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2009/02/19

和魂洋才という惨禍

 日本人が外国に出かけて行って、「ああ、この遅れはどうして取り戻したらいいのだろう」と愕然とするたびに、まるで慰めのように心に湧いてくる言葉のひとつが「和魂洋才」という語ではなかっただろうか。

 しかし、このことばこそが、魂と才の二項対立を、また、和と洋の二項対立を、日本人の頭の中に想像で生み出した、越え難い淵の両側に分けて、日本人の意識を解放することを阻んできた、取り返しのつかぬ惨禍ではなかったか、と私は思っている。

 当たり前のことだが、魂と才とは切り離すことができない。また、和も洋も、人間の社会であるという意味では大きな差異はない。

 和魂洋才と言い続けてきたのは日本人に島国根性があったからだ。和魂へのこだわりは、鎖国意識から解放されていないことの証しだ。本当に日本人にユニークな魂があるのであれば、和魂洋才などとケチなことを言いはしない。その魂は、他人に気付かれないところに大切にしまって、相手の魂を包み込むことができるはずだ。

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 オランダについて伝えている私が、ついため息を漏らさずにおれなくなるのは、次のような言葉を聞く時だ。

 オランダは「やっぱり」いいわね、人の意識が違うから、、
 ヨーロッパはやはり歴史が違う、、、

 言うだけいって、自分をどっぷり未知の文化に投げ込んでみる覚悟は果たしてあるのだろうか、と思う。

 そして、アメリカが栄えている時には、アメリカに追随し、フィンランドの学力が高いといえばフィンランド詣でに明け暮れ、、、。魂から変えてみる気などさらさらなく、才だけ安易に移植してみて、育たないとなれば、「魂」が違うから、と放り出す。つきつめれば、和魂洋才とは、これまた日本人が捨てきれない「甘え」の産物なのではないか、と思う。

 和洋の間に境はない。どちらも同じ、生まれた時は同じ姿の「人間」の社会だ。人間、どこの社会でも大して違う感じ方、考え方はしないものだ。日本人には共有できない洋魂というものが仮にあるのだ、とすれば、それは、西洋の人々が、「自分の国の発展は自分たちで決めるという覚悟をしている」というだけのこと、そして、「歴史」というものを、未来を生み出すための材料にしているという姿勢だろう。それが洋魂の神髄であるならば、日本人は、確かに、そういう精神をはじめから取り入れてこなかった。

 「和魂」は別だ、とありもしないものを後生大事にするくらいなら、そんな「和魂」など口にせず、「洋才」などとみみっちい猿真似などせずに、日本の発展は自分たちの手で、魂も才も自分たちの頭で、と考えるべきだろう。和魂、洋魂と分ける前に、日本という国の文明は、だれの手も借りずに自分たちで生み出していくものだ、と正々堂々と、人がどう見ているかなど気にせずに、髪振り乱してでも取り組むべきだろう。


 いっそのことこれからは「洋魂和才でいってみれば?」どうだろう。
 最近の和魂にはあまり見るべきものがないが、和才の方は、まだ世界でもましな方だ。

2009/02/14

へそまがりのアイデンティティ

 アイデンティティという言葉が流行った時代があった。私が学生のころのことだ。
 「自国へのアイデンティティなくして、コスモポリタン(世界市民)などありえない」だとか「外交官の妻として世界を転々とするうちに、自分がどこに属しているのかわからない、アイデンティティを失って精神を病んでしまった」というようなことが、まことしやかに語られていた時代だ。
 日本が世界中の先進国から「目を見張るような奇跡」と言われる戦後の高度成長を果たしたころのこと。あの当時は、わざわざ「美しい日本」だとか「国家の品格」などと声高に負け惜しみをいわなくても、日本人であるというだけで、世界に対して十分堂々としていられた時代だった。同時に、一般の日本人が、やっとパスポートを持って国外に恐る恐る出て行き始めた時代でもあり、異文化との、ちょっと恥ずかしがりながらの接触を始めたばかりだった。だから、「愛国心」とはいわず、「アイデンティティ」というおしゃれなカタカナ言葉が耳によく響いたのかもしれない。

 カタカナ言葉にはつきものだが、この「アイデンティティ」という語も、なんとなしに使っているうちにわかった気になってしまうものの、実はそれほど簡単な言葉ではない。英和辞典を引いても「アイデンティティ」は、「同一人であること、本人であること」「同一であること、一致、同一性」などと書かれているばかりで、一体何のことなのか、一向にらちが明かない。

