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2009/12/29

市民社会のリーダーとは?

 リーダーシップについての議論が最近よく聞かれる。
 特に、オランダのように、世の人々が、世間的な権威主義を嫌い、強い平等観と、現実に貧富の差を最大限に縮小させようとしてきた国にとって、権威によらないリーダーシップは何なのか、と再考されているように思う。
 とりわけ、テロリストの搭乗を許してしまったスキポール空港について、いったい、だれが、責任を持つべきなのか、もしも、権威的なリーダーがいないのなら、いったい、組織として、隙間のない運営をするには、どんなプロトコルが必要なのか、という問いが、人々の頭をよぎるもののようだ。

 他方、世界中の人々が大きな先行き不安の中にある地球温暖化問題について、各国の利益を越えて確実な成果を生むための施策に同意するに至らなかったコペンハーゲンでの会議。大国の利害衝突、先進国・新興国・更新の貧困国の間の利益衝突などを、いったい、現行の国連の決議様式で処理し得るのか、という問題もある。

 個々の国家の制度と伝統的な文化様式の差異を受け入れ、その多様性をもとに全体としての発展を目指しているヨーロッパ連合のあり方は、そんな中で、コーポラティズムを基盤とした国際化のモデルを実験的に進めようとしているように見える。しかし、そんなヨーロッパ連合ですら、詳細にみてみれば、独・仏・英などの大国の発言権はいまだに大きい。各国それぞれの、自国中心主義やナショナリズムは、再々登場するアイデンティティ議論が象徴している。

 そんな中で、2009年9月以降の日本の新政権のリーダーたちには、政治家としてのリーダーシップのあり方に、これまでの日本の政治リーダーには見られなかった、ある種の理想主義が垣間見られるように思う。こんな時代だから、人心をつかむリーダーシップが必要である、やっとアメリカ依存の似非民主主義の時代を脱却して、これから本当の民主社会を作る門口に立った日本が、これから、どんな市民作りをして行くのか、その、主権者としての市民を率いる政治レーダーとはどうあるべきか、を、とにもかくにも、今政権のリーダーたちは、注意深く言動を選びながら考え始めているように思う。

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優れたリーダーの条件とは何だろう。

個人の利益や名声よりも、集団の利益を優先できることは、リーダーの根本条件だ。

そして、自分の力の限界を知っており、その不足を、他の優れたリーダーとの協力に求める姿勢、それは、多元的な、これからの世界社会に不可欠な条件であると思う。

大衆からの人気取り・威圧的態度・脅しをかけるような大声、そんなものは、リーダーには要らない。

『良い教師とは、自分では舞台に上がらない舞台監督のようなものだ』という言葉を、オランダの教育研修者が教えてくれた。
民主化時代のリーダーも同じだと思う。
『良いリーダーとは、自分では舞台に上がらない舞台監督のようなもの』そう思う。

日本政治のリーダーシップは、今、とてもいい感じで整いつつあるようにみえる。
ただ、愕然とするのは、

『いったい何をしたいのか、はっきりさせてくれ』という有権者たちだ。

何をしたいのか、はっきりさせなくてはならないのは、有権者一人ひとりであるはずだ。
政治とは、政治家がもたらす温情、そう思ってきた戦後日本の民主主義は民主主義ではない。

政治リーダーは、どんな問題にも効く万能薬の処方人ではない。

日本がこれから取り組むべき問題に対して、万能薬になる先例は、アメリカにも、ヨーロッパにも、中国にもない。一つ一つの具体的問題に、現場で取り組む覚悟のある一人ひとりの日本人が必要なだけだ。そして、一人ひとりが、自由意思で取り組める制度的な環境が整えられればそれでいい。

2009/12/23

主権者の自尊心

 第1次湾岸戦争が勃発して間もない1991年2月、私たち一家は、南米の貧しい国ボリヴィアの政府所在地ラパスに降り立った。

 標高4000メートル以上の空港から、高山病を避けて、タクシーでバタバタと市街地に運ばれていく。アンデス山脈の大地に、すり鉢のようにぽっかり空いたラパスの町は、中心が、すり鉢の底にあった。すり鉢の縁に近いほど、アドべといわれる泥塀の貧しい民家が、坂道に沿ってひしめくように並び、すり鉢の底に近い、わずかな中心地に、近代的なビルやオフィス、ショッピングストリートが並んでいた。狭い歩道にひしめくような通行人の流れ、ビルの谷間の緑地や歩道や階段には、ぼろを着たインディオたちが、あるいは横になり、あるいは赤子を抱いて、通行人の投げるコインを乞うていた。高地に特有の、澄み切った青い空の下、路上生活者のいる公園や階段は、糞尿などの饐えた匂いが立ち込めていた。

 到着直後住まいが見つかるまでの1カ月間を過ごしたラパスのホテルのすぐ近くには、官立のサン・アンドレス大学の本部があった。
 その大学の門の近く、塀一面、そして、大学に近い路上の電柱という電柱、壁という壁に、隙間もなく張り巡らされていたのは、湾岸戦争でイラクへの軍事攻撃を始めたアメリカ合衆国に対する批判のビラだった。

 ボリヴィアに来る前に、5年余りを暮らしたコスタリカは、アメリカの裏庭といわれていた中米地域にある。そういわれながらも、当時の中米には、共産政権となっていたニカラグアがあり、軍を放棄して中立を維持していたコスタリカがあった。しかし、そんな中米の雰囲気とも打って変わった貧しさと、率直な反米意識が、ついたばかりのボリヴィアの印象だった。

 80年代には、度重なるクーデターや軍事政権で疲弊していた国。私たちが滞在していた90年代前半も、民間政権であったとはいえ、一握りの政治エリートが、先進国の開発援助資金と外国企業がもたらす労働機会を奪いあい、貧しいインディオたちは、都市化と環境汚染と、麻薬問題の中で、生活はよくなるどころか、ますます苦しいものになっているように見えた。

 サン・アンドレス大学には、中等教育を終えた若者たちが無条件で入学できた。しかし、質の高い教授は国外に出て行ってしまうし、いてもかけもち教員。頭もよく、研究意欲もあり、高い社会参加意識や動機があっても、不安定な政治と、向上しない経済の中で、出口のないうつうつとした青春を強いられているようにも見えた。

 湾岸戦争は、原油をめぐる利権争いだ。それは、イスラム教への差別でもあった。しかし、そんな事態の中で、ボリヴィアの若者や労働者たちは、自らキリスト教国の人間でありながら、攻撃を仕掛けた米国の傲慢を声高に批判していた。

 南米は、かつて、スペインの植民地支配者に荒らされつくした国々だ。キリスト教化も、支配者とともに送られてきた宣教師のわざによるもので、その偽善の歴史を、現地の人々は見抜いて生きてきた。
 6年足らずのボリヴィアでの滞在中、くるくると交代する政権のもとで、いったい何度路上に人々のストライキやデモを見たことだろう、、、。この国に、いったい、民主主義なるものが生まれるのはいつのことだろう、そう、部外者ながら思ったことだ。

 そんなボリヴィアに、2005年、エヴォ・モラレスというアイマラ系のインディオ出身で、中卒の大統領が誕生した。革新派で平和志向の政治家だ。そのエヴォ・モラレスが、今年、圧倒的な支持を得て再選された。

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 世界の最貧国から数えた方が早いボリヴィアという国。滅多に世界のニュースにも取り上げられることのない国だが、この国の人たちは、長い抑圧の歴史とグローバリゼーションで広がる貧富の差の中で、誰に聞かれることがなくとも、声を上げ続けている。たぶん、それは、尊厳のある暮らしを求めるひとびとの声なのだろう。札束で頬を叩くような援助や投資をし続けるアメリカ合衆国の、うそに満ちた『自由』や「民主主義」を見抜いている人たちが、アンデスの山の中のあの国にはいる。そして、インディオの大統領を選んだ、その国の有権者たちは、一国の主権が、その国の人々にあることを示してあまりない。

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 日本の新聞は、こぞって、普天間問題をめぐって日米関係が緊張していると騒いでいる。公約が果たせないかもしれない、前途多難で、実績を示していない民主党に批判をするつもりなのはわかる。しかし、日本の新聞はだれのためのものなのか、、、。アメリカの政治家の言動に一喜一憂するのも結構だが、もっとやらなくてはならないのは、国内の多様な声を公開し、普天間問題を、アメリカの機嫌取りによってではなく、国民の合意として解決するための情報を提供することなのではないのか。
 日本の新聞は、長く続いた自民政権の<体制>の枠でしか、いまだにモノを考えられないものであるらしい。
 先見の明がマスメディアになければ、世論は作れない。どんなに良い考えも、社会には伝わらない。

2009/12/15

冬樹

 ついこの間まで地球温暖化のせいで温かいな、と思っていたが、昨日あたりから急に冷え込んできた。明け方の冷え込みは氷点下6度、日中でも気温が氷点下のまま、毎日散策するスヘベニンゲンの森は、すっかり葉を落としてしまったブナや樫の木が、樹氷で美しい。
 しかも、緯度の高いオランダは、昼間の太陽でも、30度くらいの斜角にしか上がらない。晴れてさえいれば、人の肌を思わせるようなすべすべと美しいブナの木肌に、南の方からの斜陽が長く続き、得も言われぬ美しさだ。

 冬の立ち木は、まるで、無駄という無駄をすっかり捨て去って裸になって立っている人のようでもある。

 そして、その枝ぶりは、一つ一つが天に向かって力の限り伸びながら、何の飾り気もない、自分の力だけで立っているように見え、そのキリリとした凛々しさが美しい。

 人も、世も、時々こうして無駄をなくし、しんしんと冷える厳しさの中に立ってみることが必要なのかもしれない、とふと思う。そして、素裸の自分を知ることは、同時に、未来への出発点を知ることであるのかもしれない、と。

 寒風は、温かさというものに気づかせてくれる。

2009/12/03

怒り

 良い仕事をしている人、良い生き方をしている人の原動力は、怒りではないか、と思うことが多い。

 怒りは、多分、不条理に対するものであろう。

 不条理は、人の尊厳に斬りつけ、涙という血を流させる。

 だから、怒りは、人が自分の尊厳を保つために起こす自然のリアクションであると思う。


 しかし、最近思うことがある。怒りは、それに続く道に、二つの選択肢を持っている、と。
 一つは、良い、生産的で、社会のためになる仕事に昇華するという道、そして、もう一つは、独善、さらには、暴力という、反社会的な道だ。

 不条理を起こさない、穏やかで温かい社会のために働きたい。
 でも、それでも不条理があるのなら、そのために生まれる何万、何十万、何億という怒りが、せめて、独善と暴力にならないようにと、心から祈っていたい。

日本は孤立していない:軍事をめぐる対米関係と国内政治---マスメディアの力が発揮される時

 今日の日本とオランダの新聞の1面は、実に興味深い酷似した記事で埋められた。
 
 今日の日本の新聞は、どこも、社民党の福島党首が、2006年の自公政権時代の日米合意に従って米軍普天間飛行場を同県内名護市の辺野古に移設することを民主党が決めるのであれば、『連立政権からの離脱も辞さない』という構えを見せた、というニュースを伝えていた。8月末の総選挙後、民主党との連立政権の樹立にあたって『基地のあり方の見直し』を盛り込んでいた社民党にとって、辺野古への移転を安易に受け入れることは、党内の結束にとっても、党を支持する有権者からの信頼の維持という点からも、裏切りになる。福島党首が党首選に先立って明確な発言を余儀なくされた、というのは納得できる。

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 いよいよ、日本の政治が、まともな政党政治の様相を呈してきた。

 政党間で、優先政治課題をめぐって議論が起こる様子は、オランダの政治で何度も見てきた。そのたびに、連立に揺れが起こり、有権者が政治議論に引きつけられていく。自分はいったいどの立場を支持するのか、と考えさせられる。議論の焦点が知りたくて、新聞やテレビの議論を見ずにはいられなくなる。ジャーナリストの物足りない突っ込みや政治家のあいまいな発言に不満を感じるようになる。だから、ジャーナリストが育ち、政治家の議論力が向上する。

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 ところで、他方、オランダの今日の新聞の一面記事のタイトルは、「ウルズガンをめぐって連立政権内に緊張が高まる―――オランダ軍の駐在延長の圧力をかける米国」というものだった。
 ウルズガンとは、オランダがNATO(北大西洋安全保障条約)の一員として軍を送り平和維持協力をしているアフガニスタンの地域のことだ。かなり危険の高い地域で、これまでに何人かのオランダ兵士が命を落としている。
 昨日、オバマ大統領がアフガニスタンへの派兵増強を決定したことを受け、アメリカ合衆国高官レベルからNATO(北大西洋安全保障条約)加盟国に対して、協力要請があったという。だからオランダの政治家らもざわめきだって来ている。

 元より、アフガニスタンへの平和維持軍の派遣を決めた数年前は、オランダでも激しい政治議論が行われた。決定当時は、親米派のキリスト教民主連盟CDAが主導権を握っており(現在もそうであるが)対米協力の姿勢が明らかであった。しかし、連合を組んでいた中道左派系の小政党、民主66党が反対し、アフガニスタン派兵の決定は、野党にいた大政党労働党の意向に大きくかかることとなった。結局、当時政治的に極めて中道化していた労働党は、民主66党の期待に反して、アフガニスタン派兵に同意してしまった。民主66党は、当時、実に苦い思いをさせられた。

 そんな経緯もあり、また現在、労働党の微妙な立場の変換もあり、状況は変わってきている。
 アフガニスタンへの軍事協力では、犠牲者も出し、、国内でも、その効果や意義についての賛否両論が繰り返された。派兵後に後退してできた新政権では、労働党がキリスト教民主連盟と組んで政権入りをした。当時の選挙では、社会党が票を伸ばし、議会内で革新勢力が増大するとともに、極右的な政党も生まれ、力のバランスが変わり、やや分極化の傾向も見られてきていた。そんな中で、連立政権内でCDAと張り合いながら与党の立場にある労働党は、オランダ軍をアフガニスタンから早く撤退させる方針に姿勢を変えてきている。金融危機下で、防衛支出もばかにはならないはずだ。すでに、内閣は、2007年の段階で、アフガニスタンへの軍事協力は、来年2010年で終了という決定を下しており、議会も承認済みだ。
 来年以降の駐在延長はあり得ない、というところに、今回のオバマ大統領の決定、そして、軍事協力の圧力がかかってくるということとなった。オバマは民主党であり、親ヨーロッパ派で、国際協調支持の立場であるだけに、「やりにくさ」も目に見える。

 与党第1党で親米派のキリスト教民主連盟CDAに属するフェルハーヘン外相は、アメリカ合衆国からの要請を真剣に受けとめるべきで、「軍事協力を残したい」という意向を示した。これに対して、連立政権のパートナーである労働党議員らからは、撤退の姿勢を堅持する反論があがっている。つまり、これが、政権内に『緊張高まる』という事態である。
 特に、外務省内に附設された『開発協力省』の大臣であるクンダーズ開発協力相は、「オランダはすでに十分な軍事貢献をしたのだから、今後は、開発協力に代えられていくべきだ」という意見を明らかにした。また、同党国会議員からは、『アメリカ合衆国は、フランス、イタリア、スペインなど、これまでまだ十分な協力をしてこなかった国から協力を引き出すべきだ』という意見もでてきている。

 いずれにしても、3万人の軍事力増強を決めたアメリカ合衆国は、NATO加盟国に対して、およそ1万人の増強を要請する見込みであるという。今後間もなく、NATO加盟国の外相会議が開かれ、対応が話し合われるらしい。イタリアはすでに1000人増兵を受け入れた、という。

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 世界の紛争地を巡る『平和維持軍』の派遣については、日本でも賛否両論が繰り返されてきた。
 米国からの軍事協力要請に『応えなければならない』という感情は、第2次世界大戦以後、戦災復興期に米国の経済援助の世話になった西側諸国では、大抵どこにでもいまだにある。
 オランダは、戦後間もなく、現在のCDAの前身にあたるカトリックやプロテスタントのキリスト教者を基盤としたキリスト教保守政党が政権をとり、マーシャルプランで知られる米国からの大量の資金援助に助けられて、目覚ましい復興と高度成長を実現できた。NATOは、アメリカが西ヨーロッパの国々に着せている『恩』の象徴のような面が確かにある。

 しかし、冷戦体制下における、米国の「自由社会」の理想の矛盾、血なまぐさいベトナム戦争や産業優先の環境汚染の事実などが、60年代70年代のヨーロッパの若者たちに、自分たちの声を上げる文化を生み出してきた。そして、何より幸いであったのは、そういう、カネやモノの価値だけに振り回される物質文化から離脱して、クオリティ・オブ・ライフ、つまり、心の豊かさを求める人々の意識、それを越えにして自国の政治に反映させなくてはならないのだ、という意識が、一国だけではなく、隣接する複数の国で、同時に起こったことであったろう、と思う。 
 また、それとともに、ヨーロッパの人々は、共産主義のソ連の強権も目の当たりに見てきている。80年代の終わりから、それまで、目の前に立ちはだかっていた鉄のカーテンの向こうの共産諸国が次々に自由主義へと転換し、西側に流れ込んでくる、という経験もしている。強きに従うのではなく、小国たれども、人々が独自の声をあげ、それに基づいて独自の道を選び、また、それぞれの国が各自の独自性を維持しながら協働しなくては、世界情勢の波に洗われてしまうという意識が、ヨーロッパの国々にはある。
 ヨーロッパの国々が多様性をことあらためて強調する、その大元にあるのは、個々の市民の良心の自由が尊重されねばならない、という信念だ。 

