思う。変革を求める意識は、現状の問題を並べ不平不満を述べ立てるだけで容易く広がる。しかし、そうして眼の前に並べられる問題を乗り越え、求められる変革を具体的な像として描ける人は本当に数少ない。それができるためには、歴史を読み、現在の人々の立ち位置を外から客観的に眺め、経験としてではなく、先験的に未来の社会の行くえについて、いくつもの可能な選択肢に思いをめぐらす洞察の力が必要だ。

 バブル期以後の日本の出版界や新聞などのジャーナリズムでは、知らず知らずのうちに大衆の好みを追い、大衆が喜びそうな話題を提供して、情報というほどの価値もない手垢のついた印刷物を売って稼ぐものが主流になってきたのではなかっただろうか。特に、バブルに加えて、インターネットの普及で、人々が活字から離れれば離れるほど、紙に書かれる印刷物を勝負とする出版界の人々は、確実に「売れる」テーマや話題で資金稼ぎを迫られ、意図的にブームをつくり、自分で作ったブームの中で、後追いジャーナリズムと後追い研究を蔓延させることになって来たのではないか、と思う。

 しかし最近、日本のジャーナリズムが、少し、変わり始めているのではないか、という気がする。少なくとも、漫然と大衆に追随するのではなく、何か、より意識の高い読者の求めているものを提供するために、方向のある話題を生んでいく必要を、以前に比べてより強く感じているように思われる。 一般に活字のものが読まれなくなっていく中で、いよいよ、オピニオン形成ということこそが、ジャーナリズムの使命であるということを再認し始めているのかもしれない。

 社会の変革は、その社会の周縁の部分からおこると信じている。大多数の意見を後追いして漫然と大通りの真ん中を歩いていくような人々からは変革の力は生まれない。ジャーナリズムの役割は、周縁部分に立ち位置を定めて、小さくとも展望のある声にチャンスを与えるための場を与えることだ。

 変革は、たとえ9割ほどの人々が考え、同意するような考えがあったとしても、その中からは生まれないのではないか。意表を突く意外性、大半の人々が気づかなかったアングルから、日常見慣れて気付きもしなかった現象、見過ごしてきた些細なものに新たな光を当てるときに、新しい考えが生まれ、それが人々の意欲や動機付けを引き出し、変革へと導いていくような気がする。

 けれども、だからといって、狂気といえるほどの意外性は、かえって月並みな人々を必要以上に熱狂させ、独善やカリスマを生み、やがては、人気取りの政治と無批判な追随に身を任せる大衆行動を社会の中に増長し、最終的にはその社会を破壊に導くことだろう。

 月並みに陥らず、しかも、狂気の沙汰に走らない、言い換えれば、大衆の人気に惑わされず、かといって自己満足と自意識過剰に陥らない微妙なバランスのある生き方をあえて選ぶもの、月並みと狂気の間の危うい緊張の中に身を任せ考えて耐え続けるものが、きっと未来の社会を切り開き導いていく役割を負っていくのだ、と思う。

2008/11/06

愛国から世界協調へ

 バラク・オバマが大統領に選ばれてほっとした。アメリカ大国主義の傲慢を絵にかいたようなブッシュ政権には、世界中が嫌気をさしていた。オバマの当選を歓迎する諸外国からの声も、また、彼に投票したアメリカの市民たちも、アメリカ合衆国内および国外で、異文化の相違を超えて、人々が協調し合う時代に合わせた新しい政治を望んでいるのだろう。

 アフリカ出身の父と白人の母親の血をひいているオバマの存在そのものが、それを象徴している。
 文化(culture)の差は、人々が住む風土・自然環境・社会条件などから生まれ作られてくる。しかし、人間の本来持った自然(nature)の質は同じだ。皆、自分自身の頭と心で納得しなければ、健康な精神を保って生きていくことの出来ない存在なのだ。文化や宗教によって規定されたお互いの意見や感情をすり合わせ、人類として、協調して生きていく時代が、また、その必要を、人々が実感として感じ取る時代がやってきただ、と思う。

 オランダでも、つい先ごろ、ヨーロッパ随一の貿易港のあるロッテルダム市の市長に、イスラム系移民の政治家が指名された。ロッテルダムといえば、オランダの古い町。港湾労働者をはじめ、労働者の多い街でもある。しかも、60年代以降増え続けたトルコ、モロッコ、スリナムなどからの移民労働者が多く住む街だ。産業グロバリゼーションの進行によって、少ないとはいえ経済格差が広がり始めたオランダで、オランダ人と移民の、両方の労働者たちは、パイの取り分を、分け合わなくてはならない存在として、いがみ合い、憎しみ合うという構造が生まれていた。2000年ごろからオランダにも生まれた、外国人排斥の雰囲気も、ロッテルダムの市議会で当時勝利したピム・フォルテウン党の反動性に由来している。

 そんな中で、ロッテルダムの市議会は、労働党が中心となり、これまで、移民たちの同化に力を尽くしてきたアハメッド・アブタレブ氏を市長に指名した。16歳でモロッコからやってきた移民だ。彼が、来年以降、市長として、この市の市民たちの間にどんな橋渡しをしていくのか、大変興味深い。

 世界は、異文化交流の時代へと進み始めた。土着と移民とにかかわらず、すべて人は平等の権利を持った世界市民の時代がやって来た。

 さて、日本は???

