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2008/10/30

文化的鎖国

オランダ人の夫と知り合ったばかりの頃、お互いの考えの擦れ違いを感じるたびに、私はよく「日本っていうのはね」「日本人っていうのはね」と、よくわかりもしないくせに、中根千枝の「タテ社会の構造」だの土居健郎の「甘えの構造」だの丸山真男の「日本の思想」だのを頭に思い浮かべながら、日本社会論や日本人論を並べて見せたものだった。
それは、そういう私に、ほどなく夫がこういうコメントをくれるまでつづいた。

「日本人っていうのは、どうして、そういう日本論だの日本人論が好きなんだい?オランダでは、だれも、オランダ人論やオランダ論なんてやらないよ」

目から鱗とはこのことだった。

日本人論、日本論に血眼になっている自分たち自身が、どれだけ自意識過剰になって、日本にこだわっているか、ということを、その時つくづく思い知った気がした。そして、以後、そういう類の本を読む気がしなくなった。自分の行動の言い訳をするのに、「日本人論」や「日本論」を持ち出してくるばかばかしさがよくわかった。自分は、日本人である前に、自分そのものではないか、という押しの強さこそが、オランダ人の夫に教えてもらったオランダの文化に発する考え方だった。

だから、「国家の品格」も「美しい日本」も、もういい加減でそういうレベルの話はやめようよ、といいたい。それが正直な気持ちだ。

気になることがある。かなり深刻に気になっている。

日本では、なぜか、世界中で、そしてそのためオランダでも翻訳されて売れているベストセラーが売れていない、知られてもいないことがよくあるのだ。

最近目立っていたのは、Carlos Ruiz Zafonが書いたThe Shadow of the WindとKhaled Hosseiniが書いたThe Kite Runnerだ。どちらもフィクションだが、それぞれ、スペインの独裁政権時代のバルセロナ、ソ連軍が侵攻してきた頃のアフガニスタンを舞台にしており、読者を食い入るように読ませる力のある文芸だ。人により好みはあろうが、私は、両方とも大いに楽しんで読んだし、世界中でベストセラー、ロングセラーになっただけのことはあると十分に納得できる。

前者は、この3,4年平積みになったままずっと売れ続けているし、後者は、映画化されたうえ、主人公になって登場したアフガニスタンの少年二人が、映画出演を理由に政治的な脅威にさらされ国外に移住を余儀なくされたことでも話題になった。話題の本だけあって、映画のほうも、大変注目されていたし、実際、それなりに、かなりよくできた映画だったと思う。

不思議なのは、なぜ、こんなにも世界で注目されている本が、日本では翻訳されないのか、ということだ。

ヨーロッパでは知らぬ人はいないというくらいよく知られたコミックシリーズに、「アステリックスとオべリックス」というのがある。下敷きは、ヨーロッパのエリートたちが、ラテン語を習う時に必ず読むガリア戦記だ。ガリア戦記のエピソードを、面白おかしく脚色しているので、もともとの古典を知っている大人なら、その面白さが言葉の端々に見られて楽しめる、ちょっとインテリ向けのコミックだ。パリ郊外にはテーマパークがあり、これも、何度か映画化されている。

なぜこんなに有名なコミックが、日本では知られていないのだろう、と少し探してみたら、20年くらい前に、シリーズのうちの1,2冊が試みに翻訳され出版された形跡があった。だが、どうやらあまり売れなかったらしい。

ヨーロッパ人の生活感覚と日本人のそれが違うからかもしれない。しかし、こんなことをいつまでも続けていれば、いつまでたっても両者の生活感覚、世界観は歩み寄ることはないだろうと思う。バックグラウンドが違うから、関心が違う、関心が違うから、訳したところで売れそうもない。出版社の立場から言えば、いくらベストセラーでも、売れそうにないものにカネはかけられない、という事情もあるのかもしれない。

そうなれば、日本人が孤立しないための、もはや唯一の方法は、日本語文化を抜け出すことしかない、と思う。歯がゆくとも悔しくとも、英語を第二言語にするくらいの覚悟がなければ、世界の人々が今何に注目し、何を話題にしているのかに日本人がついていくことは不可能だ。世界感覚でグローバルにモノを考えていきたいのならば、出版社が翻訳書を出してくれるまで指をくわえて待っているひまはないと思う。

黒子の時代

ホクロの話ではない。クロコのことだ。

金融危機で揺れる世界。アメリカのウォール街で起こった今回の金融危機は、その後、アメリカでは、2党対立という形で完全に分極化した大統領選に絡んで、政治論争のレベルにもつれこみ対策が手間取ったのに比べて、ヨーロッパの対応は比較的迅速に進んだ。
むろん、ヨーロッパでも、当初は、各国の首相や大統領、各国の中央銀行の総裁たちの間の駆け引き、隣国の金融機関に対する不利な発言など、少なからぬ摩擦と緊張はあった。しかし、そこは、ヨーロッパ。これまでのヨーロッパ統合にまつわる様々の課題に解決策を求める議論でも、こういうことは始終経験してきたことだ。そして、なんとか、ヨーロッパの立場を絞り出してきた。まずは、国家としての利害をお互いに出し合い、それから、痛みを感じつつもそれらをすり合わせ、どこかに妥協点を見つけていく、というやり方は、すでに、ヨーロッパ連合の政治文化になっている。そういう、面倒だが、とにかく前向きに統合を進めるというやり方が、わずか半世紀の間に、紛争で多数の犠牲者を出したヨーロッパから、27カ国にも及ぶ多数の国が同じ規則のもとで、同じ議会で話し合い、解放された経済市場で取引をする関係になった。

多文化共生、多頭の共存は、ヨーロッパでは、いまや否定しがたい一つの文化だ。だからこそ、ヨーロッパ統合の実験は、未来の世界のあり方を考えるにあたって、競争市場型のアメリカよりもはるかに参考になる。

多文化共生という意味では、ヨーロッパよりも、アジアのほうがはるかにその多様性は大きい。これから、中国・インド・日本など、文化も政治体制も社会意識も、互いに非常に異なる国々が、アジアのブロックを形成していくうえで、ヨーロッパのモデルは大いに参考になるし、もしも成功裏に進めることができるならば、それは、ヨーロッパにおける統合よりも、もっと挑戦的で、成功すれば素晴らしい政治的実験になるのではないか、と思う。

ただし、アジアが内在的に持っていないのは、権威主義からの逸脱という意味での啓蒙の伝統だ。アジアでは、どの国も、いろいろな形で、伝統的で権威主義的な、ヨコの関係よりもタテの関係を重視するピラミッド型の社会をもっている。多文化共生の推進のためには、まず、それぞれの国で、権威的なタテ社会を打ち破り、すべての人間の平等や表現・良心の自由への確信を持つことが必要だ。そうでなくては、横並びの、多文化共生、多頭の共存という図式につながっていかない。仏教やヒンズー教など、唯一神ではない、多神教や汎神論的なアニミズム信仰が持っている寛容が、もしかすると、アジア的な多文化共生に道を開いていくのかもしれない、、、

それはともかく、、、
金融危機の議論沸騰が少し一段落した感のあった先週末、オランダの新聞紙上では、ヨーロッパを舞台に活躍する著名な政治リーダーや経済界のリーダーを招いて行われた討論会の様子がそのまま掲載されていた。

タブロイド版の新聞にぎっしり2ページ余りに及ぶ討論会だったが、その中である時、司会が「ところで、これからヨーロッパにおいて求められるリーダーの資質とは一体何なのでしょう?」と問いかけたのに対し、ある政治リーダーが「スクリーンの後ろで動ける人」と答え、これを受けて経済界のリーダーが「人と人を結びつける力を持つリーダー」というようなことを付け加えていたのがなにより印象に残った。

グロバリゼーションの時代は、カネカネカネの時代、欲望と権力の時代だった。アメリカ社会に代表される、立身出世型、一生懸命働いて、他人を押しのけてのしあがる能力のあるもの、そういう人がスターダムにのし上がり、カリスマとして大衆に影響を与える時代は、グロバリゼーションの終焉とともに次第に時代遅れになり姿を消していくのではないか、と思う。

