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2009/01/29

競争という名の非効率

 競争社会は人々に幸せをもたらさない。人々が何度口を酸っぱくしてそう訴えても、日本の競争文化はなくならない。学校でも社会でも、指導者たちは、「競争」さえ煽り立てていれば、万事安泰と思っているらしい。それが証拠に、学校では、学力競争が以前にも増して煽り立てられ、社会では、一方で失業者がどんどん増えているというのに、エリートたちは休む間もないほどの残業と忙しさに追い立てられている。スローに人生を楽しみたくても、そんなことをすれば「敗者」になって、社会のどこにも自分の生きる場を見つけられない、と流れに任せるより選択の余地がないという人が山ほどいる。

 でも、競争文化は、本当に効率的にこの国の経済基盤を支えているのだろうか。経済大国日本の地位を今後も支え続けるために、競争をあおることが、ほんとうに、何よりも効果的なのだろうか。競争をやめると、日本は、ほんとうに今の地位から転げ落ちてしまうのだろうか。競争は、だれのために、効率的なのか。競争社会のメリットを享受しているのはいったい誰なのか? そんな人が本当にいるのか?

 受験競争に追い立てられる子供たちに、本を読み浸る時間はない。友達と議論しているひまもない。同じ練習問題を、早朝の補習、学校の授業、放課後の塾、夜間の自宅での勉強と繰り返し、それでも、入試に受かるかどうか不安な子供たち。いくら勉強しても、「これでわかった」と安心できる基準がないからだ。
 その結果、本を読む量は少なくなる。自分から働きかけて情報を集める時間もない。そういう子どもが、よしんば首尾よく有名一流大学の入試に合格したとして、この子たちにエリートとしてのどんな才能があるというのだろう。同じ問題を何時間もの時間をかけて繰り返し説くという才能が、いったいどんな仕事の役に立つというのだろう。

 友達と議論したことのない子は、自分の頭で物事を考え、自分の意見を持つということを知らない。自分の意見が、他の人の意見と違うという経験がない。複数の人間がいれば、複数の意見があってよいのだ、ということを考えてみたこともない。そういう子が、よしんばエリートとして国や会社の重大事にかかわり、外国で他国の人々と交渉する立場になったとして、いったい、どういう交渉術を持っているというのだろう。ウィン・ウィンの合意を生むのは、立場の違うものが心を開いて話し合って、どちらも満足できる結果を導くという経験をいくつも積んでおかなければできるものではなかろう。いったい、そういう訓練は、どこでするのだろう。だれが、若者にそんな訓練を与えることができるのだろう。

 けれども、競争の非効率の、もっと大きな問題は、もっとほかのところにある。競争に落ちこぼれる敗者が持つストレスと敗北感から生まれる社会不安だ。いつ、だれが、凶器を振り回し、有毒ガスをまき散らすか分からない、、、そういう悲惨な事件は、これまでにもう数えきれないほど経験しているというのに、この国の指導者は、その原因が、競争社会にあるということを認めるつもりがないようだ。

 「競争」は、競争をしている本人たちではなく、それをさせているものが決めた尺度によっておこる。その尺度は、たいていの場合、数ではかれる基準だけだ。文字を使わない表現力、情緒の安定、社会性や責任感、議論やディベートの力、深い思考力、物事を立体的にとらえる力、問いかける力、自分の問いを追求していく意欲や忍耐力、他の人の意見を聴く力、物事の洞察力、そういった、人間に特有のかけがえのない能力をみな看過して、目先の利益に結びつく力だけ、それも、紙の上ではかれるものだけで競争させようとするのが入試だ。

 人間、誰だって人には負けたくないものだ。自分の子供を「敗者」にしたくもない。
 なぜ、勝者と敗者がいなくてはならないのだろう。競争をやめれば、勝ちも負けもないはずなのに。

 
 競争社会は、そういう無意味な勝ち負けを作り、そのために山ほどの無駄を世の中に残している。

 経済が低迷し、パイの取り合いが激しくなると、競争はまたもや激しくなる。

 日本という社会では「競争」に勝たなければ一人前にはなれない、と思い込んでいるそのことが、どんなに非効率で非生産的な不幸きわまりない社会を生む原因になっているのかを、一度みんなで立ち止まって考えてみたほうがいい、、、