 日系ブラジル移民、東南アジアからの労働者など、増え続ける移民に対して、果たして、どれほど人権問題に敏感に取り組んでいるだろうか。いじめ、引きこもり、など、日本人の子供にすら、人間としての待遇をきちんと保障できないでいる日本社会が、これらの在留外国人に対して、正当な待遇をしているとは考えにくい。
 もっと怖いのは、やがて、こうした、外国人は、日本の待遇に嫌気をさして、自国やほかに国に行ってしまうのではないか、ということだ。

 本来、外国人ほど、それぞれの文化を相対視できる人はいない。世界地図を頭に描いて、一国の政治というものを見ている人たちだ。彼らの頭にこそ、今の日本の弱点は、明瞭な形で描かれているのに違いない。そういう人たちを日本社会の中に統合し、ともに議論していくことで、どれだけ、日本にとって豊かなヒントが得られるか計り知れない。

 けれども、そういう視点に、日本はまだ全体として立ち得ていないようだ。

 アメリカ合衆国では、ブッシュが山ほどの問題を残して、オバマに政権を渡すことになった。これらの問題の解決から取り組まなくてはならない新しいオバマ政権は、大変大きな挑戦を突き付けられていると思う。しかし、選挙戦を見る限り、そこには、声を上げ、時間や労力を尽くしてでも応援しようという市民の姿があった。彼らが、ともに、社会参加の意欲を持つ限り、アメリカにはまだまだ希望があると思う。

 日本は、もう何年間も、さまざまの社会問題を棚上げにしたままだ。しかも、そうした社会問題に対して、政治家も無策だし、行政者たちも責任逃れをし、専門家の多くは自分の名声にこだわっている。そして、集まって共に働けばこれほど大きな力はないと思われる市民自身が、自分の力で、世の中を変えようという意欲を失ってしまっている。何をするにも、カネのためにしか動かない人々ばかりになってしまっている。自分の人生を、自分の生き方を、一体いつまで、他人に預けておくつもりなのだろう?

「自分はこう生きたい」という内からの声を持たないものに、他の人の生は理解できないだろう。喜びや痛みは自分が体験してこそわかるものだ。

 何でもいいから一歩踏み出してみてほしい。自分がいまどんな環境にあって、誰と関わっているのか、自分にできることは何なのか、大げさなことはいらない。

 他人は反対するものだ。そこでくじけないでほしい。信じていることは、相手を説き伏せてでも説明してほしい。相手の中にある、何か、共通のものを見出してほしい。そこから、協調が始まる。世界協調もまた、お互いの利害を意識した駆け引きの中で、有難い共通点を丹念に探し出していくことからしか始まらない。
 

2008/11/03

三周遅れのニッポン

 世界金融危機のおかげで、ひょっとしたら、教育や医療、年金問題などの公共政策が、またしても後回しになるのではないか、という危機感がある。特に、もうこれ以上フリーターも、不登校も、いじめも、自殺も、一人暮らしの老人も、孤独死も、引きこもり、ホームレスも経済格差も増やせない日本は、今度の金融危機による一層の経済困窮にどう対応していくつもりなのだろうか、と思う。これからもっと人々が苦しみ、もっと家庭や地域社会が崩れ、もっと猟奇的な事件が起きるのだろうか。

 金融危機対策に関しては、アメリカが大統領選に縺れこんでまごまごしたのに対して、ヨーロッパの対応は、それなりにスムーズに行った。それは、ヨーロッパが、多様な価値意識の共存、多元的なリーダーシップを、積極的に評価し取り入れ、多者共存の政治・経済体制を、戦後静かに積み上げて来ていたからだと思う。そして、それは、二つの大戦を起こし、多くの犠牲者を生んだヨーロッパになくてはならぬ、ほかに選択肢のない道だった。

 ヨーロッパの社会と日本社会を見ていると、これまで、私は、日本のほうが、ヨーロッパに比べて、文明の発展という点では、二周遅れている、と思っていた。一周目は「近代」というものの理解について、また、二周目は、機会の均等・市民による多元的な価値観を受容という点についてだ。
 一周目は、宗教革命以後啓蒙主義の発達とともに起こったヨーロッパの近代思想だ。時間的にも、背景としての価値意識においても非常に懸隔のある日本では、そこに追いつこうと思い立ったのが、やっと一九世紀後半のことだ。上滑りの大正デモクラシー、そして、戦後のアメリカのパタナリズムによる民主化は、「民主」とは口先だけのことで、民不在の、理屈だけの近代だった。そして、その状態は今も続いているし、それほどに長い間軽視されてきた「民」には、もう言上げしようという意欲もなくなってしまったかにみえる。