 かつて日本でも流行った「アイデンティティ」は、何か自分が属するものに向かってのアイデンティティという意味で、国民的アイデンティティ、もう少し軽く言えば集団的なアイデンティティのことを言っていたのではないか、と思う。
 今まで外国に出たことが一度も無かったような人が、日本の外の国に出て暮らし始める、そうすると、自分が今まで気づいていなかった、「日本人」に固有のいろいろな行動様式や思考様式をもっている自分を再発見する。その時に、「日本人としての」アイデンティティを自覚させられる、、、。ま、そういった感じだ。

 だが、その「日本的なもの」「日本人としての性格」が、本当に誰にとっても共通なものであるのならいいのだが、実はゆっくり考えてみると、それもだんだんに怪しくなってくる。

 日本人といったって、山の中や谷間の農村で暮らしてきた人もいれば、高層ビルの立ち並ぶ東京のような町の真ん中で育った人もいよう。半年近く冬が続く北海道と、亜熱帯の沖縄では、気候に合わせた暮らし向きだって天と地ほどの違いがある。地方の歴史を見れば日本人がみなお互いに共感ばかりしているとは思えない。宗教だって仏教徒であると限られたわけではなく、キリスト教者もいれば神道の家庭の出の人もいる。ましてや、年間、七万冊以上の本が売れているという日本。読んでいるものだってものの考え方だって限りなく多様であるはずなのだ。トヨタだとかソニーだとか世界に名だたる有名な日本企業の名をいわれて、少々誇りに感じる日本人は少なくないと思うが、その企業に勤めてでもいない限り、それらがすなわち、その人たちそのものを表している、というわけではなかろう。

 アイデンティティという語は、「国民的」とか「集団的」という語を冠さない限り、単に、「自分はいったい何者なのか」ということにすぎない。集団だって、一人の人間が帰属感を感じている集団は複数あるのが普通で、そういういくつもの集団への帰属感が織りなして、その人だけのアイデンティティが作られるものであろう。わたしは、どういう町の生まれで、どういう学校に行き、趣味の仲間は誰で、どんな仕事をしているか、とたどっていけば、世の中に、誰一人として、同じ人間はいない。

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 19歳の時にホームステイの語学研修でイギリスに行った。まだ、そういう学生旅行がほんの走りの時代だった。「日本人として、自分がいったいどれほど異文化ショックを受けることだろう」と期待していたら、意外にショックらしいショックはなかった。異文化ショックは国内の沖縄や隣国の韓国に行った時の方がはるかに大きかった。

 あの当時、アイデンティティという語が流行る中で、私自身も、自分探しを始めていたのだな、と今振り返る。

 自分の普段の立ち位置を離れてみて、自分自身が何なのかを知りたかったのだろう、無意識のうちに。もっといえば、私は単に「日本人」というおおざっぱで十羽一絡げのアイデンティティだけに満足していたくなかったのだと思う。いわゆる「日本人」という、自分たち自身、あるいは、外の人に作られたイメージとしての型の中に、感受性の豊かな自分を嵌め込みたくなかった。違う何かを求めていた。

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 最近、世代のアイデンティティということを感じる。

 両方の親が亡くなると、日本に帰って自分が心おきなく話のできる人というのは、やはり学校時代の同窓の友人たちだ。まだ、職業にもつかなかった若い時代に同じ教室で学んだ、というのは、家族と同じくらいに、ときにはもっと素直に関われる仲間だ。同じ時代を共有したということが、他の世代に対する違いを際立たせ、それがまた仲間意識として世代のアイデンティティの根源となる。

 私たちの時代は、小学校で東京オリンピック、中学・高校時代には、月面着陸や三島由紀夫の割腹自殺、連合赤軍による一連の事件、大学に入った年に第1次オイルショックを経験し、学生時代は、大学紛争で学生がヘルメットをかぶっていた時代はもう過去のこととなり、「シラケ世代」とか「モラトリアム世代」いわれた年代だった。いろいろあったが、結局は、戦災復興が終わって落ち着いた時代に生まれ、経済成長と共に成長し、就職してからも、これまでのところは、なんとか、仕事でもどちらかといえば安定し田中で乗り切ってこれた世代ではないか、と思う。何となく、ベビーブームの団塊の世代がいつも目の上のたんこぶのように目ざわりだった。

 私たちの後には、「新人類」だとか「バブル世代」だとか、「団塊第二世代」だとかが続く。

 世代には行動やモノの見方に無意識のうちに共通のものがあるし、世代の仲間に対する共感も確かにある。あるのだが、同時に、へそまがりの私は、国家アイデンティティのようなものに、自分を同化させたくないのと同じように、世代アイデンティティの中に無抵抗に溶け込むことに対しても、つい、偉そうに心のブレーキをかけてしまう。