これからの時代は「協働」の時代だ。自分の利点と相手の利点を出し合い補い合って、ソロプレーではできないことを、複数の人間の能力を提供し合って生み出していく時代であると思う。共同は、異文化間において、何よりも求められるだろう。

問題は、だからこそ、こちらの何者かとあちらの何者かを結びつける才能をもった黒子たちの暗躍なのだと思う。暗躍といえば聞こえが悪い、、、むしろ、名声を得なくても、スターダムにのし上がらなくとも、必要な人材とそれらの人材の持っている力を後ろから観察し、必要な形で結びつけていく才能を持った人こそが、今後どれだけ重要な役割を負うか、ということだ。

私が親しくしているオランダ人の教育専門家は、「良い教師は、できるだけ舞台の上に上がらない、人の表に立たない舞台演劇のディレクターのようなものだ」と言った。子どもの一人ひとりの能力を引き出し、お互いが学び合え、尊重し合えるようにし、それを通じて、複数の人の力によって何かを生み出す経験を子供たちにさせること、そのためには、教師自身が、権威ある存在として、子供たちを差し置いて前にしゃしゃり出ていくべきではない、といっているだ。

人と人とを結合させる力をもった影のリーダーということと、一脈通じるところが大いにあると思う。

実際、全体の動きが一番見えていて、人を掌の上で動かせるのは、だれからも振り返られることなく、それだけに、感情に振り回されずに、冷静に、かつ、理性的に物事を判断する時間と場を与えられた、スクリーンの後ろにいる黒子たちではないかと思う。

カリスマの時代は、カリスマ自身も、また、それを熱狂的に支えるひとびとの心にも、理性よりも感情が先立っていた。そういう社会は不気味で危険だ。

そして、これからの黒子には、異文化摩擦を超える力が何より必要であると思う。

願わくば、日本のマスメディアも、大衆と一緒になって目立ちたがりのカリスマだけに注目するのではなく、目立たぬところで賢い動きをしているたくさんの優れた黒子たちの動きをこそ見つめていてほしい。

2008/10/23

遊ぶ

「なに、そんなに深刻にならずに、遊んで来ればいいんですよ」

マレーシアへの留学が決まり、いよいよ数ヵ月後に出発という時、急に不安になった。まじめに勉強してきたわけでもないのに、留学なんておこがましい、、などと、それまで、何年間もチャンスを狙ってきて、やっと念願かなった留学が、自分には身分不相応なものに思えてきたのだ。今どきの若い人たちなら、留学など珍しいことでもなく、きっと笑うに違いない。

「やっぱり奨学金は辞退しようかと思います」などと、自分自身では殊勝なつもりで、指導教官のところに話に行ったのは、今思い返すとずいぶん甘えていたな、と思う。

口数の少ないその先生が、その時、やさしく目を細めてフフンと笑いながら、たった一言、私に言われたのが冒頭の言葉だった。それですっかり肩の荷が下りた。

それから2年間にわたる留学の間、留学の研究テーマなどには一切かかわらず、せっせせっせと見たこと聞いたこと感じたことを文章に綴り、この先生に書き送り続けた。この先生が実際に目に見えないことを、私が、どれだけ文章の力で伝えられるか、そういう挑戦を自分自身に課していた様に思う。本当に、自分は、上手に遊べているだろうか、と試しているような気分でもあった。

遊ぶ、とはいろいろに解せる言葉だなと思う。

フィールド調査では、自分がその場の人と同じ所に立って一緒に遊ぶくらいの気持ちがあると相手も心を開いてくれる。「見てやろう、調べてやろう」などと構えていると相手の心は開かない。

遊び心があれば、自分自身を客観視することもできるようになる。物事に対して、相対的に眺めよう、という気持ちになれる。

遊びの気分でいると、人生が少し楽になるような気もする。他の人との仕事がしやすくなる。「どうせ遊びじゃあないか」という気分が、相手にも自分にも過剰な期待を産まないから、やさしくなれるのかもしれない。

ところが、時々、心に余裕がなくなり、この気分を忘れてしまう。そして、きりきりがりがりと自分の殻の中に閉じこもり、自分自身が周りのだれよりも小さく貧しいものに見えてしまったり、また、逆に、周りの人すべてがどうしようもなくひどい存在に見えたりする。一人で落ち込んだり、他人に厳しくなってしまったりする。

遊ぶ、というのは、たぶん、前向きに、そして、他の人をそれなりに受け入れて生きていくために、なくてはならない心のゆとりなのだろう。 ゆとりを持つということは、何と難しいことだろう、とも思う。


この一言を私に下さった先生は、わたしが留学から帰ってきていきなり「オランダ人と結婚します」といった時も、泰然そのもの、これまた、フフンと笑って「そうですか」の一言だった。日本で挙げた結婚式に出席してもらったが、式後、大学関係者だけで二次会があったと後で聞いた。その場で先生は「彼女は、きっと何か大きなことをしますよ、いつか必ず」と言われた、とその場にいたある人が後になって教えてくれた。ドキッとし、ずしんと重い課題を課された気がした。

それから二五年の歳月が流れた。
仕事には就かず、夫について、アフリカ、ラテンアメリカの地を転々とし、ただただ普通に出産、育児、掃除、洗濯、炊事の日々を送った。
「何かやらねば、何かやらねば」という気持ちだけが先に立って、何もできない、先の見えない日々が続いた。

やっとオランダを拠点にヨーロッパで生活を始めることができるようになり、子どもたちも大学生となって手を離れてきて、ようやく、何か自分にしかできないことがあるのではないか、と少しずつ見えてきたような気がする。

目の前のことで精いっぱいだった間も、「いつの日かきっと」と思い続けることができたのは、この先生の「遊んでいればいいんですよ」の一言があったからではないか、と思う。そして、人づてに「いつか必ず、、、」といわれた先生の言葉は、宿題とも励ましとも聞こえながら、今も、心に鳴り響き続けている。

2008/10/22

移民の底力

 オランダにいると「移民」(Alloctoon)という言葉をよく耳にする。それほど、移民同化の問題が、この国では論争の的になっているということだ。
 
 ところで、うちの家族で、夫だけは、れっきとしたオランダ人だが、娘と息子、そして、私は、「移民」なのか「外国人」なのか、という話がある。オランダが正規の統計を取る際に「移民」と定義しているのは、「本人か、親のうちの少なくとも一方がオランダ以外の国で生まれたもの」となっている。だから、日本人の母親を持っているうちの息子や娘も「移民」ということになる。オランダ王室の一族も、現ベアトリクス女王、前ユリアナ女王も、ともに夫君はドイツ生まれだったし、次期国王の予定のアレキサンダー皇太子も奥さんはアルゼンチン人、したがって、王室はほぼ全員「移民」だ。

 ただ、「移民」という以上、そこに根を張って暮らしているということが前提になる。

 私は、「移民」なのだろうか、それとも単なる「外国人」なのだろうか。

 長い海外生活で、いろいろなたくましい移民に出会ってきた。

 留学していたマレーシアで下宿したのは、元は、スリランカから来たヒンズー系タミール人の移民の一家だった。ご主人は、父親とともに来住した第1世代、奥さんのほうは、両親が移住してきた第2世代だった。私が下宿をしていた当時は、ちょうど二人の息子をイギリスに留学させていたころで、インド産の食材を中心とした雑貨店を営み、それに加えて、私ともう一人のインド人女性を下宿させ、その収入で、自分たちの生活と子供二人の学費を賄っていた。

 そのころのカンダヤ夫婦の生活といえば、贅沢をしない質実剛健そのもので、毎日決まった時間にキチンと磨き上げられた家の中には、埃一つなく、毎週火曜日には、家の中のすべての衣類・シーツを集め、白物は、すべて、裏庭にしつらえた焚火の上の大釜で煮沸消毒されていた。毎日の食事は、香料を石臼ですりつぶすところから、すべて一切の食料を原料から自分で料理して作っていた。