 二周目の機会均等意識と市民参加の政治については、欧米には、なくてはならない六〇年代の意識変革があった。それは、戦前の古い価値観で生きる親の世代に対する若者たちの反発として起こった。冷戦対立の緊張、核戦争勃発への危機感がその背景にあった。そして、それは、一周目における近代意識が人々の価値意識のベースにあったからこそ起こったことだ。
 カネや権力ではなく、人間性そのものを容認し、既成の価値観にがんじがらめになった世代に対しタブーを突き破っていく意識だった。近代主義の本質としての「人間性」の尊重、「良心の自由」とはそもそも何であるのか、ということを徹底して突き詰めた時代だ。

 しかし日本は、この時、経済成長の真っただ中、そして、冷戦体制の中では、完全にアメリカの属国として行為していた。だから、若者に危機感はなく、当時の教育、特に七〇年代以降の学校教育には、時事論争は皆無・無縁となっていった。

 今、金融危機とその後の動きを見ていてつくづく感じるのは、経済や産業グロバリゼーションの終焉、ということだ。そういう意味では、よかった、と思う。自由市場体制が、すべてを自浄していくという楽観が今度の危機を生んだ。多くの銀行に、国のテコ入れが必要となった。レーガンやサッチャーの時代には民営化が大流行だったが、今度は、それが、逆に国営化されている。けれども、この国営化は一時的なもので、決して、反動や逆行ではない。自由市場が「健全に」機能するための監督者としての役割を、これからの国は背負っていくしかない。そういう議論が今ヨーロッパではなされている。そもそも、国などというものは、民から離れて「実体」として何かがあるというようなものではなく、民によって築かれた「公」であるべきなのだ。そこが、日本ではいまだに理解されていない。こういう議論は、もう何十年も言われ続けているというのに、、、だ。

 今回の危機では、人々が、それも、経済界の専門家だとか、政治家だとかだけではなくて、一般の市民、小規模の投資家、年金積立者などが、自由市場経済の落とし穴に、大挙して気付いたのだ。文明史上の画期的な出来事だと思う。国がテコ入れするといったって、結局は、国民の税金だ。国は、大枚をはたいて、経営のずさんな金融機関の尻拭いをするのならば、もっとしっかり監督せよ、という話になっていく。 民が関与する監督、民のための監督、ということが、今回のことで、どれだけ日本人に伝わったのか、、、立場の違う知識人を集めて徹底的に議論をさせるような番組、新聞がない日本は、本当に危ない。

 何のための税金、何のための監督、ということが、市民一人ひとりの意識に上ってきていると思う。

 だから、この問題を、共和党と民主党の政治論争にすり替えたアメリカよりも、ヨーロッパの首脳や中央銀行総裁らの、知恵を集めた対策のほうが、はるかに先進的で、世界史に一ページを刻むような動きだったと思う。
 市民がともに、国の役割をどう規定していくのか、国境を超えた国家間の共同、多国籍企業の動きに対して、市民はどう影響を与えることができるのか、、、ヨーロッパは、いま、確実に第三周目を走り始めている。

 日本はといえば、この三周のいずれもに、大幅に遅れをとっている。一周目の理解ができていないことが、二周目の理解を遅れさせ、それらがまた、三周目で、大幅な遅れを生んでいるように思えてならない。

 「日本は」と言った。「日本という国は」というつもりだ。なぜなら、日本にもまたそういうことに気付いている人たちが数は少なくても確実にいると思っているからだ。

 では、どうしたらいいのか、、、、三周の遅れを一気に取り返すにはどうすればいいのか、、、、

 「世界人権宣言」や「子どもの権利条約」を字義どおりに、たてまえでなく本気で実現してみることだ。法律というものの重さを、本気で議論してみることだ。人間の根本問題はそこに集約されている。法律を、「あれは建前で、、、」などと言っている間、人間の最も大きな落とし穴である<傲慢><強欲>が、社会を蝕んでいく。日本のリーダーたちはあまりにも長く、人間にはそういう醜さがあるのだということに目をつぶり続け過ぎてきた。外国人相手にテロ対策をやるのなら、まず、国内の暴力団を一掃することからはじめるべきだ。


 日本のように、西洋型の近代化を達成できなかった国は、世界に数多い。むしろそのほうがはるかに多い。その中でみると、日本は、ある意味では、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの開発途上国では比べ物にならないくらい、近代意識を理論として理解している人たちがたくさんいる国だと思う。だからこそ、マス・メディア、各界の専門家などのリーダーの活躍に、今こそ期待したい。

 遅れた近代化・産業化によってお茶を濁した疑似近代というゆがみやいびつさが生む社会問題は、必ずや、近い将来、中国、インド、など様々の国で露呈してくると思う。上からの指導、産業優先の競争主義の近代化は、必ず、社会不安を生む。その時までに、もしも日本が、今直面している問題を賢く乗り越える道を描けていたら、それは、他国にとって有用なモデルになるだろう。

かつて、スウェーデンやオランダが、モデル国としての誇りをもったように、日本にも是非そうなってほしい。