 国にも、世代にも流されてしまいたくない。誰も別に振り返ってくれるわけでもないのに、意地のようにそう思う。

 実を言えば、私は、one of themになりたくないのだ。些細なことでもいいからオリジナルでいたい。
 へそ曲がりはへそ曲がりなりのアイデンティティを持っている。

 個々の人々が、昔ながらの伝統的な社会をあとにして、洗練された都会でアトム(原子)のように心さびしく生きていく時代に、人々が売らんかなと生みだすモノや、人の気配を感じさせない無機的な制度の中で流されるように生きていかなければならない中で、自分自身を見失いたくないのだと負け惜しみのように思っているだけのことかもしれないが。



2009/02/13

素直か剛直か

 ある人と話をしていて名前のことが話題になった。
 「日本人はいいですね、名前に意味があるから、、、。やはり、いい名前をつけてもらったら、そうなるように努力しようと思いますよね。それに、名は体を表すっていうけど、名前を見るとその人がわかるような気がしますよね、、、」
 そう私が言い、
「でもね、直子って、なんて言うのかな、剛直って感じでしょ。頑固で譲らなくて、、、」

 すると、話をしていた、私よりもずっとずっと若いその人は、
「素直、って言うのは、剛直とは正反対のことですね。素直っていうのは、柔軟っていうことでしょう。自分の思い込みにこだわらず、目の前の真理をきちんと受け止め、自分の考えを正す柔軟性をもっているっていうことですよね」
と会話に何の淀みも与えずさらりと返答してきた。

 自分の名前について、こんなに深いことを教えてもらったのは生まれて初めてだった。

 そうだ、本当にその通りだ、と思った。

 自分の思い込みに独善的にならないでいられるというのは、人間の理性だ。眼前の現実に目をそらさないというのは、真理を追う、真の意味での科学者、探求者に欠かすことのできない資質だ。

 こんなに長い間自分の名を背負ってきたのに、今までそのことに気付かなかったのだな、とハッとさせられ、ジンと胸が熱くなる瞬間だった。

 そうか、名前に負けないように頑張らなくっちゃ、と心密かに、子供のように思ったのだった。

人間はモノではない

 国際結婚をして日本を後にした時、これで親の死に目にあうことは絶対にない、と思っていた。
 しかし、母が倒れた時、私は駆け付け、2週間後に亡くなるまでそばにいることができた。ほんとうに天から授かった幸いとしか言いようがない。

 クモ膜下出血で倒れ開頭手術を受けて集中治療室に寝かされていた母は、もはや半身不随、自分からはモノを言うこともできなくっていた。主治医に聞くと「周りの人が言っていることも聞こえないと思います」とのことだったが、わたしは、母が寝台の周りに見舞いに来る人の言葉や医師や看護婦が話していた言葉はみな聞こえていたし理解していた、と今も疑わずに思っている。その証拠に、私が帰ってきたことを伝えると、まぶたがかすかに動き、手を握りしめ、お見舞いにもらった花束の中の花を一つ一つ指し示して見せると、視線が動いていた。いつも財布の中に入れていた私の一家の写真も、見せるとじっと見つめていた。

 そんな母が、検査では順調に回復しているということだったのに、2週間後、突然悪化して、わずか1日の間に帰らぬ人となってしまった。まるで、自分で死に際を決めるような逝き方だった。

 なぜだったのだろう、、、と時々思う。
 
 2週間の間母を見舞いながら、私は、もしも母が自分の今の姿を自覚しているのだったら、どんなに辛かろう、とそればかりを思っていた。実際、母を知る親戚のものや友人たちの中には、わざわざ遠くから見舞いに来てくださっていながら、「あんな姿を見たくない」と病室には入らず、廊下で拝むようにして帰っていく方も多かった。

 母は決して着飾る人ではなかった。けれども、自分の生き方はこうなんだ、と確固としたものをもっていた人だった。だからこそ着飾る必要もなかったのだろう。その代わり、自分らしさを、存分に言葉にし、表情に表さずにはおられない人だった。

 倒れた後、そういうことができずに、ベッドの上で、患者服を着せられ、表情を変えることも、話をすることもできなかった母は、何がつらかったかといって、そういう、自分で自分を演出できないことこそがどんなにつらかったことだろう、と思う。主治医の先生にも看護婦さんにもよくしてもらった。でも、よくしてもらっていても、母が、患者であり、限りなくモノに近くなっていたことは変わらない。

 「尊厳死」が熱く語られる理由がよくわかる。あの日、2週間の入院後に、母は自分で「尊厳死」を求めて旅立っていったのに違いない、と今も思う。

 人間はモノではない。

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 教育学の大学院生だった頃、教授の指導を受ける予定になっていた日の朝、時間通りに研究室に行って待っていた。その時間になると、電話がかかり、「あ、今から家を出ますから、冷房をつけておいて」と連絡があった。1時間余り遅れて始まった指導の時間にやったのは、研究費を申請するための報告書作りだった。
 ここで自分の人生を無駄にすることはもうない、ときっぱり心が決まったのはその時だった。

