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2009/08/31

2大政党交代制か多党連立政権か

 民主党が308議席を獲得した今回の衆院選。自民党支配に「ノー」と声を上げた意味では歴史的に意義ある選挙だった。しかし、その背後で、民主党と協力して議席を分け合うはずだった小政党は意外に票を伸ばせなかった。いったいどれほどの有権者が本当に各政党のマニフェストを自分から読んで投票をしたのだろうか。単なる抗議票が集まったということであれば、心配だ。

 選挙後民主党は、早くも来年の参議院選に向けて、単独過半数を取る意欲を見せた。これが、社民党ら、今回の選挙協力者との亀裂の原因にならなければ、と思う。もっとも亀裂を起こしても痛みを感じないほどの多数ではある。

 こういう状況は、果たして一般の有権者にとって望ましい状況なのだろうか。日本の政治体制は、日本社会は、本当に根本的に変わるのだろうか。

 2大政党交代制の国として代表的な国はアメリカ、イギリスだろう。交代のたびに政策が極端に左右に揺れ、継続性を保ちにくい。長期的な政策を進めにくい仕組みだ。その代わり、確かに、官僚組織の硬直化は起こりにくい。アメリカなどでは、官僚体制が政権交代のたびに一掃される。

 しかし、有権者の意識との関連はどうだろう。二者択一を迫られる有権者は、本当に自分が求めている政治を実現できるだろうか。官僚制にしても、多党連立で微調整が繰り返される政治体制であれば、むしろ、官僚らの専門性が求められ、硬直化は起こりにくい気がする。

 オランダのような多党連立制では、確かに、1党の持つ総合的な政権構想は実現しにくい。しかし、各党が持つ政策優先順位を持って駆け引きを行うことはできる。駆け引きは議論だ。議論は報道される。だから、おのずと有権者の政治意識は日ごろから高まりやすい。自分の気持ちや考えに最も近い政党に投票できる。その選択肢は多い。

 せっかく歴史的な政権交代を実現した日本の政権だ。
 単に自民党から民主党へ首を挿げ替えただけとならないように、また、有権者は政治エリートに期待するだけ、という社会を変えるためにも、一日も早く、機運が高まっているうちに、日本は二大政党制を求めているのか、多数連立制を求めているのかを、街頭・路上の議論に乗せていったほうがいい。

***日本の現行選挙制度は、本当に有権者の意思をよく反映できる仕組みであるのかどうか、
ブログ「オランダ・人と社会と教育と」で、オランダの政党政治制度についての報告を3回に分けて報告中http://hollandvannaoko.blogspot.com/2009/09/blog-post.html:)

2009/08/30

日本人よ、もっと率直に臨機応変に忌憚なく

時代を画する衆院選をNHKワールドを見ながらリアルタイムで追ってみた。
解説者にもっと数人の立場の異なる人を迎え、下書きなしで率直な話をしてもらいたかった。政治解説者が、その場でアンカーの質問に答えるのではなく、いちいち英語の下書きを用意して読み上げる姿には、落胆した。

政治専門家の登場はありがたい。しかし、「一般の熟練ジャーナリストの中に、英語で議論できる人はいないのか。日本ほどの国に」という感想はきっと諸外国の視聴者にとって避けがたいものであったろうと思う。外国のプレスの特派員でもよかったはずだ。複数の立場の人間を集め、その場で議論することはできたはずだ。

世界に向けられる公営放送が行う、歴史に刻まれる衆院選の報道にしては、お粗末だった、との印象は否めない。

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衛星放送のおかげで世界各国の衛星放送を受信できるようになった。
中国の英語放送に登場する発言者たちには、目を見張るほどの自然さ、率直さ、そして、考えを言葉にしてまとめて伝える巧みさがある。英語を手繰れるエリートたちが、決して、英語が流暢と言うだけではない、高い質の教養を身につけているのが分かる。

ある意味で、開発途上国の国々のエリートたちは、英語ができるし、専門的な知識の豊富な人が多い。その層は、日本のエリートには見られないくらいに厚い。植民地支配の伝統があるからでもある。