 日本は、ロシア、中国、北朝鮮と、共産化していくアジアの中で、唯一、アメリカ合衆国との安全保障条約に保護されて、目覚ましい経済発展を遂げた。とりあえず、隣国の不幸、隣国の開発の遅れは、日本にとってはどうでもよいことだった。しかし、アメリカとの強い紐帯に支えられた経済発展の代償として、日本は、アジアでの孤立を余儀なくされてきた。同時に、日本人は、アメリカの庇護なしに、経済的な豊かさは維持できないのだ、とあたかも暗示にかけられるように刷り込まれてきた。そして、それがために、自分の頭で工夫し、モノを考え、新しいものや考え方を創造的に生み出す国民を一生懸命育てていなくても、何とかなる、そう思わされてきたのだ。しかし、経済発展の恩恵を受けて、本当の幸せを手に入れていたのは、いったい誰であったろう。

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 世界情勢は大きく変わってきている。日本人の不幸は常軌を逸している。世界情勢は日本に外交姿勢の転換を迫り、国内の人々の不幸は、人々自身が自分で選べる生き方、ひいては、人々自身が決める政治への転換を求め始めている。

 変わる情勢の中で、一般市民の議論や声が、世界中に響き渡る時代でもある。

 オランダはじめヨーロッパ諸国の政治方針は、国内政治の駆け引きを対内的にも対外的にもオープンに示していくことで、自国の有権者の声を反映して決められていく。
 同じことが、日本でも求められてきているし、実際にできる政治体制が育ち始めている。今日のニュースを見ながら、そう、強く感じる。日本だけが、対米外交に苦しんでいるわけではない。日本だけが、連立政権の緊張を経験しているわけではない。こういう緊張こそが、有権者を政治参加に目覚めさせ、それが、国外のどんな権力によってでもなく、国の政治を自分たちで動かす政治へと変えていくのだ。

 だが、民主党政権を樹立して、一つ大きな山を越えたように見える今の日本の政治の光景は、あたかも、越えてみた山の向こうに広がる果てしない荒野を見るようだ。60年にわたって対米依存で、民主政治や民主制度の精緻化を怠ってきた今の日本に、自分が政治の主人公だという自覚を持つ有権者は少ない。そういう状況を生んでしまった大きな原因は、一つは、産業社会型の競争教育にあり、もう一つはマスメディアの怠慢にあると思う。後ろには、言論ではなく、暴力でひとびとを脅し続けてきた右翼団体もいたのかもしれない。

 経済大国のこの姿は、あまりに、あまりにみすぼらしい。

 アメリカは、ヨーロッパ諸国の有権者を尊重するように、日本の有権者の意向も尊重するようにならなくてはならないはずだ。開発途上国といわれるアジア、アフリカ、ラテンアメリカの国々に、現地の人々の頬を札束で叩くような態度で乗り込んでいっていた、そんなアメリカ(人)は、もう誰ももとめていない。アメリカが『自由』と『世界協調』をほんとうに尊重する国であるのなら、アフガニスタンであれ、普天間であれ、方針を決めるのは、当事者として政治に参加する各国の有権者ひとりひとりでなくてはならないはずだ。

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 普天間飛行場の移設問題での福島社民党首の発言に対して、鳩山首相は、連立政権安定の優先のために、社民党や国民新党などの意向を尊重する、という態度を明らかにしたという。

 それを受けて、某新聞は「日米関係が大きな打撃を受けるのは避けられない」と素早く付け加えていた。

 新聞には、日本人自身が、福島党首の発言、鳩山首相の対応を『どう受け止めているか』を取材して報道してほしい。日本の新聞は、あたかも、高みの見物をするような記事を書く前に、きちんと、日本人の声を伝える媒体になってほしい。たとえ、日本語の記事であっても、日本人が読んでいる新聞の内容は、アメリカ政府の要人は把握している。日本の新聞は、日本人自身の考えがいったいどこにあるのか、それをどんどん書くべきだ。

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 オランダでは、マスメディアに対して、国から多額の補助金が支払われ、表現の自由が守られている。担当相である教育文化科学省の年報には、こう書かれている。

「メディアは民主主義が機能するために重要な役割を持っている。日刊紙、オピニオン誌、公共放送は、社会内部の議論にステージを与えるものである。近代的な民主主義はさまざまの立場や考え方の人々が声を上げられるメディアの介在なくしては機能することができない。メディアは人々に、生涯にわたって学び続けることを刺激するためのものだ。伝えられる情報内容は、だれからも制限を受けない独立のものでなくてはならず、立場の多様性を保障し、また、十分に質の高いものでなくてはならない。また、それとともに、人々にとって、アクセス可能であり、購入可能な妥当な額のものであることが非常に重要である。」

 オランダの公共放送が、会員制のNPO団体に対して、会員規模によって、放送時間を割り当てる、公衆に開かれたものであることを、私は、これまでに何度も何度も、さまざまの媒体を通して伝えてきた。マイノリティの声を伝えないマスメディアは、民主社会のマスメディアではない。

 これからの日本に、民主主義を支える「社会参加意識」の高い市民が育つか、また、日本という国の未来を、強権を持つ外国の意向に振り回されて決めるのではなく、さまざまの多様な価値観や立場を持つ複数の市民の声を集めながら決めるという政治的な仕組みが生み出されるのかどうかは、マスメディア次第だ。たいへん大きな程度に、新聞や放送の力、そして、もっとはっきり言うなら、メディアで食っている人々の、時として緊張を伴い、かつ勇気を求められる使命感にかかっている。それにしても、この使命感がなくて、いったい、メディア人は、自分の仕事の、何に生きがいを感じ、生きていけるというのだろう、、、、、。

 すべてをカネとモノの価値で決めつける時代は、もうたくさんだ。

2009/10/27

10%の公共への関与、10%の生きる愉しみ、80%の生きるための営み、

 ライフ・ワークバランスという言葉が聞かれるようになって久しい。だが、日々の生活を99%ワークに取られる大半の男たち、そして、少数の女たちには、こういう言葉そのものが空々しく聞こえるだけだろう。
 そして、少しなりと余裕がある人には、あたかも[ライフ・ワークバランス]という言葉が、贅沢なステイタスシンボルのように響くのが、今の日本社会の関の山の姿なのかもしれない。

 ライフ・ワークバランスといえば、意外に忘れられているのは、公共性に対する関与ということだ。

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 ある人がこう言った。
 「うちの大学ではね、学生の成績が悪いと、基準を決めて落とすどころか、もう成人式を迎えた学生の親を呼び出して、親子面談して、『さあ、どういたしましょうか、どうすればいいでしょうか』と、甘やかすのよ。彼らだってそれがだめなことはわかっているはずなのだから、もっと厳しい態度でやればいいのだけど、結局は大学も営利企業だから、、、、。でもね、正しいことが何なのかわかっている人から正していかなかったら世の中はもう取り返しのつかないことになるでしょう。誰かが手をつけ、自分の信念で生きなくてはならないのに、みんなほうかむりをしてしまう」
と。

 日本の無責任社会は、実に、こうやって作られてきた。
 そして、みんな口をそろえて「社会が悪い」という。
 でも、「社会」は生き物だ。そして、社会を生かせているのは人間ひとりひとりだ。私たち、一人一人が、その「社会」の一部をなして生きている。
「社会」は、自分とは離れた、何か抽象的なもの、責任転嫁の所在などではない。

 毎日毎日、生きることに精いっぱい。確かにその通りかもしれない。でも、一人一人が、自分の生活のせめて1割だけでも、公共の福祉のために、何かを考えたり、何かの活動に加われるようになったらどうだろう。8割の時間は、収入を得、子どもを育て、家事をし、親の面倒をみる生活をして当然だろう。でも、残りの2割のうち、1割は、思う存分、『生きる』ということを楽しみ、そして、もう一つの1割の時間、他の人とつながる生き方ができたなら、、、、。人は、他の人につながっていて、他の人のためになると自覚できて喜びを感じるものだ。

 すべての人が、せめて1割の時間、公共の福祉にかかわれるようにできたら、、、。この社会はもっと生きやすくなるに違いない。だれもが、正義を正義として実行できる世の中になるに違いない。

福祉と篤志

 最近は、インターネットや衛星放送のおかげで、世界のどこにいても、世界中のテレビ番組を見ることができるようになった。オランダでも結構人気で、だけれどもオランダで見ていると、どうも腑に落ちない、じっと見ていると段々に腹が立ってくるアメリカの番組にこんなものがある。

 家族に大黒柱の病気や子どもの不治の病などの不幸が起きたり、自然災害を受けたり、はたまた、なけなしの金で地域おこしの運動をしたり、弱者のための奉仕活動をしたりしている人が、テレビ局に手紙を書く。テレビ局は、建築家やインテリアデザイナーのチームを作っていて、その「困った人」「苦しんでいる人」が書いてきたたくさんの手紙の中から1週間に一つずつ選出し、チームでやってきて、家を一切合切無料で建て直す。建て替えは、大量の労働者をつぎ込んで、短期で仕上げ、その間、古い家を、家財を出して始末し、新しい家を作って一切合切中身の家具その他を設置するまで、家族は、迎えに来た大型の豪華なリムジンに乗って、リゾート地やテーマパークなどで休暇を満喫する。帰ってきてみると、まるで、腰が抜けそうなほど贅沢なドリームハウスが出来上がって待っている、そのために力を尽くした大工隊一堂、そして、近所の人たちみんなが完成とともに、その家族の帰還を歓迎する、という仕組みだ。

 初めのうちは、家づくりの面白さ、インテリアの趣向の楽しさ、家具の入れ方の工夫などが単に面白くて時々視聴していたが、段々に腹が立ってきた。家が再建される間、建材会社の名前、家具小売店の名前、などなどが何回も画面に映し出され、明らかにスポンサーの広告番組である点は言うまでもない。しかし、民放というものが、もともとそういうカネで娯楽番組を作っているというのは当たり前の話で、それに文句を言うつもりもない。

 むしろ腹が立つのは、これほどのカネを欠け、しかも、広告に使っていながら、それを受け取った「困った人」「苦しんでいた人」が、感激のあまり涙を流し、言葉にならない言葉で『ありがとう』を連発する、その画面を映し出すというさもしさに腹が立つ。

 それは、こういう困っている人たちと、その困っている人たちに「篤志」を持って救済を与える人たちという二つの異なる階層の人々の関係を「固定」させる。

 なぜ、こんなに多くの金があるのなら、その金を少しずつ、もっと多くの困っている人に分け与えようとしないのか。
 それでは、大企業の広告にならない、それでは、大企業の「善意」が見えなくなるからだ。

 かつてハリケーンカトリーナが来て大被害を及ぼした時もそうだった。
 俳優や建築家などの有名人がやってきて、随意に選んだ被害者のために、大金をはたいて救済のための篤志を誇示して見せる。救済を受けた被害者は、感謝のあまり、『一生この恩は忘れない』と涙を流して感動する。

 いったい、そこに、どんな尊厳が残されているのだろう。
 この困っている人は、なぜ、困っているのか。篤志家にはなぜカネがあったのか。
 人は、皆、平等ではなかったのか。たまたま、資産のある家に生まれたもの、たまたま資産を作る機会に恵まれたものが、たまたま困難な環境に生まれたもの、たまたま災害や不幸に見舞われたものに、一時の救済をしたことが、なぜ、そんなに、『感謝』され、『涙を流して』ほめたたえられなくてはならないのだろう。

 そんな関係の中に陥りたくない。自分が自分自身ではいられなくなりそうだから、、、

 そう考えると、経済格差を生まない仕組み、困った時は助けられ、人が困っていたら助ける、時には助ける側に、時には助けられる側になるという「福祉」というものの価値が、どんなに大きいものであるのか、が分かる。

 福祉とは、人が面と向かって立ち会い、「あなた泣く人」「私、肩を貸す人」という関係にならずに済むためのものだ。

 かつて、福祉制度が整備されていったころ、オランダでは、ヤン・ティンベルヘンという経済学者がこんなことを言ったという。
 一企業の中で、給与格差が1対5以上になるのは望ましいことではない、と。

 ティンベルヘン教授は、オランダの60年代以降の社会変革のグールーともみなされるほどのバックボーンを与えた人だ。彼は、1929年の経済恐慌以後社会主義者として活躍し、戦後のオランダの社会民主主義に甚大な影響を与えた。そして、のちにノーベル賞を受賞した。

2009/09/23

東アジア共同体構想

 国連気候変動サミットへの出席ほかで訪米中の鳩山新首相が、中国の胡主席との会談の中で、東アジア共同体構想を伝えたとのニュースが伝わっている。首相は、その際に、欧州連合が、もともと52年にできた欧州石炭鉄鋼共同体に発したものだ、ということに触れ、日中関係については、村山首相の発言を踏襲する、と述べた、という。
 
 欧州連合が、欧州石炭鉄鋼共同体に発したものである、ということは、私自身、今年の5月に刊行となった尾木直樹氏との対談「いま開国の時、ニッポンの教育」の中でも、特に強調して触れた点だった。
 一般に、日本では、欧州連合とは、単なる経済強調、自由市場の開放・共有という観点以外で語られることはほとんどない。しかし、実を言うと、この連合は、それ以上に政治的な意味合いを強く持ったものだ。
 第2次世界大戦後間もなく、欧州連合構想を持つ欧州のエリートたちは、武器生産の原料となった石炭と鉄鋼の市場を開くことで、対立の道をまずは断とう、と考えた。10年にも満たない年月の過去、軍靴を踏みならし、戦車を引いて、互いの民衆を殺戮しあっていた国の人々が、こうして手を結ぼうとしたのは、「民主主義」には長い伝統を持っていたはずの、キリスト教文化の先進国ヨーロッパの国々の人々が、自ら引き起こした戦火への反省だった。
 特に、第1次世界大戦の他愛ないまでに理由なき憎しみと殺戮の歴史は、フランスの田舎町を歩けばだれの目にも明らかだ。どんな辺鄙な田舎町にも、必ずと言っていいほど、戦死者を慰霊する塔が菩提樹とともに立っている。
 第2次世界大戦後の復興は、人々に、戦争というものがいかに大きな無駄な破壊を生み出すものであるかを知らしめるプロセスであった。人間の社会にとって、平和裏に強調することが、繁栄と安定の何よりの基礎であることを痛いほど知ったのは、この人たちだった。

 前近代的な封建制度が残る、権威主義のアジアの国々に比べ、ヨーロッパの人々の心には、近代市民としての感情があったはずだ。それだけに、彼らが引き起こした戦争は、自らが何百年にもわたって積み上げてきた「民主制度」そのものを内側から破壊させる恥ずべき行為だった。彼らには、ノーという自由がなかったのではなく、ノーという勇気がなかったのだ。自由からの「逃避」が殺戮を生んだ。

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 あれだけ憎しみ合っていたドイツとフランス、そして大国に蹂躙されたオランダやベルギーの人々が、よくぞこの共同体の成立にこぎつけたものだ、と心を打たれる。
 それほどに、20世紀は悲惨で残忍な世紀だった。

 以後、欧州経済共同体から欧州連合へと連帯を強め、現在、25カ国もの国が、連合に参加している。死刑制度の禁止など、連合加入基準には、人権擁護が何よりの条件になっている。経済市場を自由化し、貧困地域に欧州連合の補助金で援助を与えることにより、、連合地域内の経済格差をできるだけ小さくすること、それは、究極的には、富の配分の不公平から生まれる紛争を回避することが目的だからだ。

 今や欧州連合は、トルコの連合参加をめぐった議論を通じて、和平の地域を、キリスト教文化を越えて、イスラム圏にまで広げていくか否か、という議論にまで発展してきている。

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 いつになったら、欧州連合のような動きがアジアに生まれるのだろう、とずっと思ってきた。そうしたら、あっけなく、鳩山首相が東アジア共同体構想を持ち出した。嬉しい驚きだった。

 北米の経済勢力に対抗する、一大安定経済ブロックを築いているヨーロッパ。アジア共同体構想は、今の世界の動きの中で不可欠なものだ。

 鳩山首相が、東アジア共同体構想の発言に伴って、村山首相の発言を踏襲すると確認したのは、実に的を得たものであったと思う。こうした国境を越えた国家間共同には、歴史上の参加を認め、お互いが歩み寄る姿勢がなければ実現はあり得ない。

 戦争は、民衆の犠牲を生む。終わってしまえば、勝者と敗者。あたかも、勝者がすべて正しく、敗者がすべて謝っていた、と見えてしまうのだ戦争でもある。しかし、民衆は、どちらの国であっても、支配者のエゴの下敷きとなり犠牲となるだけの存在だ。