 教育という営みについて研究する人が、学生を生きた人間としてではなく、役に立つモノにしてしまった暁には、その先はもう見え透いている。

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 初めて学生として東京に出ていった夏。友人の女子学生と共に、ラッシュアワーの国電に乗った。皆同じ色の背広、ネクタイ姿のサラリーマンの間に隙間もなく立たされた私たちは、15分ほどの乗車の後、やっと到着した駅のホームに降りて、二人で目を合わせてため息をつかずにはおれなかった。至近距離にある男たちの顔も目も何一つ動揺していないのに、下半身に向けて何本の手が伸びてきていたからだ。
 その場限りの、自分では意図していないのに、男たちを挑発するモノになっていたことに、胸の中が悲しみに沈みこんでしまうような、そして、沈んでも沈んでも、底が見えないような嫌な気がした。

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 何だそれくらいのこと、それくらいの経験で偉そうなことを言ってくれるな、そういう人がきっといるに違いない。沖縄はそういうことを何度も考えさせてくれる場所だった。韓国もそうだった。オランダで出会った、日本軍やナチスの収容所での捕虜体験者に触れ合っても、同じことを考える。

 しかし、今の日本を見ていると、今もなお、同じことが、日々、日常の中で起きている。
 
 つい先ごろ、オランダ人と共に日本に帰国した折のことだ。
 空港始発の電車に乗るためにホームで待っていた。出発する電車が急いで清掃され、やがて私たちは指定された席について電車が動き出すのを待っていた。時間通りにスーッと走り出した電車の車窓から最初に見えたのは、ホームの最後尾に立っている3人の若い清掃婦たちの姿だった。ピンクの帽子、ピンクのエプロンをかけた、背丈もほぼ同じ3人が、みな同じように、ほぼ同じ角度で頭をかしげ、にっこり作り笑いをして、顔のそばに片手を上げ、電車に向かって手を振っているのだった。
 そんなことをやらせたければ、電気仕掛けの人形でも置いておけばよいではないか、と思った。
 そうやってホームを出ると間もなく、沿線の殺伐、雑然とした劣悪な住宅が混然と続く。窓からは、自転車も歩行者もごった混ぜの、電信柱がやたらとたっている狭い町の通りが見える。

 世界第2の経済大国日本の姿はこれだ。

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 自分という人間が、モノとしか見なされていない瞬間があることに、いったいどれだけの人が気づいているだろう。気づけば、生きていくのが苦しくてたまらないはずだ。人間には理性がある。だからこそ、モノにさせられることに本能的に抵抗せずにはおれない。しかし、そういう瞬間があまりに多く余りに毎日続いていくと、自分の心に蓋をしてしまう以外に生きる道がなくなる。感受性のスイッチを切ってしまうしかない。

 でも、多分それでも生きられなくなる。それが、不登校、引きこもり、うつ病、そして自殺増加の原因であるのに違いない、と私は思っている。
 だが、エリートや保守派の政治家は、不登校も引きこもりもうつ病も、「弱い人間」「負け組」としてしか認めない。理性と感受性のスイッチを切れないで、「人間として」苦しんでいるのは、この人たちであるというのに。

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 母は、潤沢な家庭に育った。戦争中は、飢えも病気も不自由も経験しているが、ほかの多くの人に比べれば、「自分は恵まれている」と思える家庭に育った人だった。そんな母が、戦後間もなく、潤沢とはいえない公務員の父と結婚した時、野の花を一輪積んでテーブルの上の花瓶に挿したという。雛人形が買えないからと、端切れの布を集めて人形を作り、道具を作り、雛段を飾った人だ。

 こんな風に母のことを自慢すれば、「やめてよ、恥ずかしいから、昔は、そんな人がいっぱいいたのよ」というに違いない。

 しかし、そういう母の生き方が、尊厳ということを、わたしに教えてくれた。

 公務員の父は「毅然としていろ」が口癖だった。


 でも、、、
 尊厳を持ちたくても、持てないほどに生活苦を感じている人がいるのではないのか。毅然としていたくても、それでは、生きていくことができないほどに追い詰められている人がいるのではないのか、、、。「清貧」などは、最低限の生活が保障されている人たちの戯言にすぎない。