しかし、長く共産主義国として国を閉ざし、思想統制してきた中国に、今、これほど多くの自由な発言ができ、その場で、臨機応変に誰とでも議論ができるエリートたちがいるのだ。日本とは比べ物にならない。言葉の問題であるとともに、創造的な思考力の熟練度の違いに見える。忌憚ない発言をマスメディアという媒体を通じて自由にできること、その程度は、今、共産国の中国の方が、自由主義国であるはずの日本の何十倍も大きい。中国という国の懐の深さ、したたかさに驚く。

衆院選が終わり、日本はこれから、ようやく市民がそれぞれ自分自身の意見を言葉にし、参加していく時代を迎えようとしている。

テレビも新聞も、型にはまった、すべてを事前に統制した報道をするのではなく、人々の臨機応変のステレオタイプではない声を率直に出していくべきではないか。型どおりの公式表明や、ほとんど「やらせ」にみえる登場人物のあからさまな印象操作、世論(視聴率)の期待に応えるだけのお定まりの発言などはもうたくさんだ。いったい、どこのだれを恐れて、報道内容を統制するのだろう、、、、自由社会にあるまじきことだ。

専門性よりも人気を優先した、少数のカリスマに頼ったメディア操作ではなく、幅広く、厚い層のエリートに支えられた、世論をひきつけ、建設的で懐の深い討論・議論の姿を、国内でも、また世界に向けても積極的に見せていってほしい。「多数派」が何なのかを気にしなければ、目立たないところに言語にも教養にも専門性にも優れた人たちがたくさんいるはずだ。そういう、今は名のない、しかし、地に足のついた人々の声、黒子として社会を内側から変えようとしている人々の声をもっと大きくして、報道の波に乗せていってほしい。

日本の報道は、もっと肩の力を抜くべきだ。それが、やがては、視聴者の教養と思考力に厚みを持たせる。

歴史的な一日:2009年衆院選

今日の日本を目撃できてよかった。
自民党独裁への「ノー」がやっと選挙に結集した。

対米追従、企業依存、官僚主導、マスコミ抱き込み、右翼放任、どれもこれも、時代遅れの、民主主義とは程遠い政治だった。

ひとびとの不幸感、未来に希望を持てない閉塞感が社会に堆積し、とうとう飽和点を越えたのだ、と思う。やっとひとびとの尊厳を奪ってきた日本社会のあり方に、憤りを発する人たちが増えてきた。長い時間がかかった。欧米や開発途上国などなら、もっともっと早く人々が声をあげていたのではないか。

問題が起こるたびに、自らを省みて自らを正すことから始めようとする日本人の謙譲の美徳が、もしかすると、声を上げることを遅らせてきたのかもしれない。

けれども、声はあってもそれを取り上げてこなかったのではないのか、、、

選挙戦が沸騰したこの夏、ニュースを伝えるマスコミの姿勢が変わった。党首討論会など、政治家自身に、言責を問う動きが目立ってきた。喜ばしいことだ。

新政権は、間もなく山積した問題に取り組み始めなくてはならない。日本社会を幸福感の高い社会に変えるには、少々時間がかかるような気がする。困難と障害は多い。世界的に難しい時期にあるからだ。新しい政権には、有権者の声に耳を傾ける姿勢を持続してほしい。有権者も知恵を結集して、忌憚なく政治に働きかけていけるとよいと思う。

新聞やテレビは、今後、これまでのようにマジョリティの声だけを届けるのではなく、マイノリティの声をきちんと届けるメディアになってほしい。それが、視聴者や読者を引き付ける。それが、有権者に考える姿勢を生む。有権者自身が、手の届くところから社会に働きかける姿勢を生むだろう。それが、民度を高めるジャーナリズムであると思う。

そこまでいけば、一つ一つの変革のモデルになるものは、世界にいくらも転がっている。そこから学んで日本なりの施策を生み出していけばいい。欧米ではすでに使われた切り札が、日本ではまだまだ有効に通用するものがあるに違いない。

誹謗・中傷のネット放言とは明らかに異なる、信憑性の高い、理性に基づいた、建設的批判のできるマスメディアを読者は待っている。

出版は、人を売るのではなく、多様な多元的な議論に目を開かせるメディアとなってほしい。収益優先でつくられた風に乗るのではなく、新しい風を生む媒体として、新しい時代に大股で踏み込んでいってほしい。


