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2011/05/12

リーダーに「聖人」を期待するカリスマ・ポピュリズム文化

序列型社会のトップを競わせる競争教育で生まれるエリートたちには、そもそも「公僕」意識は育ちにくい。ところが、エリートへの競争教育の敗北者、または、そういう体制型のエリートになることを阻んで、競争社会から「一抜けた」と足を洗った他の人達は、こうしてトップの座に上り詰めたエリートに「聖人」のような人格者を求める。そもそも、日本の学校のように、知識詰め込みしかやらない場で競争に勝ったぐらいの人間に「人格者」など生まれるはずもないのだけれど、、、、

いずれにしても、勝って序列の頂点(の近く)へと登りつめたエリートたちと、そうならなかった、いわゆる「一般大衆」との間には、期待と現実の凄まじいギャップが生まれることとなる。
そして、勝手エリートとなった側も、そうならなかった側も、どちらも、そういうどうしようも無いシステムであることには気づきもしないようだ。エリートは、自分に期待された役割に自分自身を合わせようとして無理をし、「00らしく」振舞うことばかりに気をとられ、その結果、実態のない空洞化したエリートとなり、他方、不満な一般大衆は、システムや体制のほころびの原因を、勝者であるエリートらに一切帰してしまうことのみに躍起となり、社会参加への意欲は失ってしまう。

やがて、保身に走って「らしさ」にとらわれる勝者エリートの奔走と、不満で社会や政治に背を向けてしまう一般大衆との間の、間隙に、マスコミで受けの良い知識人(まがい)、空虚な青春スポーツドラマの主人公のような「明るく」「朗らか」で「一般視聴者に受けの良い」タレントが、まんまと地方や国の政治に影響力を持つようになって跋扈する、という、もう目も当てられないような事態となる。

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かつて、アメリカの大統領だったクリントンは、現職時代に、インターンだった女性との性関係を追求され、テレビカメラの前で釈明に四苦八苦させられた。

日本では、自民党時代から、政治が行き詰まると首相が辞任するというお笑いにもならない無責任な交代劇が、外国人にも有名な日本政治の伝統になってしまっている。

アメリカでも、日本でも、政党は野党に降りれば、与党に対して「ネガティブキャンペーンをするもの」という意識しかない。アメリカの共和党のティーパーティー、日本でやっと野に降りた自民党政治家らの、「これでも政治家か」と言えるようなお粗末な言質を見てみるといい。新聞やテレビも、そういう仕組の持つ問題には気づいてもいないかのように、阿呆のごとくに、誰がなんと言おうが、中身はどうでもいい、ひたすら、反体制の風を煽っていればいい、それが民主主義だとでも勘違いしているようだ。

まさに、そういう社会が、実は、ポピュリズム(大衆政治)の培養基なのだ。

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リーダーに「聖人」や「万能選手」のような人気者、人格者を期待すべきではない。

リーダーには、血の通った人間を期待すべきだ。間違っていい。不完全な人間でいい。その代わり、間違ったらやり直しのチャンスを与え、自分の失敗を取り返す努力を促せばいい。政治家を殿上人にしてはいけない。政治家は、「私たちの仲間」「私たちの代弁者」であることを忘れてはいけない。



かつて、フランスには、ミッテルランという大統領がいた。
婚外交渉と、その結果として生まれた娘の存在が週刊誌に取り沙汰されたことがあった。しかし、だからといって、政治生命が絶たれるようなことはなかった。プライバシーと公人、エリート政治家・大統領としての仕事との間には一線が画されていて、有権者らもそれを認めていた。

「無粋なことを言うな」とでもいいそうなこの雰囲気は、フランスを始め、ヨーロッパの国々の政治が、粋なおとなの有権者に支えられたものであることを象徴している。

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菅首相が、原発抑制への態度を示しているのは歓迎したい。強者・富者の原理ではなく、弱者・敗者の立場を考慮した、国民全員が幸せになる国づくりへの、とりあえずは第1歩であると思うからだ。
早くも、野に降りた保守は、それを良い所している知名人たちが、ネガティブキャンペーンを展開し始めた。

大半の有権者というものは、そもそも、ネガティブキャンペーンは嫌いなものだ。ばかばかしくて、無粋で、見たくない。

大衆政治(ポピュリズム)を生んでいるのは、大衆ではない。
人間がみたくない、嫌なものを引き出して、それを利用している、エセ知識人や、政権を取れなくて欲求不満に陥り、かと言って、国民の幸福を約束するビジョンを展開できないでいるというだけの、無能の政治家たちだ。


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では、人間としての政治家の間違いを補い、世の中を有権者の求める方向へと確実に動かしていくものはなんなのか???
それは多分、個別の政治家の人間的な資質に依存した序列型社会の中央集権的な統制によってではなく、専門化による確実で信頼のできるデータを有権者が共有し、その同じ出発点にもとづいて人々が忌憚なく議論でき、それをマスコミが過不足なく吸い上げて広く他の人々に伝播し、誰にとっても公平なオープンな政治決定の仕組みを作ることだろう。

繰り返すが、大衆(ポピュリズム)を生んでいるのは、大衆自身ではない。弱者・敗者をうみつづけ、エリートと大衆の間に大きな壁を設け、その狭間に、カリスマ人気のタレントまがいを送り続けて大衆を操作し続ける、目先の利益に囚われたマスコミのエリートたちだ。

2011/05/03

テロリストの殺害

 昨日のオサマ・ビン・ラディン殺害のニュースは、砂を噛むような後味の悪さを残した。
テロリズムを支持する気は毛頭ない。アルカイーダのテロによって命を失った人々の遺族の辛さもわかる。だが、、、

死刑反対と同じ議論がここで起こってこなくていいのだろうか、、、

昨夜のオランダのニュース解説では、アラブ諸国では、民主化運動が始まったことで、アルカイーダのような急進派への支持は急速に低下しており、昨日のニュースへの反応も静かなものだった、という。それならばなぜ???

オサマの遺体は、イスラム教徒の習慣だの、土葬にすると支持者が訪問するだのとの屁理屈で、早くも海に沈められた。写真とDNAで確認したというけれど、第三者が再確認する機会は葬られたも同然だ。新聞ニュースの一読者ですら、胡散臭さを感じずに折れないこの一件、、、

嫌な展開にならないといいが、、、

暴力による行為が暴力によって報復されるこの時代、果たして「文明」と呼べるのだろうか?

私たちは、本当に「人の命」が大切にされる時代を生きているのだろうか?