 経済大国第2位のこの国は、ほんとうに人間の社会として発展したのだろうか、それとも、尊厳に蓋をしてしまった人間ばかりになってしまったのだろうか。

2009/02/11

ほめて伸ばすか、けなして鍛えるか

 人生を振り返ってみて、自分はどういう時によく成長できたかと思うと、やはり、人からけなされた時より褒められた時の方だったような気がする。褒められる時ほどうれしいことはない。その嬉しさが、次の段階へのジャンプを決める。けなされると、私のような弱虫は、ついいつまでもぐずぐず思い悩んでしまう。そのくせ、私自身が母親として子どもたちに対してよく褒めてきたか、というと、そうとも言い切れない。親とは実に勝手なもので、子供を粗雑に扱ってしまうものだな、と思う。

 けなしたり、叱ったり、「頑張れ、頑張れ」と叱咤激励するのも一つの育て方ではあるだろう。そうなふうにすると伸びきっていなかった力が発揮され発達につながることも確かにあるだろう。ほめてばかりいたのでは、子ども自身が自分に甘くなり、頑張らなくなってしまう、という議論もあろう。しかし、それは、ある特定の子供だけを、他の子に見せつけるように褒めるからではないのか。どの子も同じように、その子なりの良さを引き出して褒めてやるようにしていれば、ほめることが子供の不遜な態度を引き出すということはない。
 何かある特定の知識を吸収したり、技能を身につけたりするということだけが教育の短期的な目的なのであれば、けなしたり叱ったりする方が、褒めるよりも効率的にその目的を達成するのに役立つこともあるのかもしれない。しかし、本来、教育の目的とは、大人が決めた知識や技能を子どもに植え付けることだけではないはずだ。それは単なる知識や技能の伝達に過ぎず、「教育」というほどのものではない。

 子どもが、自分自身を知り、自分の得意な能力を生かした仕事に就けること、自分の頭でいろいろなことを考えたり編み出したりし、また、資質や能力の異なる他の子供と一緒に協力して世の中を支えていけるようになること、、、、教育の目的とは、実は、単なる知識や技能を伝えることではなく、そういう、もっと大きな「人間性」をどこまでも広げ発達させることにあるのではないのか、、、。本来、「教育」は、教え育てるという教育者の側からのアクティブな働きではなく、「学習」という子どもの方からの自発的な働きかけを引き出すものであるべきだ。(そういう意味では「教育」という語そのものに大きな問題が潜んでいる)


 日本の学校や親の態度には、けなすことと褒めることとの間のバランスが、あまりにも一方に傾きすぎている。にこにこ褒めてばかりいたのでは、学級崩壊になるとか、勉強しなくなるとか、多分、目先の成績を挙げることに夢中な大人たちは、目の前の子どもたちが、やがて未来を支える幅広い能力を持った「人間」として育たなくてはならないということを忘れてしまっている。そして、そんな近視眼的な大人たちに取り囲まれて、けなされたり叱咤激励されることが日常茶飯事となって息も絶え絶えになってしまった子供たちは、会社に入ってもモノも言えず、自分から自立して能動的に物事に取り組む自身も意欲もなく、少々の困難が起こると、それにどうして取り組んだらいいのかわからなくなり、やがてはうつ病に陥ったり、ひきこもったりしてしまうのではないのか。そういう若者たちが、今、日本には大量に蓄積され、社会を不安定にする原因の一つになっているように見える。

 大人は「けなし叱って鍛える」ことによって、「強い」子供「強い」大人を期待しているのかもしれない。しかし、そういう態度からは、学んでいる者の方に自立心は生まれない。それどころか、自尊感情はどんどん低下していくだろう。小学校から大学に入るまで、いつもいつも「お前もっとこうしろよ」「もっとこういうところをよくしたら?」「ここがまだ駄目ね」「何してんの、そんなことまだわからないの」とずっとずっと言い続けられていて、子供はいったい、どうしたら、自分に自信を持つことができるというのだろう。
 そういわれ続けることで、「僕なんか絶対にお父さんのようにはなれない。」「お母さんはぼくが悲しくても、そんなことは気にもかけてくれない」「先生はどうせ僕のようにできない子を教えるのは嬉しくないんだ。僕なんかどうせクラスのクズなんだ」と哀しさと孤独感の中に引きこもってしまうのではないか?