 雑貨店は、昼間は、御主人と丁稚奉公のラジャという男の子が店番をし、夕方になると、家事を終えてシャワーを浴び、さっぱりと洗いあげたサリーに身を包んだカンダヤ夫人が、店番を交代しに出かけていた。店に出る前には、必ず、家じゅうをお線香の煙で炊き締め、門口に座ってヒンズー教の讃美歌を歌うのが習慣だった。 ラジャのためには、給料のほかに、将来独立したときのためにと少額の貯金を続けていた。ラジャの家族に問題があれば、一緒に解決策を考えてやる。アルコール中毒の母親から守るために、弟を引き取っていたこともあった。

 毎日判で押したような生活で、娯楽といえば、水曜日の夜にある、延々3時間以上も続くインド映画をテレビで見ることくらい、贅沢とはいっさい縁のない暮らしだった。

 そのカンダヤ夫妻も、数年前にご主人が亡くなった。二人の息子は、オーストラリアに移住していき、そこでそれぞれ一家を構えた。マレー人が何事にも優先されるマレーシアでは、二人の将来はなかった。
 2年前、オランダに住む妹を訪ねてきたと言って、25年ぶりに私に会いに来てくれた。70を過ぎたカンダヤ夫人が、さっぱりとジーンズとTシャツ、野球帽をかぶって颯爽と門口に現れたのには驚いた。これが、あの頃、サリーを風になびかせてエレガントに歩いていた彼女か、と目を疑った。
 だが、心の中は今も同じ。夫が亡くなり、子どもたちがオーストラリアに移住していった後、大学病院で、ホスピスの患者を訪ねるボランティアをしている。図書館から本を借りて、ホスピスの患者のところに言って読んでやっているともいう。毎年一度はインドに行き、1か月を孤児院のボランティアで過ごす。孤児院への寄付を集めるために、マレーシアに帰ると、昔馴染みの中国人の知り合いに声をかけて、いろいろな人から募金を集めてくるという。
「直子、いいお母さんになったわね。うーん、このカレーなかなかいけるわよ。」とほめてくれる。
ふっとリビングルームを見渡しているカンダヤ夫人を見て、「どこにも埃を残してなかったかな」と背筋がひんやりしてしまう。
「直子、一度帰っておいでよマレーシアに。ラジャも待っているわよ。直子がいた時とはすっかり様がわりしたんだから、、、早く来ないと私死んじゃうよ」と優しい。

 カンダヤ家のような移民家族はマレーシアには多い。親が贅沢を惜しんで、子どもの教育にカネをかけ、しかも、子どもたちを、厳しくしつけて育てる。とにもかくにも、どこに行っても恥ずかしくないだけの学歴を身に付けさせ、世界のどこにでも行って生きる場を見出してくれるならどこにいてもかまわない、と親元にとどまることなど期待もしていない。
 現に、カンダヤ夫人の姉妹やその子供たちは、そのころから、スウェーデン、オランダ、カナダ、オーストラリアなど世界中の国々に散って暮らしていた。私が、日本から来たことなど、彼女たちにとっては珍しいことでも何でもなかったし、生まれた時から、タミール語と英語と、仕方なくなく公用語のマレー語を使ってトリリンガルで生活することも、当たり前のことだった。
 「ウィル・パワー」がカンダヤ夫人の口癖だった。

 
 10数年前に買い取ったフランスの片田舎、過疎地にある農村の家は、私たちの留守中、その近くのジャム工場で夜警として働いているポルトガル人が時々様子を見てくれている。同じ村に、彼が自分で建てた家があり、時々、その村まで来てくれるからだ。
 ジョゼは、15歳の時に、独裁政権下にあったポルトガルから、両親とともにフランスに移住してきた。そのころすでに石工として修業をしており、結婚するまでは、その仕事していたようだ。フランスやスペイン、ポルトガルなど、南欧の国の家は、昔は、その土地の石を切り出し、それを積み上げて家を作った。だから、家づくりには、昔から石工と大工と屋根師がかかわる。

 結婚してから、ジョゼは、フランス一大きなジャム工場の夜警となった。工場のすぐそばの社宅に入り、夜は、講堂ほどもある大きさの冷蔵庫などが何基も立ち並ぶ工場の夜警をした。奥さんもポルトガルの移民だ。小柄な体で三人の子を産み育て、それから、近所の大型スーパーマーケットの店長の家で家政婦として働いた。
 ジョゼは、夜警を本業にしながら、昼間は半分の時間を休息に使い、残りの時間を使って、およそ20年の間に、3軒の家を建てた。1軒目の家が、私たちの家と同じ村にあったのだ。
 石工の経験を使って、自分で設計図を引き、ブロックを積み上げ、屋根を据えて、内装を整える。
 どの家も、働いてお金を貯めては材料を買い、少しずつ立てていく、という方式だから、数年はかかっている。3軒目の家は、さすがに、年を取って、しかもビール樽のようにお腹が出ていていたから体を動かすのが億劫になったか、細かい仕事は業者を入れてやらせていた。その分、資金も必要で、時間も余計にかかった。

 最後の家は自分たちのために建てたもので、数年かかって完成したら、社宅を引き払って移ってきた。自動車修理場の裏地という、あまり人が買いたがらない土地を安く買い取り、川辺の立地を利用して、井戸を掘り、地下水を汲み上げてフロアヒーティングにした。地下水は暖かいので光熱費が安くて済む。くみ上げた地下水は、大きな庭の半分を菜園にし、トマト、キウリ、インゲン豆、ブロッコリ、玉ねぎなどの作物の自給のために使う。畑にしみ込んだ水がまた地下水となってリサイクリングされる、という仕組みだ。庭に放し飼いの鶏から新鮮な卵もとれる。

 車が2台ゆうに入る大きなガレージに、長テーブルを据えて、ある夏の日、私たち一家をバーベキューパーティに招いてくれた。大きくなった娘たちが、母親を支えて食卓を準備し、ホストのジョゼは、ワインで気分が乗ってくると、まるで、イタリアのオペラ歌手かのように、満顔に笑みをたたえて、ご自慢の声で一曲披露してくれた。学歴があるわけでも、恵まれた家庭環境に生まれたわけでもない。たった一本の腕ひとつで、そして、働き者の奥さんにささえられて、すべての財を自力で作り上げてきた人だ。

 とにもかくにも、3軒の家を建て、今は、2軒を借家にして収入源にしているが、いずれは、3人の子供のそれぞれに譲るつもりなのだろう。

 カンダヤ夫妻やジョゼ一家のことを思うと、自分など「移民」などと呼ぶのはおこがましいな、と恥ずかしくなる。

 「移民」と呼ばれる人たちは、生まれた国からみると、時に「棄民」と呼ばれるほどの事態から押し出されてきた人たちであることが多い。自分の生まれた国の、指導者たちが、自分が生きられる場を取り去ってしまっていることさえある。カンダヤ氏などは、5歳で母親から引き離されてマレーシアにきた。家族と別れ別れになってでも、生きられる場所に行けたことが幸福だと思わずにはおれないというような境遇の人たちなのだ。この人たちにとって、外国に出ることは、「選択」ではなく、それしかないオプションだったのだ。異文化交流なんて悠長なことを言っている人たちではない。同化は賢い選択、同化できなければ、不幸覚悟の事態だ。

 私などには、当然、疑ったこともない「帰る場所」がこの人たちにはない。この人たちの底力は、私などには想像の域を超えている。

 やっぱり私は単なる「外国人」、外から眺めて言いたいことを言っているだけの甘えた「外国人」だなと思う。でも、時々、異国に暮らすことが鬱陶しくなったり、些細なことで落ち込んだりした時には、この人たちのことを思い出すようにしている。そうして、カンダヤ夫人やジョゼ一家の地に足の着いた生活態度を見て、「なんだ、これくらい」ともう一度元気をもらう。

 一人で暮らしていた母がクモ膜下出血で倒れた時、母は、自分で救急車を呼び、手に医者の従兄の電話番号を書いたメモを握りしめ、茶の間の床に数冊の本を重ねてそれを枕にし、横になって気を失ったという。間もなく救急車が駆けつけた時には意識はなく、病院に運ばれた時には瀕死の状態だった。
 従兄から連絡を受けて、私はすぐに帰国し、それから2週間後に母が亡くなるまで傍にいることができた。外国人と結婚して、その後の一生を外国に暮らすと決意した時に、父母の死に目には会えないかもしれない、と覚悟していただけに、こうして、母の最期に立ち会えたのは、天から授かった幸運というよりなかった。