 特に「勝者」たちに考えてもらいたい。いったい自分は何に勝ってきたのか、と。いったい、人より優れた何を持っているのか、と。自分は、この国の紙切れ一枚の競争に勝って、それで果たして世界で通用する一人前の人間になったか、と。

 いったい何のために、いったいどんなメリットがあって、私たちは今のような「競争」社会にいまだにこだわり続けなくてはならないのだろう。

恋する若者たち

 若者に恋はつきもの。
 でも、恋をしている若者を温かく見守る社会と「品行方正ではない」と咎め立てする社会とがある。

 北米やヨーロッパの国々は前者、日本は後者に属すると思う。OECDなど、経済的な富裕国としては堂々「西洋」の仲間入りを果たしているはずの日本だが、この点、他の国に比べて、特異な性格を持っている。もっとも、日本が、他の先進諸国と比べて特異な点は、これに限らない、、、

 日本がさまざまの点で特異であるのは一向にかまわない。アジアという文化的な背景もあることだし、なにも、何から何まで西洋のサル真似をする必要はない。それなりに、日本人自身が、それでよいと納得した理由があって、伝統を保っているのであれば言うべきことはない。
 ただ、日本の特異性と見えるものの中には、時として、あまりにもタテマエとホンネのダブルスタンダードが多いのが気になる。若者の恋についても、日本のそういうダブルスタンダードの典型的な例だと思えるから気になるのだ。このダブルスタンダードがある限り、日本人の文化的な「価値観」などと偉そうなことは言えなくなる。

 西洋社会の人々が、概して若者の「恋」にオープンで寛容なのは、それが、人間性を謳歌するものだからだろう。

 人として生まれてきた以上、少なくとも一生に一度くらいは、みな切ない恋心を抱くという経験をどこかでするものではなかろうか、、、それは、大声で周りの人に言えることではないかもしれない。けれどもかといって、包み隠さなくてはならないものでもなかろう。人を好きになることについて後ろめたさを感じなくてはならない理由はない。

 「親の脛をかじって勉強している身で、異性と付き合うなんて」という声がどこかから聞こえてくるような気がする。でも、思春期というのは、本人たちの意思ではどうすることもできない、体の一大変化を迎える時期なのだ。むしろ、大人たちは、その変化を受け入れて、子供とともに、この時期を上手に乗り越える方法を考えた方がいい。子どもには、大人の頭ごなしの禁止よりも、経験のある大人からのガイダンスが必要だ。
 勉強に身が入るも入らないも、その結果どうなるかも本人次第ではないか。長い人生、そんなに何でもかんでも急がせなくてもいいではないか、、、

 もしも、本当に、きれいな気持ちで異性に恋心を抱いているのだったら、まずは、それをきちんとオープンに話し合う機会をつくるか、本人が思う存分自分で自分の気持ちを整理できるように見守ってやるのがよいと思う。

 オランダの子供たちは、中学生くらいから、確かに、ボーイフレンドやガールフレンドを持つようになる。もちろんみながみなというわけではない。大半の子供たちは、高校生の終わりか大学生くらいで決まった異性の友人を持つようになるようだ。そして、異性の友達ができると、子供たちは、さっさとお互いの家に連れて行き、親に紹介する。子どもら自身が、こそこそ付き合うことを嫌うのだ。別に、こんな年齢で「婚約」するわけではないが、「今この子と付き合っているんだよ」ということを、親に対して堂々と公然と明らかにする。
 
 紹介された親の方は、子どもの誕生日などには必ずその相手の子も招待するし、夏季休暇に出かけるバケーション先に誘って一緒に連れていくこともある。そんな風に家族ぐるみで付き合っているからと言って、必ず将来結婚にゴールインしなくてはならない、などとは、今どき誰一人として思ってはいない。

 うまくいけばそのままゴールインもあるだろうし、途中で別れることだって当然あるだろう。それはそれ、本人同士の判断であって、親が傍から介入することではない。その点は実にはっきりしている。だから、その結果うまく行こうが行くまいが、それも親の関知するところではない。冷たく聞こえるかもしれないが、男女の関係は、当人以外の人間が関わるべきことではないのだと思う。

 親族が集まる誕生日のパーティなどに行くと、若い高校生や大学生たちは異性の友人を気楽に連れてくるし、おじさん、おばさん、おじいちゃん、おばあちゃんも、普通にその友人たちを受け入れ、普通に社交的な会話をする。
「あれっ、去年の彼とは別れたの」てなこともある。
 