 かくいう私も、日本で育ち日本の学校でずっと教育を受けてきた。だから、育てるというのは、「頑張れ、頑張れ」と叱咤激励するものだ、ということにはじめのうちはほとんど何の疑いも持っていなかった。自分がそういう態度であるということにすら気付かなかった。

 そういう私の背景とはまったく正反対の、「ほめて育てる」教育で学んできたオランダ人の夫と共に子供たちを育てはじめてみて、子どもたちに対する自分の態度や言葉がけの仕方が、夫のそれとはとても違っていることに何度も気づかされた。
 せっかく何かを達成して満願の笑顔で報告する子供たちに向って、「わあ、よかったわね、すごいわね」とは言わずに、「ああ、でも、ここをもっとこうすれば」とか「今度やる時にはこうしたらもっとうまくいくわよ」とか言っていたような気がする。今から思うと、可哀そうなことをしたな、と心が疼く。
 幸い、少々時間はかかったものの、オランダに自分自身が同化し、オランダの学校を見ているうちに、私の方が変わっていった。私自身が自分らしくしていられるオランダという社会の人々が、わたしをそういう風に受け入れて育ててくれ、自立心や自信、自尊感情を持たせてくれたのではなかったか、と思う。そうはいっても、いまだに、オランダ人のように、さりげなく上手に人をほめるというのは、なかなか、うまくできないものだ。

 子どもでも大人でも、他人をけなす人、というのは、よく見ていると実は自分に自信がない人が多い。他人を称賛できる人というのは、大人だし、自分をよく知っている人だな、と感じる。

 先ごろ、友人のピーターが誘ってくれ、彼がやっている教員研修を見せてもらった。ピーターは、ある教育プログラムの実施準備のために、小学校に行って、放課後、その学校の教員たち全員を相手に、ワークショップと現職研修をやっている。つまり、先生たちの先生というわけだ。

 ピーターは、その日、3時間余りの研修の中で、1時間余りたっぷりと時間をとり、前回の研修の後に先生たちの心に生まれた「質問や悩み」を発言させていた。先生たちが問題を提議するたびに、彼がしていたのは、「今の話で、あなたが、OOOOということをしたのは、とても正しいことだと思いますよ。」とまず必ずどんな小さなことでも見つけて、「ほめる」ことだった。そして、実際、かれの返答の中に「けなす」とか「批判する」という言うようなネガティブな態度は微塵もみられなかった。もちろん、見え透いた「お世辞」では、本当にほめたことにはならない。専門家であるピーターの力は、先生たち一人一人の発言に、注意して耳を傾け「本当に良いこと」を引き出して褒めることなのだ。そうしたうえで、悩んでいる教師に、迷いのないはっきりした態度で、自分の経験から役に立ちそうなコメントを述べていた。

 また、先生たちの質問や悩みに対して、ピーターは、自分が答えを出スという役割をしてしまうことを意図的に避けていたようにも思う。まず、その場に集まっている仲間の教員たちに、「何かアイデアはないかな、ほかにも意見はありますか」と、お互いに助け合って問題解決をすることを促していた。ピーターの役割は、先生たちの上に立って、上から偉そうに何かを教えることではなく、先生たちが、自信を持ち、自分たちの手で物事を解決しよう、と動いていくように、交通整理をしてやることなのだ、とわかった。

 ピーターが介在することで、普段、自分の問題を仲間に見せる勇気のない先生たちが、お互いにアイデアを出し合う雰囲気が生まれていく。

 ピーターの研修では、先生たちは、あとで自分たちが子供たちを相手にやらなくてはならない授業を、モデルとして実際に受ける。そこでは先生たち自身が、子供の立場になってみるのだ。これは、ピーターに限らず、オランダの教員研修の典型的なやり方だ。自分が教わる立場になってみなければ、その効果はわからない。

 だから、まず「褒める」ことから始める、批判をしない、生徒同士が意見を出し合う。このパターンは、あとで先生たちが、生徒たちを相手にして授業をする時にも使われるパターンなのだ。
 けなしたり、批判されたりすることよりも、ほめられることの方が気持ちがよいということを知っている先生たちは、子供に対しても、褒めることができるようになる。

 子供でも大人でも「ほめられた」時ほど嬉しいことはない。この嬉しさが、もっと伸びよう、という内側から自然に沸き起こってくる意欲につながる。同時に、たいていの人は「ほめられる」からこそ、もっと良くするところはないのかな、もっと伸びるにはどうしたらいいのかな、と自己批判的になれるものだ。ほんとうの謙遜の態度も、そういう時にこそ起こる。そういう心の動きは、「けなされた」時には起こりにくい。まして、「けなされた時」に「やらされる」のは、自分のための課題ではなくて、怒っている親や教師のための課題でしかない。だから、学ぶ側の意欲は低下し、自律心も自己責任感もなくなり、依存心だけがいたずらに助長されていく。
 つまりは、人が誰かを自分の配下として閉じ込めておきたければ、その人をけなし、怒鳴り続けていればいい、ということだ。学校の先生がこういうテクニックを使えば「学級崩壊」は起こらず、表面的には静かでいいクラスかもしれない。しかし、自尊心をもった人間は育っていない。そんな風にして生み出している集団は、誰にとっても、もちろん、指導者や教師にとっても、決して居心地の良いものではないはずだ。