 2週間を、母のその日までの暮らしが肌身に感じられる実家に寝泊まりして過ごした。帰りついた時、台所には、まだお茶っぱのぬれた急須や、洗いあげたばかりの茶碗と箸などが無造作に置かれ、仕事場の机には、書き続けていた万葉集の短歌が途中まで書かれて途切れた和紙があり、墨の残った硯に、母の号が入った小筆が凭せ掛けてあった。

 父が亡くなった後は、茶の間のロッキングチェアは母が愛用していた。卓袱台の上に、5ミリほどの厚さの単行本くらいの大きさの白表紙のメモ帳がおいてあった。それを開いてみると、母が、倒れた時に枕にしていた数冊の本の中から引き出した、お気に入りの言葉が、数ページにわたって母の文字で書き写されていた。 母を一人故郷に残していることを、いつも不甲斐なく思いながら何もできずにいた私には、こうして自分で自分の楽しみを見つけて生きていてくれたことに、ホッとするような思いだった。愚痴も不平も私に言うような人ではなかった。

 母は本が本当に好きな人だった。

 母方の祖父は、戦前、まだ、母が小学生の頃、町に仕事で出かけるのに、ある日母を伴い、近所の本屋にきて、母に、「すぐに戻ってくるから、ここで好きな本を選んでおきなさい」と言って出て行ったという。母は、それから、2,3冊の本を棚から選り出し、父親が返ってくるのを待っていた。祖父は、戻ると、母の選んだ本を見て、「これだけか、ほかに読みたい本はないのか、もっと取り出してこい」と促したという。恐る恐る本を引き出してくる母をゆったり眺めるともなく待ちながら、祖父には、いつまでたっても、「さあ、それじゃあ勘定をしてもらおうか」という気配がみえない。ようやく、両腕を伸ばし、顎で抑えてやっと抱えられるほどの本が積みあがったところで、祖父は、「よし、じゃあ行くか」と勘定を済ませて家路に就いた。どんな本を選んだのかとか、これはいいから読めなどとは、一切干渉しなかった。祖父も、家族に対して口数の少ない人だった。

 母は、その日のことが余程うれしい思い出だったのだろう。何十年もたってから、私に、それは懐かしそうにこの日の思い出話を聞かせてくれた。

 母は歴史小説が好きだった。書道を始めてからは、万葉集、古今・新古今集、源氏物語、紫式部や和泉式部の歌集、それらについての解説書、研究者たちのエッセイなどをよく読んだ。若いころから、小説に浸り、戦後間もなくは、フランス文学・ロシア文学にも傾倒していたようだ。韓国や中国の歴史書も好んで読んでいた。 趣味だった書や俳句が、やがて仕事として自分の収入につながるようになると、好きな書や俳人のものは、どんなに高い復刻版でも、惜しみなく買って手に入れていた。住まいや服にはほとんど興味がなかった。

 父と母の共通の趣味も読書だったと思う。
 一方が大部の小説を買ってきて読み始めると、もう一方が、横取りして我先にと読み始め、寝床で、サイドランプの明かりで朝方までかかって読みあげた、などという話をよくしていた。安普請の家の中には、全集の類がところ狭しと置かれていた。

 そんな父母からみると、私たち姉妹は「本を読まないねえ」と嘆かれるような存在だった。確かに、テレビの世代、山のような宿題に追われていた私たちは、父や母の時代ほどに本を読むという習慣を持っていなかった、と思う。

 父も母も、本を読むことで時空の限界を超えていたのだと思う。

 私が、飛行機に乗り、スーツケースを抱えて遠い地に行き、たまに持って帰る話は、確かに、父や母の興味をひくものだった。二人とも、身を乗り出して、話に耳を傾けて、写真をのぞきこんでくれた。でも、実家にしばらく滞在していると、決まって、母は、自分が読んだ最近の本のことを教えてくれたり、「これ読んだから持っていかない」と数冊の本をくれたりしたものだ。母が好む本は、私だったら本屋に行っても買わなかっただろう、というような、一見すると関心の少しずれているものが多かったが、それだけに、私を知らない世界に無理やりに連れて行ってくれ、自分の関心とは違うものに目を開かせてくれるよい機会だった。普段日本語に触れる機会がないだけに、こうして母の本をもらうと、むさぼるように日本語に浸っていた。

 私が日本を出て、自らの身体を使って世界を広げようとしていたのに対して、父や母は、本を読むことで、古い時代や外国へ「精神」の旅をしていたのだなと思う。結局、どちらも、自身の位置、自分を外から眺めたいという無意識の衝動だったのではないのだろうか。

 父が亡くなってからの数年、母と私は日本とオランダの間でよく長電話をした。その時にも話の中に、話題の本のことがよく出てきた。私も、海外で話題になり英語で読んだ本が翻訳されるとすぐさま「あれはよかったよ」と勧めた。そして私が勧めるものに、必ずと言っていいほど目を通してくれた。
 倒れる少し前の電話で、母はこう言っていた。
「最近は目が霞むのよね、、、でもね、目が悪くなっても面白い本は読めるもんだねえ、、」

母らしい冗談だな、と思う。糖尿病を患っていたから、本当に、視力は落ちていた。でも、最後の最後まで本を離さずにいたし、実際、最後の最後まで、活字を読み続けた人だった。

母が亡くなって、3冊単行本を書いた。雑誌や新聞に短い文章を書くことも増えてきた。どれも生きた母には見てもらえなかった。でも、どれも、母がどこかできっと読んでくれていると思われてならない。




 

2008/10/21

紅毛の空想

 娘の髪は赤い。赤毛というのは、西洋でも、段々に少なくなっているという。劣性遺伝で、父母の双方に赤毛の遺伝子がなければ、子どもに赤毛は出ない、、、
「アレッ」と思わず思う。
 だって、それなら、うちの娘の髪が赤いということは、私にその遺伝子があるということではないか、、、

 思い起こせば、私も、子どものころ、前髪の部分が赤っぽくて友達からよくそのことを指摘された。中学や高校の時にも、同級生から、「窓から射してくる光にあなたの髪の毛が赤く光っているわよ」と言われたことが何度かある。
 母も、どちらかというと赤っぽい髪の毛で、若いころは、自分の母親にさえ、「おまえは色が黒くて赤毛だねえ」と嫌みを言われていた、と言っていた。
 母方の祖父や伯父は、二重瞼の丸い目で、昔の人にしては上背の高い人たちだった。

 母の実家は、筑後川の河口近く、満潮になると海の水が逆流して川に流れ込む大川という田舎にある。筑後川が注ぎ込む有明海はその向こうに長崎、平戸、天草などを控えている。南蛮人が古くから住んだ地方だ。

 1600年に日本に上陸したオランダ人たちは、その後、徳川幕府の許可を得て、出島に住むようになった。しかし、出島での妻帯は許されず、オランダ人居留者のお相手に、遊女らが出島に出入りしていた。遊女らが身ごもらなかったはずがない。身ごもった女たちの子供らは、その後どうなったのだろう。
 明治になって、正式に国交が交わされ、水利管理の部門などで、オランダ人技術者が全国各地に入って、水利技術を伝えるようになった。母の実家のある大川にも、有名なデ・レイケが作った導流堤が残っている。当時の大川は、筑後川の水流を利用した船による物資運搬で栄えた。母の祖父、私の曽祖父は船大工だった。

 デ・レイケの来日当初は、だまし絵で有名なエッシャーの父親も、水利技術者として日本に滞在していた。彼にも、日本人の(内)妻と子供がおり、帰国時には、同伴できず後に遺していったことが伝えられている。

 そういう時代、オランダ人の父と日本人の母との間に生まれた、髪の毛の色が薄かったり赤かったりした子供たちは、その後の人生を、いったいどんな境遇で過ごしたのだろう。あいのこ、と差別されたのだろうか、それとも、そういう子供たちでも受け入れていく仕組みが世の中にあったのだろうか。
 昔は、家に後継ぎがなければ、養子がとられたものだ。身寄りがなくても、家が貧しくても、力があれば、もしかしたら、養子としてよその家を継承する身分になれた人もいたのかもしれない。

