2009/10/27

10%の公共への関与、10%の生きる愉しみ、80%の生きるための営み、

 ライフ・ワークバランスという言葉が聞かれるようになって久しい。だが、日々の生活を99%ワークに取られる大半の男たち、そして、少数の女たちには、こういう言葉そのものが空々しく聞こえるだけだろう。
 そして、少しなりと余裕がある人には、あたかも[ライフ・ワークバランス]という言葉が、贅沢なステイタスシンボルのように響くのが、今の日本社会の関の山の姿なのかもしれない。

 ライフ・ワークバランスといえば、意外に忘れられているのは、公共性に対する関与ということだ。

----------

 ある人がこう言った。
 「うちの大学ではね、学生の成績が悪いと、基準を決めて落とすどころか、もう成人式を迎えた学生の親を呼び出して、親子面談して、『さあ、どういたしましょうか、どうすればいいでしょうか』と、甘やかすのよ。彼らだってそれがだめなことはわかっているはずなのだから、もっと厳しい態度でやればいいのだけど、結局は大学も営利企業だから、、、、。でもね、正しいことが何なのかわかっている人から正していかなかったら世の中はもう取り返しのつかないことになるでしょう。誰かが手をつけ、自分の信念で生きなくてはならないのに、みんなほうかむりをしてしまう」
と。

 日本の無責任社会は、実に、こうやって作られてきた。
 そして、みんな口をそろえて「社会が悪い」という。
 でも、「社会」は生き物だ。そして、社会を生かせているのは人間ひとりひとりだ。私たち、一人一人が、その「社会」の一部をなして生きている。
「社会」は、自分とは離れた、何か抽象的なもの、責任転嫁の所在などではない。

 毎日毎日、生きることに精いっぱい。確かにその通りかもしれない。でも、一人一人が、自分の生活のせめて1割だけでも、公共の福祉のために、何かを考えたり、何かの活動に加われるようになったらどうだろう。8割の時間は、収入を得、子どもを育て、家事をし、親の面倒をみる生活をして当然だろう。でも、残りの2割のうち、1割は、思う存分、『生きる』ということを楽しみ、そして、もう一つの1割の時間、他の人とつながる生き方ができたなら、、、、。人は、他の人につながっていて、他の人のためになると自覚できて喜びを感じるものだ。

 すべての人が、せめて1割の時間、公共の福祉にかかわれるようにできたら、、、。この社会はもっと生きやすくなるに違いない。だれもが、正義を正義として実行できる世の中になるに違いない。

福祉と篤志

 最近は、インターネットや衛星放送のおかげで、世界のどこにいても、世界中のテレビ番組を見ることができるようになった。オランダでも結構人気で、だけれどもオランダで見ていると、どうも腑に落ちない、じっと見ていると段々に腹が立ってくるアメリカの番組にこんなものがある。

 家族に大黒柱の病気や子どもの不治の病などの不幸が起きたり、自然災害を受けたり、はたまた、なけなしの金で地域おこしの運動をしたり、弱者のための奉仕活動をしたりしている人が、テレビ局に手紙を書く。テレビ局は、建築家やインテリアデザイナーのチームを作っていて、その「困った人」「苦しんでいる人」が書いてきたたくさんの手紙の中から1週間に一つずつ選出し、チームでやってきて、家を一切合切無料で建て直す。建て替えは、大量の労働者をつぎ込んで、短期で仕上げ、その間、古い家を、家財を出して始末し、新しい家を作って一切合切中身の家具その他を設置するまで、家族は、迎えに来た大型の豪華なリムジンに乗って、リゾート地やテーマパークなどで休暇を満喫する。帰ってきてみると、まるで、腰が抜けそうなほど贅沢なドリームハウスが出来上がって待っている、そのために力を尽くした大工隊一堂、そして、近所の人たちみんなが完成とともに、その家族の帰還を歓迎する、という仕組みだ。