 これから、子供たちを育てていく人たちには、子供たちを、一人残さず、ほめて褒めてほめちぎって伸ばしていってほしい。そうすれば、子供たちの方も、自立して自分でものを考え、自分のやっていることに責任を持つようになり、自分で自分の人生を設計するようになるはずだ。
 同時に「ほめられる」ことで、自分の能力を知るようになった子どもは、他人の力を認め受け入れる人間になれる。「けなされ」つづけた子供の心に育つのは、他人への嫉妬、または、時々起る優越心だけだ。

 家族や学校の中だけのことではない。たぶん会社でも組織でも同じだと思う。
 ただ、今の日本のすべての組織は、けなし叱咤激励するという学校文化しか知らない人たちばかりだ。それ以外にもこんな方法があるのだ、ということを知ってほしい。

 ある会社研修で、自己紹介の代わりに、他人紹介をしてもらった。隣に座っている人が、会社にとってどんなに大切な役割を果たしているかを言ってもらいながら一巡した。それだけで、組織の雰囲気はガラリと変わる。自分は、仲間から理解されているのだ、ということが、どれだけ、連帯感に通じるものであるかわからない。

 寛容や受容とはそういうことを言う。それは、力強い連帯感を生みだすためのものだ。

 けなすことは悲観に、褒めることは楽観につながっている。
 人生の苦しみも、社会の閉塞も、それを乗り越える力は、悲観からではなく楽観からしか生まれない。

 楽観は、苦しい時にこそ意義がある。褒めるというのも、自分の中にも他人の中にも褒めるに値する質があるということを見極めてこそ意義がある。


 
 

2009/02/08

マレーシアの夜鳴き(焼き)ソバ

 留学生としてクアラルンプールに住んでいた今から27年前。
 日本人らしく夜更かしをしているとよく夜鳴きそばのラッパが聞こえた。
 マレーシアの夜鳴きそばは焼きソバだ。大家のインド人のおばさんに、「あれ、結構おいしいのよ」と言われて、時々食べに行った。

 熱い熱帯の夜、ラッパにつられて外に出ると、舗道の木立の下で、ランニングシャツ一枚、咥え煙草の中国人のおじさんが、自転車でい引いてきたリヤカーの上にプロパンガスにつないだガス台を据えて、大きな中華鍋に、茹で麺を投げ込み、客の注文に従って、刻みキャベツ、キノコ、トウガラシ、卵と放り込んでさっと炒めてくれる焼きそばは確かにおいしかった。
 何回かそういうことを重ねているうちに、このおじさんも、そのころはまだ珍しかった日本人の女学生に興味を持ったか、いろんな話をポツポツしてくれるようになった。
 昼間は夫婦で食堂で焼きそばを売り、夜はこうしてリヤカーを引いて焼きそばを作りながら、二人の息子をイギリスの大学に留学させ、その子たちも無事卒業、余裕が出てきたので、今は、お金が貯まったら海外旅行さ、という。「去年は東京と香港に行ったよ」とさり気もなく言う言葉に、私は目を丸くするばかりだった。

 マレーシアには、植民地時代から多くの華僑、印僑がいるが、独立以後、マレー人が政治の主導権を握り、「マレー人優先政策」を続けてきたので、中国人やインド人たちは、いろいろな意味で、差別を受け、特に中下層の人々は教育機会や労働機会を奪われて、自力で子どもたちを育て、老後のために貯蓄する以外になかった。
 
 その後私は、日本での学歴を利用して日本で仕事に就くこともなく、そういう可能性を放棄してオランダ人の夫について世界を転々と移り暮らすという選択をした。
 言葉も満足に話せない土地を転々とする中で、もしものことがあったらどうしよう、という気持ちはいつも心の底に抱えていた。現に、山も谷もある暮らしだった。谷底が見えそうになるたびに、
「いいや、いよいよのことがあったら、焼きソバでいけばいいわ」
と、あの夜鳴きソバの中国人の伯父さんをいつも頭に浮かべたものだ。そうして、空威張りでそんな風にわたしが言えば、夫も「ハハハ、よしそれでいこう」と笑ったものだ。

 結局、そのたびに、なんとか切り抜けてきた。夫の頑張りにわたしの方が甘えてきただけだ。
 私にリヤカーを引くほどの根性はないだろう、と見透かされていたのにちがいない、、、

 ま、少しだけ人生経験を積んできた今になって振り返ってみると、心の中にそういう「切り札」を持って生きるのは、悪いことではないな、というくらいのことは言えそうな気がする。

 80年代、日本がバブルの頂点にあって浮かれていた時、何か、地に足のついたものがほしかった。当時言葉にすることのできなかった日本に居続けることの不安は、そのあたりにあった。