 私の中に、そういう子供の血がひょっとしたら流れているのだろうか、と空想を巡らしてみると、興味は尽きない。
 もしかしたら、私の中に流れているオランダ人の血が、どこかで、私をオランダから呼び寄せ、オランダ人に出会わせ、オランダに連れ戻してきたのではないのか、などと白昼夢のようなことを想像する。

 そういう私のオランダ人の夫の先祖はといえば、どうやら、1800年ごろまでは、オランダには暮らしていなかったらしい。「あなたは、あの、汗と血にまみれて波頭を超えてやってきたひげもじゃの南蛮紅毛人の末裔ね」と言ってみても、どうもその証拠になるものが見つかりそうもない。夫の姓は、ゲルマン系の名前で、ヨーロッパでもドイツ人かと思われがちだが、この姓は、今ではハンブルグの港の近くに多い。ひょっとすると、そのあたりから近い水域で勇躍していたバイキングの末裔なのかもしれない。

 夫も私も、どっちにしても、「漂流者(ドリフター)」の血を汲んでいることだけは確かなような気がする

 こういう話は、証明できないだけに、空想の面白さがあり、楽しく、興奮する。少なくとも、愛国者の純血神話を聞かされるのに比べたら、わたしは、ずっと面白いと思っている。

草の絮

草の絮輝きながら浮かみけり

涼しさや幾山越えし風にあふ

逝く水はゆき落椿とどまれる

 
 書家であり俳人でもあった母が遺した愛唱句だ。

 前妻の二人の娘を育てながら、ずっと後に母が生んだ私は母にとって自分の腹を痛めたひとりっきりの娘だった。それだけに、私に手をかけることは憚られた。おかげで、私は、長々と小言を言われたり、お説教をされるような目には一度も会わずに済んだ。おまえは、自分で自分のことはやんなさいよ、と言われているようなもので、その分、自由があった。私の幸いは、そういう境遇に生まれたことだ。

 母にしてみれば、自分の産んだ子なんだ、言葉でいちいち説明しなくても分かっているだろう、という気持ちがあったのではないか、と思う。

 私が小さい頃から、「お母さんはね、あなたがどんなに遠くに行っても全然心配などしていないのよ。遠くに行ったって、あなたが自分の子であることには変わりはないのだし、何をどんな風に考えるかなんてよく分かっているし信頼しているから大丈夫」としばしば言っていた。
 いつか、私が母のもとを離れて遠くに行くことを母は予測でもしていたのだろうか。女の子なのだから、そうなって当たり前、と思っていたかもしれない。それとも、遠くに行って羽を伸ばして生きてほしい、と心から思っていたのだろうか。あるいは、いつか娘が飛び立って行く日に、自分がうろたえた母を演じてしまわないようにと、そのころから、自分に言い聞かせて心の準備をしていたのだろうか。真意はどれなのか分からない、その時その時に、そのいずれでもあったような気がする。

 外国人と結婚し、アフリカの極地に行ってしまうかもしれない、と知った時、向けようのない怒りと失意で常軌を逸してしまった父のそばで、私の結婚に同意し、かわりなく励ましてくれたのも、この母だった。本当は、一人娘が奪われてしまう母にこそ、支えが必要であったはずなのに、、、

 長々と通い続けた大学は、この留学から帰れば就職の機会、研究者としての道も歩み始められるという寸前のところで辞めてしまい、両親の面倒をみるでもなく、家計を助けるでもなく、ましてや恩返しになることなど何一つせずに、これから老いていくという父母を顧みるでもなく、別に、言い訳になるような大義もないまま、ふわふわと夫について日本に別れを告げた私は、まさに、タンポポの綿のように、この上なく頼りない存在だったのに違いない。
 「あなたの手紙を受け取ったのは金木犀の薫る庭、やっと生涯の伴侶を見つけたのだと、うれしかったです」というのが、夫と結婚したいと告げた時に最初に母がくれた手紙だった。同じ状況に私がいたら、果たして、こんな言葉を娘に言えただろうか、と思う。

 後になって、冒頭にあげた母の「草の絮」の句の存在を知った時、ああ、これはあの時の句だな、と思わずにいられなかった。

 その草の絮は、ほんとうにずいぶん長い間ふらふらと宙を浮いていた。その間、果たして、ずっと輝き続けることができていたのかもほとんど確信はない。父も母も亡くなり、ようやくこの数年になって、絮は疲れて着地し、少しだけ、土壌に根を張る気分になってきたらしい。父や母には、生きている間、どれだけ歯がゆい思いをさせたことだろう。

 けれども、救いは、母が二番目の句を作ってくれていたことだ。
 物事には時間がかかるものだ、ということを母は知っていた。母の人生を思い返してみる。母自身、目指していた理想はあった。でも、最後は、それが自分に課してきた無理難題だったということに気付いていた。悔しさもあったろうが、やるだけのことはした、これ以上は自分には無理だったという達観も確かにあったと思う。いくつもの山や谷を越えて生きてきた人というものは、世の中で「えらい」人といわれなくても、そこにいるだけで存在感のある人間であるということ、まっとうに生きている人というのは、そばにいるだけで、涼しさとさわやかさを感じさせる存在なのだ、ということを母は知っていた。母の周りに、きっと、数少ないが、そういう人がいたのに違いない。母自身もまた、そういう存在でありたいと願っていたのだろう。

 大学院のころ、自分のやっている研究に自信が持てずにいた。これが研究などといえるものなのだろうか、とほとんど対人恐怖症でもあるかのように、蚕の中に自分を閉ざしていた。当時、本当に希少な数の人しか関心を持たなかった東南アジア研究などに迷い込み、どこに、何に向かって進んで行ったらいいのかもわからなかった。その時、私の指導教官ではない、隣の講座のある教授が、何を感じてか「なんでも一〇年はかかりますよ。一〇年は脇目を振らずにやってみることです。そうしたら、やってきたことの意味がわかりますよ」と、ほとんど笑いに近い表情で私に告げてくださった。
 この言葉は、その時の私にとってなくてはならない言葉だった。脇目を振らず、わがふりなど気にせずに、一度がむしゃらになってみろ、ということだったのだと思う。自分がやっていることが無意味でなかったと思えるまでに、それから三年もかからなかった。

 こんなにかけがえのない大切な言葉を私の心に奥深く残してくれたこの教授も、風の便りでは今は亡き人になられたという。

 逝く水はゆき落椿とどまれる

の句は、母が急逝したとき、すぐに脳裏に浮かんだ句だった。
 教授の言葉も、母の句も、冷たく流れ続ける川の水面に落ちた椿の、あとほんのしばしの時間、とどめ遺された鮮やかな色のようだ。

 草の絮のように軽やかに、山から吹く風のように涼やかに、そして、落ちてなお鮮やかな椿のように熱く生きられたらどんなに幸せなことだろう。

 粋な生き方をする人が少なくなった。いや、案外、粋などというものは、昔から少ないからこそ価値があるのかもしれない。

 物事に対して、ちょっとひねった見方ができる、自分自身の行為を含めて人の行い、身の振り方に可笑し味が見いだせる、うまくいかないことがあっても人のせいにしない、人生の様々の苦しみに「誰にでもあることさ」と小言を言わずに耐えられる、他人のことをとやかく言わず自分の掌で転がすように他人の行動を予測でき、それに自分の方を合わせるだけの余裕がある、人前で怒らない、泣かない、、、、嫉妬していても、悔しくてもすずしい顔をしていられる、、、



 できないことだな、と思う。でも、粋に生きたいという気持ちだけは、できなくてもあきらめずにいつまでも持っていたい気がする。



 人によっては鼻もちならない貴族趣味、お前らノブリス・オブリージュとでも思っているのだろう、余裕のある人間の言うことだよ、と言われそうだ。力のない人間が粋を装えば世の中からは押し出されてしまうことのほうが多いかもしれない。だが、粋は、カネのあるなしとは関係ない。カネなどなくても涼しい顔をしていて、他人に酒の一杯も酌んでやろうかというのが、「粋」というものだ。



