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2011/04/11

震災・原発事故後の何が変わる?

地震・津波・原発事故という三重の大災害が一気に日本を襲った。すでにバブル崩壊後二〇年続いた経済不況、加速化する高齢化社会、政治への不信、などなどと問題が山積していた日本に押し寄せたこの積み重なる危機に、日本社会はどこまで対応できるのだろうか?

「こんどこそチャンス」と新生日本に希望の光を求める声と共に、早くも「原発擁護論」が見え隠れする日本。これだけの大問題を抱え、今も余震に揺さぶられ、放射能漏れの危険は世界の環境破壊にもつながるかもしれないという時、「クリーンで安価」もなかろう、と思うのだが、、、、。そして昨日の都知事選では、なんと石原四選目。失言・暴言・無駄遣いは、諸外国の新聞でも報道されているこの人が、なぜ、四選なのだろう? あいも変わらず、高度経済成長時代に売れた「青春もの」の小説で鳴らした大衆人気が、今もモノを言うとは、どんな有権者たちなのか、とわが目を疑う。日本社会は、こういう子どもじみたイデアリズムから解放されて、粋なおとなの現実主義に移る気はないのだろうか?

しかし、いくつかの変化はすでに始まっていると思う。そして、それは、他に選択肢のない、不可逆的な変化になるのではないか、とも思う。

まず、連帯感が戻ってきたことだ。お上に任せてはいられないという、人々の連帯感は、民主社会の最大の基盤だ。民主化とともに個人主義かの行き過ぎた西洋の人々は「日本人の我慢強さ」を賞賛した。この我慢強さ、そして、その我慢強い表情の裏に隠された苦しみに思いやる人々の連帯的な行動は、きっと新生日本の基盤になるとおもう。

さらに、ツイッターやフェイスブックなどでの一般の人々の言質が、マスコミを揺さぶり始めていることだ。漫然と、体制派・反体制派の枠組みでしか記事をかけないマスコミの低迷ぶりは今も続いているが、今後は、徐々に変わっていくのではないか。少なくとも、一般の人々は、マスコミだけに情報操作される危険は無くなっている。

次に、東京への権力や経済活動の一極集中の問題は、議論として語られるだけではなく、現実問題として人々に迫ってきていることだ。否が応にも、活動を全国に拡散しておいたほうが、リスクも拡散できると考えるようになるのでは? それは、地方文化を再生するだろうし、序列型のピラミッド社会に風穴を開け、多元的な社会への道を開くだろう。もとより、インターネットでつながれる時代に、人が一箇所に集まる必要は無くなっている。エネルギーネットや交通網が張り巡らされている日本で、地方の潜在力を使わない手はない。無駄に全国に林立された赤字空港は、今なら復興日本のために活かされるかもしれない。

原発エネルギーの縮小と化石エネルギー拡大の緊縮に最も効果的なのは「節電」だと言われる。計画停電や自主的な節電のために、これまでのような意味のない残業や、必要のない無駄遣いはきっと少なくなっていくだろう。人の働き方も効率的にせざるを得ない。今こそ、残業制限やパートタイム就業の正規化のチャンスだ。人々のライフ・ワーク・バランスを取り戻すきっかけになるのではないか。賃金を生む仕事だけではなく、子どもを育て、人間としての精神の回復を生む仕事や余暇に時間をかける生活が、日本人の生き方のノルムになる可能性は大いにある。それが人々の精神生活に与えるポジティブな効果は計り知れない。

最大の課題は、そういう転換をスムーズに行えるような制度を生み出せるかどうかだ。明治以来のトップダウンの全体主義、戦後の産業型競争社会の原理というパラダイムをどう脱皮できるか、それを、官僚や政治家がどう、みずから実践し、制度変革へとつないでいけるか、だ。



しかし、そうなる前に、今の日本には、何か「元の木阿弥」を思わせる動きの方が散見されるのが気味悪い。