 初めのうちは、家づくりの面白さ、インテリアの趣向の楽しさ、家具の入れ方の工夫などが単に面白くて時々視聴していたが、段々に腹が立ってきた。家が再建される間、建材会社の名前、家具小売店の名前、などなどが何回も画面に映し出され、明らかにスポンサーの広告番組である点は言うまでもない。しかし、民放というものが、もともとそういうカネで娯楽番組を作っているというのは当たり前の話で、それに文句を言うつもりもない。

 むしろ腹が立つのは、これほどのカネを欠け、しかも、広告に使っていながら、それを受け取った「困った人」「苦しんでいた人」が、感激のあまり涙を流し、言葉にならない言葉で『ありがとう』を連発する、その画面を映し出すというさもしさに腹が立つ。

 それは、こういう困っている人たちと、その困っている人たちに「篤志」を持って救済を与える人たちという二つの異なる階層の人々の関係を「固定」させる。

 なぜ、こんなに多くの金があるのなら、その金を少しずつ、もっと多くの困っている人に分け与えようとしないのか。
 それでは、大企業の広告にならない、それでは、大企業の「善意」が見えなくなるからだ。

 かつてハリケーンカトリーナが来て大被害を及ぼした時もそうだった。
 俳優や建築家などの有名人がやってきて、随意に選んだ被害者のために、大金をはたいて救済のための篤志を誇示して見せる。救済を受けた被害者は、感謝のあまり、『一生この恩は忘れない』と涙を流して感動する。

 いったい、そこに、どんな尊厳が残されているのだろう。
 この困っている人は、なぜ、困っているのか。篤志家にはなぜカネがあったのか。
 人は、皆、平等ではなかったのか。たまたま、資産のある家に生まれたもの、たまたま資産を作る機会に恵まれたものが、たまたま困難な環境に生まれたもの、たまたま災害や不幸に見舞われたものに、一時の救済をしたことが、なぜ、そんなに、『感謝』され、『涙を流して』ほめたたえられなくてはならないのだろう。

 そんな関係の中に陥りたくない。自分が自分自身ではいられなくなりそうだから、、、

 そう考えると、経済格差を生まない仕組み、困った時は助けられ、人が困っていたら助ける、時には助ける側に、時には助けられる側になるという「福祉」というものの価値が、どんなに大きいものであるのか、が分かる。

 福祉とは、人が面と向かって立ち会い、「あなた泣く人」「私、肩を貸す人」という関係にならずに済むためのものだ。

 かつて、福祉制度が整備されていったころ、オランダでは、ヤン・ティンベルヘンという経済学者がこんなことを言ったという。
 一企業の中で、給与格差が1対5以上になるのは望ましいことではない、と。

 ティンベルヘン教授は、オランダの60年代以降の社会変革のグールーともみなされるほどのバックボーンを与えた人だ。彼は、1929年の経済恐慌以後社会主義者として活躍し、戦後のオランダの社会民主主義に甚大な影響を与えた。そして、のちにノーベル賞を受賞した。

2009/09/23

東アジア共同体構想

 国連気候変動サミットへの出席ほかで訪米中の鳩山新首相が、中国の胡主席との会談の中で、東アジア共同体構想を伝えたとのニュースが伝わっている。首相は、その際に、欧州連合が、もともと52年にできた欧州石炭鉄鋼共同体に発したものだ、ということに触れ、日中関係については、村山首相の発言を踏襲する、と述べた、という。
 