 カネカネカネ、そして、欲望ばかりの消費者だらけの今の時代。それだけに、粋が懐かしい。



 カリスマに浮かれるどこかの知事、カネと欲望と好戦趣味のどこかの大統領、無粋も甚だしい。

 教会主義やセクト趣味も私は苦手だ。



 人間、人からの評価を聞かないと安心できないものだ。そういう弱さが、人気者になっていくことに快感を感じ、他人とつるむことに安心する人間の性につながっているのだろう。



 粋には、色っぽさがある。性欲とは別に、あるいは、それと背中合わせに、異性をこよなくいとおしむ心には、粋の本質があるような気がする。だから、男を敵視して、女性解放云々とやる女たちに、どうもついて行く気になれない。女は強くていい。月並みでない、めそめそしない女は粋だ。解放されたいなら、そういう女になればよいのに、と思う。


愛人がいることを隠さなかったかつてのフランスの大統領ミッテルラン、愛人問題で苦労させられたアメリカのクリントン大統領など、「だめな連中だな」というより、「粋」な指導者だな、と思っていた。男も女も、元来、人間は孤独なのだ。

 

 「粋」は、才能があり有能で、感覚の優れた人の防衛手段なのかもしれない。ばかばかしくて生きることがいやにならないために、自然に働く心の動きのようなものなのだろう。才能のないものが、愛人など作っても、粋でも何でもなく、無様なだけだ。



 「粋」は日本だけのものではない。

 ダンディズムという言葉がある。スティングのEnglishman in New Yorkなどは、そういう英国流のダンディズムへの憧憬だろう。ヨーロッパ人は、アメリカ人を子供っぽくて粋に欠けた人々だとみなしているようにみえることが多い。

 でも、アメリカにも粋への憧憬はある。The Legend of Bagger Vanceに登場する、ウィル・スミス演じる不思議な黒人の男や、シャーリーズ・セロンが演じる主人公の恋人などは、惚れ惚れとするほど粋な男と女を体現している。

国際結婚の醍醐味

 自分とは異なる国から来た人間と結婚して、何に一番戸惑うか、というと、夫婦間の役割分担、男と女の間の役割分担に、「当然」だとか「わかりきった」ことがないということだ。お互いに相手の行動を、自分がイメージしてきた相手の国の文化から割り出そうとする。そして、案外、そのイメージが当たっていないことに気づかされ、修正を余儀なくされる。まして、国際結婚などをする気になる人間というのは、もともと、自分の国の中でもどちらかというと「変わり者」のほうで、自分の国の文化を代表しているというより、いくらか拗ねた皮相な見方をしており、自国の文化を背負う大道を歩くなどといった気分は持っていない確率のほうが圧倒的に高い。そのくせ、相手に対しては、自分が勝手に抱いている相手の国の文化でフィルターをかけてみているわけだから、それが、しばしば、ことを一層複雑厄介なものにする。

 このことは、子どもが生まれ、二人で育児を始めるともっと面倒なことになる。子どもに対して、父親は、母親は何をするのか、男の子に対する態度は、女の子に対する態度は、、といったことで、いちいち、相手の行動に、予想もしていない驚きがあるからだ。
 長男が三歳の時、近所の子供たちを招いてバースデー・パーティを開いた。私の役割は、子供たちが喜びそうなランチを作り、小さなお菓子の包みやおもちゃを用意して、つまりは、シチュエーションを整えておくこと、後は、夫が、子供たちを相手にワイワイ遊んでくれるもの、となんの疑いもなく期待していた。ところがどっこい、パーティが始まっても、夫は、ニコニコ見守っているだけで、先に立って子供たちを遊ばせてくれるような気配がまるで見られない、、、、子どもたちは、もうカオスというよりなく、ありの子を散らしたように収拾がつかない状態で騒ぎ遊んでいる。期待を裏切られた私のほうは、そうして立っている夫が木偶の坊のように見えて、イライラし、段々、機嫌が悪くなってしまった、、、

 そもそも、オランダ人の大人たちというのは、一般に、子供たちの先に立って何かを「指導する」「やらせる」ということをしない人たちだ。何か、集団として「まとまって」物事をやらせるということもとても嫌う。それは、アメリカ人などに比べても歴然たる違いがある。子どもたちは、それぞれ、好きに、それこそ「自己発見的に」遊び、学び、育てばいい、と思ってるらしい、と言っても多分言い過ぎではない。
 しかし、それを初めて「目撃」した時、私は、子どもたちをカオスの中に何時間も放りだしておける夫が、ほとんど未知の星からきたかのように不可解存在に見え、その不可解を自分の中で消化することができずに不機嫌極まりない状態になってしまった。

 こういう突然降って湧くような「意外」さは、以後、夫との生活の中でどれだけ経験したか数えきれない。同時に、自分自身が、まったく無意識のうちに、どれだけ日本人としてステレオタイプの行動をしていたかに気付くことも数限りなくあった。
 特に、男の子と女の子に対する夫の態度、私の態度には、ほとんど歴然とも言えるほど、典型的なオランダ人、日本人の態度があったと思う。男の子だからと言って「たくましさ」「強さ」をことさら求めない夫は、成長していく息子の様々の悩みに、友達のような気楽さでいつも付き合ってやっていた。私はといえば、無意識のうちに、「長男なのに」「男の子なんだからもっと」と、気持ちの優しい長男に対して、どこかで、突き放し、力以上のことを期待してきたような気がする。
 また、半面、いつまでもボーイフレンドができないティーンエージャーの娘に、男の子の心理などを教え、そろそろ、「ボーイフレンドの一人でも作って人生経験をしないとあいつはいつまでも子供のままだよ」などと言っている夫に、わたしはといえば「へえーっ、そんなこというのか」なんて心の中で感心している。
 子育てをすることで、こういう相手に対する思い込みの強さ、子どものジェンダー役割への期待がどれだけ自分の育った環境に無意識に影響されているかを知ることは数限りなかった。相手の文化の価値観でもなく、自分のそれでもなく、なおかつ、夫婦間のどちらにもアンバランスな関係にならないように、お互いにとって平等で、そして何より子どもにとって最善の子育ての基準は何なのか、、、、冗談などではなく、私はそれを本当に何度深刻に突き詰めて考えたかわからない。
 そして、思い至ったのは、その子一人一人の成長のチャンスを最大限に生かしてやること、早く生まれたとか遅く生まれたとか、男だから女だからというのではなく、どちらにも、一〇〇%自分らしく生きる権利があるのだ、ということだった。
 国際結婚の結果生まれてくる子供たちは、親が持ってきた二つの文化のミックスなどではない。二つの文化を背景にし、それぞれ、自分の文化を外から眺めて批判的に見直しながら生きる二人の人間が意図的にしだいしだいに作りあげていく「新しい」文化の成果なのだと思う。そして、子ども自身が生まれ持ってきたユニークさが、そんな環境の中で、最大限に引き出される時、彼らは、幸せな、底知れない可能性に満ちた人間として育って行ってくれるのだろう、と思う。

 国際結婚の醍醐味は、こんなところにある。そして、もしかしたら、それは、国際結婚でなくても、どの夫婦にも当てはまることなのかもしれない。

 昨日私たちは結婚25周年を迎えた。
 ほとんど空気のようになってしまって普段大げさな会話もけんかもしなくて済むようになった。
 昼過ぎ、玄関のベルが鳴り、お花屋さんが、25本の深紅の薔薇の花束を届けてくれた。花束には「冒険に満ちた25年に25本の薔薇を。ありがとう」と書かれたカードが添えられていた。またしても「びっくり」「予想外」の出来事だった、、、、

 


 

2008/10/19

ハグ

 「抱きしめる」というあいさつの仕方がある。それは、相手に対する強い同情、あるいは、励ましの表現なのだ、と思う。
 日本では、公然と他人を抱きしめることがはばかられる。だから、初めてヨーロッパに行って、初めてホームステイした家庭の主婦から、別れ際に、両腕をぎゅっと握りしめられた時には、思わず涙が出そうに感動してしまった。
 個人主義が進んだ国に暮らしていると、この「ハグ」が、ものすごく心休まるジェスチャーだと感じさせられる瞬間がしばしばある。