 だが、もしも、その国が、民主的な制度を作っていくつもりなら、国の行方を背負う有権者は、歴史上の過ちから目をつぶるわけにはいかない。

 原爆や大空襲で多くの犠牲者を生むことになった日本は、それだけで、『だから仕方がなかった、罪滅ぼしはすんだ』と「済ませてしまう」のではなく、その犠牲の痛みを持っている分、自らの国が引き起こした他の国の民衆の痛みには、心から『詫び』と『悔恨』の気持ちを表明すべきだろう。これまでの日本は、自国の民衆の痛みをあまりにも顧みなさすぎた。国内での、人々の幸せの軽視が、国外の不幸への関心を薄くする因であったと思う。

 自国の人々すべての幸福を保障し、そこから、世界平和へと発信していくことは、紛争中の他国の和平に寄与するための最低条件ですらあると思う。

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 東アジア共同体構想は、おそらく、アメリカ政府のけん制を買うことは十分に予想される。イギリスが、欧州連合の中で常に片足をアメリカとの関係に残しているように、日本もまた、そういう立場を強いられることになるのかもしれない。しかし、アジア共同体は、究極的には、アメリカ社会の再建のためにも有用なものとなるだろう。
 アメリカの一般民衆は世界を知らない。かの国も、一般には教育の質がきわめて低い。大国主義が、世界の動向への人々の無知を蔓延させてきた。欧州共同体とアジアの連帯は、そういうアメリカ人の無知と奢りを修正していくことになるだろう。そして、オバマ大統領が、本当に、世界協調の道を選んだのなら、アジアの連帯の動きは、阻止すべきではないと思う。もはや、アメリカの一国大国主義は遠慮願いたい。
 (東)アジア共同体構想が現実的なものとなっていけば、ロシアもまた、ヨーロッパとアジアの動きをにらみながら、新しい外交を迫られることとなろう。それを通じて、こちらもまた大国主義のロシアが、国内にあるさまざまの人権蹂躙の問題を、やがて、膿のように外に引き出され、諸外国との連帯和平の道を選ぶことにつながっていくのなら、これも、究極的には、正しい道であると思う。

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 ヨーロッパ共同体の神髄は、個々の国の個性を生かし、多元主義的な共同を図っていることだ。それだけに、ヨーロッパ<統合>の動きと、各国の<独自性>との間には、いつも緊迫したバランスが求められる。また、個性重視の理念の背後には、キリスト教文化でたたきあげられた個人主義が根本にある。
 それに対して、アジアの国々は、個人主義が未熟だ。中国にせよ、インドにせよ、言うまでもなく日本もまた、伝統的な価値意識や共産党の一党独裁、儒教や神道など、滅私奉公的な、事故を限りなく矮小化させて成り立つ同調主義の意識が厳然としている。そういう文化が優勢なアジアは、果たして、ヨーロッパのような多元主義的な共同の道をたどることができるのだろうか。
 
 反面、ヨーロッパが今直面しているのは、対イスラム文化との共存だ。
 いずれも一神教であるキリスト教とイスラム教、また、イスラエルのみならずヨーロッパ各地に存在しているユダヤ人コミュニティ。一神教の信徒は、他宗教を排除する傾向が強くなりがちだ。ヨーロッパの多様な共同を可能にしてきたのは、キリスト教がドミナントな世界であったから、キリスト教文化の歴史的な発展が支えていたからであるともいえる。しかし、それは、今、非キリスト教文化と対峙することで大きな挑戦を受け始めている。
 その点、あるいは、アジアの共同体は、一神教でない分、宗教対立を避けやすい、というナイーブな議論がないわけではない。しかし、現実には、中国国内の少数民族差別問題は深刻だし、南アジアの宗教対立も激しい。世界一のイスラム教人口を抱えるインドネシア、アフガニスタンのタリバン問題、と紛争地域はあちこちに散在している。
 日本という足元を見ても、外国人排斥、あるいは、同じ日本人の中にすら、差別があるという現状だ。

 これらの問題をどう正していけるのか?

 (東)アジア共同体構想を進めることが、国内の差別問題に光を当て、内側から「共存」「協働」の原理を問い直すきっかけとなるのなら、それもまた、希望のあることではある。

 険しいが、進むべき道であり、持つべき展望であると思う。

2009/09/05

カリスマから黒子の時代へ

 カリスマ的人気が政治の行方を決めるのは、人々の価値意識の画一性が高い時代、喩えていうなら、自民党の一党支配や、すべてをカネの価値で測る徹底した物質主義、消費社会に無批判な時代だ。

 自己実現というものが、人気取りとカネで買える物の豊かさに集中している時、また、不幸の原因が物質的な貧しさそのものの強要から生まれている時、インセンチブをチラつかせるカリスマが人気を得る。

 民主党は、消費者優先、有権者の声をもとに日本の政治を変える(CHANGE)と言って、圧勝した。

 日本に新しい時代が来るのが楽しみだ。

 新しい時代、有権者の声が平等に聞かれる時代は、黒子が暗躍しなくてはならない時代だと思う。

 メディア、市民運動を率いる知識人たちが、どれだけ「黒子」になって、有権者の声を届けるパイプ、ファシリテーターになれるか、が問われる社会だ。

 王様も、ポップシンガーも、政治家も、主夫や主婦も、女も男も、パートタイマーもフルタイマーも、若者も高齢者も、部下も上司も、みんなが、「普通」の人として、大声でではなく、また、人気者にならずとも、「普通」に声を上げられる社会。それを作っていけるのは、一人のカリスマではなく、複数の黒子たちだと思う。

 そして、そんなことがより多くの人々に認められている社会、それが、地球全体にやさしい、格差のない、未来の世界社会だと思う。

相手の「ノー」に立ち向かえる力

「イエス」と同じように「ノー」と言えることは大切だ。しかし、人から「ノー」といわれて動じずに関係を保っていけることももっと大切だ。

 「ノー」と言えない日本、という言い方が巷によく聞かれるようになったのは、高度成長を果たし、日本が先進国の仲間入りをしたころからではなかっただろうか。日本人がエコノミックアニマルと揶揄され、日本製品が海外で不買運動にあった頃から、日本人のそういう自覚が一般に意識されるようになっていたような気がする。しかし、日本人は、とかく海外で「ノー」と言えない、というような話は、それよりもさらにずっとずっと前から言われていた。

 最近、またぞろ「~~~って言うな」というような言葉づかいやタイトルが流行っている。日本人は、自国にいても「ノー」とはなかなか言えないものらしい。
 率直にいって、21世紀のこの時代に、日本人の中に、いまだにそんな風なタイトルの本が出てくるほど、なにか人に対して拒否したり、「ノー」と言うことを躊躇する人たちがいるのだろうか、とやり切れない気持になる。
 「ノー」と言えない日本人を作ってきたのは、いったい何なのだろう。
 画一教育、迎合メディア、カリスマ礼賛の大衆文化が一役を果たしてきたことには疑いの余地もない。それを「日本の文化なのだから」などとくくられてしまったのではたまったものではない。
 村八分の伝統の後ろには、村八分にされてでも自尊心を抑えきれなかった人たちがいたことを忘れるべきではないだろう。
 外に向かって、ことに西洋先進国に向かって「『ノー』と言える日本」と肩肘を張って見せつつ、実は同時に、日本の中にある「ノー」という声を、文化や伝統の名のもとに押さえつけてきたのは、狭量な愛国主義者たちではなかったか。そんな道理のないやり方は一日も早くやめた方がいい。

 「ノー」ということに強い抵抗を感じるという感情は、多分今でも、日本人が初めて外国に出てみて最初に感じるものであるはずだ。
 だが、気楽に、しかもはっきりと「ノー」と言える人々というのは、私の知る限り、欧米先進国だけではなく、中国やアフリカ、ラテンアメリカなどでも、割合に普通に見られる。日本人に強制されてきた同調行動は、なぜか、やはり、例外的ともいえるほどに強い。

 パーティなど人が集まる場で、飲み物や食べ物や行く先の好みを聞かれると、つい「ええ何でも、、、」とやってしまうのが日本人で、自分の選択をなかなか言えないし、決められない。仕方がないので、周りはどんな選択をしているのかと様子をうかがい、そろりそろりと、目立たず、当たり障りのない選択をするのが、関の山だ。

 しかし、そういう段階を乗り越えて、現地の生活にも慣れ、言葉もかなりこなせるようになってくると、またまた次の問題に直面する。自分の意見は何とか表現できるかもしれない。しかし、その意見に他人から「疑義」をさしはさまれたり、「それは少しおかしいんじゃない」「私はあなたの意見には不賛成だわ」「ノー、それはちがう」とやられると、もうそれだけで、どう会話を続けていったらいいものか、言葉を知らない、議論の方法を知らない、という戸惑いの経験をもつ日本人は少なくないはずだ。

 言葉遣いに注意深く、レトリックがうまく、相手の深刻すぎる反応にはユーモアでかわせる、そんなテクニックを、「ノー」が気楽に言える社会の人々はよく知っている。

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 私は、「ノー」といえるということと同時に、相手が自分に対して発してくる「ノー」という言葉にどう対応するかについての準備がなければ、言い放つだけの「ノー」にはあまり意味がないと思う。

 これからの世界は多様な価値観を背景に持ついくつもの文化がぶつかり合う世界になる。そういう多様性を受け入れ、多元的な社会で生きていくつもりならば、「ノー」と言えると同時に相手の「ノー」を受け入れ、それとどう共存していくかを考えてみることは避けられないことだと思う。異文化社会という、自分の意見をはっきり持つと同時に、相手と四つに組んで交渉していく覚悟、相手との対立の中からウィン―ウィンを生み出す意欲と覚悟がいる。
 
 国際化とは、パスポートを作って飛行機に乗って外国に行けばできるというようなものではない。国境を越えなくても、今自分がいる場所で、周囲の人、あるいは、自分のいる場所の政治に対して、イエスとノーをはっきりさせ、同時に、相手の「ノー」を認め、どうしたら共存できるかを考える態度が持てるのであれば、それはもう立派な地球市民だ。

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 今回の衆院選で、自民党は、大多数の有権者の「ノー」に直面した。さて、自民党は、これから、この大きな「ノー」に対してどう応えていくつもりなのか、、、

 他方、衆院選で圧勝を果たした民主党は、早速、数日後にアメリカの 牽制に直面した。アメリカ政府は、こうして高圧的に牽制してみることで、「さあ、これからが交渉だ」と思っているのに違いない。欧米の交渉は「ノー」から始まると言ってもよい。それは、「私(たち)には、あなたとは異なる利害がある。」というサインなのだ。

 まずは、お互いの立ち位置をはっきりさせること、交渉はそこから始まる。
 
 政治家とは、そもそも、交渉の名人・レトリックの達人であるはずだ。政権交代を繰り返してきた欧米先進国の政治家というものは、2大政党制にしろ、多党制にしろ、相手の「ノー」にどう対応するかについては、特別長けた、いわば交渉の専門家たちだ。

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 いまだに、「~~~って言うな」と言い放ちつつ、「おれたちは理解されていない」と被害者意識を蔓延させるやり方は、だから、それで本当に良いのか、とても気になる。

 私たちは、一人ひとりが社会の成員だ。カネやコネがなくても、ひとりひとり一票の価値を持つ有権者だ。自分もまた、決定にかかわり、その帰結に責任を持つつもりならば、「ノー」と断るだけの言い放ちはおかしい。「ノー」と発信すると同時に、自分と相手の立場の違いが確立する。問題は、その違いをどうやって出来る限り狭め、お互いが納得するところまで持っていくことができるかだ。

 大人の市民としての矜持は、もっていたい。人としての尊厳がなかなかに認められない時代と社会であればあるほど、、、、


2009/08/31

2大政党交代制か多党連立政権か

 民主党が308議席を獲得した今回の衆院選。自民党支配に「ノー」と声を上げた意味では歴史的に意義ある選挙だった。しかし、その背後で、民主党と協力して議席を分け合うはずだった小政党は意外に票を伸ばせなかった。いったいどれほどの有権者が本当に各政党のマニフェストを自分から読んで投票をしたのだろうか。単なる抗議票が集まったということであれば、心配だ。

 選挙後民主党は、早くも来年の参議院選に向けて、単独過半数を取る意欲を見せた。これが、社民党ら、今回の選挙協力者との亀裂の原因にならなければ、と思う。もっとも亀裂を起こしても痛みを感じないほどの多数ではある。

 こういう状況は、果たして一般の有権者にとって望ましい状況なのだろうか。日本の政治体制は、日本社会は、本当に根本的に変わるのだろうか。

 2大政党交代制の国として代表的な国はアメリカ、イギリスだろう。交代のたびに政策が極端に左右に揺れ、継続性を保ちにくい。長期的な政策を進めにくい仕組みだ。その代わり、確かに、官僚組織の硬直化は起こりにくい。アメリカなどでは、官僚体制が政権交代のたびに一掃される。

 しかし、有権者の意識との関連はどうだろう。二者択一を迫られる有権者は、本当に自分が求めている政治を実現できるだろうか。官僚制にしても、多党連立で微調整が繰り返される政治体制であれば、むしろ、官僚らの専門性が求められ、硬直化は起こりにくい気がする。

 オランダのような多党連立制では、確かに、1党の持つ総合的な政権構想は実現しにくい。しかし、各党が持つ政策優先順位を持って駆け引きを行うことはできる。駆け引きは議論だ。議論は報道される。だから、おのずと有権者の政治意識は日ごろから高まりやすい。自分の気持ちや考えに最も近い政党に投票できる。その選択肢は多い。

 せっかく歴史的な政権交代を実現した日本の政権だ。
 単に自民党から民主党へ首を挿げ替えただけとならないように、また、有権者は政治エリートに期待するだけ、という社会を変えるためにも、一日も早く、機運が高まっているうちに、日本は二大政党制を求めているのか、多数連立制を求めているのかを、街頭・路上の議論に乗せていったほうがいい。

***日本の現行選挙制度は、本当に有権者の意思をよく反映できる仕組みであるのかどうか、
ブログ「オランダ・人と社会と教育と」で、オランダの政党政治制度についての報告を3回に分けて報告中http://hollandvannaoko.blogspot.com/2009/09/blog-post.html:)

2009/08/30

日本人よ、もっと率直に臨機応変に忌憚なく

時代を画する衆院選をNHKワールドを見ながらリアルタイムで追ってみた。
解説者にもっと数人の立場の異なる人を迎え、下書きなしで率直な話をしてもらいたかった。政治解説者が、その場でアンカーの質問に答えるのではなく、いちいち英語の下書きを用意して読み上げる姿には、落胆した。

政治専門家の登場はありがたい。しかし、「一般の熟練ジャーナリストの中に、英語で議論できる人はいないのか。日本ほどの国に」という感想はきっと諸外国の視聴者にとって避けがたいものであったろうと思う。外国のプレスの特派員でもよかったはずだ。複数の立場の人間を集め、その場で議論することはできたはずだ。

世界に向けられる公営放送が行う、歴史に刻まれる衆院選の報道にしては、お粗末だった、との印象は否めない。

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衛星放送のおかげで世界各国の衛星放送を受信できるようになった。
中国の英語放送に登場する発言者たちには、目を見張るほどの自然さ、率直さ、そして、考えを言葉にしてまとめて伝える巧みさがある。英語を手繰れるエリートたちが、決して、英語が流暢と言うだけではない、高い質の教養を身につけているのが分かる。

ある意味で、開発途上国の国々のエリートたちは、英語ができるし、専門的な知識の豊富な人が多い。その層は、日本のエリートには見られないくらいに厚い。植民地支配の伝統があるからでもある。

しかし、長く共産主義国として国を閉ざし、思想統制してきた中国に、今、これほど多くの自由な発言ができ、その場で、臨機応変に誰とでも議論ができるエリートたちがいるのだ。日本とは比べ物にならない。言葉の問題であるとともに、創造的な思考力の熟練度の違いに見える。忌憚ない発言をマスメディアという媒体を通じて自由にできること、その程度は、今、共産国の中国の方が、自由主義国であるはずの日本の何十倍も大きい。中国という国の懐の深さ、したたかさに驚く。

衆院選が終わり、日本はこれから、ようやく市民がそれぞれ自分自身の意見を言葉にし、参加していく時代を迎えようとしている。

テレビも新聞も、型にはまった、すべてを事前に統制した報道をするのではなく、人々の臨機応変のステレオタイプではない声を率直に出していくべきではないか。型どおりの公式表明や、ほとんど「やらせ」にみえる登場人物のあからさまな印象操作、世論(視聴率)の期待に応えるだけのお定まりの発言などはもうたくさんだ。いったい、どこのだれを恐れて、報道内容を統制するのだろう、、、、自由社会にあるまじきことだ。

専門性よりも人気を優先した、少数のカリスマに頼ったメディア操作ではなく、幅広く、厚い層のエリートに支えられた、世論をひきつけ、建設的で懐の深い討論・議論の姿を、国内でも、また世界に向けても積極的に見せていってほしい。「多数派」が何なのかを気にしなければ、目立たないところに言語にも教養にも専門性にも優れた人たちがたくさんいるはずだ。そういう、今は名のない、しかし、地に足のついた人々の声、黒子として社会を内側から変えようとしている人々の声をもっと大きくして、報道の波に乗せていってほしい。