 欧州連合が、欧州石炭鉄鋼共同体に発したものである、ということは、私自身、今年の5月に刊行となった尾木直樹氏との対談「いま開国の時、ニッポンの教育」の中でも、特に強調して触れた点だった。
 一般に、日本では、欧州連合とは、単なる経済強調、自由市場の開放・共有という観点以外で語られることはほとんどない。しかし、実を言うと、この連合は、それ以上に政治的な意味合いを強く持ったものだ。
 第2次世界大戦後間もなく、欧州連合構想を持つ欧州のエリートたちは、武器生産の原料となった石炭と鉄鋼の市場を開くことで、対立の道をまずは断とう、と考えた。10年にも満たない年月の過去、軍靴を踏みならし、戦車を引いて、互いの民衆を殺戮しあっていた国の人々が、こうして手を結ぼうとしたのは、「民主主義」には長い伝統を持っていたはずの、キリスト教文化の先進国ヨーロッパの国々の人々が、自ら引き起こした戦火への反省だった。
 特に、第1次世界大戦の他愛ないまでに理由なき憎しみと殺戮の歴史は、フランスの田舎町を歩けばだれの目にも明らかだ。どんな辺鄙な田舎町にも、必ずと言っていいほど、戦死者を慰霊する塔が菩提樹とともに立っている。
 第2次世界大戦後の復興は、人々に、戦争というものがいかに大きな無駄な破壊を生み出すものであるかを知らしめるプロセスであった。人間の社会にとって、平和裏に強調することが、繁栄と安定の何よりの基礎であることを痛いほど知ったのは、この人たちだった。

 前近代的な封建制度が残る、権威主義のアジアの国々に比べ、ヨーロッパの人々の心には、近代市民としての感情があったはずだ。それだけに、彼らが引き起こした戦争は、自らが何百年にもわたって積み上げてきた「民主制度」そのものを内側から破壊させる恥ずべき行為だった。彼らには、ノーという自由がなかったのではなく、ノーという勇気がなかったのだ。自由からの「逃避」が殺戮を生んだ。

---------

 あれだけ憎しみ合っていたドイツとフランス、そして大国に蹂躙されたオランダやベルギーの人々が、よくぞこの共同体の成立にこぎつけたものだ、と心を打たれる。
 それほどに、20世紀は悲惨で残忍な世紀だった。

 以後、欧州経済共同体から欧州連合へと連帯を強め、現在、25カ国もの国が、連合に参加している。死刑制度の禁止など、連合加入基準には、人権擁護が何よりの条件になっている。経済市場を自由化し、貧困地域に欧州連合の補助金で援助を与えることにより、、連合地域内の経済格差をできるだけ小さくすること、それは、究極的には、富の配分の不公平から生まれる紛争を回避することが目的だからだ。

 今や欧州連合は、トルコの連合参加をめぐった議論を通じて、和平の地域を、キリスト教文化を越えて、イスラム圏にまで広げていくか否か、という議論にまで発展してきている。

--------

 いつになったら、欧州連合のような動きがアジアに生まれるのだろう、とずっと思ってきた。そうしたら、あっけなく、鳩山首相が東アジア共同体構想を持ち出した。嬉しい驚きだった。

 北米の経済勢力に対抗する、一大安定経済ブロックを築いているヨーロッパ。アジア共同体構想は、今の世界の動きの中で不可欠なものだ。

 鳩山首相が、東アジア共同体構想の発言に伴って、村山首相の発言を踏襲すると確認したのは、実に的を得たものであったと思う。こうした国境を越えた国家間共同には、歴史上の参加を認め、お互いが歩み寄る姿勢がなければ実現はあり得ない。

 戦争は、民衆の犠牲を生む。終わってしまえば、勝者と敗者。あたかも、勝者がすべて正しく、敗者がすべて謝っていた、と見えてしまうのだ戦争でもある。しかし、民衆は、どちらの国であっても、支配者のエゴの下敷きとなり犠牲となるだけの存在だ。

 だが、もしも、その国が、民主的な制度を作っていくつもりなら、国の行方を背負う有権者は、歴史上の過ちから目をつぶるわけにはいかない。

 原爆や大空襲で多くの犠牲者を生むことになった日本は、それだけで、『だから仕方がなかった、罪滅ぼしはすんだ』と「済ませてしまう」のではなく、その犠牲の痛みを持っている分、自らの国が引き起こした他の国の民衆の痛みには、心から『詫び』と『悔恨』の気持ちを表明すべきだろう。これまでの日本は、自国の民衆の痛みをあまりにも顧みなさすぎた。国内での、人々の幸せの軽視が、国外の不幸への関心を薄くする因であったと思う。