きょうの日を境に、戦後、急ぎ足の近代化を遂げてきた日本が、直面する独自の問題をどう乗り越えていくのか、日本に成熟した市民社会が生まれれば、それはいずれ、遅れた、しかも急ぎ足の産業化を果たしつつある中国やインドなどの国々の人々にとっても、ひとつのモデルとなるだろう。周辺の国々はこれからの日本に注目している。かつて、高度成長の奇跡を生んだ日本は、今度は、人々の幸福を保障し世界平和に貢献できる、成熟した市民社会の実現という奇跡を生み出せるかもしれない。ぜひそうなってほしいと思う。

そしていつか近い将来、ヨーロッパ連合のように、アジア連合を、日本が率先して語れる日がくることを心から祈っている。

2009/08/23

市民社会発展の要件

 かつて西側と呼ばれた欧米先進諸国は、1970年代に大きな文化変容を経験した。
 この時代の人々の価値意識の変容、それに伴ってその後に続いた社会制度の変容との連関を、大量のデータを駆使し、長期にわたって観察を続けているのは、アメリカ人社会学者ロナルド・イングルハートとその仲間たちだ。

 イングルハートは、1990年に出した「文化シフト」という本の中で、市民社会発展は、経済的な豊かさだけでは不可能である、ということを言っている。経済的豊かさは、市民社会発展の条件の一つだが、それだけでは十分ではない、と。それに加えて必要なのは、人々の価値意識の変化であり、その変化とは、脱物質主義的(ポスト・マテリアティズム)な価値観への変容であると言っている。

 脱物質主義的価値観とは、私流の言い方をすれば、排他的な競争主義を批判して、寛容な共生を求める意識である。エクスクルージョンからインクルージョンの意識、と言ってもいいかもしれない。
 実際、1970年代の(西側)ヨーロッパ先進諸国やアメリカでは、反戦運動とともに、女性解放運動、同性愛者の権利保護、障害者福祉制度の充実、個性や尊厳の重視といった議論が進んだ。
 オランダのように、保守的なキリスト教主義的価値観が強かった国ですら、70年代には、極端ともいえる勢いで教会離れが進み、旧態依然のモラルやタブーを一度突き放してみて見直すという議論が繰り返された。それは、キリスト教主義の価値観を頭ごなしに否定するということではなく、それを絶対不滅のものとしてではなく、相対的に自分の頭を使って考え直してみるという行為だった。

 そういう文化シフトは、かつて植民地支配によって富に潤っていたにもかかわらず、戦争を体験することで、富を失い、植民地を失って、ひたすら戦後復興に取り組んだ親の世代と、これに対して、急速に復興していく戦後社会の中で、経済的な豊かさと広く庶民にまで行き渡るようになった教育機会の中で育てられた若い世代との間の、世代間の価値意識の違い、「世代間断絶」と言われた価値観の対立の中から生まれてきた。
 復興を求める親の世代が「物質主義」にとらわれたままであったのに対し、未来を見つめる若者たちは「脱物質主義」に向かっていく価値観変容の嵐の中にいた。

 イングルハートは、豊かな経済に支えられた中で、こういう脱物質主義が、社会の中の主要な部分を占めることで、市民社会が徐々に形を整えていく、という。そして、この70年代の若者たちの価値観が、社会の中で、ドミナント(多数派)を占めるようになるには、世代交代のための、2,30年という時間を必要とするという。

 市民社会は、社会の個々の成員の個別の意思が自由に解放され、また、お互いにその自由を認め合うことで成り立つものだ。そういう意味で、同じキリスト教の伝統を持つ社会と言っても、個々の信者の聖書解釈を尊重するプロテスタントの社会の方が、市民社会的な価値観に近く、そのための制度もより整っている。北欧諸国やオランダなどは、そういう意味で、市民社会的な価値意識が、制度の中により広く反映している国であると言っていいと思う。そのことは、主観的幸福度や自尊感情の調査などに顕著に反映している。(ヨーロッパにおけるプロテスタント社会とカトリック社会の厳然たる違いについては、別の折にまた触れてみたい)