日本の報道は、もっと肩の力を抜くべきだ。それが、やがては、視聴者の教養と思考力に厚みを持たせる。

歴史的な一日:2009年衆院選

今日の日本を目撃できてよかった。
自民党独裁への「ノー」がやっと選挙に結集した。

対米追従、企業依存、官僚主導、マスコミ抱き込み、右翼放任、どれもこれも、時代遅れの、民主主義とは程遠い政治だった。

ひとびとの不幸感、未来に希望を持てない閉塞感が社会に堆積し、とうとう飽和点を越えたのだ、と思う。やっとひとびとの尊厳を奪ってきた日本社会のあり方に、憤りを発する人たちが増えてきた。長い時間がかかった。欧米や開発途上国などなら、もっともっと早く人々が声をあげていたのではないか。

問題が起こるたびに、自らを省みて自らを正すことから始めようとする日本人の謙譲の美徳が、もしかすると、声を上げることを遅らせてきたのかもしれない。

けれども、声はあってもそれを取り上げてこなかったのではないのか、、、

選挙戦が沸騰したこの夏、ニュースを伝えるマスコミの姿勢が変わった。党首討論会など、政治家自身に、言責を問う動きが目立ってきた。喜ばしいことだ。

新政権は、間もなく山積した問題に取り組み始めなくてはならない。日本社会を幸福感の高い社会に変えるには、少々時間がかかるような気がする。困難と障害は多い。世界的に難しい時期にあるからだ。新しい政権には、有権者の声に耳を傾ける姿勢を持続してほしい。有権者も知恵を結集して、忌憚なく政治に働きかけていけるとよいと思う。

新聞やテレビは、今後、これまでのようにマジョリティの声だけを届けるのではなく、マイノリティの声をきちんと届けるメディアになってほしい。それが、視聴者や読者を引き付ける。それが、有権者に考える姿勢を生む。有権者自身が、手の届くところから社会に働きかける姿勢を生むだろう。それが、民度を高めるジャーナリズムであると思う。

そこまでいけば、一つ一つの変革のモデルになるものは、世界にいくらも転がっている。そこから学んで日本なりの施策を生み出していけばいい。欧米ではすでに使われた切り札が、日本ではまだまだ有効に通用するものがあるに違いない。

誹謗・中傷のネット放言とは明らかに異なる、信憑性の高い、理性に基づいた、建設的批判のできるマスメディアを読者は待っている。

出版は、人を売るのではなく、多様な多元的な議論に目を開かせるメディアとなってほしい。収益優先でつくられた風に乗るのではなく、新しい風を生む媒体として、新しい時代に大股で踏み込んでいってほしい。


きょうの日を境に、戦後、急ぎ足の近代化を遂げてきた日本が、直面する独自の問題をどう乗り越えていくのか、日本に成熟した市民社会が生まれれば、それはいずれ、遅れた、しかも急ぎ足の産業化を果たしつつある中国やインドなどの国々の人々にとっても、ひとつのモデルとなるだろう。周辺の国々はこれからの日本に注目している。かつて、高度成長の奇跡を生んだ日本は、今度は、人々の幸福を保障し世界平和に貢献できる、成熟した市民社会の実現という奇跡を生み出せるかもしれない。ぜひそうなってほしいと思う。

そしていつか近い将来、ヨーロッパ連合のように、アジア連合を、日本が率先して語れる日がくることを心から祈っている。

2009/08/23

市民社会発展の要件

 かつて西側と呼ばれた欧米先進諸国は、1970年代に大きな文化変容を経験した。
 この時代の人々の価値意識の変容、それに伴ってその後に続いた社会制度の変容との連関を、大量のデータを駆使し、長期にわたって観察を続けているのは、アメリカ人社会学者ロナルド・イングルハートとその仲間たちだ。

 イングルハートは、1990年に出した「文化シフト」という本の中で、市民社会発展は、経済的な豊かさだけでは不可能である、ということを言っている。経済的豊かさは、市民社会発展の条件の一つだが、それだけでは十分ではない、と。それに加えて必要なのは、人々の価値意識の変化であり、その変化とは、脱物質主義的(ポスト・マテリアティズム)な価値観への変容であると言っている。

 脱物質主義的価値観とは、私流の言い方をすれば、排他的な競争主義を批判して、寛容な共生を求める意識である。エクスクルージョンからインクルージョンの意識、と言ってもいいかもしれない。
 実際、1970年代の(西側)ヨーロッパ先進諸国やアメリカでは、反戦運動とともに、女性解放運動、同性愛者の権利保護、障害者福祉制度の充実、個性や尊厳の重視といった議論が進んだ。
 オランダのように、保守的なキリスト教主義的価値観が強かった国ですら、70年代には、極端ともいえる勢いで教会離れが進み、旧態依然のモラルやタブーを一度突き放してみて見直すという議論が繰り返された。それは、キリスト教主義の価値観を頭ごなしに否定するということではなく、それを絶対不滅のものとしてではなく、相対的に自分の頭を使って考え直してみるという行為だった。

 そういう文化シフトは、かつて植民地支配によって富に潤っていたにもかかわらず、戦争を体験することで、富を失い、植民地を失って、ひたすら戦後復興に取り組んだ親の世代と、これに対して、急速に復興していく戦後社会の中で、経済的な豊かさと広く庶民にまで行き渡るようになった教育機会の中で育てられた若い世代との間の、世代間の価値意識の違い、「世代間断絶」と言われた価値観の対立の中から生まれてきた。
 復興を求める親の世代が「物質主義」にとらわれたままであったのに対し、未来を見つめる若者たちは「脱物質主義」に向かっていく価値観変容の嵐の中にいた。

 イングルハートは、豊かな経済に支えられた中で、こういう脱物質主義が、社会の中の主要な部分を占めることで、市民社会が徐々に形を整えていく、という。そして、この70年代の若者たちの価値観が、社会の中で、ドミナント(多数派)を占めるようになるには、世代交代のための、2,30年という時間を必要とするという。

 市民社会は、社会の個々の成員の個別の意思が自由に解放され、また、お互いにその自由を認め合うことで成り立つものだ。そういう意味で、同じキリスト教の伝統を持つ社会と言っても、個々の信者の聖書解釈を尊重するプロテスタントの社会の方が、市民社会的な価値観に近く、そのための制度もより整っている。北欧諸国やオランダなどは、そういう意味で、市民社会的な価値意識が、制度の中により広く反映している国であると言っていいと思う。そのことは、主観的幸福度や自尊感情の調査などに顕著に反映している。(ヨーロッパにおけるプロテスタント社会とカトリック社会の厳然たる違いについては、別の折にまた触れてみたい)

 現に、1970年代から、ほぼ40年の歳月を経た現在、オランダ社会に住んでいる人々の価値観は、物質主義から脱物質主義へとほぼ完全に移行した。政治家、官僚、企業の管理職者など、社会的エリートと言われる人々ですら、ほとんどが、この70年代の脱物質主義議論の洗礼を受けている。だから、たとえ、キリスト教保守主義やリベラル派の立場にあるエリートたちであっても、脱物質主義的な議論をすりぬけて、一方的に伝統的なモラルや資本主義的な価値意識と言った立場を主張することは、もはやできない。価値観の異なる他者との共生、自然(環境)との共生は、この社会の大多数の人々に受け入れられた議論の余地のない前提になっている。

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 イングルハートの「文化シフト」の中では、日本のデータが大変重要な位置を占めており、西側先進諸国の70年代における日本社会の明らかな特殊性が指摘されている。

 日本でも、戦後復興期を経た後、若者や知識人による、脱物質主義的な議論はあった。けれども、世界が冷戦体制になだれ込み、中国の共産化と朝鮮半島の分断、ベトナム戦争の激化などの中で、日本は、アメリカ合衆国にとってなくてはならぬ西側の拠点とされた。戦後間もなく「民主化」を求めて言論のリーダーとなった人々のうち少なくない数の人々が、変節し転向していった。
 その時代の世界の雰囲気とそこからもたらされた外圧、日本の置かれていた地理的な位置などが、戦後「民主化」政策を捻じ曲げ、機会均等を求める社会主義的な市民運動を意図的に抑圧するものとなったことは周知のことだ。
 しかし、本当にそれだけだったのか、本当に、外圧だけが日本の民主化を妨げてきたのか。それ以上に、そういう捻じ曲げを受け入れてしまう日本人自身の、一種の「未熟さ」があったからではないのか、この問いに対する納得のいく答えを、私自身、長く求めてきた。

 イングルハートの「文化シフト」は、この問いかけに、データを持って一つの答えを示してくれている。

 18世紀の啓蒙主義を経て19世紀初頭にまがりなりにも近代国家制度を打ち立て、産業革命を経て競争主義の、しかし、物質的な豊かな社会を築いた欧米先進諸国では、価値観として、すでに、「個人の自由」は存在していた。西洋の人々は、すでに長い間、近代主義がもたらした個人主義を経験していた。そして、個々の人々の価値観が問われ、お互いの価値観に干渉しない個人主義をみとめる価値意識は、個々人の精神をどこまでも孤独にするものでもあった。ナチズムの熱狂は、エーリッヒ・フロムが言う通り、孤独な魂に耐えきれなくなった近代人たちの「自由からの逃走」であったことは、多くの人々が同意することだ、と私は思う。

 ドイツに起こったナチズムと、それに協力し、それに共感した周辺諸国の人々にとって、戦後の価値意識の変化には、差別に対する決別があった。そして同時に、「ではどうしたら自分とは異なる他者と共生できるのか」という課題は、大変深刻なものであった。共生とは、自然に放っておいても起こるものではなく、自分から働きかけ、意図して努力しなければならないもの、という意識は、当時、市民運動を強く勧めていた若者や知識人たちに共有されていた意識であったらしい。

 けれども、同じ時代の日本で、多くの人々は、西側連合軍に「負けた」という劣等感と、戦時中、だれからも自由意思を認められることがなかったという「近代化に対する遅れ」の自覚の中で、やっとのことで先進国並みの「経済的な豊かさ」が実現しているのだ、という満足感が圧倒的であったのではないか。そして、そうであった日本人をいったい誰が批判できよう。
 あの時、近代化がもたらす個人の孤独を実体験として感じている人がいったいどれほどいたことだろう。孤独を越えて『共生』の中につながっていきたい、という希求など、いったいどれほどの人に期待することができたことだろう。日本人は、伝統という名に支えられた集団的な同調に足をからめとられたまま、そこから逃れることに必死だった。自分自身でありたい、まず、自分の意思を認めてくれる社会がほしい、と。それは、私自身の心の軌跡からも自覚できるし共感できるものだ。

 集団への同調を強要してくる日本の伝統の中で、60年代70年代の、やっと近代化に目覚めていた多くの日本人の意識は、個人化、プライバシーへの希求に強く傾いていた、そのために、脱物質主義の中で、欧米社会の若者たちが求めていた、むしろ「孤独」を乗り越えてお互いにつながり合おう、社会に参加し関与しようという、新しい形での共生への意識につながっていかなかったという点で、欧米の文化シフトとはくっきりと性格を異にするものであったことをイングルハートはデータを持って示している。

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 2000年ごろ、世界は、一斉にグロバリゼーションの時代を迎えた。欧米社会に文化シフトが起こっていながら、富をむさぼる人間の傲慢と欲望は今も変わらない。
 そして、一昨年、また、昨年と重なる金融危機は、人間の強欲が、人類社会自身に牙を向けはじめていることを自覚させられる事態にほかならなかった。

 そんな中で、欧米社会は再び『共生』的な価値意識と制度を求めて動き始めている。地球規模での人類の平等と共生を実現しなければ、地球社会そのものが存続できないことに気付き始めている。

 日本は、と言えば、、、

 私は、市民社会を実現するための要件が、今こそやっとそろい始めているのではないか、と感じている。グロバリゼーションがもたらした貧富の差、飽和値を超えてしまった人々の閉塞感は、もう、この先には市民社会を実現するしかないではないか、という気分を日本の中に広くもたらしたように思う。
 バブルがはじける前の、豊かな経済的な発展を、今の日本人は知っている。同時に、バブルがはじけ、グロバリゼーションの激しい競争にもまれたことで、人間の幸福が、物質だけから得られるものではないことに多くの人々が気付き始めている。

 1970年代の、西洋先進主義の若者たちの意識を共有できる人々が日本にも絶対数として増えてきているのではないか。急激な高度成長の中で、不幸な不登校や引きこもりを生んだ日本は、そういう社会が、個人の魂を限りなく孤独にするものであることも体験してきた。
 「こんな競争社会、もうたくさんだ」という声にならない声が聞こえる。

 やっと、日本が市民社会として成熟できる条件がそろってきたのではないか。

ーーーーーーーーーーー

 ただ、問題は、 少なくとも二つある。

 一つは、この国の戦後教育が、「考えないで追従するだけ」こそが「よい子」である、として子どもを育ててきたことだ。「考えない」よい子と、そんな学校に「適応できない」、それがために「自身も自尊感情も持てない」落ちこぼれの子、そして、そうして育てられて大人になってしまった人があまりにも多い。

 70年代のヨーロッパには、元気のいい若者がいた。しかし、せっかく成熟社会の入り口に立っている日本には、あのように元気のいい若者があまり見当たらない。言あげをすることを嫌う大人社会はいまだに根強い。

 元気がよくて、自分の頭で考え、社会に参加する意思を持つ若者を育てるのには、まだこれから確実に20年も30年もの歳月がかかる。今すぐに始めたとしてもだ。すでに大人になっている人、企業組織の中にいる人々、漫然とテレビの娯楽番組にかじりつく人々にももっと働きかけていった方がいい。

 もう一つの問題は、日本を先進国並みに押し上げた経済発展を支えた労働倫理だ。残業してこそ、一生懸命働いてこそ今の日本の発展があるという人々は、まだ、企業家の中に多い。確かに、そういう労働倫理が、高い品質の産物を生み、日本産の製品の名を高め、一見「効率の良い」組織づくりを外国にアピールしてきた。そこには、確かに短期に日本を豊かにした利点があったと思う。しかし、どんなシステムにも必ず短所があるように、こういうシステムこそが、多くの日本人の幸福を奪ってきた。このシステムの持つ問題を、冷めた目で見つめながら、どうやって改善努力をしていくか、、、、。70年代の日本の経済高成長は、欧米企業家らから称賛を浴びるものであっただけに、影の問題を認めたくない、という人は多いはずだ。これも、市民社会の成熟のために必要な制度改革にとって、非常に厄介な障害になるだろう、と感じる。

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 けれども、今日本社会が置かれている状況を、地球規模で見た時、、、

 西洋とは異なる、不自然に急速で、伝統の租借からではなく外から処方箋を取り入れながら近代化を果たしてきた日本が、今、どうやって日本人一人一人の幸福を保障する市民社会を実現できるか。それは、中国やインドなど、同じように、古い社会倫理を引きずりながら経済急成長をしている国々で、やがて必ず起こる問題だと思う。日本が、今、自力でこの問題を乗り越え、成熟した市民社会を実現することができたなら、それは、こういう国々に対して一つのモデルを示すことになるだろう。

 やがて、地球規模で、異文化間のすべての人の平等と幸福観が保障され、自然との共生が実現されることが究極の目的であるのなら、日本社会の現在の努力は、そういう地球のあり方に大きく貢献するものになると思う。今、という時代の世界の風は、そっちの方に吹き始めている。

2009/08/22

表現が求める共感

 この夏、久しぶりにまるまる1カ月休暇を満喫した。
 と言っても、ボーっと何もしないでいると罪悪感を感じてしまう貧乏性の日本人。「休暇を満喫」とは名ばかり。休むということに一切の罪悪感を感じることのないオランダ人の夫からすると、体も心も解放しきれない私は、「休むことが下手だなあ」と見えるらしい。

 そういう夫の視線をひしひし感じつつ、「ようし」とやっと丸2日間浸り切った読書。世界中で売れに売れているスペインのカルロス・ルイス・ザフォンが、この初夏に出したばかりの新著、娯楽長編ミステリーThe Angel's Gameを、日ごろの頭を切り替えて、青胡桃の緑陰にガーデンチェアを持ち出して堪能した。

 この作家は、以前、「The Shadow of the Wind」という本を書いて、爆発的なベストセラーとなり、世界中で何カ国語にも訳され、ロングセラーを続けている。普段、あまりベストセラーには手が伸びないのだが、この本は、舞台がバルセロナで、この都市はゆっくり訪れ散策したことがあるだけに、つい引き込まれて読んだのが最初だった。本の中に出てくる地名、通りの名など、カタルーニャの民族意識を受け継いだバルセロナという土地の人々の感情、そして、長く独裁政権だったスペインの閉塞感など、時代の暗い影が付きまとう中でのミステリーは、背後に、きりきりとした人間不信の冷たさを感じ、それだけでも興味深い。

 新作The Angel's Gameの主人公は、貧しい少年時代を背景に持つ売れっ子作家。この主人公に投影されているルイス・ザフォン自身の姿、また、登場する書店主、ジャーナリスト、出版業者、編集人ら、本にまつわる職業人たちの言葉が、作家の、文章を媒介とした表現者としてのややあからさまなほどの思い、本作りへの姿勢を表している。それだけでも十分に読み応えのある、また、表現としても、すぐれた文章の数々、巧みな構成と出会えて、一カ月もある休暇の、わずか2日を占める読書になった。