 こんな風にして、お互いに、お互いが育った環境、親族などの社会的な背景を知ることは、お互いを理解するために必要なことなのだ。若いから、どうせ遊びだから、と子供扱いにするのではなく、その時その時に、恋も男女交際も、大人が見守っている中で、「練習」の意味を持たせてやることは大事だと思う。

 なぜ、日本では、若い十代の男の子が、街角の本屋に行って、こっそり人目を気にしながら、ポルノまがいのマンガ本を立ち読みしなくてはいけないのだろう。なぜ日本では、電車の中で、若い男性が気持ちが ムラムラしたといって、人ごみに紛れて女性の体を触り、挙句の果てに、女性から手をひねり上げられ駅員に突き出されなくてはならないのだろう。なぜ、学校の先生が生徒を相手に性交渉をしたというスキャンダルがこんなに次々に聞こえてくるのだろう。

 恋すること、人を好きになることは、人間として誇りに思ってよい素敵なことだ。子どもたちには、そう教えてやりたい。それを、大人の言葉や行動で、汚いもの、汚れたものにしてほしくない。それよりも、恋をしている若者には、相手の性を尊重する気持ちこそをぜひとも教えてやってほしい。

 男であれ女であれ、結婚するまでに幾人かの人と付き合ったからと言って、それは、あながち悪いことであるとばかりはいいきれまい。たとえ恋を成就させることができなかったとしても、それはそのたびに人間として大きな成長、人の心の襞を理解できるような大人になるための、かけがえのない糧になっているはずだ。

 若い時に、自分の心に嘘をつくことなく、人を愛し、人から愛される経験を積んでおいた方が、結婚後の、自分の決断に対する責任や、子育てということに自覚が深くなると思う。

 かつて、どこの文化にも、思春期の男女に対しては、それぞれ、「イニシエーション(入社式)」と呼ばれるものがあった。からだの変化とともに、大人の仲間入りをするための儀式だ。同性の少し年長の者たちが、仲間入りの儀式とともに、いろいろな性にまつわる知識を伝授する場だった。
 そこには、思春期という、何よりも本人にとって難しい時期に、親にはできない役割を代わり持つという意味があったのだと思う。多くの文化の伝統の中には、男尊女卑の慣習も多い。多くの場合、女性の自立や、女たちの人権は、軽視され、時として、男が大人になるための「道具」「商品」「所有物」とみなされることがあったのは、もちろん望ましいことではない。けれども、その点を留保してみれば、昔、若者たちが大人になる過程を見守るという、伝統的な社会の役割は、今、そういう伝統的な共同体の仕組みが崩れてしまった時代、誰も担っていない、放置された領域なのではないか、と不安になる。

 近代化の長い経過を経て、ようやく女たちの地位は男性と同じように認められるようになった。しかし、不本意な、または一方的な暴力を用いた交渉でからだとこころに癒しようのない傷を受けてしまうのが女性であることは今も変わらない。性を解放するためには、男性による女性の性への理解と、女性たちが自分で自分のからだとこころを守り、自分の意思で選択できる手段を持つことは不可欠の前提だ。同時に女性もまた、男性の性のしくみについて冷静に学び知っておくべきだ。

 
それでもなお残されているのは、若者たちが大人へと成長していく過程を、その心と体の変化の激しい時期にある若者たちを、誰が、どんな風に見守るか、という点だ。

 家庭が崩れている。地域社会と呼べるものも、そういう点ではなんの機能ももたない。むしろ、村八分の伝統の強い日本では、「品行方正」というタテマエの元に、男女交際をするような若い子らを、後ろ指で冷たく差してしまう、いやな文化がある。