 現に、1970年代から、ほぼ40年の歳月を経た現在、オランダ社会に住んでいる人々の価値観は、物質主義から脱物質主義へとほぼ完全に移行した。政治家、官僚、企業の管理職者など、社会的エリートと言われる人々ですら、ほとんどが、この70年代の脱物質主義議論の洗礼を受けている。だから、たとえ、キリスト教保守主義やリベラル派の立場にあるエリートたちであっても、脱物質主義的な議論をすりぬけて、一方的に伝統的なモラルや資本主義的な価値意識と言った立場を主張することは、もはやできない。価値観の異なる他者との共生、自然(環境)との共生は、この社会の大多数の人々に受け入れられた議論の余地のない前提になっている。

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 イングルハートの「文化シフト」の中では、日本のデータが大変重要な位置を占めており、西側先進諸国の70年代における日本社会の明らかな特殊性が指摘されている。

 日本でも、戦後復興期を経た後、若者や知識人による、脱物質主義的な議論はあった。けれども、世界が冷戦体制になだれ込み、中国の共産化と朝鮮半島の分断、ベトナム戦争の激化などの中で、日本は、アメリカ合衆国にとってなくてはならぬ西側の拠点とされた。戦後間もなく「民主化」を求めて言論のリーダーとなった人々のうち少なくない数の人々が、変節し転向していった。
 その時代の世界の雰囲気とそこからもたらされた外圧、日本の置かれていた地理的な位置などが、戦後「民主化」政策を捻じ曲げ、機会均等を求める社会主義的な市民運動を意図的に抑圧するものとなったことは周知のことだ。
 しかし、本当にそれだけだったのか、本当に、外圧だけが日本の民主化を妨げてきたのか。それ以上に、そういう捻じ曲げを受け入れてしまう日本人自身の、一種の「未熟さ」があったからではないのか、この問いに対する納得のいく答えを、私自身、長く求めてきた。

 イングルハートの「文化シフト」は、この問いかけに、データを持って一つの答えを示してくれている。

 18世紀の啓蒙主義を経て19世紀初頭にまがりなりにも近代国家制度を打ち立て、産業革命を経て競争主義の、しかし、物質的な豊かな社会を築いた欧米先進諸国では、価値観として、すでに、「個人の自由」は存在していた。西洋の人々は、すでに長い間、近代主義がもたらした個人主義を経験していた。そして、個々の人々の価値観が問われ、お互いの価値観に干渉しない個人主義をみとめる価値意識は、個々人の精神をどこまでも孤独にするものでもあった。ナチズムの熱狂は、エーリッヒ・フロムが言う通り、孤独な魂に耐えきれなくなった近代人たちの「自由からの逃走」であったことは、多くの人々が同意することだ、と私は思う。

 ドイツに起こったナチズムと、それに協力し、それに共感した周辺諸国の人々にとって、戦後の価値意識の変化には、差別に対する決別があった。そして同時に、「ではどうしたら自分とは異なる他者と共生できるのか」という課題は、大変深刻なものであった。共生とは、自然に放っておいても起こるものではなく、自分から働きかけ、意図して努力しなければならないもの、という意識は、当時、市民運動を強く勧めていた若者や知識人たちに共有されていた意識であったらしい。

 けれども、同じ時代の日本で、多くの人々は、西側連合軍に「負けた」という劣等感と、戦時中、だれからも自由意思を認められることがなかったという「近代化に対する遅れ」の自覚の中で、やっとのことで先進国並みの「経済的な豊かさ」が実現しているのだ、という満足感が圧倒的であったのではないか。そして、そうであった日本人をいったい誰が批判できよう。
 あの時、近代化がもたらす個人の孤独を実体験として感じている人がいったいどれほどいたことだろう。孤独を越えて『共生』の中につながっていきたい、という希求など、いったいどれほどの人に期待することができたことだろう。日本人は、伝統という名に支えられた集団的な同調に足をからめとられたまま、そこから逃れることに必死だった。自分自身でありたい、まず、自分の意思を認めてくれる社会がほしい、と。それは、私自身の心の軌跡からも自覚できるし共感できるものだ。

 集団への同調を強要してくる日本の伝統の中で、60年代70年代の、やっと近代化に目覚めていた多くの日本人の意識は、個人化、プライバシーへの希求に強く傾いていた、そのために、脱物質主義の中で、欧米社会の若者たちが求めていた、むしろ「孤独」を乗り越えてお互いにつながり合おう、社会に参加し関与しようという、新しい形での共生への意識につながっていかなかったという点で、欧米の文化シフトとはくっきりと性格を異にするものであったことをイングルハートはデータを持って示している。