 自国の人々すべての幸福を保障し、そこから、世界平和へと発信していくことは、紛争中の他国の和平に寄与するための最低条件ですらあると思う。

ーーーーーーーーーーー

 東アジア共同体構想は、おそらく、アメリカ政府のけん制を買うことは十分に予想される。イギリスが、欧州連合の中で常に片足をアメリカとの関係に残しているように、日本もまた、そういう立場を強いられることになるのかもしれない。しかし、アジア共同体は、究極的には、アメリカ社会の再建のためにも有用なものとなるだろう。
 アメリカの一般民衆は世界を知らない。かの国も、一般には教育の質がきわめて低い。大国主義が、世界の動向への人々の無知を蔓延させてきた。欧州共同体とアジアの連帯は、そういうアメリカ人の無知と奢りを修正していくことになるだろう。そして、オバマ大統領が、本当に、世界協調の道を選んだのなら、アジアの連帯の動きは、阻止すべきではないと思う。もはや、アメリカの一国大国主義は遠慮願いたい。
 (東)アジア共同体構想が現実的なものとなっていけば、ロシアもまた、ヨーロッパとアジアの動きをにらみながら、新しい外交を迫られることとなろう。それを通じて、こちらもまた大国主義のロシアが、国内にあるさまざまの人権蹂躙の問題を、やがて、膿のように外に引き出され、諸外国との連帯和平の道を選ぶことにつながっていくのなら、これも、究極的には、正しい道であると思う。

ーーーーーーーーーーー

 ヨーロッパ共同体の神髄は、個々の国の個性を生かし、多元主義的な共同を図っていることだ。それだけに、ヨーロッパ<統合>の動きと、各国の<独自性>との間には、いつも緊迫したバランスが求められる。また、個性重視の理念の背後には、キリスト教文化でたたきあげられた個人主義が根本にある。
 それに対して、アジアの国々は、個人主義が未熟だ。中国にせよ、インドにせよ、言うまでもなく日本もまた、伝統的な価値意識や共産党の一党独裁、儒教や神道など、滅私奉公的な、事故を限りなく矮小化させて成り立つ同調主義の意識が厳然としている。そういう文化が優勢なアジアは、果たして、ヨーロッパのような多元主義的な共同の道をたどることができるのだろうか。
 
 反面、ヨーロッパが今直面しているのは、対イスラム文化との共存だ。
 いずれも一神教であるキリスト教とイスラム教、また、イスラエルのみならずヨーロッパ各地に存在しているユダヤ人コミュニティ。一神教の信徒は、他宗教を排除する傾向が強くなりがちだ。ヨーロッパの多様な共同を可能にしてきたのは、キリスト教がドミナントな世界であったから、キリスト教文化の歴史的な発展が支えていたからであるともいえる。しかし、それは、今、非キリスト教文化と対峙することで大きな挑戦を受け始めている。
 その点、あるいは、アジアの共同体は、一神教でない分、宗教対立を避けやすい、というナイーブな議論がないわけではない。しかし、現実には、中国国内の少数民族差別問題は深刻だし、南アジアの宗教対立も激しい。世界一のイスラム教人口を抱えるインドネシア、アフガニスタンのタリバン問題、と紛争地域はあちこちに散在している。
 日本という足元を見ても、外国人排斥、あるいは、同じ日本人の中にすら、差別があるという現状だ。

 これらの問題をどう正していけるのか?

 (東)アジア共同体構想を進めることが、国内の差別問題に光を当て、内側から「共存」「協働」の原理を問い直すきっかけとなるのなら、それもまた、希望のあることではある。

 険しいが、進むべき道であり、持つべき展望であると思う。

2009/09/05

カリスマから黒子の時代へ

 カリスマ的人気が政治の行方を決めるのは、人々の価値意識の画一性が高い時代、喩えていうなら、自民党の一党支配や、すべてをカネの価値で測る徹底した物質主義、消費社会に無批判な時代だ。

 自己実現というものが、人気取りとカネで買える物の豊かさに集中している時、また、不幸の原因が物質的な貧しさそのものの強要から生まれている時、インセンチブをチラつかせるカリスマが人気を得る。