 10年余り前、私たち一家はボリビアから引き揚げてオランダに暮らし始めた。当時、夫は、それまで10数年にわたって続けてきた開発途上国援助の仕事に大きな壁を感じ、躓き、苦しんでいた。私自身も、前年父を亡くしたばかりで、年老いていく母を一人故郷に残していることに申し訳なさと不安を感じていた。
 とりあえずは、小学生の二人の子供にとって最も安定のある生活をしようと、オランダの、夫の実家の近くに居を定めることにした。そうして、生活を始めてわずか1週間の後、南アフリカに仕事で出かけていた夫の父が、現地で心臓麻痺を起こして急逝したという知らせが入った。
 たった二日前に、空港に向かう元気な義父母を、最寄りの駅まで送りにいったばかりだった。

 うろたえて電話をかけてきた義母を励まし、電話口に立っている私のそばにいる二人の子供たちに、悲しいニュースを伝える私のそばに、夫はいなかった。仕事でも失意のどん底にあった夫は、私たち家族を先にオランダに帰して、ボリビアで最後の片づけをして、帰国の準備をしているところだった。この夫に、義父急逝のニュースを伝え、それから、最後の力を振り絞って、近くに住んでいた夫の従兄に電話した。

 驚いた従兄夫妻は、それから、とるものもとりあえずすぐに駆けつけてくれた。ショックで震えている二人の子供たちをかばいながらドアを開けると、従兄は、ものも言わずに、まっすぐに私のほうに向かって来て、すぐさま私をしっかり抱きしめてくれた。あの時くらい、ハグのありがたさを感じたことはない。

 前年父が亡くなる直前、私は、ボリビアから、家族を置いて日本に父に会いに行った。病院のベッドの上でやせ細って弱っていた父は、私がそばに寄ると、何度も、私の手を取り、自分の手の中に包むようにして、手の甲をさすってくれた。父にとっては、このスキンシップが生きていることを確認する行為だったのではないか、と思う。10日間の滞在の後、家族のもとに帰る私との別れ際、父も私も、もう2度と生きて顔を合わせることはない、ということを知っていた。その時も、掌を、いい大人の私の頬に当ててさすってくれた。ハグと同じくらいに、インテンシブなスキンシップだった。涙は、父にも私にも流せなかった。

 ボリビアに帰って、初めて子供たちを迎えにアメリカンスクールに行ったら、迎えのお母さん達が取り巻いている中で、娘の同級生の母親のキャロルが、いきなり、ものも言わずに私をぎゅっとハグしてくれた。彼女もまた、少し前に、故郷の母を癌で亡くしていたのだ。

 娘が小学校1年生だった時のこの学校の担任の女教師ヴィッキーは、毎日、授業が終わると、教室の入り口に立って、クラス全員の子供たちに、ひとりひとりハグをして家に帰していた。ハグは、子供たちに、その日の学校でのいろいろな出来事に決算をして、気持ちよく家に帰すための行為だったのかもしれない。だが、それ以上に、担任教師としての彼女自身が、その日の子供たちとのいろいろな思いを清算して、新たに翌日の授業を準備するための儀礼だったのではないか、という気もする。

 娘たちは、2年生に進級してからも、このハグが懐かしくて、授業が終わると、わざわざハグをしてもらいに、ヴィッキーの教室に行き、1年生がハグをし終わるのを待って、ヴィッキーにハグをしていた。

 今は20歳になった娘は、今も、ハグが好きだ。何か嫌なことがあった時、何か不安なことがある時、夫や私に、「ハグ」と言って抱きしめてもらいに来る。自分でいけないことをしたな、失敗だったな、と思うと、改悛の言葉とともにハグを求めてくる。そして逆に、私や夫が辛い思いをしているらしいと気配を悟ると、自分のほうから「ハグ」と言って抱きしめてくれる。

 人には、言葉にならない、言葉にできない、言葉にしてしまうと陳腐でやりきれない感情というものがあるものだ。だから、ハグされるたびに、「いいのよ、何も言わなくても」としっかり受け止めてもらえているのだという確証をもらっているような気がする。そうして、幾人かの人が、こうして、それという時にハグをしてくれることを知っているだけで、また、もう一歩独り歩きをしてみようかと勇気が生まれてくる。

 日本人は恥ずかしがり屋だ。亡くなる前の父がしてくれたように、手をさすったり、手をつないで散歩をするだけで、ハグの代わりに十分なっているのかもしれない。でも、抱きしめられるというのは、肩から背中からすっぽり包まれるような安心感を与えてくれるものだ。夫婦なら、親子なら、家の中でもっともっとハグしていいと思う。抱きしめてやることで、相手は生きることにもう少し勇気を持とう、という気になれる。相手は、夫でも、妻でも、親でもかまわない。抱きしめられたい、というのは、人間にとって、しばしば起こる当たり前の感情だと思う。


 

5円玉

 真ん中に穴のあいた5円玉を掌に握りしめ、たった一つ先の停留所まで一人でバスに乗っていった小学1年生だったあの日。手のひらに載った5円玉のイメージは、50年近くたった今も脳裏に残っている。
 一人旅が好きだった。他人に合わせて、グループで動くのは苦手なほうだった。弱虫で、恥ずかしがりやで、怖がりのくせに、一匹狼を装ってみせるような人間だった。
 大学に入って、休みになるごとに、日本各地を一人で旅した。初めてヨーロッパに行ったのは19歳の時。学生のころには、韓国や東南アジアにも出かけて行った。
 そんな一人旅の性癖が、とうとう、こんなに遠くまで私を連れてきてしまったのだな、と思ったのは、ケニアの北西部、ウガンダとの国境に近い半砂漠の原野トルカナに住まいを定めた時だったような気がする。その後、父や母のいる日本からは、ますます遠くに離れていった。地球の裏のボリヴィアで、標高4000メートル以上の土地にあるラパスの空港に降り立った時、おんぼろのバスに揺られて、首都スクレから、かつてアフリカから買われてきた黒人奴隷たちが鉱山労働者として酷使されていたというポトシに行ったときも、同じように思った。
 私を、遠くへ遠くへと引きよせる5円玉の魔法のような魅力は、今も続いている。

 そして、一人で遠くへ遠くへと旅を続ければ続けるほど、生まれも育ちも文化も宗教も異なる人々の中に、人としての「共感」が言葉もなく感じられることに、かけがえのない幸いを見出す。

2008/10/18

あの時すでに

 5歳の時に、生まれた下関を離れ、福岡に暮らし始めた。
 同じころ、お向かいの空き地に大きなバレエ教室が建った。バレエを教えていたのは、当時、50歳を過ぎていたH先生だった。土曜日の午後になると、「アン、ドゥ、トロワ」とフランス語で拍子をとりながら声をかけて指導しているH先生の声が近所に響き渡った。水曜日の午後、H先生は、タイトなワンピースドレスに身を包み、きりりとしまった脚にハイヒールを履いて、つばの広い大きな帽子をかぶって、電車に乗って近郊の都市のバレエ教室に出かけておられた。
 ご主人のほうは、ちょうど60歳。毎日、夕方になると、自転車にまたがって、当時、そこから数キロのところにあった米軍基地のバーにジャズピアノを弾きに行っているとのことだった。日本人離れした、鼻筋が通って彫りの深い顔立ちと、オールバックの髪、上品な物腰が、子供心にも、近所のどのおじさんとも違う雰囲気だな、と感じていた。  

 母は、そのころ、自分の父親(私の祖父)にねだって私たち姉妹のためにピアノを買ってもらっていた。そして、私と姉二人は、H先生(ご主人のほう)に母が頼みこんで、ピアノの家庭教師をしてもらうことになった。こうして、H夫妻と私たち一家の長い長い交流が始まった。