 中身をばらしてしまったのでは興ざめなので、一つだけ。

 重要登場人物の一人である、謎の編集者アンドレアス・コレリが、こう語る部分がある。

An intellectual is usually someone who isn’t exactly distinguished by
his intellect. He claims that label to compensate for his own
inadequacies. It’s as old as that saying: tell me what you boast of
and I’ll tell you what you lack. Our daily bread. The incompetent
always present themselves as experts, the cruel as pious, sinners as
excessively devout, usurers as benefactors, the small-minded as
patriots, the arrogant as humble, the vulgar as elegant and the
feeble-minded as intellectual. Once again, it’s all the work of
nature. Far from being the sylph to whom poets sing, nature is a
cruel, voracious mother who needs to feed on the creatures she gives
birth to in order to stay alive. (Carlos Ruiz Zafon,The Angel's Game, p.170)
知識人というのは、普通、正確にいうなら、本人の知性をみてそうだと選ばれたわけではない人のことをいうんでね。そういう奴は自分につけられたこのレッテルが自分の不足を補ってくれると思っているのさ。ほら、昔から言うじゃないか、おまえさんが自慢できることを俺に言ってみな、そうしたら、おまえに欠けているものがなんなのかを教えてやるから、とね。欠けているのは毎日のパンさ。力のない奴はいつも自分を専門家だと見せかけるもの。残酷なやつは敬虔な人間になりすまし、罪深い奴はものすごく献身的な人の振りをし、高利貸しは恩人ぶって、小心者は愛国者に、傲慢なやつほど謙遜な振りをして、品のない奴こそ気品を装い、意志薄弱なものほど知識人の顔をする。もう一度言っておくがね、これもみんな自然のなせる技なのさ。自然なんてものはね、詩人たちが詠って見せる、ほっそりとしたやさしい妖精なんかとは影も形も違うものでね、自分が生みだす生き物たちが、生き延びていくために食わせていかなくてはならない、残酷で貪欲な母親なのさ。(リヒテルズ試訳)

 シニシズムの骨頂というよりない、この冷たい、しかし読者をして考えさせずにおれない皮肉極まりない言質。この謎の編集者に翻弄されつつ、主人公は、こういう、結局はありふれたシニシズムを越えて、生きて血の通った人間としての作家の生きようを見せる。ルイス・ザフォン自身の、作家としての、人としての生きがいの理想を投影しているのだろう。

 彼の公式サイトには、こういう言葉も出てくる。

I do not write for myself, but for other people. Real people. For
you. I believe it was Umberto Eco who said that writers who say they
write for themselves and do not care about having an audience are full
of shit, and that the only thing you write for yourself is your
grocery shopping list. I couldn't agree more.
http://www.carlosruizzafon.co.uk/
私は自分のために書いたりしない、他人のために書いているんだよ。現実にいる人たち、つまりはあなたたち読者のみなさんのためにね。自分自身のために書いている、読者なんて気にしちゃあいないなんていう作家なんて糞ったれもいいところ、人が自分のために書くものは雑貨屋に出かけるときに持ってくショッピングリストだけさ、と言ったのは、確かウンベルト・エコだったと思うけど、これくらいうまく言い当てた言葉を私はほかに知らないなあ。(リヒテルズ試訳)

 物を書くことが、単なる自己実現のためなのであれば、しない方がいい。私自身もそう思う。
 
 物を書くとは、そして、おそらく、文章に限らず、ありとあらゆる媒介による「表現」とは、他者とコミュニケーションにほかならないのだろう。自身に課された自身にしかできないものを、他者に提供すること、お互いに提供し合うことと言ってもいいのかもしれない。

 しかし、作家もビジネス。人間の行為の多くはビジネスだ。
 だから余計に、最初に引用した謎の編集者の言葉が響く。私たちは、パンなくしては生きていられない。しかし、パンは、お互いに、相手を楽しませ、相手の役に立つものを提供し合って得ようではないか、、、、そんな風なことを言っているのでは、と深読みする。

 誤解を恐れずに言うが、私は、あの、ガウディという建築家がどうも好きになれない。
 あの、永遠に未完のままかもしれない、奇妙で巨大な建物サグラダ・ファミリアが聳え立つ、あのバルセロナに育ったこの作家は、ガウディをどんなふうに感じているのだろう。

2009/08/15

マイナス評価からプラス評価へ

 今朝、犬を連れて散歩に出たら、大きな森林公園の入り口、路面電車の停留所付近で、高校生か大学生くらいの若者たちが数人、ビデオカメラを据え付けて映画撮影をしていた。その中の一人は、停留所のポールによじ登って高い位置からカメラを回していた。
 ちょうど通りがかったパトカーがその付近に止まって、補助席の窓ガラスを下げて、巡査官がひょいと顔をのぞかせ、この若者たちに話しかけた。
「映画撮ってるのかい?」
 ボサボサ頭で色の褪めたT シャツによれよれジーパン姿の若者が、
「うん、そうだよ」
と答えて、パトカーの方に近づき、巡査の差し出す手をとって握手をした。

 それからの短い会話は、私にはよく聞き取れなかったが、数分ほどして、
「じゃあ、がんばれよ」
と巡査は声をかけて、また、パトカーを走らせ消えていった。

 短い出来事だったが、オランダの警察官の気さくさ、威圧的、高圧的ではない態度をよく示す場面だった。

 ある人がこんなことを言ったのを思い出す。
 オランダはじめヨーロッパで長く人気だったサッカーは、入っていく点数を数えるプラス評価のスポーツだが、日本やアメリカで人気の野球は、失敗の数を数えるマイナス評価のスポーツだ、と。
 スポーツのことはよくわからない。でも、オランダ人と日本人が他人に対する評価を見て要ると、確かに、オランダ人たちは、マイナスの点には目をつぶり、できるだけプラスに目を向けようとするのに対し、日本人は、どうも欠点や失敗を探して、それを修正することに懸命なようだ。

 実を言うと、オランダ人も、昔は、欠点探しの方をやっていたのだと思う。学校などは皆そうだった。このことは、オランダ人に限らず言えることで、ピーター・センゲなども、「産業型社会の教育」の特徴として、子どもを「欠陥品」としてとらえ、学校は欠陥ばかりの子どもたちの足りない部分を補うものとして考えられてきた、と言っている。
 しかしそれは、大量生産型の教育、工場の規格品生産をモデルにした、つまりは、産業社会の歯車を作ることにしか関心がなかった時代の学校のことだ。そうして、そういう学校教育をあまりにも長く続けてきた結果、子どもたちは、自分の頭で考えることをやめ、社会に「人として」参加することをやめ、十羽ひとからげの取り扱いを受けることに何の疑義も呈さないで黙々と働き続ける大人として育てられるようになった。こういう教育の仕方、こういう人間を作ることは、確かに、一面で、品質保証のある生産物を生み出す基本にはなってきたかもしれない。失敗、欠陥を補正する授業は、人々の考え、文章にできるだけ間違いを作らない、粗悪品の少ない社会を生んできたかもしれない。
 しかし、それだけでは幸福な人々の社会にはならなかった。創造的な、失敗を恐れずに何かを試みてみるという人々を生む原動力は欠いていた。
 両者のバランスは必要であると思う。また、マンパワーというものを目の前の現今の産業発展のためだけに使おうとする狭い了見では、人間の能力の計り知れない広さや深さを十二分に活用することもできなかったはずだ。

 マイナス評価からプラス評価に変えなくてはならない理由はここにあると思う。
 規制の規範、権威、評価基準で何もかもを管理しよう、押さえつけようというのは、人間が持っている無限の力を抑えつけてしまうものにほかならない。

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 明日十八日の衆院選公示を前に、すでに、選挙をめぐって活発な議論が起きている。
 民主党の支持率が増えているだけに、政権交代の可能性が現実のものとなり、長く、本当に長く続いた自民党一党独裁に終止符が打たれそうな様子だ。
 政権が変わるかもしれない、変えられるかもしれない、というくらい、有権者の政治参加意識をそそるものはない。

 テレビを通じて党首討論会は報道される。従来の記者クラブの記者会見などでは見られなかった政治家の「討論能力」が有権者の前に晒される。
 今日の六党党首会談では、党首らが、みんなで握手をして見せている写真が公開された。政治とは、みんなで作るもの、日本の政治は、与野党が討論して、より良いもの、有権者が望むものを反映するものだ、ということが、伝わるようになるのではないか、と思う。
 やっと、しかし、一気に、日本の政治が欧州の先進国並みの、民主主義国家らしい形状を見せ始めている。

 「経験が少ない」と言われマニフェストの有効性も問われる民主党ではあるが、今回の選挙は、「政権交代を有権者の手で実現させること」に意義があるのだと思う。自民党以外に政権をとるチャンスを与えてこなかったのは有権者自身だ。政権が代われば、経験のなさは当然マイナス要因となるだろう。だが、それは、はじめからわかりきったこと。むしろ、この新しい政権に、忍耐強く時間を与えて、新しい試みで、今の日本の問題のいくつかを打破させてみることではないか。マスコミの言論がこれほど重要なカギとなる時期はないと思う。政治的な動きを、淡々と、オープンに、公正に人々に伝えていってほしい。そして、評価できるものを評価させる時間を設けるべきだと思う。

 マスコミ丸抱え、偏向メディアによる大衆操作、画一教育による価値観一元化、言論ではないけたたましい右翼的な集団の暴力まがいの恐喝、アメリカからのバックアップ、世界第二の経済力、そして、世襲と言う名の「家柄」「経験」のある政治家をもってしても、日本を立て直せず、世界中の先進国の中で、最も不幸感の高い国を作ったのが、自民党の戦後政治ではなかったか。チャンスは、自民党以外に回してみるべきだ。自民党は、野党になって、一度、政党としての体質を根本的に改善し直してみるべきだと思う。
 それで初めて、日本の政治は、保守、リベラル、社会主義、環境派などと、立場と強調点を異にする政党が、それぞれにぶつかりあい妥協しあって、日本という船のかじ取りをしていく、成熟した民主主義にやっと一歩を踏み出せる。

 


2009/06/24

静かな衝撃

 よく訪ねるイエナプランの小学校に最近またある視察団とともに訪れた。
 イエナプラン校は、何度も訪ねているのにたずねるたびに新しい発見がある。

 この日、訪問者とともに職員ホールに通され説明を聞いた。若い女の校長先生が、いつものように学校の概要を説明してくれた。そして、それから、ちょっとほほ笑んで、私の方に目配せをし、
「それからね、今日は、実を言うと今学校に特別のお客さんがいるんです。最上級生が今そのお客さんを囲んでサークルで話し合いをしています。そのお客さんというのは、実は、刑事犯罪を犯した人で、TBSクリニックからきています。ちょうど、今子どもたちは『法律』について学んでいるところなので、ホンモノの勉強をするために、こうしてゲストとして招いて、子どもたちと話をしてもらっているの」

 TBSクリニックというのは、殺人事件や強姦事件などを起こした、かなりの凶悪犯罪者で、少なくとも4年間の留置の刑が科された犯罪に対し、犯罪を犯した時期に、精神的に異常であったことが証明され、そのために、服役能力がないと考えられる人が収容される施設だ。
 ほとんど回復の見込みがない精神異常であるため、治療を受けながら一生クリニックで過ごすケースも多い。

 しかし、治療を受けて数年すると、社会復帰トレーニングのために、はじめは、クリニックの周辺、また、期間をおいて、自宅に帰ることができるようになったりする。無論、精神異常の程度が強くて復帰トレーニングができない場合もあるのは当然だ。
 ただし、こういうTBSクリニックから、社会復帰トレーニングとして一時的に復帰訓練をしている患者が、介護人の監督のすきを見て逃げ出し、その結果、薬品の摂取をやめ、精神異常の状態が起こり、強姦や殺人などの再犯が起きてしまったケースも確かにある。そして、そのたびに、責任問題や、今後の対策が熱い議論になって問われている。

 だが、こういう患者たちの社会復帰トレーニングの「あり方」を変える議論はあっても、「やめてしまえ」という議論はほとんど聞かれない。それは、凶悪犯罪を犯したこの人たちが、精神以上と言う、本人にはどうしようもない原因を持っているからであり、そういう人たちの人権を守ることは、社会の成員すべての共通の義務である、と考えられているからだ。オランダ社会の人権はそこまで守られている。

 というわけで、その日、そのイエナプランの小学校では、学校の真ん中の明るいホールの中央で、TBSクリニックから一時帰宅しているという「元」凶悪犯罪人の患者が、15人ばかりの小学六年生に囲まれ、子どもたちから出されるいろいろな質問に答えていた。手枷、足かせをしているわけではなく、若い二〇代後半くらいの女性が、付添い人としてそのサークルの輪の中に入っていただけだった。

 校長先生と、その分校の分校長とは、私が連れてきた二〇人ばかりの日本からの視察団の応対をしているし、ほかのクラスでは、いつもと同じように、普通の授業が普通の時間割通りに行われていた。
 
 警察官が学校の周辺や校内に来て見張りをしているわけでもなかった。

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 数年前、TBSクリニックから一時帰宅していた患者に誘拐され強姦され、国境を越えてドイツにまで連れ去られていた女子中学生のことがニュースになったことがあった。無事に発見されたその中学生は、中国系の移民だったと記憶するが、誘拐されている間、犯人の心を動揺させまいと、出来るだけ刺激的な態度を取らずにいたのだ、と、発見後テレビカメラに向かって淡々と答えていた。
 相当な精神負担があったはずだが、とても冷静な様子に印象付けられた。当然、その後トラウマ(心の外傷)対策のカウンセリングが行われたものと思う。


 罰すべき、憎むべきは、犯罪行為であって、人の存在そのものを否定することはできない。
 
 オランダに「死刑」がないのはそのためだ。
 『死刑』がないのはオランダには限らない。ヨーロッパ連合加入の条件の一つは、『死刑』制度がないことだ。

 

2009/06/12

徳と尊厳と狭き門

 徳という言葉がある。英語ではVirtue, オランダ語だとDeugdだ。
 英語のVirtueという語は価値(Value)という語に近い。ありとあらゆるものに対する価値の置き方は一人一人ちがう。それを価値観という。人は、自分が持って生まれた背景や生きてきた経験を通して一つの善悪の判断基準を作り上げ、何らかの価値観を持って生きている。その価値観に従って生きることが、徳の実践ということだ。

 しかし、価値観を持つことと、それを体現できることとの間には、大きな大きな隔たりがある。
 理想のとおりに生きていくことは難しい。


 徳は、社会性の高いものだな、と思う。なぜなら、徳の実践は、他人がいるところでこそ真価が測られるものだからだ。 

 尊厳という言葉がある。人が人として、自分の信じる価値観に従って行動できることだと言ってよいと思う。しかし、この尊厳を阻むものが世の中にはごろごろ転がっている。転がっているどころか、意図して阻む行為が外からも押し寄せてくる。

 多分、尊厳に従って生きるのが最も難しいのは、最低限度の衣食住を保障されない人たちだ。「清貧」という言葉があるが、言うほどにやさしいものではない。それを、私は、アジアやアフリカの国々で見てきた。

 でも、多くの人々が手を携えていれば、社会の結合が強ければ、尊厳を保てることもある。

 徳を持って生きるのが難しいのは、権力者もそうだろう。カネや権力は、人を他の人に対して懐疑的にさせるものだ。他人を信じられなくなれば、頼るものは、カネと権力。尊厳などとは言っていられない。

 尊厳をもち、徳に従って生きるのは、ことほどに難しい。「狭き門」とは、多分、そのことを言っているのだろう。

 なぜ、人は「自由」でなくてはならないのか。それは、自由が奪われたところでは、人の徳が引き出されないからだ。特に従って生きることは難しい。だからこそ、それが少しでも実践できるだめに「自由」がなくてはならない、多分、そういうことなのだろうと思う。

 「中庸」は、洋の東西を問わず、徳の神髄にある。
 しかし、中庸を、中途半端、妥協として、独善やシニシズムに走る人は多い。

 独善とシニシズムが心に芽生えた時、他者への受容は消え去ってしまう。そして、思いもよらず、不徳な傲慢と排斥の行為に足を取られてしまう。

 徳に従って生きるとは、、、、中庸に生きるとは、孤独であるし、ほんとうにほんとうに難しい。
 人として成熟するというのは、多分、こういう徳との戦いを続け自分を見つめ続けるということなのではないか、と思う。

2009/06/02

貧困という危なさ

 「貧困」が最近の政治議論のキーワードになりつつある。
 なぜ「貧困」が危ないのか。
 人間としての尊厳が保てないからだ。

 日本政治のキーワードになりつつある「貧困」は、今、すでに、権力者からまんまと利用されつつある。人間としての尊厳を保てないほどの貧困に喘ぎ、なおかつ、そういう貧困の中でまともにものを考え判断する教育さえ受けられなかった人々は、権力者の力で赤子の手をひねるようにどうにでもなる存在だ。

 私の海外在住体験の第一歩はマレーシアの最貧地域の貧村での入村調査だった。電気はまだ村の一部にしか通っておらず、ほとんどの家には、トイレをはじめ下水溝がなかった。
 80年代初頭のことだ。
 
