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2010/08/25

若い人たちへ

あなたがまだ人生で何をしたらいいのかよくわからなくて悩んでいるのなら、世界を見に足を延ばしてほしい。世界には、あなたが想像もしたことのない人々の暮らしが、まだあちこちに残っているはずだから。

日本のように、スイッチを入れれば灯りがつき、蛇口をひねればきれいな飲料水が出、トイレには温かい便座と洗浄機がついていて、暑い日には冷房があり寒い日には暖房がある暮らしは、世界では当たり前ではないのだから。

そのかわり、世界の人々は、あなたに、きっと人間の力の限りなさを教えてくれるに違いない。
日本の暮らしが、世界の片隅の、ちっぽけな島国だけの物語であることに気づかせてもらえるに違いない。

だから、世界に足を延ばしてほしい。
テーマなど持っていなくていい。そんなものは、どうせぶち壊されるに違いないから。

でも、そういうあなたに、もうひとつお願いがある。
それは、あなたがたどり着いた国を理想化しないでほしい、ということだ。日本から逃げ出すために、家族や友人との生活に疲れたからと言って外国に行ってはいけない。
そして、できれば、一つの外国だけではなく、もう一つ、またもう一つと第3、第4の土地を訪れ、そこの人々の間に入って、暮らしのにおいをかぎ、人々の息遣いに触れてほしい。

あなたの知っている日本、あなたが新しく知った国、それぞれの国を離れるたびに、あなたの世界観は、立体的になって、それと同時に、自分自身の姿や力が見えてくるに違いないから。

日本を捨てるのではなくて、日本という島国の国境を意識しないでいられる世界人になってほしいのだ。

言葉なんて最初はできなくて構わない。言葉なんて、使わなければできないものだ。
でも、その土地に行ったら、ベストを尽くして、言葉を覚えるように努力してほしい。言葉は、それを使う人々にとって、歴史の遺産であり、宝物のように大切なものなのだから。そして、その国の言葉で書かれたものこそは、その社会のありとあらゆる情報の宝庫なのだ。

インターネットを開けば、どの国の事情もどの国の様子も見えてしまう今の時代。でも、臭いは嗅げない。人々が何を話し、何に喜び、何に悲しんでいるかは感じられない。その土地の温度はわからない。風の強さも分からない。

だから、そこに実際に身体を動かしていって、自分の五感で感じてほしい。

不幸感や閉塞感の強い日本から脱走するためではなく、日本に生まれたことが、自分にとってどんな意味を持っているのかを、眼を覆わずに自覚するために。

2010/08/20

なぜ変わらない日本の教育、、、取り返しのつかないこと

来月ユトレヒト大学で講演をすることになっている。市民性教育の専門家たちの企画で、「子育てとその文化的背景」というわけで、ヨーロッパ以外の国々での子育て事情を、その歴史的な背景に照らして問い直してみる、というシリーズ講演の一環だ。

孤独感が極端に大きい日本の子どもたち、それを裏書きするように、不登校の数、自殺率、ひきこもり、いじめ、そして、最近では、ひとりでいるところを食堂で見られたくないからとトイレで食事をする学生までいるというからあきれたものだ。

経済不況で、社会そのものに閉塞感がある、というのは、一つの大きな背景ではある。しかし、日本よりも厳しい経済状態にある国はまだまだ多い。それなのに、大人だけではなく、子どもたちにこんなにも閉塞感が強いのはなぜなのか。直接的には、学校や家庭など、子育て環境にさまざまの問題があることは明らかだ。

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それにしても、今回の講演、頭が痛い。
「そんなにひどいことになっているのに、なぜ制度が変わらないの?」
という問いに、答えを出せ、というようなものであるわけだから、、、、

普通に、民主制度が機能している国なら、こんな状態になるまで放っておくことはないはずだ。

早い話が、「民主社会が作れなかったのです、官僚支配の学校制度のおかげで」という話を、納得できるように伝えなくてはいけないわけなのだけれども、、、。

日本人ですら納得できない日本の教育の現状、どうやって、オランダ人たちに納得させることができるだろう、、、、と頭を悩ましている。

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元来、民主主義を基盤とした近代社会の教育とは、子どもたちを、「批判的にものを考え」「意欲的に参加する」市民として世の中に送り出すことを目的としているものだ。しかし、日本の学校教育は、できるだけ「批判」を避け、あまり元気に「参加」しない人間を作ることばかりに向けられてきた。

そんな日本の学校が、世界に出て、他国の若者たちと共に「議論できない」、他人から反対意見を言われると、しょんぼりして拒絶されたような気分になる人間ばかりを作ってきた。議論もせず、反対意見を言われたときに、自分の主張を曲げずに相手を説得しようという態度に出ることのできない日本人を、西洋の人たちは、理解できない。どう相手にしたらいいのかわからない。だから、いつか看過していくことになる、、、

中国では、この夏、こぞって英語その他の外国語コースが熱狂的に流行したのだそうだ。

日本にも、かつて、高度成長目覚ましい時代があった。あの時、やっておけばよかったこと、今となっては取り返しのつかないことがあまりにも多い。

2010/08/13

中立より多元主義  ~マスコミを考える~

 NHKの政治解説者の自殺をめぐって、ネット上では、相も変わらず、根拠のない「憶測」が飛び交っている。〈中立〉を旨とする公共放送団体で起きた事件が、こうした「憶測」によって、噂を広げ、世論に影響を及ぼし、都市伝説に変えられていくことが恐ろしい。そして、そうなることを承知で、無記名による、乱暴な、罵りが、警察の発表も、報道をも無視して、先取りして人々の耳に刷り込まれていく社会も不気味だ。