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 2000年ごろ、世界は、一斉にグロバリゼーションの時代を迎えた。欧米社会に文化シフトが起こっていながら、富をむさぼる人間の傲慢と欲望は今も変わらない。
 そして、一昨年、また、昨年と重なる金融危機は、人間の強欲が、人類社会自身に牙を向けはじめていることを自覚させられる事態にほかならなかった。

 そんな中で、欧米社会は再び『共生』的な価値意識と制度を求めて動き始めている。地球規模での人類の平等と共生を実現しなければ、地球社会そのものが存続できないことに気付き始めている。

 日本は、と言えば、、、

 私は、市民社会を実現するための要件が、今こそやっとそろい始めているのではないか、と感じている。グロバリゼーションがもたらした貧富の差、飽和値を超えてしまった人々の閉塞感は、もう、この先には市民社会を実現するしかないではないか、という気分を日本の中に広くもたらしたように思う。
 バブルがはじける前の、豊かな経済的な発展を、今の日本人は知っている。同時に、バブルがはじけ、グロバリゼーションの激しい競争にもまれたことで、人間の幸福が、物質だけから得られるものではないことに多くの人々が気付き始めている。

 1970年代の、西洋先進主義の若者たちの意識を共有できる人々が日本にも絶対数として増えてきているのではないか。急激な高度成長の中で、不幸な不登校や引きこもりを生んだ日本は、そういう社会が、個人の魂を限りなく孤独にするものであることも体験してきた。
 「こんな競争社会、もうたくさんだ」という声にならない声が聞こえる。

 やっと、日本が市民社会として成熟できる条件がそろってきたのではないか。

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 ただ、問題は、 少なくとも二つある。

 一つは、この国の戦後教育が、「考えないで追従するだけ」こそが「よい子」である、として子どもを育ててきたことだ。「考えない」よい子と、そんな学校に「適応できない」、それがために「自身も自尊感情も持てない」落ちこぼれの子、そして、そうして育てられて大人になってしまった人があまりにも多い。

 70年代のヨーロッパには、元気のいい若者がいた。しかし、せっかく成熟社会の入り口に立っている日本には、あのように元気のいい若者があまり見当たらない。言あげをすることを嫌う大人社会はいまだに根強い。

 元気がよくて、自分の頭で考え、社会に参加する意思を持つ若者を育てるのには、まだこれから確実に20年も30年もの歳月がかかる。今すぐに始めたとしてもだ。すでに大人になっている人、企業組織の中にいる人々、漫然とテレビの娯楽番組にかじりつく人々にももっと働きかけていった方がいい。

 もう一つの問題は、日本を先進国並みに押し上げた経済発展を支えた労働倫理だ。残業してこそ、一生懸命働いてこそ今の日本の発展があるという人々は、まだ、企業家の中に多い。確かに、そういう労働倫理が、高い品質の産物を生み、日本産の製品の名を高め、一見「効率の良い」組織づくりを外国にアピールしてきた。そこには、確かに短期に日本を豊かにした利点があったと思う。しかし、どんなシステムにも必ず短所があるように、こういうシステムこそが、多くの日本人の幸福を奪ってきた。このシステムの持つ問題を、冷めた目で見つめながら、どうやって改善努力をしていくか、、、、。70年代の日本の経済高成長は、欧米企業家らから称賛を浴びるものであっただけに、影の問題を認めたくない、という人は多いはずだ。これも、市民社会の成熟のために必要な制度改革にとって、非常に厄介な障害になるだろう、と感じる。

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 けれども、今日本社会が置かれている状況を、地球規模で見た時、、、

 西洋とは異なる、不自然に急速で、伝統の租借からではなく外から処方箋を取り入れながら近代化を果たしてきた日本が、今、どうやって日本人一人一人の幸福を保障する市民社会を実現できるか。それは、中国やインドなど、同じように、古い社会倫理を引きずりながら経済急成長をしている国々で、やがて必ず起こる問題だと思う。日本が、今、自力でこの問題を乗り越え、成熟した市民社会を実現することができたなら、それは、こういう国々に対して一つのモデルを示すことになるだろう。