 当時、日本経済は繁栄の頂点。その年、マハティール首相は、「ルック・イースト政策」と呼んで、日本を見習え、をスローガンに掲げていた。日本は、開発途上資金を落としてくれるパトロンだった。日本の建設会社は、現地にビルを建てては、元をとり返していた。その金で、私のいた貧村がどういう事態になっていたのか、、、

 私の当時の研究テーマは「マレー村落の権力構造」。
 そこで見たものは、貧困地域の生活向上のために開発資金が落とされる中、村の中で、現政権に対して「イエスマン」になる人々を(近代的)リーダーとして引き上げ、それらのリーダーを通して、村の中で、最も底辺にある、粗末な住居とぎりぎりの自給生活をしている人々に、少額の補助金を落としていくことだった。貧困にあるものは、少しでも補助金がもらえれば息がつける。他の村人との格差を見せつけられれば、補助金はもっと嬉しい。こんなに、恩恵深い政党なら支持しようと、村人たちは、トラックに荷台に乗せられ投票場に行き、保守政権への投票をした。

 反対していたのは、イスラム教急進派と呼ばれる政党の人々だ。
 自営業を営み、そこそこに自分の生計を立てている人々には、補助金は降りてこない。村長のイエスマンにならず、毅然と自分の尊厳を守るような連中は、政府関係者にとっては目障りでやりにくい。カネに目がくらんだ村長や、州の権力者が天下りさせる村長が増える。穏健派、実は優柔不断な政府系モスクのイマムが、なぜか家を新築し、電気を引き、要りもしない養漁場を作って、村はずれの貧農にカネをばらまいて票を集める。見苦しさに、反対の声を上げる人々は、哀しいかな、原理主義に走り、宗教を利用して抵抗する以外にない。
 急進的な原理主義が、民主制にあってはならない「暴力」を使わざるを得ないところまで追い込まれていく。

 思いもかけないやりきれない悪循環を目の当たりにして、日本の間接的な加担が惜しまれた。
 しかし、当時の日本は、まだ、格差の少ない、平準性の高い国だった。しかも、開発途上資金は、かつてに日本の侵略国に対してより多く支払われていた。日本にしてみれば、よく言えば罪滅ぼし、悪く言えば、口封じのカネだったのだと思う。

 どうせカネを使うのなら、なぜはっきりと侵略への謝罪をしないのか、、、、まあ、日本流の、言葉の外交ではなく情に訴える外交か、、、それにしても、それでは歴史には刻まれていかない、、、、、と釈然としない思いでいるうち、日本社会そのものがおかしくなっていった。一億総中流と言われたのは、今では、夢のかなた。「貧困」が問題になるなど、いったい、20年前の日本人のだれが予想していたことだろう。しかし、そうならざるを得ない、内側の矛盾は、日本にはずっとあった。金融危機がどうの、グローバル化がどうのという以前の、日本社会の民主性の基盤そのものが、初めから疑わしい質のものだったのだ、と思う。外的要因が今の日本を生んだのではなく、内側に巣くっていた問題が、グローバル化と金融危機によって見事に露呈しただけだ、と私は思っている。

 有識者会議への関心が熱心だ。
 非正規雇用者への保険制度、子育て支援などで、貧困層への支援策が浮上している。
 なぜか、マレーシアの村で見た、成り上がり村長と、最貧農民の関係を想起してしまう。そうでなければいい、と思いつつ、「有識者会議」のあり方は危ない、と思う。

 「貧困」が世の中の話題になっているだけに、ここに目を付け、庇護のスタンスをとることで、日本社会の本質的な問題、戦後政治の本質的な誤りから、目をそらさせようということらしい、わたしにはどうしてもそうみえてしまう。

 権力者の「貧困」利用は、マレーシアに限ったことではない。

 開発途上国援助の専門家である夫に伴って、アジア、アフリカ、ラテンアメリカで15年を暮らした。
 食うや食わずの遊牧民を定住化させ、食物ではなく「綿」を作らせる政府。不作で綿ができなければ、この農民たちには、カネが入るどころか種子購入のために支払われたクレジットへの借金返済が待っている。政府は、借金を返せと追い詰めることもできるし、また、返せと迫らずに、「恩情」を見せれば、この農民らは、政府を支持する。どっちに転がっても権力者には失うものがない構造が既にできている。

 途上国に大きな橋をかけるといって事業を起こす大国は、まず、現地の権力者にカネをばらまく。橋梁工事の予算の半分がこういう現地の政治家の懐に入ったからと言って、橋さえできれば問題はない、そういう開発援助がどれだけごろごろしていたことか。そして、工事を受注するのは、結局は、大国本国の企業だ。これまた、失うものは何もない。

 80年代に、そういう議論は、山ほどあった。日本の開発途上政策は、その後どれだけ変わったのか。議論は、影響を与えることができたのか。
 オランダの開発途上政策は、あの頃大きく変わった。自分たちの社会の機会均等を追及していたオランダ市民は、世界における格差が、やがて世界平和を危うくさせるものであることを、実感として知っていたからだ。

 不当解雇や派遣労働で、こんなにも多くの貧困者を生んでいる日本もまた、どうやら、そういう権力者のトリックでどうにでもなる大衆社会に転落してしまったようだ。

 識者は言う。「近代化は産業化に他ならない。産業化が生んだ社会で、わたしたちはみな被害者、社会に出口がなくなっている。さあ、みんなで考えましょう」と。

 ちょっと待ってくれ、近代化はそういうものではない、、、私は、一人で、そういう心の叫びを聞いている。近代化の本質を人々の目から隠したまま、ただひたすら、産業社会の歯車を作るだけの教育を作ってきたのは、それからメリットを受ける人々が意図的にしてきたことだったのではないか。日本の産業化は、ただ、知らないうちに、そうなってしまった、というようなものではない。意図して、市民を作るという営みを排除してきて成り立っているだけではないか、、、。余計なことを考えずに、ただひたすら、勤労精神に励む人間を大量に作っていれば、経済は安定し、未来は約束される、、、そこには、「指導者」の明らかな「意図」があったはずだ。

 近代とは、人間が、他人の作った既成の価値観から解放され、自分の頭でものを考えること、「良心の自由」に従って生きるという決意をしたことから始まっている。だから、科学が必要だった。一定の、誰にでも共有できる問いを立て、共有できる手続きを持って、結論を引き出す。科学には、だれもがアクセスできなくてはならない、そう考えるのが近代というものだ。だから、近代教育は、「科学」を教える、「科学的な探求の態度と技術」を教えるため、子供が自分の力で学び続けることができる大人になれるように「育てる」ために生まれたものだ。しかし、哀しいかな、どの先進国でも、近代教育は、短時日のうちに、産業振興型の競争画一教育へと変容を遂げてしまう。

 
 産業化は、科学振興によって生まれた技術が可能にした拡大生産の結果であり、拝金主義は、近代の本質を忘れて産業化にまい進した人間の愚弄の結果にすぎない。人間の知恵が生んだはずの産業が、人間の尊厳を奪い去った。だから、ここから、どうやって足を洗ったらよいのか、、、、

 私たちは、働くために生きているのか、生きるために働いているのか、、、。男と女の分業は、カネのためか、それとも、よりよく生きるためか、、、。
 よくよく考えてみなくてはならないと思う。

 拝金主義から足を洗わない限り、「貧困」は政治に利用されるし、どっちに転がっても勝ち目のない戦いとなる。だから、危ない。カネがなければ息の根を止められるほどに貶められた貧困は、人間が、誇りを持って生きることを許さないだけに危ない。

 貧困を生まない、貧富の格差を生まないことを最優先してきた、デンマークやオランダ、そして北欧の国々の制度はだから強い。持続可能性のある社会とは、貧困を絶対に生み出さないシステムのある社会だ。

 いよいよ、日本の民主性を問われる正念場がやってきた、そう見える。

 貧困は、「民主的な社会」の健全さを保つためには、絶対に作ってはならないものだった。
 それを生んだ日本の政治は実に醜い。それを放ってきたマスメディアはさらに醜い。
 知っていながら、分かっていながら、この期に及んで「独善」と「シニシズム」に浸る知識人は、風上にも置けない。

2009/05/15

1+1>2

 教育評論家の尾木直樹さんとの対談が本になった。
 オランダの教育についての情報を日本に報告しながら、何が伝えたかったかといえば、日本の現状を外から見直す必要があるのではないですか、ということであったから、この対談は、私にとっても、初めて、日本の教育について直裁率直に意見を言える初めての機会だった。
 それはともかく、、、
 対談というのは、実に面白い作業だな、と改めて思う。
 人間、一人一人顔も違えば考え方も違う。その二人が意見を出し合い語り合うことで、お互いが、今まで考えてもみなかったことに気付き、ふっと意識が別の次元に浮上する。いい作業をやらせてもらったと思う。これもひとえに、こういう機会を作ってくださった尾木さんのおかげ、また、出版業界苦境の中を押して本づくりをして下さった柴田さんのおかげだ。

 考えてみると、夫婦というのも、そういうものではないのか。夫婦になれば子供が生まれる、だから1+1>2だ、という単純な話ではない。男と女、そして、私たちの場合は、オランダ人と日本人という、とんでもなく背景が異なる二人が出会い生活を共にしてきた。しかし、そのことで、どんなにたくさんの付加価値を得ることができたことか、、、どんなにたくさん新しい発見をし、自分を見つめなおし、何度となく新しい地平を広げることができたことか、、、

 船は一人でこぐより二人でこぐに越したことはない。
 荒波を行く船が転覆しないように保つには、一人より二人の方がずっと良い。

 本づくりにおける著者と編集者もまた、1+1>2とする作業だな、と思う。そして、考えてみれば、著者と読者も、そうなのかもしれない。発信者と受信者は、互いが歩み寄ること、お互いが理解しようと努めることで、それぞれがそれぞれの中で、何か今までになかったものを受け止め発展させる力になる。

 長いこと、人に頼らず一人で何でもやってしまおうと思ってきた。自立していたいという気持ちは今も変わりはない。でも、それとは別に、最近、すこし力が抜けてきて、人とつながって何かをした方がずっと大きな力になる、と感じられるようになってきた。

 人間一人で生まれひとりで死んでいく。それなら、せめて生きている間、つながってみたいという開かれた意欲を持っている人たちと一緒につながっていた方が多分ずっと幸せだ。

問い続けるということ

 イエナプランについてもっと詳しく知りたい、そう思ってケース・ボット氏に電話をしたのは5年前の夏のことだ。ボット氏は、1960年代にドイツからイエナプランを紹介したスース・フロイデンタールの片腕となって、ワールドオリエンテーション(イエナプラン教育のハートといわれる総合的な学び)の理論と教材研究をし、長くオランダ・イエナプラン教育の理論的な基礎を築くうえで指導的な役割を果たした人だ。もともと、経済的にも余裕のない家庭に生まれ、助教師の資格を取って小学校で教えていた。
 電話の受話器を取ったのは、ボット氏の奥さんで、明らかに外国人とわかるオランダ語で面会を求めてきた私に、少し戸惑ったようにこう答えた。
「ケースは今耳がほとんど聞こえないので筆談しかできないけど、それでもよかったら、用件を伝えますからいってください」
と。
 思いがけない返答に、ちょっと面食らった。
 それから1週間後、うまくコミュニケーションができるだろうか、と内心ハラハラしながら、オランダ中部にあるボット氏の自宅を訪れた。静かな住宅街にあるその家で、ボット氏は、奥さんとともに、私の来訪を待ち構えていてくれた。
 そうして通された3階の小部屋は、白い壁に水彩の鳥の絵がかかり、窓越しに、家の前の通りを超えて白樺やポプラの緑の木立が見張らせる、静かな落ち着いた一室だった。

 さて、耳の聞こえないボット氏とどうやって会話をしたものか、、、
 仕方がないので、持ってきたノートに質問を書きつけて見せながら話をすることにした。
 ボット氏は、初めから聾唖だったわけではない。その前年、中耳炎がもとで耳が聞こえなくなってしまっていたのだ。だから、ノートに書いた質問を読むと、少し、大きすぎるかな、と思われる声だったが、次々にたくさんの答えを話して下さった。一旦話し始めると、とても仔細にわたり、また、外国から来た私に伝えられるだけのことを伝えずにはおれない、という熱気さえ感じた。

 ボット氏の蔵書はおびただしく、話が進んでくると、隣室の本棚に行って、ありとあらゆる資料を引き出して見せて下さった。
 そうして、第1回目のおよそ3時間にわたる会談は、あっという間に終わった。

 2時間の帰路を、いささか興奮と心地よい疲れを感じながら運転して家に帰りつき、メールボックスを開いてみると、早速ボット氏からのメールが入っており、短く「これも参考になるでしょう」と書かれたメッセージとともに、添付ファイルには、ぎっしりとその日の会談に関係した報告書の類が貼り付けられていた。

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 その後、何回か、こうしてボット氏を訪れた。耳の方は、手術を受け、以前より回復してきているようだった。訪れるたびに、気の置けない関係となり、資料なども、「ナオコ、上にあがって取ってこいよ」とあけすけに見せて下さるようになった。
 それにしても、いつ行っても、ボット氏の頭には、また一つ、また一つと新しい情報がちゃんと入ってきているのには驚いた。イエナプラン教育の指導者ではあったが、教育に関する、あるいは、新しい理科教育に関するありとあらゆる情報、それも、オランダ語に限らず、英語、フランス語、ドイツ語の資料を今も蓄え増やしていっている姿には、感服する以外になかった。

 ある時、どうしてイエナプラン教育と出会ったのですか、という質問をしたことがあった。
 するとボット氏は、このように答えた。
「私は、昔、小学校で助教師をしていたんだが、ある時に、理科教育の方法を探していてね。何か、子どもたちが自分で発見的に勉強できるいい方法はないのかな、と思っていたんだよ。そうして、たまたま自分がとっていたある教育誌を読んでいたら、フロイデンタールという女性がいて、イエナプラン教育というのを紹介しているというのが分かってね。よく見たら、うちからそんなに遠くないユトレヒトにいるっていうだろう。すぐに連絡してみたんだよ。すると、向こうも、今、ワールドオリエンテーションの教材を開発しようと人を探していたんだ、と言って、とても熱心にそのことを話してくれてね。あっという間に意気投合さ。それから、イエナプラン教育にかかわり始めたってわけだ。全くの偶然だね。、、、、、私は、それから、いったい、オランダの理科研究っていうのは、どんなことをしていてどのくらいのレベルにあるんだろう、そう思ってね。全国の大学の研究者や博物館で仕事をしている人たちに、手当たり次第に電話をかけ、面会を申し入れて取材して回ったんだ。その時のことは、当時のイエナプランの機関誌にも書いているけどね。そうして、研究者たちに会っているうちに、およそのことが分かってきたんだな。ああ、オランダ国内の理科研究は、今、このあたりのレベルなんだなって。よしわかった、って思ったよ。」

 ボット氏とは実にたくさんの話をした。しかし、この時の話は、その中でも特に印象に残っている話の一つだ。

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 私も、単純に知りたい、そう思って、ボット氏に電話をかけた。ボット氏の名前にたどりつくまでに、イエナプラン協会などにいろいろ問い合わせたことは当然だ。そうして、ボット氏と会話をし、彼が見せてくれたり送ってくれる資料を渉猟しているうちに、イエナプラン教育のことが、はっきりと見えてきた。学校を訪れていても、枠組みがしっかりできていた。

 彼の研究者としての姿勢には脱帽というよりほかない。しかし、私が「知りたい」という気持ちだけから、自宅に電話を入れて尋ねてきたことについて、多分、彼もまた、「へー、面白い日本人がいるものだな、昔自分もこうして電話をかけて人を訪ねて行ったなあ」と心の中で感じていたのではないか、とほぼ確信している。

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 ボット氏が打ち立てていったワールドオリエンテーションの学び方は、まさしく、科学検証のステップそのものに他ならない。

 小学生に対して、まず、対話をしたり、戸外で遊んだり、無秩序にごちゃごちゃとおかれたものを探索する中から、子供たちの「問い」を引き出せ、という。そして、その「問い」をみんなで集めろ、と。子どもたちとそれを指導する大人の教員とが一緒になって、ああでもない、こうでもない、と問いを出し合いそれを整理する。それから、さあ、どうやって、この問いに答えを出したらいいだろう、とみんなで話し合う。図書館に行こう、専門家に会いに行こう、実験してみよう、森で観察しよう、などなどと手続きを話し合う。子どもが自分でできる研究は自分でやり、大人の教員が教えてやれる探索方法は授業で教える。そうして、見つけてきた答えや、答えへの手がかりを、再びみんなで持ち寄って話し合う。できた成果を保管し、次の研究、次の世代の子供たちへの遺産とする、、、、、

 探求は、あくまで「問い」から始まる。手続きは、あくまで、自分の頭で考え生み出す。集めてきた答えは、みんなで出し合うことにより、批判的なフィードバックをする。成果を整理し、次の世代へと受け継いでいく。