 マスコミのジャーナリストたちの「良心」「良識」を問う前に、無記名の言論に左右されない、情報を正しく取捨選択できることも確かに必要であるのかもしれない。そういう議論は、メディアリテラシーとして、結構よく聞かれる。

 だが、私自身は、マスコミや公共組織に求められる〈中立〉とは一体何なのか、ということを問うてみたい。

 そもそも、ある人や組織が、まったく政治的に〈中立〉であることが果たして可能であるのだろうか?

 マスコミの「偏向」を安易に批判する人たちは多い。しかし、この人たちは、「中立」などという立場で人や組織がものを言える、ということを本当に信じているのだろうか。批判しているその人たちが、批判されているマスコミを「偏向」と呼ぶ、そのことが、すでに、その人たちの立場の表明であり、「中立」とは程遠いのものなのではないのか。

 オランダの公共放送は、政治的にも、宗教(倫理)観おいても、それぞれ立場の異なるNPO団体が、それぞれの会員数の規模に従って、一定の時間枠を得て、その中で、自由に意見や立場を表明できる。

 どの番組一つをとっても、何らかの立場、何らかの「偏向」の中で報道が行われていることを、はじめから前提としている、と言い換えてもいい。

 肝心なのは、誰ひとりとして、排除されないことだ。マイノリティ集団であっても、公共のメディアを通して、声をあげ、その声を、他の人々に「聞かれる」権利が守られている。

 では〈中立〉とは何なのか。
 〈公共〉とは何なのか。

 それは、中立や公共という名の下で、一つの価値観を普遍化させることではない。
「中立」と「公共」は、法と制度の問題だ。誰もが、同じように声を挙げ、誰もが人間として同じ価値を認められて意見を聞かれること、それを保障するのが、中立的な『公』の立場にある、「公」務員と「公共組織」
がやるべきことだ。何度も繰り返すようだが、〈中立〉な意見、〈公共〉の立場、など、あり得ないものなのだ。「公」は、国民すべてのために「平等」を守ることに徹すればそれでよい。法によって示された、人としての権利を、すべての人に「平等」に守ること、そのために機能していれば、それ以上のことをしてくれなくてよい。してはいけない。

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 社民主義のヨーロッパといえども、イタリアでは、ベルロスコーニがマスメディアを掌握しているといわれた。マフィアとのつながりも取りざたされた。そんな中で、この数年、命を賭してマフィア批判の映画を作る動き、シシリア等の商店街がマフィアボイコット運動を起こす動きなどがしばしばイタリアから聞こえてくる。国外には、そういうイタリア市民の動きを報道するメディアがある。ヨーロッパ連合は、マフィアを初め、暴力団体の社会からの一掃を目標に掲げている。

 日本のマスメディアの零落ぶりは目に余る。経済不況が拍車をかけ、儲けのないもの、金銭的に損になるものには手を出さなくなってしまったようにも映る。それどころか、カネになるなら、ジャーナリズムの使命などどうでもよいのか、と思えるような報道すらある。日本のマスメディアに、常に脅しをかけてきたのも暴力団体だ。

 そんな日本の新聞やテレビは、もはや、世界各地でどんな災害が起こりどれだけの人命が失われているのかということや、IMFやOECDが次々に発表している、世界各国の経済状況などのニュースは、とんと伝える気がなくなっているようだ。来る日も来る日もニュースのテーマに上がってくるのは、殺人・自殺・暴行事件ばかり。一億人を恐怖に駆り立て、一億人を悲観に追い立てる報道に、いったい何の意味があるのだろう。

 オランダならば、こどもニュースで小学生でも知っている世界の災害と被災地の様子、中学生が加わって議論する経済政策の話し、死刑や刑罰をめぐる議論。日本の若者たちは、言葉ができないから議論に加われないのではない。知っておくべき情報を知らされていないから、議論の基盤がないのだ。

 それだというのに、暢気に構えた知識人らは、「いや、ネットがあるから大丈夫」とでも言わんばかりだ。そのネット上で、無記名で人を罵倒したり、独善的な言質をばらまいたり、既存メディアには報道できないだろう、とばかり、根拠のない情報を垂れ流していても、だ。

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 問題は、何が「中立」か、ではない。
 問題は、誰でも、一人ひとり、平等に声を聞かれる公共メディアがあるかどうか、なのだ。

 私たちが、求めるべきは、ありもしない〈中立〉ではなく、マジョリティもマイノリティも、同じ土俵で語り合える「多元主義」の社会だ。マジョリティにもマイノリティにも、何が重要で何が社会で議論されるべきかについては、優先順位があるはずだ。それぞれの価値観が認められていてこそ、民主主義は健全に機能していく。

 日本という国が、本当に新しい「公共」を確立させたいのなら、まず取り組むべきは、マスメディアの、公共資金源を確保し、メディア関係者の法外な給与慣行をやめ、暴力団による圧力から守って、マイノリティにも、マジョリティと同様に平等に開かれた機会を与えることだ。