 やがて、地球規模で、異文化間のすべての人の平等と幸福観が保障され、自然との共生が実現されることが究極の目的であるのなら、日本社会の現在の努力は、そういう地球のあり方に大きく貢献するものになると思う。今、という時代の世界の風は、そっちの方に吹き始めている。

2009/08/22

表現が求める共感

 この夏、久しぶりにまるまる1カ月休暇を満喫した。
 と言っても、ボーっと何もしないでいると罪悪感を感じてしまう貧乏性の日本人。「休暇を満喫」とは名ばかり。休むということに一切の罪悪感を感じることのないオランダ人の夫からすると、体も心も解放しきれない私は、「休むことが下手だなあ」と見えるらしい。

 そういう夫の視線をひしひし感じつつ、「ようし」とやっと丸2日間浸り切った読書。世界中で売れに売れているスペインのカルロス・ルイス・ザフォンが、この初夏に出したばかりの新著、娯楽長編ミステリーThe Angel's Gameを、日ごろの頭を切り替えて、青胡桃の緑陰にガーデンチェアを持ち出して堪能した。

 この作家は、以前、「The Shadow of the Wind」という本を書いて、爆発的なベストセラーとなり、世界中で何カ国語にも訳され、ロングセラーを続けている。普段、あまりベストセラーには手が伸びないのだが、この本は、舞台がバルセロナで、この都市はゆっくり訪れ散策したことがあるだけに、つい引き込まれて読んだのが最初だった。本の中に出てくる地名、通りの名など、カタルーニャの民族意識を受け継いだバルセロナという土地の人々の感情、そして、長く独裁政権だったスペインの閉塞感など、時代の暗い影が付きまとう中でのミステリーは、背後に、きりきりとした人間不信の冷たさを感じ、それだけでも興味深い。

 新作The Angel's Gameの主人公は、貧しい少年時代を背景に持つ売れっ子作家。この主人公に投影されているルイス・ザフォン自身の姿、また、登場する書店主、ジャーナリスト、出版業者、編集人ら、本にまつわる職業人たちの言葉が、作家の、文章を媒介とした表現者としてのややあからさまなほどの思い、本作りへの姿勢を表している。それだけでも十分に読み応えのある、また、表現としても、すぐれた文章の数々、巧みな構成と出会えて、一カ月もある休暇の、わずか2日を占める読書になった。

 中身をばらしてしまったのでは興ざめなので、一つだけ。

 重要登場人物の一人である、謎の編集者アンドレアス・コレリが、こう語る部分がある。

An intellectual is usually someone who isn’t exactly distinguished by
his intellect. He claims that label to compensate for his own
inadequacies. It’s as old as that saying: tell me what you boast of
and I’ll tell you what you lack. Our daily bread. The incompetent
always present themselves as experts, the cruel as pious, sinners as
excessively devout, usurers as benefactors, the small-minded as
patriots, the arrogant as humble, the vulgar as elegant and the
feeble-minded as intellectual. Once again, it’s all the work of
nature. Far from being the sylph to whom poets sing, nature is a
cruel, voracious mother who needs to feed on the creatures she gives
birth to in order to stay alive. (Carlos Ruiz Zafon,The Angel's Game, p.170)
知識人というのは、普通、正確にいうなら、本人の知性をみてそうだと選ばれたわけではない人のことをいうんでね。そういう奴は自分につけられたこのレッテルが自分の不足を補ってくれると思っているのさ。ほら、昔から言うじゃないか、おまえさんが自慢できることを俺に言ってみな、そうしたら、おまえに欠けているものがなんなのかを教えてやるから、とね。欠けているのは毎日のパンさ。力のない奴はいつも自分を専門家だと見せかけるもの。残酷なやつは敬虔な人間になりすまし、罪深い奴はものすごく献身的な人の振りをし、高利貸しは恩人ぶって、小心者は愛国者に、傲慢なやつほど謙遜な振りをして、品のない奴こそ気品を装い、意志薄弱なものほど知識人の顔をする。もう一度言っておくがね、これもみんな自然のなせる技なのさ。自然なんてものはね、詩人たちが詠って見せる、ほっそりとしたやさしい妖精なんかとは影も形も違うものでね、自分が生みだす生き物たちが、生き延びていくために食わせていかなくてはならない、残酷で貪欲な母親なのさ。(リヒテルズ試訳)