 これは、問題意識、仮説と検証、成果の整理、結論、次の人への先行研究としての保管、という科学検証の手続きに他ならない。

 小学生の子供たちを指導するために作られたこのイラストレーションのモデルを見ながら、私は、こんなに簡単なことを、なぜ、私は大学生になるまで一度も気付けなかったのだろう、と思った。
「あなたの問題意識は何ですか」
と教授や同僚に問われて、答えられない自分が情けなかった。しかし、内心、「問う」ということができない教授や学生がほとんどだということも感じていた。

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 思えば、30年足らずの間外国を転々としながら、私は、心にいつもいくつかの「問い」を抱えて過ごしてきたのだな、と思う。13年前にオランダに来た時、これからオランダに定住できる、と思った時、知りたい、わからないという問いが、むくむくと心に沸き起こってきた。どうせ、私は、学者でもなければ、研究者でもない、だれも振り返ってみるわけではないし、自分が知りたいからやるだけさ、、、そう思って、問いの答え探しを始めた。初めて、それを意図的に始めた時、私は、オランダにあるありとあらゆる教育協会に手紙を出して、資料を送ってもらった。自分の子供たちが通っている学校の校長先生に頼んで、自宅で、聞きたいことを思う存分聞かせてもらった。

 問えば答えがもらえる。

 一つの答えが得られたら、そこから、さらにまたいくつもの問いが生まれる。ああでもない、こうでもないと考えているうちに、自分なりの仮の真理が形を成してくる。ああ、「仮説」とはこういうことだったのか、と思った。そして、自分が一つの問いに対して探し、見つけた答えもまた一つの「仮説」に過ぎないのだと。

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 ボット氏は、私がイエナプラン教育を熱心に勉強していることについて、こうも言う。
「別に、イエナプラン教育なんて名前にこだわることはないんだよ。個別教育だって、共生教育だって、、、名前なんてものはどうでもいい、、、人に分かってもらいたいならゲリラ戦だな、方法にこだわる必要はない、できるところから、可能性のあるところがあれば、どんどんそこから攻めていくんだよ」

 探求者にとって、どこかに「とどまる」何かに「こだわる」ことは死に態となることなのだろう。問い続ける、ということは、どこかで出来上がったり、安心することではないのだろう。そういう意味でのこだわりは持たない方がいい。独善を避け、いつも、批判と反証に心を開いておけ、、、、、彼はきっとそういう意味のことを言っているのだろう。

2009/04/28

民主的な社会意識は育てられねば育たない

 「民主主義」という語を日本で使うと、いまさら何を言い出すんだ、というような、煙たそうな顔をされる。
 以前、本の企画書を作って、ある新聞社の特派員に見せたら、そこに二,三「民主的な」という語を使っていたのを見て、「へえ、直子さんって硬い言葉を使うんですねえ、そういう人だったんですか」と言われて、ちょっとびっくりしたことがあった。

 確かに、「主義」などという言葉を見ると、それだけで拒否反応、という人はいるのかもしれない。私も「主義」とか「イズム」という語は、いささか好戦的な感じがするので、あまり好きではない。

 だが、民主主義の原語であるデモクラシーという言葉は、オランダでもフランスでも、少なくともヨーロッパ一円では、新聞やテレビで、また、日頃の会話の中でしばしば飛び出す、ごくごく日常的な言葉だ。

 革命によって王制を倒し、デモクラシーを実現したことが、現在の国家の起源となったフランスでは、郵便物に貼る切手一枚一枚にデモクラシーという、米粒よりも小さな文字の語が印刷されている。

 日本では、民主社会は、敗戦後の占領期に、「民主主義と自由の国」アメリカの指導のもとで、教育、農業、経済など、さまざまの分野で、民主化への制度改革が行われた時に「実現された」と思っている人が少なくないのではないか。だが、「民主社会」とは目標として到達される完成形としての「制度」というような静的な状態をいうのではない。人々が、常に、支配者の独裁や、人々の口封じをする暴力を用いる人が出てこないように、言葉の力で議論をし続けること、社会の不公正を日の下に明らかにし続けることができる状態そのものをいう。そのためには、制度があるからといって安心していられるものではなく、何より、当事者である社会の成員一人一人が、その大切さを自覚していて、いつも崩れないように見守っていてこそ成り立つものだ。

 60年に余る「戦後日本」の、一体、いつ、どこでそういう状態が実現していただろう?

 この問題は、民主化というスローガンをあげ、民主社会を求めていながらも、なぜか、他者との対話を続けることより、「独善」のうちに走り去っていったいくつもの団体が生まれた60年代70年代の日本の姿からも伺える。「独善」はそもそも民主主義にはなじまない。
 日本は、あの頃、アメリカの力を借りずに、自分たちで「民主社会」を築くだけの力と意識をまだ十分に持ちきれていなかったのではないか、本当に民主的な社会を求める人々の意識や運動を支えるだけの成熟した力をもっていなかった。民主制を求める声も意思もあったのに、それがつぶされていったのは、ひとつには、極東にあって、アメリカという大国の前に屈するしかない新進の民主国家であったこと、
、もう一つには、戦時中の物資不足と疲弊によって、経済的な回復を求める心が、やがて人々を拝金主義に向かわせていることに、気付けなかったからではないか、と思う。

 それでは今はどうか、、、?
 格差の広がり、貧困の増大は、人々の意識の中に「民主社会」を希求する力を静かに育て始めているのかもしれない。物質的な豊かさが失われたことで、人間にとって大切なものは何なのかが、ようやく私たちの意識に昇り始めてきたのかもしれない。それにしても、ここまで来てしまった社会で、貧困にあえがなくてはならない人たちの犠牲はあまりに大きい。なぜ、ここまで放っておかれなければならなかったのだろう。

 六〇年代七〇年代の世界の動きを、せめて、アメリカだけではなく、ヨーロッパの動きをしっかりとらえていたならば、こんな風にはならなかったのではないか、という思いがよぎる。でも、今から始めても遅すぎるということはあるまい。

 「民主的な社会意識」は、国語や算数や理科などと認知的な科目の知識や技能を教えるのと同じように、大人によって「意図して育てられなければ育たないものだ」と、オランダのシチズンシップ教育の研究者は言った。育てられるべき「民主的な社会意識」は、「独善」「分極化」に敢然と立ち向かう心の動きを養うものでなくてはならない。それは、人間の心や頭に、生まれつきインプットされたようなものではない。知識として、民主社会の姿を学び、実践を通じて、学校という守られた場所で行為として実施してみなければ、民主社会を支える市民の行動は育たない、という。

 私たちが学校で学んできた、ホームルームのディスカッション、生徒会の話し合いなどに、本当に、市民意識を育てるものはあっただろうか。個性の見えない制服を着せられ、けたたましいベルが鳴れば、あわただしく席に着き、みんなで一斉に教科書を開き、教科書の中身にも、先生の話にも疑問をさしはさむことなく、ただただ、受験勉強のために、朝の補修、授業、夜遅くまで練習問題を解かされる毎日に、「市民とは何か」と考える時間はあっただろうか。

 民主社会とは完成された到達目標となるような形のあるものではない。そうではなく、人々が、社会の行方を決定するために一石を投じられる、自分が声を上げればその声は誰かほかの人に必ず聞かれていると感じている状態、そのために、意見の異なる人々と対話によって意見交換をし、より深い議論へと発展させたいと感じることのできる状態のことを言う。
 カリスマ的な威力を持つ人気者に物事の判断や決定をすべて託したり、独裁的な支配者の前でみずからの無力を感じ、支配者のなすがままに任せる以外にはない、と感じている状態は、民主社会ではない。支配者、独裁者が、一人でなく、巨大な官僚制度であってもそれは同じだ。民主的な状態とは、その社会にいる人々が、それぞれ公平な立場で、自分の心に忠実な意見を忌憚なく述べ伝えることができ、同時に、忌憚ない意見を述べる人に、他の人々が耳を傾ける意思を持っている状態を言う。

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 ワークシェアリングをめぐって、再びオランダのポルダーモデルが注目されている。

 しかし、日本人が、増え続ける失業問題や雇用問題の解決策として、何か、完成された制度、マニュアルとしてのワークシェアリングを求めるのであれば、それは、ポルダーモデルの本質を見誤ったものであると思う。ポルダーモデルは、本質的に、社会の成員が、それぞれの役割や立場から、同等の発言権を持って参加し、同じ水平的な関係の上で互いを尊重しあうことによって、共通のビジョンに向かって知恵を出し合うためのものだからだ。日本のエリートが形だけを模倣して植え付けられるようなものではない。

 そもそも、ポルダーモデルで歩み寄ったとはいっても、政労使のうち、政治家と企業家は、それまでだって十分に発言権を持った人たちだったのだ。政労使の中で、最も大きな困難を乗り越えなくてはならなかったのは、意見の違いを乗り越えながら団結し、聞かれない声を集めて聞こえるようにし、権威的な相手に対等な立場で人間の尊厳に基づく要求を突きつけてきた労働者たちだった。
 七〇年代の労働党に対する支持の高まり、そして政権の獲得、それを支持した知識人やマスメディアがあって、ポルダーモデルの実現の道は開かれてきた。ワークシェアリングを実現した八二年のワッセナー合意の時代も、労働党が果たした役割は大きかった。

 西ヨーロッパの国々もまた、当時、冷戦体制の中で北大西洋条約によって、アメリカとの軍事提携の中にあった。それなのに、アメリカとは異なり、社会主義を受け入れ、福祉制度を整えることができたのは、この地域が、人種差別や独裁の歴史に対して、敏感で謙虚な反省と自己批判を続けてきたからだろうと思う。複数の異なる国が、共存していたことも、お互いの内なる社会にある問題を見直すのに役立つものだったのだろう。差別されやすい人々、弱い立場の人々の声に耳を傾けようとする人々がいたし、その声を伝えるマスメディアがあった。二度と再び、差別と殺戮の歴史を繰り返してはならない、という固い意志をもったリーダーたちがいた。


 ヨーロッパがアメリカと異なるのは、その点だと思う。それが、ヨーロッパの社会民主主義をかたちづくってきた基盤だ。

 そういう背景の中から生まれてきたワークシェアリングは、だからなおのこと、企業家の利益だけ、雇用の安定した正規職員の既得権益だけを考慮した保守政権などには、逆立ちしてもまねのできるものではないと思う。

 日本がそこから何かを学べるとするならば、日本人自身が、いま日本が置かれている世界の中での位置や立場を見据え、日本の世界に対する責任と役割を認めること、また、その共通の展望を持って国内にいる様々の立場と役割を持つ日本人自身が、お互いの意見を出し合って、その時々の最善の選択をしていく、そういう関係を維持し議論を続けていくという覚悟をすることではないか、と思う。
 欧米に追い付こうとか、乗り越えようとか「競争」することよりも、周囲の国々との共存と協調に目を向けてみる時期なのではないか。行き過ぎた産業化の中で、あとに残し忘れ去ってきた人間一人ひとりの尊厳や人としての心の豊かさ。追いつけ追い越せの産業化は、人間の社会を激しく非人間的なものにしてしまう。その同じ轍を踏み始めている国が日本の周りにはいくらもある。日本の経験は、生かされるべきだ。

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 「和魂洋才」のスローガンのもとに、西洋の「技術」を取り入れることに専心してきた日本。しかし、「魂」の部分は微動だにせず、そして、その「魂」とは、伝統の中にあるタブーにはふたをしたまま一切の議論を寄せ付けず、また、本音と建前を使い分ける権威主義にも触らぬまま、そして、個々の日本人の思いや福祉を犠牲に日本流に見事に統一されたトップダウンの意思決定が無駄なく行き渡る社会を外からまんまと利用しようとしたアメリカの権力こそが何より得をしたシステムだった。そして、このシステムは、今も厳然として続いている。

 いま、経済不況、流行病の蔓延、環境破壊、自然災害の増加と、人類社会に挑んでくる様々の問題に直面して、世界は、国境を越えて協調する時代に入り始めている。自国の利益だけを求めて、途上国の貧困を放置すれば、世界の紛争は絶えることなく、紛争解決と流出する難民の受け入れのために、先進国の経済はますます圧迫を受けることだろう。地球上のすべての人々の福祉と平等を実現しなければ、人類社会に紛争の種はなくならない。
 紛争の種がまかれ、芽を出し、幹として育ち始めている世界に、同時に核兵器の危険は減るどころか増大し続けているという。

 しかし日本は、日本という小さなスケールの社会の内側ですら、「協調」を知らない。子どもたちに「協調」して生きることを教えようとしていない。教えているのは、産業社会を支える歯車として「同調」することではあっても、一人一人の子供のユニークな個性を育て、その一つ一つの個性が活かされる社会参加の機会を大人たちは子どもに約束していない。

 国際社会での協調社会への歩みは、今やっと始まったばかりだ。実現まで長い長い時代が待っている。

 協調には対話が求められる。

 対話を続けること、プロセスとしてのデモクラシーを受け入れることが、日本人一般に強く求められる時代になっている。日本が、本当に「近代的な先進国」の一員であることを世界に示し続けるためには、一人でも多くの日本人が、対話への意欲を示し、実際に対話のできる力を持たなくてはならないのだろう。そうでなければ、日本は、ますます世界から孤立する。ひょっとすると、その前に、日本という社会システムそのものが崩壊してしまうかもしれない。

 対話の能力は、外国語の会話力などがあればいい、というような軽率なものではない。

 日本が、民主的な世界の一員になれるかどうかは、自分をそうたやすくは理解しそうもない相手とそれでも対話をしようとする日本人、黒白の決着のつかない宙づり状態であっても、結論が見えなくても議論と対話を続けていくという、一種の楽観に支えられた、能動的な対話のプロセスの緊張に耐えられる日本人をどれだけ育てることができるかにかかっていると思う。

2009/04/20

小国の方がいいこともある???

 かつてサッカー選手として世界に名声をはせたオランダ人ヨハン・クラウフ。
 彼は、選手をやめてからもバルセロナのサッカーチームの監督をし、また、オランダでも、サッカーの重要な試合があるごとに解説者として登場する、いわば「サッカーの神様」のような存在となった。日本でもサッカーファンなら一度は聞いたことがある名前だろう。実際、現役中のクラウフのプレーは、今ビデオで見ても、華やかで美しい。
 
 ただ、天は人に二物を与えない、というか、彼は、オランダ語の方はあまり得意ではなかったらしい。サッカーの試合の解説中にポンポン飛び出す、文法も論理もめちゃくちゃな彼のものの言いまわしは、かえって、彼が何を言おうとしているかがよく分かるだけに、逆に「的を得た表現」しかも「面白おかしい表現」として名言集が作られるほどとなった。

 そんな中でもとくに有名なのは「どんな難点にも必ず利点がある」というもの。
 まあ、クラウフが言いたかったのは、「どんなに苦しく困難な状況にあっても見方を変えればそれをよい方向に動かす力が引き出せるものだ」というようなことだったのだろう。もちろん、もとはサッカーの試合の解説だから、プレー中の状況を言っている。だが、あまりに物事の核心をついたこの表現に、オランダ人はすっかり喜んで、流行語に仕立て上げた。流行語というより、もう、オランダ人の中には知らない人はいない、というほどの哲学的(?)名言となった。
 たぶん、大きく譲って「どんなことにも難点と同時に利点がある」と言えば、論理的には受け入れられる表現になったのだろうが、それをすっ飛ばして上のような表現にしたことが、かえって人々に訴え、大爆笑と共に、オランダ人の多くが、何かにつけてこの表現を口にするようになった。

 それにしても、オランダ人にはもってこい、オランダ人が喜んで使うはずだ、とつくづく思う。

 オランダ人らは、その昔、ぬかるみの湿地帯、海とも陸とも思えない河口デルタ地帯を堤防で囲い風車で干拓して、人が住み、生業をして生きていける土地を作った。よほど食えない人々がこの土地に集まってきていたのだな、と思う。もともと、移民の国なのだ。もともと、既存の体制的な権力や権威を嫌う人々がいる。そういう場所に、どこよりも先駆けて「市民」の国ができた。

 つい先ごろ、ある雑誌の中で、またオランダ人の面白い言葉を発見した。

「小さな国の利点は、大きな外国を持っているということだ (The advantage of a small nation is that she has a great foreign place)」

 これなど、小国の負け惜しみにしてはあまりに極端なので、つい気の毒になり、同時に、スカッとした気分になる。ヨハン・クラウフなら、真剣な顔をして大きくうなづきそうだ。
 この言葉は、かつて、外国人から、オランダにはなぜ外交のために二人の大臣を置いているのか、という質問に応えて、ヨセフ・ルンスという元外務大臣で、NATOの事務総長にもなったオランダ人政治家が応えていったものだそうだ。

 外交のための二人の大臣とは、ひとりは、外務大臣のこと、もう一人は開発協力大臣のことだろう。

 オランダは、世界を向いている。オランダはいつも世界を向いてきた。
 現に、オランダが地球の表面積に占めている割合は、0.008%だが、経済的な地位は世界で第16位なのだそうだ。開発途上国への協力は、世界でも常に1,2位を争う。こういう外交を、大国に依存してではなく、小さくとも、独立して、多方位外交でやってきたというのだから見事だ。小国オランダの国民が自慢したい気持ちもわかる。確かに、連合政権で、コーポラティズムのオランダは、そのために、政策が常に左右に揺れ続ける、見方を変えれば典型的な「日和見政治」と言えなくもないが、少なくとも、自分たちの力で、自分らの国を守っていこうという姿勢だけは模範にしたい。

