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2010/09/24

自由

あなたがあなたらしくしていられること、それが自由。

どの人もそれぞれ自分らしく生きることを保障されている社会、それが民主社会。

それを法に照らして守る努力をする、、、それが、官僚の仕事のはずなのだけれど。

2010/09/06

エリート形成をしてこなかった日本

研修で半年間オックスフォードに滞在している娘を訪ねて、数日イギリスを旅してきた。今から36年前、19歳の時に訪れて以来だ。

36年前に比べて、オックスフォードはすっかり様変わりしていた。外国人の留学生や観光客であふれかえっていることだ。70年代初頭には、外国人留学生といっても、多分、よほどのエリートか、かつてイギリスの植民地だった国々のリーダーたちくらいしかわざわざここまで来て勉強することはできなかったのではないか。しかし、英語が世界の共通語になり、国境を超えることも容易になった現在では、オックス・ブリッジは、ヨーロッパにおけるのエリート教育の、ひとつのメッカになっている。

現に、娘のように、自国で自分が通っている大学の単位と交換できるという好条件のために、気軽に外国の大学で単位を取るヨーロッパの学生は多い。自国とは異なる文化の異なる大学での経験が、複眼的に見る力を育てることは間違いない。欧州諸国の中でも特に、イギリスは、英語で留学できるので、外国人留学生の数が飛びぬけて多い。

オックスフォードやケンブリッジは、チューターと呼ばれる教官らが、少人数の学生と寝食を共にして、丁寧にエリートの養成にかかわるカレッジ制度で有名だ。

高校卒業資格を取るとどの大学にも入学できるオランダの制度とは異なり、イギリスでは、科目ごとにAレベルと呼ばれる資格を持っていなくてはならないほか、さらに、作文や面接に拠る選抜が入学の条件になっている。オックスフォードやケンブリッジは、中でも、有名エリート養成校として、むかしから、相当に厳しい関門がある。

専門書だけで16万冊以上の本を棚にそろえているという、有名なブラックウェルという名の本屋を訪れた。入口の近くに並べられていた新刊ベストセラーの中に、面白い本を見つけた。

「あなたは自分が利口だと思うか?」というタイトルのこの本は、実を言うと、オックスフォードとケンブリッジの入学志願者らが、面接で実際に教官たちから聞かれた「質問」を集めたものだ。タイトルの質問も、そのうちの一つ。

ぱらぱらとめくってみるとこんな質問があった。
「仮に地面に穴を掘って、地球の反対側まで掘り続け、反対側まで辿りつけたとしよう。反対側に穴が開いた瞬間に、すぐに反対向きに戻ってくるとしよう。いったい、何が起こるだろうか?」(工学部)
「毛沢東が今生きていて、現在の中国の経済政策を見たとしたら、一体何というだろうか?」(東洋思想)

こういう種類の、実に意地悪な質問が、一冊の本にズラリと並んでいるのだ。考えただけで、背中に冷や汗を浴びそうな質問ばかりだ。

おそらく、決まった答えがある、というよりも、面接を受ける志願生が、どれだけ論理的な思考力を持っているか、幅広い関心やありとあらゆる状況・条件を考慮する力があるか、また、自分の考えを適切に言葉で表現できるか、などを問おうとしているのであろう。独創性も問われているかもしれない。

オックスフォードやケンブリッジの大学のサイトを見てみると、各学科ごとに、どんな能力や適性が問われるのか、を一覧にして具体的に上げてある。それは、科目ごとに試験を受けてAレベルの成績をとったということだけではすまない、筆記試験では測ることのできない、実際に会ってみて議論や意見交換をして見なければ推量できない能力だ。
入学の条件になるのは、筆記試験と口頭面接だけではなく、趣味やスポーツ、社会活動への関心なども含まれる。もちろん、社会奉仕活動さえしていれば、それだけで「有利」というような単純なものではないはずだ。問われているのは、オールラウンドの能力、いずれ、人の上に立つ人間としての全人的な能力を持っているか、あるいは、その能力を引き出されるだけの、エリートとして潜在的な価値のある人間か、なのだ。

大学の入学試験は だから、「エリート」になるための最初の重要な関門だともいえる。
日本のように、中学、高校、大学と進学するたびに、筆記試験で知識の量を測られる入試制度とは少し趣が異なる。

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昔から、パブリックスクールと呼ばれる全寮制のエリート中等教育を出て、オックス・ブリッジのカレッジでエリート養成を受ける、というのは、イギリスのエリート教育の一つのパターンだった。
しかし当然、そういう高い教育費を払える家庭の子どもだけではなく、社会経済的に恵まれていなくても、優れた能力を持つ子どもたちには、国から奨学金が与えられる仕組みがある。

エリート教育は、国の行方を決める、さまざまの分野での指導者たちを育てるためのものだからだ。


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パブやカフェを訪れると、学生や若人らが、テーブルでビールのグラスなどを前に、何時間も真剣に政治議論を交わしたり、専門分野の議論に花を咲かせている。日本の町ではほとんど出くわすことのない風景だ。そこには、インド、バングラデシュ、南アフリカ、などといった国々からの、見るからに頭のよさそうな学生らもまじえた、真剣なまなざしと真剣な議論がある。
欧州の学生らも、単位互換制度や語学研修、サマースクールなどを利用して、始終出入りし、国際的な学術交流の経験を重ねている。