 シニシズムの骨頂というよりない、この冷たい、しかし読者をして考えさせずにおれない皮肉極まりない言質。この謎の編集者に翻弄されつつ、主人公は、こういう、結局はありふれたシニシズムを越えて、生きて血の通った人間としての作家の生きようを見せる。ルイス・ザフォン自身の、作家としての、人としての生きがいの理想を投影しているのだろう。

 彼の公式サイトには、こういう言葉も出てくる。

I do not write for myself, but for other people. Real people. For
you. I believe it was Umberto Eco who said that writers who say they
write for themselves and do not care about having an audience are full
of shit, and that the only thing you write for yourself is your
grocery shopping list. I couldn't agree more.
http://www.carlosruizzafon.co.uk/
私は自分のために書いたりしない、他人のために書いているんだよ。現実にいる人たち、つまりはあなたたち読者のみなさんのためにね。自分自身のために書いている、読者なんて気にしちゃあいないなんていう作家なんて糞ったれもいいところ、人が自分のために書くものは雑貨屋に出かけるときに持ってくショッピングリストだけさ、と言ったのは、確かウンベルト・エコだったと思うけど、これくらいうまく言い当てた言葉を私はほかに知らないなあ。(リヒテルズ試訳)

 物を書くことが、単なる自己実現のためなのであれば、しない方がいい。私自身もそう思う。
 
 物を書くとは、そして、おそらく、文章に限らず、ありとあらゆる媒介による「表現」とは、他者とコミュニケーションにほかならないのだろう。自身に課された自身にしかできないものを、他者に提供すること、お互いに提供し合うことと言ってもいいのかもしれない。

 しかし、作家もビジネス。人間の行為の多くはビジネスだ。
 だから余計に、最初に引用した謎の編集者の言葉が響く。私たちは、パンなくしては生きていられない。しかし、パンは、お互いに、相手を楽しませ、相手の役に立つものを提供し合って得ようではないか、、、、そんな風なことを言っているのでは、と深読みする。

 誤解を恐れずに言うが、私は、あの、ガウディという建築家がどうも好きになれない。
 あの、永遠に未完のままかもしれない、奇妙で巨大な建物サグラダ・ファミリアが聳え立つ、あのバルセロナに育ったこの作家は、ガウディをどんなふうに感じているのだろう。

2009/08/15

マイナス評価からプラス評価へ

 今朝、犬を連れて散歩に出たら、大きな森林公園の入り口、路面電車の停留所付近で、高校生か大学生くらいの若者たちが数人、ビデオカメラを据え付けて映画撮影をしていた。その中の一人は、停留所のポールによじ登って高い位置からカメラを回していた。
 ちょうど通りがかったパトカーがその付近に止まって、補助席の窓ガラスを下げて、巡査官がひょいと顔をのぞかせ、この若者たちに話しかけた。
「映画撮ってるのかい?」
 ボサボサ頭で色の褪めたT シャツによれよれジーパン姿の若者が、
「うん、そうだよ」
と答えて、パトカーの方に近づき、巡査の差し出す手をとって握手をした。

 それからの短い会話は、私にはよく聞き取れなかったが、数分ほどして、
「じゃあ、がんばれよ」
と巡査は声をかけて、また、パトカーを走らせ消えていった。

 短い出来事だったが、オランダの警察官の気さくさ、威圧的、高圧的ではない態度をよく示す場面だった。

 ある人がこんなことを言ったのを思い出す。
 オランダはじめヨーロッパで長く人気だったサッカーは、入っていく点数を数えるプラス評価のスポーツだが、日本やアメリカで人気の野球は、失敗の数を数えるマイナス評価のスポーツだ、と。
 スポーツのことはよくわからない。でも、オランダ人と日本人が他人に対する評価を見て要ると、確かに、オランダ人たちは、マイナスの点には目をつぶり、できるだけプラスに目を向けようとするのに対し、日本人は、どうも欠点や失敗を探して、それを修正することに懸命なようだ。