 民主党は、消費者優先、有権者の声をもとに日本の政治を変える(CHANGE)と言って、圧勝した。

 日本に新しい時代が来るのが楽しみだ。

 新しい時代、有権者の声が平等に聞かれる時代は、黒子が暗躍しなくてはならない時代だと思う。

 メディア、市民運動を率いる知識人たちが、どれだけ「黒子」になって、有権者の声を届けるパイプ、ファシリテーターになれるか、が問われる社会だ。

 王様も、ポップシンガーも、政治家も、主夫や主婦も、女も男も、パートタイマーもフルタイマーも、若者も高齢者も、部下も上司も、みんなが、「普通」の人として、大声でではなく、また、人気者にならずとも、「普通」に声を上げられる社会。それを作っていけるのは、一人のカリスマではなく、複数の黒子たちだと思う。

 そして、そんなことがより多くの人々に認められている社会、それが、地球全体にやさしい、格差のない、未来の世界社会だと思う。

相手の「ノー」に立ち向かえる力

「イエス」と同じように「ノー」と言えることは大切だ。しかし、人から「ノー」といわれて動じずに関係を保っていけることももっと大切だ。

 「ノー」と言えない日本、という言い方が巷によく聞かれるようになったのは、高度成長を果たし、日本が先進国の仲間入りをしたころからではなかっただろうか。日本人がエコノミックアニマルと揶揄され、日本製品が海外で不買運動にあった頃から、日本人のそういう自覚が一般に意識されるようになっていたような気がする。しかし、日本人は、とかく海外で「ノー」と言えない、というような話は、それよりもさらにずっとずっと前から言われていた。

 最近、またぞろ「~~~って言うな」というような言葉づかいやタイトルが流行っている。日本人は、自国にいても「ノー」とはなかなか言えないものらしい。
 率直にいって、21世紀のこの時代に、日本人の中に、いまだにそんな風なタイトルの本が出てくるほど、なにか人に対して拒否したり、「ノー」と言うことを躊躇する人たちがいるのだろうか、とやり切れない気持になる。
 「ノー」と言えない日本人を作ってきたのは、いったい何なのだろう。
 画一教育、迎合メディア、カリスマ礼賛の大衆文化が一役を果たしてきたことには疑いの余地もない。それを「日本の文化なのだから」などとくくられてしまったのではたまったものではない。
 村八分の伝統の後ろには、村八分にされてでも自尊心を抑えきれなかった人たちがいたことを忘れるべきではないだろう。
 外に向かって、ことに西洋先進国に向かって「『ノー』と言える日本」と肩肘を張って見せつつ、実は同時に、日本の中にある「ノー」という声を、文化や伝統の名のもとに押さえつけてきたのは、狭量な愛国主義者たちではなかったか。そんな道理のないやり方は一日も早くやめた方がいい。

 「ノー」ということに強い抵抗を感じるという感情は、多分今でも、日本人が初めて外国に出てみて最初に感じるものであるはずだ。
 だが、気楽に、しかもはっきりと「ノー」と言える人々というのは、私の知る限り、欧米先進国だけではなく、中国やアフリカ、ラテンアメリカなどでも、割合に普通に見られる。日本人に強制されてきた同調行動は、なぜか、やはり、例外的ともいえるほどに強い。

 パーティなど人が集まる場で、飲み物や食べ物や行く先の好みを聞かれると、つい「ええ何でも、、、」とやってしまうのが日本人で、自分の選択をなかなか言えないし、決められない。仕方がないので、周りはどんな選択をしているのかと様子をうかがい、そろりそろりと、目立たず、当たり障りのない選択をするのが、関の山だ。

 しかし、そういう段階を乗り越えて、現地の生活にも慣れ、言葉もかなりこなせるようになってくると、またまた次の問題に直面する。自分の意見は何とか表現できるかもしれない。しかし、その意見に他人から「疑義」をさしはさまれたり、「それは少しおかしいんじゃない」「私はあなたの意見には不賛成だわ」「ノー、それはちがう」とやられると、もうそれだけで、どう会話を続けていったらいいものか、言葉を知らない、議論の方法を知らない、という戸惑いの経験をもつ日本人は少なくないはずだ。