 そう考えるとき、今、学力だけ、競争だけに熱心な日本の学校教育の惨禍が又もや心配になる。性教育の大切さを思わずにおれない。

 子どもたちにとって、若者たちにとって、性について男女の別なくオープンに語れるようになることは、とても大切なことなのだ。本人たちにとっても、また、社会の安定のためにも。伝統的な慣習もなく、かといって、原子のように個別にばらばらに生きている今の子供たち。歪んだ性の知識だけは、メールやインターネットを通して、大人の目に見えないところで、子供たちの心を侵食している。まだ、性の体験もない子供のうちから、歪んだ性意識が子供たちの心に植え付けられているのではないか、と心配だ。
 コミュニケーションや社会関係の取り方を学ぶのと同じように、異性のからだを知り、心理を知ることは、学習の大切な一環であると思う。語りにくい話題であるからこそ、オープンに語れる場を作るのは、学校という守られた場をおいて他にはない。それは、やがて、夫婦として家庭を築き、子供を育てていくための基盤になるから。次の世代の子供たちの心や体を健全に育てるためにも、今、目の前の若者たちの恋と真正面から向き合う必要があるのではないのか。

 わたしが知っている、ある日本人とオランダ人の間に生まれ日本で育った20代の女性がこう言っていた。
「日本社会はウソに塗りつぶされている。中学の頃から、同級生の中には、いくらでも男の子と性交渉をしている子がいた。堕胎する子もいたわ。でも、みんな親は知らない、といい子ぶって、、、。私はすごくイヤだったわ、そういう嘘をつく子たちが。それにね、クラスの子の誰に聞いても、ほとんどの親は、夜一緒に寝ていないんだって言うのよ、、、みんな家庭内離婚の子ばかり。それなのに、学校の生徒手帳には、男女交際は公明正大に、なんてね、、、。本当にいやでいやでたまらなかったわ。私ね、今オランダに暮らしていて本当に幸せなの。自分が自分のままでいられる、、こんなに幸せでいられるのよ、って証明してやりたいって、そればかり思ってきたわ。」

 息子は、今つきあっているガールフレンドと3年越しの付き合いが続いている。時には大げんかもあるようだが、それでも結局は何とか収まりながら、今のところ関係が続いている。勉強が忙しくない限りは、ほぼ1週間おきに、週末にお互いの実家を訪ねている。夏になれば、一緒にひと月以上ヒッチハイクで海外旅行に出かける。昨夏の、日本への一家そろっての里帰り旅行にも、一緒についてきた。わたしたちも、彼女を1人前の大人として待遇しているし、彼女も、私たちには、オープンに、大人として対応している。
 息子は、大学2年の時に、彼女とはじめてお互いの気持ちを確かめ合った直後、うちに帰ってきて、それは嬉しそうにそのことを私たちに告げてくれた。一緒に散歩に出かけると、道すがら、嬉しさをこらえきれないという風に、多弁で彼女のことを語り、にこにこと笑いが止まらない風だった。からだ全体で嬉しさを隠しきれないという様子だった。
 自分の子供が、こうして、生活の一部を分かち合えるパートナーを持つまでに成長するということが、親にとってもこんなに嬉しいことだったとは、それまで思ってもみなかった。

 オースティンの小説に出てくるような、感情を控えめにした、節度あるラブレターを書くような、少し紳士的な身の振り方のできるヒーローにあこがれている娘の方は、まだ、彼女のハートを射止める恋には出会っていない、、、いつの日か「好きで好きでたまらない」と思えるような誰かを、見つけてくれるといい、、
 

2009/01/21

同調と協働

 オバマ大統領の就任式の模様が、ここオランダでも生放送で伝えられた。選挙キャンペーンでは「イエス、ウィー キャン(Yes we can)」をキャッチフレーズに経済の低迷と混乱の中にあるアメリカの市民らに向けて、団結を鼓舞し支持を集めたオバマ。しかし、就任式の演説では、アメリカ政治が抱える問題の多さ、厳しさを意識してか、ずいぶん険しい表情だったのが印象的だった。それにしても就任式の様子を一目見ようと集まった人々の群れ、キャピトール・ヒル周辺があれほどの群衆で埋まったのは史上初のことだという、、、
 その人々に向けてのオバマの演説の趣旨は、キリスト教徒も、イスラム教徒も、ユダヤ教徒も、ヒンズー教徒も、無宗教者も、ともに協力してアメリカを立て直そう、そして、世界の国々と友好的な関係を取り戻そう、アメリカ合衆国はそういう平和と団結の象徴となるべきだ、というメッセージだった。
 集まっていた群衆の中に、黒人が多いのが目立っていた。そして、彼らの表情が希望に満ちていたのも印象的だった。
 一夜明けてニュースを聞く。オバマはさっそくキューバにあるテロリスト容疑者らの収容所グアンタナモ・ベイの収容所閉鎖に向けて動き出した。連帯と団結の政権にとって、象徴的な第1歩だ。アメリカ人たちの気持ちが、新しい時代に向けて希望でまとまっているうちに、実現できる施策は次々にやっていってほしい、と思う。