 実を言うと、オランダ人も、昔は、欠点探しの方をやっていたのだと思う。学校などは皆そうだった。このことは、オランダ人に限らず言えることで、ピーター・センゲなども、「産業型社会の教育」の特徴として、子どもを「欠陥品」としてとらえ、学校は欠陥ばかりの子どもたちの足りない部分を補うものとして考えられてきた、と言っている。
 しかしそれは、大量生産型の教育、工場の規格品生産をモデルにした、つまりは、産業社会の歯車を作ることにしか関心がなかった時代の学校のことだ。そうして、そういう学校教育をあまりにも長く続けてきた結果、子どもたちは、自分の頭で考えることをやめ、社会に「人として」参加することをやめ、十羽ひとからげの取り扱いを受けることに何の疑義も呈さないで黙々と働き続ける大人として育てられるようになった。こういう教育の仕方、こういう人間を作ることは、確かに、一面で、品質保証のある生産物を生み出す基本にはなってきたかもしれない。失敗、欠陥を補正する授業は、人々の考え、文章にできるだけ間違いを作らない、粗悪品の少ない社会を生んできたかもしれない。
 しかし、それだけでは幸福な人々の社会にはならなかった。創造的な、失敗を恐れずに何かを試みてみるという人々を生む原動力は欠いていた。
 両者のバランスは必要であると思う。また、マンパワーというものを目の前の現今の産業発展のためだけに使おうとする狭い了見では、人間の能力の計り知れない広さや深さを十二分に活用することもできなかったはずだ。

 マイナス評価からプラス評価に変えなくてはならない理由はここにあると思う。
 規制の規範、権威、評価基準で何もかもを管理しよう、押さえつけようというのは、人間が持っている無限の力を抑えつけてしまうものにほかならない。

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 明日十八日の衆院選公示を前に、すでに、選挙をめぐって活発な議論が起きている。
 民主党の支持率が増えているだけに、政権交代の可能性が現実のものとなり、長く、本当に長く続いた自民党一党独裁に終止符が打たれそうな様子だ。
 政権が変わるかもしれない、変えられるかもしれない、というくらい、有権者の政治参加意識をそそるものはない。

 テレビを通じて党首討論会は報道される。従来の記者クラブの記者会見などでは見られなかった政治家の「討論能力」が有権者の前に晒される。
 今日の六党党首会談では、党首らが、みんなで握手をして見せている写真が公開された。政治とは、みんなで作るもの、日本の政治は、与野党が討論して、より良いもの、有権者が望むものを反映するものだ、ということが、伝わるようになるのではないか、と思う。
 やっと、しかし、一気に、日本の政治が欧州の先進国並みの、民主主義国家らしい形状を見せ始めている。

 「経験が少ない」と言われマニフェストの有効性も問われる民主党ではあるが、今回の選挙は、「政権交代を有権者の手で実現させること」に意義があるのだと思う。自民党以外に政権をとるチャンスを与えてこなかったのは有権者自身だ。政権が代われば、経験のなさは当然マイナス要因となるだろう。だが、それは、はじめからわかりきったこと。むしろ、この新しい政権に、忍耐強く時間を与えて、新しい試みで、今の日本の問題のいくつかを打破させてみることではないか。マスコミの言論がこれほど重要なカギとなる時期はないと思う。政治的な動きを、淡々と、オープンに、公正に人々に伝えていってほしい。そして、評価できるものを評価させる時間を設けるべきだと思う。

 マスコミ丸抱え、偏向メディアによる大衆操作、画一教育による価値観一元化、言論ではないけたたましい右翼的な集団の暴力まがいの恐喝、アメリカからのバックアップ、世界第二の経済力、そして、世襲と言う名の「家柄」「経験」のある政治家をもってしても、日本を立て直せず、世界中の先進国の中で、最も不幸感の高い国を作ったのが、自民党の戦後政治ではなかったか。チャンスは、自民党以外に回してみるべきだ。自民党は、野党になって、一度、政党としての体質を根本的に改善し直してみるべきだと思う。
 それで初めて、日本の政治は、保守、リベラル、社会主義、環境派などと、立場と強調点を異にする政党が、それぞれにぶつかりあい妥協しあって、日本という船のかじ取りをしていく、成熟した民主主義にやっと一歩を踏み出せる。