 H夫妻は、「引揚者」だった。戦前から、中国大陸にすみ、北京の近くに邸を構えて、御主人は、日本の放送局の専属ピアニスト、奥さんのほうは、当時は、ピアニスト夫人として何不自由ない豊かな暮らしをしていたという。北京の自宅には、広い庭園があり、初夏になるとライラックの花に溢れていたという。外交官の子として育った夫人は、小さいころから、絵、バレエ、ピアノ、フィギュアスケートなどの稽古事をしながら成長し、何度もフィギュアスケートの大会に出て賞をもらった、と話されていた。

 そんな生活が、ある日、ロシア軍の南進で一気に壊される。放送局のグランドピアノは、目の前で木っ端微塵に砕かれ、大きな家も調度品も衣類も、何もかもをあとに置いて、ただひたすら祖国を目指して引き揚げるよりなかった。
 やっとたどり着いた祖国は終戦後の混乱期。身を寄せたご主人の実家の座敷で、生活のためにバレエ教室を始めたのは、奥さんが、40歳を過ぎてからだったという。ご主人のほうは、何もかもを失って日本での再起を余儀なくされた時、まず、奥さんを誘って「英語を勉強しよう」といったという。それから、高校の音楽の教師になった。
 我が家の前の空き地にバレエ教室が建ったのは、それから、およそ10年あまりの後、ご主人が教師を退職し、退職金と、それまでコツコツと貯めてきた貯金を資本にしてのことだった。

 その後受験勉強のために姉たちはほどなくピアノの稽古を辞めてしまったが、小学校1年生になったばかりだった私は、毎週土曜日のおけいこを楽しみに待つようになった。決して叱ったり脅したりすることなく、穏やかに、ぽつりぽつりとアドバイスをするだけのH先生のお稽古は全く苦にならなかったし、何か、ホッとするような安心できる時間だった。お稽古が終って、先生がさらさらと引き流される曲は、いつも、軽い即興の入ったジャズピアノだった。20歳の成人式を迎えた時、脳溢血で先生が倒れられるまで、レッスンは続いた。
 私たちが稽古を始めて2,3年の後、先生も新しいピアノを自宅に購入され、レッスンは先生の自宅になった。うわさを聞いて生徒が集まるようになった。ピアノの生徒たちは、稽古の順番を待つ間、バレエ教室の片隅のストーブのそばに座って、奥さんが指導されるバレエを目を凝らして見つめていた。当時、まだバレエを習う子などあまりたくさんはいなかったから、珍しく、興味深かったのだろうと思う。

 こうして、何年間も、私は、ただ、ピアノの教室に通って、そばから二人の様子を見ていただけだった。たまに、ご主人のH 先生と趣味の写真の話などをしに行く父についていき、先生夫妻の庭の、うっそうと灌木の茂る緑陰で、進められたジュースを飲みながら黙って大人たちの話を聞くことはあっても、自分から夫妻とともに話に加われるようになったのは、ずっと後になってから、たぶん、高校生くらいになってからだと思う。

 でも、こうして、夫妻のそばで育ったことが、私の人格形成にどれだけ大きな影響を与えてきたか分からないと思う。
 二人とも、他人のことをとやかく噂したり、批判したりするようなことは一度もなかった。自分の生き方をしっかりと持ちながらも、だからと言ってそれを人に押し付けるような素振りをされることは決してなかった。そういう二人の姿は、周囲の人の目には、大変日本人離れしたものではなかったか、と思う。近所づきあいがうまいわけではなく、周りの人たちは、どちらかというと「付き合いにくい」という人のほうが多かったようだ。でも、今になって思えば、たぶん、話してわかってもらえるようなことではない、という気持ではなかったか、と思う。戦前・戦時中のことでも、人が聞かない限りは、自分のほうから自慢げに話されるようなことは絶対になかった。

 自分の力、自分の能力を、そしてたぶん、人間だれしも限界を持って生きているのだ、ということを実感として知っていた人たちであったのに違いないと思う。そして、いつも、日本の社会を、外から眺めているようなところがあった。そうでありながら、他人を見下したり、馬鹿にするような態度は、決して見せられなかった。
 私が27歳の時、オランダ人の夫と結婚したいと告げて、父からほとんど勘当同然の扱いを受けた時、悩んだ母は、夫妻のところに相談に行った。その時に、H 先生の奥さんが、こう言われたことで、母はきっぱり決心がついたという。
「直子を翔ばせなさい。あんな丘のてっぺんのうちに閉じ込めていたって直子は大きくなれないわよ。 直子を世界に翔ばせなさい」と。

 H夫妻の頭の中には、たぶん、いつも世界地図があったのだろう。
私も、いつの間にか人生の半分を外国で暮らした。そんな今でも、どんなに世界の遠くに行っても、H夫妻のような心境にはまだなれていないのではないのかな、とよく思う。10数年余り前ご主人は92歳で亡くなられた。それまで、わたしは日本に帰国するたびに必ずH 夫妻を訪れた。でも、だからと言って、行った先々の話を自慢げにするようなことなど、先生夫妻の前ではできなかった。懐かしい昔話をし、外国人の夫と、外国人の間に生まれた二人の子供を連れてきて会わせると、それだけで、二人は、私たちを、家族のように暖かく迎え入れ、言葉が通じなくても、だれもが温かな気持ちになって、雑談をしながら何時間もそこで過ごすことができた。

 異文化に暮らすということが、ちっとも特別なことではなく、私の生きる場は日本などを超えて世界に広がっているのだ、ということを、わたしに始めて教えてくれたのは、このH夫妻に他ならなかった、と思う。  

3点あってやっと異文化理解

 初めての外国暮らしというのは、どうしても冷静になれないものだ。
 私の初めての異国はマレーシアだった。しかも、当時の日本では、マレーシアなど、だれの関心もない国だった。ほとんどの日本人が知らない国に、冒険をするような気持ちで踏み込んだ26歳の若き日のことは、今でも、甘酸っぱい感傷と共に思い出す。
そして、その感傷は、今でも続いている。それはそれでいいのだろう、と思う。
だが、異文化理解、という意味では、あまり冷静な観察者にはなりきれていなかったのではないか、とも思う。日本と比べるにしても、どちらがどの程度にどうなのか、ということが自分でもつかみ切れなかった。2点比較だったからだろうと思う。
 当時のマレーシアは、今と違い、まだまだ典型的な発展途上国だった。私が暮らした村など、電気も半数しか届いていなかったし、水道もなかった。電気のない夜、まだ昼間の暑さが残る村の道を歩いていると、こちらの目には見えない通りがかりの村人が「よっ、ナオコッ」と声をかけてきた。その夜目の効くことに感動していたのは、ほんとうに暗い夜というものを知らない日本人の私だった。そうして、そういう時にふと、「いやあ、文明人なんて、本能を失ってしまっているなあ」なんて感動してひとりごちてみたりする。ナイーブだったな、と思う。
 マレーシアの当時の貧村の人々が、まるで、日本という先進国から来た私の存在など気にもしないで、昔ながらの自給自足に近い生活をしているように見えた。そして、「たくましい」などと感動してしまう自分がいた。開発途上国などという枠をかけて、勝手にロマンティシズムに浸っていたのではなかったか、とも思う。

 幸い、私は、その後縁あってアフリカの半砂漠、トルカナの村に1年足らず住んだ。それこそ、マレーシアの農村などとは比べ物にならないくらい厳しい、電気も水道もそして生活必需品をそろえる店さえもない生活だった。そして、そこで、「開発途上国」という名前でくくられている国々が、どんなに違う事情とどんなに違うメンタリティをもった人たちが住む多様な国であるか、ということを痛いほど知らされた。
 その時、やっと、私にとっての初めての異国マレーシアに対して、冷静になれたような気がした。
 同時に、私の中で、日本、マレーシア、ケニア、という国が、異文化理解の3点としてそれなりの位置を定めたような気がする。

 その後、オランダに暮らした1年も、おかげで、極端に、オランダを好きになったり、嫌いになったりという片手落ちのアンバランスな態度をとらずにすんできたような気がする。

 もしも、これから海外に出ていく若い人たちにアドバイスすることを許されるのだとしたら、どうか、たった一つの国を見ただけで、外国を知ったような気持ちにだけはならないで、と言ってあげたい。無理をしてでも、少なくとも3つの国に住んでみなければ、本当の異文化理解にはならないような気がする。