 指導者が人々の共同を鼓舞する時、集団の集め方、あるいは、人の集まり方に二つの型があると思う。そして、その二つは、中身と方向がまるで違う、、、

 ブッシュ政権時代、そして、タカ派の共和党が政権を取る時には、必ず敵を仮想して、アメリカ国家主義で人を鼓舞する。教育も受けられずまともな職にも就けない若い人々は、まるで牛馬のように兵士として軍隊にとられ、戦場に送り出されてきた。国内で産業を支える労働者として働いている人々が、工場の歯車として働かされ、企業が経営難となれば路上に放り出される。そこで利用されるのは、「自由の国」という美しい御旗を掲げた星条旗のアメリカへの愛国心だ。
 しかし、オバマがいま求めているものは、そういう顔のない群衆を十羽ひとからげにする「同調的な集団主義」ではない。そうではなくて、たとえ何百万の人であろうとも、一人一人が顔と心と頭を持ったユニークでかけがえのない存在として、お互いの能力を認め合ってかかわる「協働」だ。だから、彼は、Yes, I canとではなく、Yes, we canと人々に呼びかけた。黒人も、褐色の人々も、黄色人も、白人も、、、と。この信念を信じたい。そしてその信念が長く続くことを。

 ヨーロッパもまた、多元主義、多文化共存の、多様性に満ちた、それに支えられた社会を理想に、平和協調の政治・経済体制を求めている。そして、それは、2つの大戦が引き起こした悲惨残虐極まりない戦争がどれだけ破壊的で無駄なものかをいやというほど知らされた時に始まった。1951年にベネルクス3国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ)と独仏伊の参加でつくられた「石炭鉄鋼共同体」は、武器生産の原料を敵味方が共有することから始まった平和協調の道だったのだ。
 一見、民主主義、協調の道、多文化共生の話し合いによる共同は、時間もかかり効率が悪いように見える。しかし、わずか60年足らずの時間で、この「石炭鉄鋼共同体」に始まる連帯は、27カ国を含む「ヨーロッパ共同体」にまで膨らんできている。そして、それは、同じ趣旨で参加を希望する国々を包み込みながら、今後も世界に向けて平和の共同体として地盤を築いていくのだろうと思う。

 日本の指導者たちには、そういう世界状況を踏まえた日本の未来への展望があるのだろうか。政治家はもとより、彼らを頭脳で支えなくてはならない研究者たち、人々に未来への方向づけを率先して示さなくてはならないジャーナリストたちに、展望はあるのだろうか。

 日本がいま必要としているのは、人々の無批判で盲目な同調ではなく、自立した批判的な一人一人の成員を元につくられる協働の精神だと思う。愛国心の熱狂に群れていくことではなく、一人一人が、自分の能力を知り、他人の能力を尊重して、お互いが力を出し合って共同する連帯の精神だ。そして、日本という国自身が、そこにいる人々の持つ豊かな知的資源を基礎にして、他の国と共にお互いにとって利益になるウィン・ウィンの取引をしていく交渉力だ。1960年代から80年代にかけての日本は、アジアの中で「ひとり勝ち」していることに酔いしれていた。軍事力はもう使わなかったかもしれない、、しかし、多くの国の人々の貧困の上に富を築いてきたことは確かだ。

 今、ヨーロッパでもアメリカでも、競争と戦闘の時代を背景に、協働に向けたリーダーシップの時代が始まろうとしている。日本が、本当に、「西側」として認められた国になっていたのだったら、それを現実に証明していかなくてはならないのはまさに今、この時だ。日本もまた、過去に、清算しきれていない戦争という背景を持っている。水に流すのではなく語り続けることが、「戦争が悪い」と責任逃れをするのではなく「人間というものは苦しくなれば自分のことしか考えなくなる危険極まりないものだ」という普遍の事実に率直に目を開いていることが、どれだけ大切なことか、、、

 幸福感や自己肯定感の少ない子どもたち、増加する大人の自殺、定職につかない、つけない、つくための人間的な育ちを保障されてこなかった若者たち。現政権の政治家に展望はなく、かといって、野党にも確固とした世界観と未来の方向を示す力のないこの国、、、
 いったい、あの豊かな時代に、私たち日本人は何をしてきたというのだろう、、、

