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2009/10/27

10%の公共への関与、10%の生きる愉しみ、80%の生きるための営み、

 ライフ・ワークバランスという言葉が聞かれるようになって久しい。だが、日々の生活を99%ワークに取られる大半の男たち、そして、少数の女たちには、こういう言葉そのものが空々しく聞こえるだけだろう。
 そして、少しなりと余裕がある人には、あたかも[ライフ・ワークバランス]という言葉が、贅沢なステイタスシンボルのように響くのが、今の日本社会の関の山の姿なのかもしれない。

 ライフ・ワークバランスといえば、意外に忘れられているのは、公共性に対する関与ということだ。

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 ある人がこう言った。
 「うちの大学ではね、学生の成績が悪いと、基準を決めて落とすどころか、もう成人式を迎えた学生の親を呼び出して、親子面談して、『さあ、どういたしましょうか、どうすればいいでしょうか』と、甘やかすのよ。彼らだってそれがだめなことはわかっているはずなのだから、もっと厳しい態度でやればいいのだけど、結局は大学も営利企業だから、、、、。でもね、正しいことが何なのかわかっている人から正していかなかったら世の中はもう取り返しのつかないことになるでしょう。誰かが手をつけ、自分の信念で生きなくてはならないのに、みんなほうかむりをしてしまう」
と。

 日本の無責任社会は、実に、こうやって作られてきた。
 そして、みんな口をそろえて「社会が悪い」という。
 でも、「社会」は生き物だ。そして、社会を生かせているのは人間ひとりひとりだ。私たち、一人一人が、その「社会」の一部をなして生きている。
「社会」は、自分とは離れた、何か抽象的なもの、責任転嫁の所在などではない。

 毎日毎日、生きることに精いっぱい。確かにその通りかもしれない。でも、一人一人が、自分の生活のせめて1割だけでも、公共の福祉のために、何かを考えたり、何かの活動に加われるようになったらどうだろう。8割の時間は、収入を得、子どもを育て、家事をし、親の面倒をみる生活をして当然だろう。でも、残りの2割のうち、1割は、思う存分、『生きる』ということを楽しみ、そして、もう一つの1割の時間、他の人とつながる生き方ができたなら、、、、。人は、他の人につながっていて、他の人のためになると自覚できて喜びを感じるものだ。

 すべての人が、せめて1割の時間、公共の福祉にかかわれるようにできたら、、、。この社会はもっと生きやすくなるに違いない。だれもが、正義を正義として実行できる世の中になるに違いない。

福祉と篤志

 最近は、インターネットや衛星放送のおかげで、世界のどこにいても、世界中のテレビ番組を見ることができるようになった。オランダでも結構人気で、だけれどもオランダで見ていると、どうも腑に落ちない、じっと見ていると段々に腹が立ってくるアメリカの番組にこんなものがある。

 家族に大黒柱の病気や子どもの不治の病などの不幸が起きたり、自然災害を受けたり、はたまた、なけなしの金で地域おこしの運動をしたり、弱者のための奉仕活動をしたりしている人が、テレビ局に手紙を書く。テレビ局は、建築家やインテリアデザイナーのチームを作っていて、その「困った人」「苦しんでいる人」が書いてきたたくさんの手紙の中から1週間に一つずつ選出し、チームでやってきて、家を一切合切無料で建て直す。建て替えは、大量の労働者をつぎ込んで、短期で仕上げ、その間、古い家を、家財を出して始末し、新しい家を作って一切合切中身の家具その他を設置するまで、家族は、迎えに来た大型の豪華なリムジンに乗って、リゾート地やテーマパークなどで休暇を満喫する。帰ってきてみると、まるで、腰が抜けそうなほど贅沢なドリームハウスが出来上がって待っている、そのために力を尽くした大工隊一堂、そして、近所の人たちみんなが完成とともに、その家族の帰還を歓迎する、という仕組みだ。

 初めのうちは、家づくりの面白さ、インテリアの趣向の楽しさ、家具の入れ方の工夫などが単に面白くて時々視聴していたが、段々に腹が立ってきた。家が再建される間、建材会社の名前、家具小売店の名前、などなどが何回も画面に映し出され、明らかにスポンサーの広告番組である点は言うまでもない。しかし、民放というものが、もともとそういうカネで娯楽番組を作っているというのは当たり前の話で、それに文句を言うつもりもない。

 むしろ腹が立つのは、これほどのカネを欠け、しかも、広告に使っていながら、それを受け取った「困った人」「苦しんでいた人」が、感激のあまり涙を流し、言葉にならない言葉で『ありがとう』を連発する、その画面を映し出すというさもしさに腹が立つ。

 それは、こういう困っている人たちと、その困っている人たちに「篤志」を持って救済を与える人たちという二つの異なる階層の人々の関係を「固定」させる。

 なぜ、こんなに多くの金があるのなら、その金を少しずつ、もっと多くの困っている人に分け与えようとしないのか。
 それでは、大企業の広告にならない、それでは、大企業の「善意」が見えなくなるからだ。

 かつてハリケーンカトリーナが来て大被害を及ぼした時もそうだった。
 俳優や建築家などの有名人がやってきて、随意に選んだ被害者のために、大金をはたいて救済のための篤志を誇示して見せる。救済を受けた被害者は、感謝のあまり、『一生この恩は忘れない』と涙を流して感動する。

 いったい、そこに、どんな尊厳が残されているのだろう。
 この困っている人は、なぜ、困っているのか。篤志家にはなぜカネがあったのか。
 人は、皆、平等ではなかったのか。たまたま、資産のある家に生まれたもの、たまたま資産を作る機会に恵まれたものが、たまたま困難な環境に生まれたもの、たまたま災害や不幸に見舞われたものに、一時の救済をしたことが、なぜ、そんなに、『感謝』され、『涙を流して』ほめたたえられなくてはならないのだろう。

 そんな関係の中に陥りたくない。自分が自分自身ではいられなくなりそうだから、、、

 そう考えると、経済格差を生まない仕組み、困った時は助けられ、人が困っていたら助ける、時には助ける側に、時には助けられる側になるという「福祉」というものの価値が、どんなに大きいものであるのか、が分かる。

 福祉とは、人が面と向かって立ち会い、「あなた泣く人」「私、肩を貸す人」という関係にならずに済むためのものだ。

 かつて、福祉制度が整備されていったころ、オランダでは、ヤン・ティンベルヘンという経済学者がこんなことを言ったという。
 一企業の中で、給与格差が1対5以上になるのは望ましいことではない、と。

 ティンベルヘン教授は、オランダの60年代以降の社会変革のグールーともみなされるほどのバックボーンを与えた人だ。彼は、1929年の経済恐慌以後社会主義者として活躍し、戦後のオランダの社会民主主義に甚大な影響を与えた。そして、のちにノーベル賞を受賞した。