 



2009/02/04

世界は多元社会へと

 幸い、オバマ大統領が登場してきたことで、世界は、アメリカによる大国主義から、どうやら「多元社会」の構図へと変わってきているようだ。
 とはいえ、オバマの大統領就任演説では、「世界のリーダーとしてのアメリカ」という言葉も出てきていたことだし、たとえ、それが、アメリカ市民を鼓舞するためのもの、民主主義の理想を前提としたものであったとしても、警戒はしておかなくてはならない。なにしろ、金融危機で、どこも、国内の社会不安をどう沈静するかで大騒ぎ、みんなが内向きになっている時代だ。

 米国の景気対策手段として打ち出された「バイアメリカン条項」は、早速、ヨーロッパ連合から顰蹙を買い、オバマ大統領も見直しを提言した。こんな時代に、アメリカ製品だけ買えと言って喜ぶ外交相手がいるはずがない。 

 米国の内政干渉はよく知られている。軍事保護や経済取引をもとに「友好国」を作っても、結局は、最終的な利益は米国に戻っていくようになっている。アメリカ合衆国の「裏庭」といわれる中米諸国や南米の国々に暮らして、その土地にアメリカの、カッコつきの「開発協力」というものが、どんなに表向きには親交の「握手」に見えて、実は、ドルの札束で相手の頬を叩くようなものであるか、ということは、同じ開発協力の仕事をしていた夫と共にうんざりするほど目のあたりにしてきた(アメリカの開発協力局のシンボルは、白人と有色人種が手を出して握手をしているもの)。

 米国の友好国として言いなりにさせられてきた国といえば、日本もしかり、だ。日本は、戦後、共産化する中国と分断される朝鮮半島を前に、アメリカにとっては、格好の軍事基地であり「友好国」だった。逆に、それは、日本にとっては、アメリカという大国を前に、同盟連携して、対抗する、同等な隣国のない、孤独で、危ない、バランスを失ったアメリカへの依存だったのだと思う。たとえそれが、どんなに大きな経済発展を生んだとしても、今、まわってきているツケはあまりにも大きい。なぜもっと、アメリカの圧力に抵抗し、自身のアサーティブさをもって対するだけの交渉術を持っていなかったのだろう、と悔やまれる。

 その点、同じ西側とはいえども、ヨーロッパの歩んだ道は少し違う。

 ヨーロッパでは、大国といえども、日本ほど人口や国土の大きな国はない。そういう国が、一つ一つばらばらにアメリカ合衆国を相手に交渉していたら、おそらく今のヨーロッパはなかったことだろう。「石炭鉄鋼共同体」から「経済共同体」へ、そして、「ヨーロッパ連合」へと複数の国々が連帯を強め、一体となって対米交渉に当たることのできる基盤が積み上げ作られてきた。それが、今回の「バイアメリカン条項」に対する反発にも象徴されていると思う。

 ヨーロッパ連合の理念は、大国を作らず、すべての参加国を平等に認め、それぞれの文化様式と各国の政治決定とを尊重した、まさしく「多元主義」にある。この、ヨーロッパ民主主義の「理想」とも言える多元主義をもってして、ヨーロッパのリーダーたちは「大国主義」に陥りがちなアメリカにノーと言った。ヨーロッパ連合は、いまや、大国アメリカを動かす影響力を持つまでになっているということだ。幸い、オバマは、国境を越え、文化や宗教の差を超えて、ヨーロッパの理念と同じ、多元主義に基づく世界を築くことに理想を抱いている。そういう彼を大統領に選んだというのは、アメリカ人も、新時代に向けて、傲慢な大国主義から、協調的な多元主義へと姿勢を変えたいと思っているということだろう。

 そういう世界をさらに飛躍させることができるのだとしたら、それは、まさに、今を置いてないという気がする。金融危機の波紋が広がり、世界中で社会不安が蔓延してからでは遅い。

 だが、最近のニュースを見ていると、少なくとも二つの地域が、そういう世界の動きに鈍感なまま、逆行を続けているように思えてならない。

 一つは、ナチスのホロコーストを否定したイギリス人司教ロチャード・ウィリアムソンら、反動的なカトリック聖職者たちの破門を解除したローマ法王がいるバチカン市国とカトリック教会。
 もう一つは、子どもたちを競争教育で煽り続ける展望なき政治家と、世界観とコミュニケーション能力のないエリートたち、そして暴力団という名のテロリストたちを、こんな時代にいまだにぬくぬくと温存させている日本という国だ。

2009/02/03

怖いのは、、、

 武器も凶器も自分では攻めてこない。
 怖いのは、それを使う人の心。
 怖いのは、人の心の不安。