 「集団主義」はペシミズム(悲観)に鼓舞される。だが、「協働」はオプティミズム(楽観)がなくては生まれない。
 今の日本、ユーモアがなくてメランコリーばかりがはびこっている。メランコリーの原因は、不満や怒りをどこに向けたらよいのか、どこにも責任の所在が見えないからだと思う。責任は、政治家にも市民にも、両方にあると思う。世の中のすべての人がそれぞれの身の丈に合うように負わなければならない責任というものがある。
 オプティミズムは、こういう時にこそ必要なものなのだ。苦しい時、閉塞感の強い時にこそ、オプティミズムが求められる。そういう時にこそ、「何とかなるさ、大丈夫」と笑って見せる強さが要る。日本人のメランコリーは、今も、まだまだ飢えても路頭に迷ってもいない日本という大国の、甘えた子供じみた感傷でしかないと思う。

 「コップに半分しか水が残っていないのではなく、コップにはまだ半分も水が残っている」という言い方がある。日本はまだまだ経済大国だ。残っている資源には、財源だけではなく、日本人の勤勉さや真摯さ、明晰な頭脳を育てる力、温かい思いやりもあろう。その残った資源を使って、日本が再生できるかどうか、、、隣国や世界の国々の人たちと協働していけるかどうか、それが今試されているのだと思う。

 最近数年間の間に経済の急成長を遂げた中国やインドなどの国々は、いずれ、何年かの先、日本と同じような社会の軋みを体験すると思う。成長期とはいえ、貧富の格差、地位の格差がとても広がっているからだ。これらの国にも、近代社会の基本である、個人の人権はいまだに保障されていないのではないか、と思う。
 だからこそ、いま、日本が、経済成長の時代を過去のものとして、成熟した近代社会として、人々に平等に認められた人間の権利とは何なのか、人間の豊かさとは何なのかを問い続け、日本なりの近代化の道筋を見出していくことができれば、それは何年かの後、再び、新しい意味で、西洋以外の国々の人々にとって励みとなるモデルを示していく可能性にもつながっていると思う。



2009/01/09

愛国という非道

 新年早々イスラエルのガザ攻撃が激しい。人権の尊重を謳う国連などの対応が遅いのも気になる。
  
 「愛国心」とは、「国を愛する」とは、どうも、その国に住む「同胞」を愛することとは正反対のものらしい。

「そんなこと当たり前じゃあないか、何をいまさら」と言われそうなのが余計に気になる。人間につきものの、自分の生きる場を確保しようとすることからくる醜さを、「当たり前」の取るに足らない議論として受け流し片付けてしまえば、もう尊厳をもって生きる道はあきらめたも同じだ。その「当たり前」の醜さが、大きな、人類そのものを破壊するような事態に発展しないために、私たちは、いつも目を光らせていなくてはならないもののようだ。それが、「民主主義」の核心だと思う。

東欧諸国が凍え震える中、ガス栓をひねって閉めてしまったロシアという国の非道もいやらしい。

ヨーロッパにおいて18世紀末から19世紀にかけて起こった「ナショナリズム」は、そろそろ終焉を迎えつつある。世界でもまた、国境や民族を単位としてモノを考えることから、そろそろ脱皮していく時期なのではないのか。我々の住処である地球そのものが危機を迎えているというのに、、、

日本という「島国」にはいろいろな意味でハンディキャップが大きい。最も深刻なのは「島国根性」と重なった狭隘な「愛国心」だ。

政治の低迷と社会の混乱の中、日本の変革は、多くの人々のエネルギーを包み込む、相当に大きなものでなくては、望めないのではないか、と思う。

2009/01/08

ソリダリティ・団結と成熟社会

 8日、経団連の御手洗富士夫会長が、ワークシェアリングの可能性について、労使間の話し合いを進めたいとの意向を示したという。これに対して、同じ8日に、早くも、NHKのニュースでは、日本商工会議所の岡村会頭が、「ワークシェアリングには時間がかかる」と述べ、金融危機下の企業側の都合から、ほとんど後ろ向きともいえる見解を示していることが伝えられた。
 そもそも「ワークシェアリング」は究極の不況にあえいでいたオランダが、なんとか立ち上がるために生み出したものだ。企業も雇用者も、どちらも、閉塞感に満ち満ちていた。だからこそ、お互いの苦しみを分かち合って、対外的な競争力をつけるために、ワークシェアリングが起こったのだ。
 それはまた、人々の「生きがい」、人々の「幸福観」についての意識の大変換でもあった。生きがいは、「働くこと」だけでなくてよい。「幸福」は、たとえささやかでも、家族が共に過ごす時間が増えれば広がる。そして、自分なりに選びとって労働と生活のバランスを見出すことがその背景にあった。