 さて、日本はどうか。
 アメリカ経済が日ごとに傾いていく中、日本ももうアメリカには頼っていられそうもない。アメリカに依存しない日本は果たして「大国」なのか「小国」なのか。

 もしも、ヨセフ・ルンスの言葉に従うならば、「小国」である方が、利点があるようだ。

 パラドックスとはこういうことを言う。パラドックスを見極めるには、相対観が必要だ。物事に対して、相対感を持ち、パラドックスを読み取ることができれば、おのずと未来への道は開かれていく。「小国」と言ったって、日本は知恵のある人材を何十万と抱えた人的資源の質の高い国だ。みんなが力を合わせ譲り合って知恵をしぼりだせば、日本人にしかできない未来を拓く方法が必ず見つかると思う。

 日本は、自らを過大評価する人為的に作られた「大国主義」や「大国依存」を捨てて、そろそろ、虚心坦懐に「小国」の利点を無駄なく最大限に利用していく時代に来ているのではないか??? 日本を守るのは、日本人しかいない。そのためには、みんなが、忌憚なく発言でき、マイノリティの声が聞こえる議会制民主主義の社会がまず何よりも必要だ。



 少なくとも、小国の人間は、偉そうな態度をとならないから外国でも付き合いやすい。



2009/03/26

ペーターセンとフロイデンタール:生き様という教育  

 世相が悪くなると優れた教育者が出てくる。「教育」は未来だからだ。

 世の中が乱れ、未来社会の行方が描けなくなるとき、人は、理想の未来を生み出そうとする。そして、理想の未来とは、今育っている子どもたちのために、理想社会を学校の中に体現することによって、かならず一歩近づいてくるものだ。そして、それは、子供に対してというより、大人が、自分自身、真実に従って生きるということであるのだと思う。


 イエナプラン教育の生みの親ペーター・ペーターセンは、二つの大戦の間のドイツ、経済不況で人心が腐敗し、政治家も軍隊も規律とモラルが荒みきっていた時代に、民主的な社会の理想を掲げ、異年齢学級を基盤とした自立と共同の涵養を何よりも追求した教育理念を作り上げようと努力した。

 ペーターセンが、「小さなイエナプラン」という、ほんとうに小さな、けれども、イエナプラン教育の関係者の間ではバイブルのように読み続けられている本には、次のような珠玉の、しかし力強い言葉が残されている。

将来どんな政治的、経済的な状況が生じるか、私たちは誰も知らない。
未来は、人々の不満、利益追求、逃走、そして今の私たちには想像のできない新たな経済的、政 治的、社会的状況によってきまるだろう。
けれども、たった一つ確信をもって言えることがある。
すべての厳しく険しい問題は、問題に取り組んでいこうとする人々がいて、彼らにその問題を乗り越 えるだけの能力と覚悟があれば、解決されるだろう、ということを。
この人たちは、親切で、友好的で、互いに尊重する心を持ち、人を助ける心構えができており、自  分に与えられた課題を一生懸命やろうとする意志を持ち、人の犠牲になる覚悟があり、真摯で、嘘 がなく、自己中心的でない人々でなければならない。
そして、その人々の中に、不平を述べることなく、ほかの人よりもより一層働く覚悟のある者がいなく てはならないだろう。

(ペーター・ペーターセン「小さなイエナプラン」(1927)より、訳:リヒテルズ直子)

 このペーターセンの教育は、戦後、ヨーロッパの中でも民主意識が遅れていたといわれるオランダで、60年代になってやっと未来の理想社会に向けて、若者や知識人が大きく軌道を修正し始めた時代に、スース・フロイデンタールという女性によって紹介された。

 彼女は、ナチスドイツの占領下にあったオランダで、迫害されたユダヤ人の数学者を夫に持っていた人だ。夫が捕虜として収容所に連行されて帰らなかった日々、ヒトラーが優勢種としたアーリア人の血が自分に流れていることを、彼女はどれほど苦々しく思っていたことだろう。戦争が終わって41年後、ユダヤ人だった夫ハンスが、スースの葬儀に際して残した言葉は、この女性の強靭さと女々しさのない深い愛情がうかがえて深い感動を覚える。

最愛のスースへ

僕は、今、こうして永遠の眠りについてしまった君に、最後の言葉を送ろう。僕は、この厳しい日々 に、君との間に生まれた子どもたちや友だちが僕を支えてくれているおかげで、ここにこうして立っ ているのだよ。

君が、この世界に、そして、何よりも教育の世界にもたらし、これからもずっと持ち続けるだろう意味 は、多くの人が、その心からの感情を持って語ってくれた通りだ。だから、僕は、君が僕にとって、 ぼくたち にとって、また、ぼくたちの家族にとってもたらしてくれた意味の大きさについてだけ、話 をしよう。

「春の兆しなど全く感じられない冬の夜
見知らぬ国から来た見知らぬ人として、君は、私の前に現れた」

あれは、55年も前のことだ。54年間の間、私たちは、夫婦として結婚生活を送ってきた。君は、私 に4人の子供をもうけてくれた。おかしな言い方かもしれないけど、子どもたちは、君の子供たち だったし、今も君が育てた子どもたちだ。君は、この子たちを食べさせ、養い、見守り、僕が足りな い分までを補ってくれた。11人の孫たちは、私たちの孫だ、と言ってもいいかも知れないね、でも、 やっぱり、大半は、君の孫だ。子や孫と合わせて一同21人がそろってとった金婚式の写真がある。

君は僕にそれ以上のものを与えてくれた。最初の日から最後の日まで、私の方からは、とても、同じ だけ のお返しなどできなかった君の愛だ。僕たちは、愛情も苦しみも分かち合ってきたね。苦しみ については、君は、僕よりも重い方を引き受けてくれた。

こんなに性格が違う二人の人間が、いったいどうして、半世紀以上もの間一緒にいられたのだろ う? お互いに競り合うような、とても接点のない性格の二人が、お互いを補い合おうとしていたのだ ろうか? 君が、こんなにも長い間、僕と共に成し遂げることができたことを、僕は君に対して何か やってきただろうか? 君をぼくは誇りに思っているよ。君も、僕を誇りに思ってくれているかい?

君と共に暮らした人生を思うと、君のいないこれからの人生を想像する力が僕にはない。人間として の感情と浮き沈みに満たされ、そして、どのひと時として、決まり切った旧態依然に戻るようなことは なかった君との人生を。

僕たちは激しい嵐に共に闘ってきたね。そして、最も厳しかった嵐の時、君は、率先して主導権を 握った。君は、何かのために一人で立ち向かっている時にこそ、最も大きな強さを発揮したね。ぼく が、ハヴェルテの収容所にいた時、ウェーテリングスハンスにあった時だ。君は、戦争の中に、こと に、餓えの冬にあった時だ。町や農民をたずねて、食料と燃料を探しに出なくてはならなかった。 君の家族のた めに、そしてそれだけではなく、収容所にいた僕の家族や友人たちのためにも。戦 争が終わってからも何年間も、こつこつ働き続けなくてはならなかったね。それは、僕が、僕の天性 の仕事にもう一度立ち向かっていくことを許された間も、君にとっては、ずっと続いた仕事だった。

半世紀以上もの長い間、僕たちは一緒だった。山や林を共に歩いた。時には子どもたちも一緒 に。天気の良い日も悪い日も。芸術と学問の世界を一緒に歩いた。お互いの好みを認め合いなが ら、長い道を、どこかで、互いの存在を確かめ合いながらね。わたしたち二人を剃刀のように鋭く分 かち、また、同時に深く結びつけ合う、感情という広い世界とともに。

君は本当に何といつも強靭だったことだろう。僕にとって模範のようだった。そして、君の強靭さが 僕を落ち込んでしまった苦境から助け出してくれた。

君の最後の心配は何だったのか知っているよ。ハンスは私なしでどうやってやっていくのだろう?  そう思っているんだろう。心配するなよ、リトル・ガール。君は、僕に、強靭な男の子になれ、と教え てくれたよ。

僕が君よりも長く生きるとは今までに一度も考えてみたこともなかったよ。いや、僕が一人で長く生き ているわけはないさ。君は、僕の思いや感情の最後のひと絞りまで、ずっと一緒に生きていくよ。そ して、僕が今「じゃあまたね」といえば、君は、すかさずに、あの、君の忘れることもできない声で、ま た、こう、僕に言うだろう。「しっかりしなさいよ、ハンス」とね。


Hans Freudenthal, Schrijf dat op, Hans---Knipsels uit een leven--- , Meulenhoff, Amsterdam, 1987より。(訳:リヒテルズ直子)

2009/03/23

日本型ワークシェアリングはどこまで本気か?

 今日の新聞には、突如として、「政労使合意、7年ぶりに日本型ワークシェア推進」という文字が躍った。
 ついこの間まで、企業も政府も、時期尚早と言っていたと思っていたのに、突然こういう合意が成り立ったらしいが、その間の議論はいったいどう展開してきたのだろう。企業は何を求め、連合は何を求めたのか、今日の新聞だけではよくわからない。そもそも、このワークシェア推進にあたって、「一般の市民」は議論にきちんと参加したのだろうか。日本人の中に、「ワークシェア」が意味することを知っているものは、いったい何%いるのか。その本家本元が、オランダのワッセナー合意と言うものであること(オランダでは「ワークシェアリング」という言葉はつかわれない)、その内容は、それはどういう背景で生まれたのか、そして、その後のオランダの雇用状況はどう変化し、どんな雇用慣行が生まれてきたのか、人々は、それによってどういう生活を手に入れたのか、人々の意識変革との関係は(準備段階での議論とフィードバック)、それを知らねば、どこが、本家のワークシェアで、どこから先が、日本型なのかもわかるまい。

 どの新聞も、政府通達を記者クラブの記者が受け取って書いただけなのだろう、似たり寄ったりで、突っ込んだ内容がない。読売の記事はこう書かれている。

「協議には麻生首相、舛添厚生労働相、連合の高木剛会長、日本経団連の御手洗富士夫会長、日本商工会議所の岡村正会頭、全国中小企業団体中央会の佐伯明男会長らが出席した。合意文書は(1)雇用維持の一層の推進、(2)職業訓練など雇用のセーフティーネットの拡充・強化、(3)就職困難者の訓練期間中の生活の安定確保、(4)雇用創出の実現、(5)政労使合意の周知徹底――の5項目。
 『雇用維持』では残業の削減、休業、教育訓練などで労働時間を短縮し、雇用維持を図ることを「日本型ワークシェアリング」と位置づけ、労使合意で促進するとした。実質的賃下げだとして慎重な労組、賃金体系の組み直しが難しいとする企業の双方に慎重論があるが、政府は失業手当などを助成する雇用調整助成金の拡充で、この取り組みを支援する。「職業訓練」では経営側が施設や人材を提供する一方、政府はハローワークの体制拡充や、訓練や研修の強化を図る。」

 さて、これを読んだ新聞の読者は、果たして、元来オランダの元祖の「ワークシェアリング」というものが、正規雇用とパートタイム雇用の区別をなくして、雇用者と労働者との間で、労働時間を個別に設定でき、同一の労働に対しては同一の賃金体系が適用されるものであるということ、言い換えれば、今、週40時間働いているフルタイムの人は、希望すれば、週32時間労働も、週20時間労働も交渉することが可能になる、あるいは、そういう他の雇用機会に転職できるものであること、また、その代わりに、他方で、フルタイム就業は望まないけれども、働けるだけの時間働いて、家計収入を得たいと思っているパートタイムの労働者には、その就業を正規就業化することによって、週16時間労働、週20時間労働などの雇用機会が創出されること、そういうものだということを知っているだろうか。また、フルタイム労働とパートタイム労働とが、時間数だけが異なるまったく同等の労働機会であることにより、それぞれの労働時間数に応じて、有給休暇、出産・育児休暇、保育手当、失業手当、疾病休暇、年金積立制度への参加、など、これまでのフルタイムの労働者と同等に、比率で保障の対象になるものである、ということを。この記事にある「日本型」とは、そういうオランダの元祖のワークシェアリングに対して、果たして、どれほどの亜流であり、どこがどう違うのか、読者は、労働者は知っているだろうか。

 それを知らされずに、「ワークシェアリング」はオランダの経済回復のきっかけになったとだけきかされるのであれば、それはペテンというものだ。そもそも、オランダの雇用慣行の伝統と日本の雇用慣行の伝統の違いがどこにあるのか、そこから掘り起こされなければ、「日本型」も絵に描いた餅だ。
 
 何より、「ああまたか」の気分で、政府広報を書きとめるジャーナリストたちの頭に、そういう疑問は浮かばなかったのだろうか? ワークシェアリングは、何よりも労働者のためのものだ。ただ、企業が経営に失速しては、国の経済基盤が危うくなり雇用も何も元も子もなくなってしまうから、企業の維持・成長要因を残すために妥協するものだ。エリートジャーナリストたちのように、これからもフルタイムで働く、また、職を失う不安もない人たちには、職に就けない若者や、無休残業に追われたり職を中途で失う中高年労働者などの立場に立って質問する気力もないのではないか。そういう態度や意識からは、ワークシェアリングを支える社会は生まれようがない。

1)雇用維持の一層の推進、というが、企業は、具体的にどういう施策でこれを推進するのか?それは、先進の企業が例示できるものなのか。今回の政労使の合意以後、労働者は、こうした点での施策の提示を要求できるのか、それは法規として定められるのか?

2)職業訓練など雇用のセーフティーネットの拡充・強化とあるが、「など」に含まれる他の具体策は何なのか、就業中の事故や疾病に対する法的保障は?熟練中高年労働者のように、訓練を必要としない労働者の中途失業に対するセーフティネットは何か?雇用に男女差別や年齢差別はなくなるのか?

3)就職困難者の訓練期間中の生活の安定確保とあるが、訓練は誰がどういう資金でするのか、その訓練は、一定の企業内雇用機会と連結して行われるのか、訓練期間に制限はないのか、訓練受講資格は、資格のない就職困難者はどうするのか、訓練は誰が行うのか、大学や専門学校などの機関は、この訓練とどのようにかかわっていくのか。

4)雇用創出の実現とあるが、「雇用維持」が、せいぜい残業の削減、休業、教育訓練などで労働時間を短縮する程度で、「雇用創出」は実現できるのか。オランダのワークシェアリングは、雇用維持の中に、明確に、正規契約労働時間の短縮が含まれていることと、日本型ワークシェアの違いは、ここにあるのではないのか。

 ワークシェアリングは、そもそも、議論と歩み寄りの文化を作り上げた上で生まれてきたものだ。ポルダーモデルという、お互いがウィンウィンの関係をうまく創出していく関係は、関係者が、まず、忌憚なく、要求を出し合い、それを、世の中の人々が、じっくりと耳を傾け、さらに、その議論に参加し、そうして、生み出されてくるものだ。建て前と本音を使い分けず、タブーに踏み込んで議論する意欲をみんなが持っていて初めてできる。

 雇用機会の維持も創出も、職についている労働者とついていない、つきたくてもつけない労働者との間に、互いの事情をくみ取って、富を分け合おう、という歩み寄りの気持ち、連帯して日本社会の存続を守ろうという意識が育たなくては実現不可能なはずだ。

 そういうプロセスを、政府はともかく、労働者も企業も、内部でじっくり話し合ってきたのだろうか。それをこそ、新聞は丁寧に追いかけ、国民の目に曝す役割を負っているのではないのか。

 5番目に、「政労使合意の周知徹底」とある。日本では、何か事が決まると、すべて、政府とつながった官僚が上から管理してくる体制がある。しかし、ワークシェアリングの斬新さは、政府が、労使の間に立って、3者それぞれが当事者となって合意するところにある。であれば、当事者の一つである政府には、管理を任せるわけにはいくまい。それでは、公正さを欠く可能性があるからだ。そのためには、合意書の中に、あるいは、それに付随して、「周知徹底」の方策が何なのか、国民に納得がいく形で、明記しておく必要があるのではないか。

 思いつくままに並べただけでも、ジャーナリストらに聞いてきてほしかったことが、山ほど浮かんでくる。

 とにかく、合意書原文を、一日も早くネットにあげてほしい。そうすれば、議論の叩き台ができる。

 願わくは、このアクションが、現政権の最後のイメージづくりに終わり、政権交代とともに、またもや、ポイ捨てされることがないことを祈る。なぜなら、現在の日本の経済危機を救える、数少ない方策の一つが、ワークシェアリングであると思うからだ。その大事な方策を、もっと大事に導入してほしい。もっと、国民規模の議論を起こしてほしい。マスメディアの自覚が望まれる。この日本の危機を本気で救いたいのならば、今日のニュースに続いて、国民の声を引き出しながら、徹底した紙上や公営放送の場での、3者の立場を公平にメディアに乗せた議論が、続けられるべきだと思う。そうしてこそ初めて、他国に誇れる「日本型」ワークシェアリングの実現、そして、その成果を生み出すことが可能となるはずだ。