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そういう風景を目の前にして、ふと、インターネット上で日本の時事を見た時にふと垣間見える、何か、タイムスリップしてしまったような、世界からの懸隔、世界から置いてきぼりにされているような、はたまた、世界から目をつぶってしまったような日本を、いったいどう理解すればいいのだろう。

日本の教育は、エリートも一般市民も、どちらも育ててこなかったと思う。

日本の教育が育てているのは、多肢選択肢の試験で勝ち残ってきた、認知能力だけに著しく偏った、(有名)大学のパッシブでおとなしい学生たちと、授業についていけずに落ちこぼれるしか選択肢がなく、ひねくれて社会に背を向ける子どもや大人たちだけだ。

ヨーロッパの国々がエリート形成にかける真剣さを、日本人は、日本の指導者は、文科省の官吏らは、多分ほとんど実感として知らないのだろう。

相も変わらぬ一斉画一教育、入試で子どもたちをふるいにかけるだけの学歴社会は、エリートとなるだけの能力を潜在的に持って生まれてきた子どもたちの力を引き出していない。また、エリートにならない、今の制度ではふるいに掛けられて振り落されるだけの子どもたちに、生き生きと生きていけるすべを与えていない。


試験競争に勝ち残って有名大学に入ってきた学生たちは、やがて、地位の安定と高給だけを目指して、政治家となり、官僚となり、大企業に入って管理職への階段をのぼりはじめ、大新聞社や大出版社の従順な社員となる。彼らは、「エリート」として、国の発展のために尽くすことを、彼らの使命としてどれほど真剣にとらえているのだろう。「自分さえよければ」「自分の人生さえうまく終えることができれば」後にどんな社会が残ろうとも、頬被りをして済ますだけのエリートたちだ。

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本来、学校とは「科学」を学ぶ場だ。
「科学」とは、「問うこと」から始まる。自分が自分の経験を通して、自分の頭で考えた「問い」だ。「問い」に仮の答えを出してみるのが「仮説」であり、それを、誰の目にも明らかな方法で証明してみるのが「科学的な手続き」である。

だが、いったい、「卒業論文」という名の科学論文を、何割の学生が「問い」をたて「仮説」を立てて、科学的に証明したプロセスとして書いているだろうか。一体、何割の学生が、「私見」を交えずに、客観的な手続きを、客観的な記述と説明で論文に組み立てているだろうか。いったい、どれだけの学生が、先行研究の研究者に、払われるべき尊重の態度をもって、他者の論文の出典を明らかにして公正な引用をしているだろうか。筆記・口頭での議論を通して、立場の違い、証明の手続きの違いを明らかにするというプロセスを、どれくらい訓練されているだろうか。

FindingsとConclusionの違いを説明できる大学生が、いったい、日本の大学生の全数のうちに何割いるだろう。

そもそも、中等教育までの教育の中で、あるいは、遅くとも大学教育の中に、科学的な証明とは何か、科学的な論文とは何か、を学べるカリキュラムがどれほど組み込まれているのだろうか。大学教育に携わっている教員たちの、いったい何割が、国際的に通用する「科学」的な手続きをもって何かを証明しようとしているのか???? 単なる知識の切り貼りではなく、、

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大学が、科学を尊重して、あらゆる分野での先端の仕事にかかわるエリートを育てる場なのだとしたら、日本の大学は、大半が「大学」の名に値しない。

有名大学に入ってくるのは、他人を押しのけて、点数競争で勝ち残っただけの学生だけだ。二流といわれる大学では、中学の数学を教えたり、リクルート訓練をしたりしているという。

入試競争に勝ち残ってうまく有名大学に入学した学生たちが、卒業して、政治家、官僚、ジャーナリスト、会社の経営者、などなどの立場に着いた時、いったい、彼らに、社会を率いる、どんな力があるというのだろう。社会を率いるために必要な、リーダーシップやく人を説得し人の言葉に耳を傾けるというコミュニケーション能力、集団で協力して物事を進める力、物事の裏の面を見る力、批判的な思考、反対意見に耳を傾け、自分に反対する人を説得する力などなどの力を、彼らは、学校生活のどこで、いつ育てられているのだろう。社会を率いるどころか、自分の[社会的地位]「高給」が約束されることだけが、目的の人生を送る人が大半なのではないか。

いったい、だれが、そんなエリートを来る日も来る日も育ててきたのだろう、、、?

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どんな国にも、同じ程度の比率の人が、エリートとして、社会を引っ張るだけの(潜在的な)能力を持っていると思う。しかし、日本の場合、そういう能力を持ってうまれてきているはずの人たちのさまざまな力が、学校教育の場で十分に引き出されず、十分に育てられず、訓練されないまま、世の中に吐き出されているのではないか。

客観的で科学的な手続きを踏まえた知識や、正当な議論の力によってではなく、カリスマ的な人気が社会的影響力を持つための重要な要因となる今の日本は、おかしいし、危険だ。

有名大学の卒業者たちは、多分、それで満足なのだろう。なにしろ、この国は、有名大学を出れば、「桁はずれ」の高給と社会的地位が約束されるのだから。
しかし、そんな日本の大学の卒業生らの力は、今、世界からは取り残されつつある。そして、約束された高給や地位も、社会に未来がなくなれば、崩れさることは目に見えている。もしかすると、今の時代の動きの速さから行くと、「安心できる」はずの学歴も、何の確証にもならない日が目前に来ることだろう。世界中のエリートたちが、本当に全人的な、オールマイティの能力を、アメリカやヨーロッパの伝統あるエリート教育の場で訓練されつつあるのだから。