 「ワークシェアリング」の理論は、だから、単に雇用形態、経営者の雇用スタイルと労働者の労働スタイルというような狭い技術論ではない。日本人が、これから、どういう価値観で生きていくか、という問題なのだ。

 そういう議論を積み上げていくには、もっともっと議論の時間をかけていくべきだと思う。
 経団連の会長がこう行ったから、商工会議所の会頭がこういったから、「企業の立場はこれしかない」という十羽ひとからげ、自分の頭を使わないで右へならえをするような議論は、もうやめた方がいい。そういう態度こそが、どれだけ、彼らの好きな「市場原理」を、健全に動かしていくための障害になっているかを考えてみた方がいい。

 企業家らは、労働者の、あるいは、労働を求めている若い世代、未来の日本社会の担い手の声をしっているはずではないか。持てる者の利益を守るためなどという小さな野心で右へ倣えをするのではなく、自分の会社の現場から変えていってほしい。そうして、そういう個別の現場の実践を、広く世論としての議論につないでいってほしい。日本企業の伝統的な良さは、元来、それぞれの会社の雇用者と被雇用者が、痛みを分かち合い理解し合うことであった。そういう、個別の、けれども、具体的な場所でのひとつひとつの「団結」が、社会全体の制度の在り方、日本に限らず、どんな人間の社会にも共通の「共生」という原理につながっていくのだと思う。そして、政治は、「公」としての立場を自覚して、偏向のない、仲介者としての、また、起業家と労働者とが、同じ、日本社会を支える住民として忌憚なく話し合える場をつくっていくように、ファシリテーターの役割を担うべきものだろう。メディアには、今こそ、そういう方向を明確に意識した、ニュースづくり、報道の仕方を工夫してほしい。

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 たとえば、社会の成熟度、市民意識の高さのようなものを、1本の物差しの上に並べてみるとすれば、それは、その社会の「団結」の固さとして目盛りをつけていくことができるのではないか、と思う。

 私はかつて、灌漑で飢え死にしそうな遊牧民に、外国からの援助金で灌漑用水路を造り、綿や砂糖などの換金作物を作らせて、それでも失敗、挙句の果てに、苗木や種などの資本を買うために「クレジット」として貸借させた金の返済を痩せ細る農民に迫るアフリカの一国の政治指導を見た。また、アンデスの山中では、金鉱山をほとんど私有化し、金の精錬のために、自国の人々が住む土地を水銀汚染して知らん顔をしている政治家も見てきた。

 けれども、最近の日本に見られる、労働者たちの過労死、うつ病、長時間労働、そして、将来に希望の見えない子どもや若者たちの、自殺、引きこもり、不登校、ニートやフリーターの増加などは、いったい何なのか。この国の指導者たちは、ほとんど、アフリカやアンデスの国々の、自分の利益しか考えないエリートたちと同じではないか。

 オランダで「ワークシェアリング」が実現できたのは、繰り返しの話し合い、この国は、一致団結しなければ、周囲の国々と対等な競争力を持って生存できない、という意識の共有があった。そういう話し合いのプロセスと、「自分たちの力で、自分たちなりの解決法を何とか生み出していくのだ」という気概の共有が、社会を成熟したものにしていった。

 先に行ったような、社会の成熟度を測る物差しがあるとすれば、企業家らが人々、特に若者や高齢の労働者など、弱者の痛みを「人間として」感じ取ることができない日本という国は、アフリカやアンデスにある、世界で最も貧しい国のように、物差しの最も尺度の低い位置にある。

 たちが悪いは、日本は、世界でも第2の経済大国であることだ。
 金があるのに、「幸福」を実現できない国。いったい、世界の誰が、本気で日本を相手にしてくれることだろう?

 「和」の国って、一体何のことだったのだろう?