 言葉遣いに注意深く、レトリックがうまく、相手の深刻すぎる反応にはユーモアでかわせる、そんなテクニックを、「ノー」が気楽に言える社会の人々はよく知っている。

----------

 私は、「ノー」といえるということと同時に、相手が自分に対して発してくる「ノー」という言葉にどう対応するかについての準備がなければ、言い放つだけの「ノー」にはあまり意味がないと思う。

 これからの世界は多様な価値観を背景に持ついくつもの文化がぶつかり合う世界になる。そういう多様性を受け入れ、多元的な社会で生きていくつもりならば、「ノー」と言えると同時に相手の「ノー」を受け入れ、それとどう共存していくかを考えてみることは避けられないことだと思う。異文化社会という、自分の意見をはっきり持つと同時に、相手と四つに組んで交渉していく覚悟、相手との対立の中からウィン―ウィンを生み出す意欲と覚悟がいる。
 
 国際化とは、パスポートを作って飛行機に乗って外国に行けばできるというようなものではない。国境を越えなくても、今自分がいる場所で、周囲の人、あるいは、自分のいる場所の政治に対して、イエスとノーをはっきりさせ、同時に、相手の「ノー」を認め、どうしたら共存できるかを考える態度が持てるのであれば、それはもう立派な地球市民だ。

----------

 今回の衆院選で、自民党は、大多数の有権者の「ノー」に直面した。さて、自民党は、これから、この大きな「ノー」に対してどう応えていくつもりなのか、、、

 他方、衆院選で圧勝を果たした民主党は、早速、数日後にアメリカの 牽制に直面した。アメリカ政府は、こうして高圧的に牽制してみることで、「さあ、これからが交渉だ」と思っているのに違いない。欧米の交渉は「ノー」から始まると言ってもよい。それは、「私(たち)には、あなたとは異なる利害がある。」というサインなのだ。

 まずは、お互いの立ち位置をはっきりさせること、交渉はそこから始まる。
 
 政治家とは、そもそも、交渉の名人・レトリックの達人であるはずだ。政権交代を繰り返してきた欧米先進国の政治家というものは、2大政党制にしろ、多党制にしろ、相手の「ノー」にどう対応するかについては、特別長けた、いわば交渉の専門家たちだ。

-------

 いまだに、「~~~って言うな」と言い放ちつつ、「おれたちは理解されていない」と被害者意識を蔓延させるやり方は、だから、それで本当に良いのか、とても気になる。

 私たちは、一人ひとりが社会の成員だ。カネやコネがなくても、ひとりひとり一票の価値を持つ有権者だ。自分もまた、決定にかかわり、その帰結に責任を持つつもりならば、「ノー」と断るだけの言い放ちはおかしい。「ノー」と発信すると同時に、自分と相手の立場の違いが確立する。問題は、その違いをどうやって出来る限り狭め、お互いが納得するところまで持っていくことができるかだ。

 大人の市民としての矜持は、もっていたい。人としての尊厳がなかなかに認められない時代と社会であればあるほど、、、、


2009/08/31

2大政党交代制か多党連立政権か

 民主党が308議席を獲得した今回の衆院選。自民党支配に「ノー」と声を上げた意味では歴史的に意義ある選挙だった。しかし、その背後で、民主党と協力して議席を分け合うはずだった小政党は意外に票を伸ばせなかった。いったいどれほどの有権者が本当に各政党のマニフェストを自分から読んで投票をしたのだろうか。単なる抗議票が集まったということであれば、心配だ。

 選挙後民主党は、早くも来年の参議院選に向けて、単独過半数を取る意欲を見せた。これが、社民党ら、今回の選挙協力者との亀裂の原因にならなければ、と思う。もっとも亀裂を起こしても痛みを感じないほどの多数ではある。

 こういう状況は、果たして一般の有権者にとって望ましい状況なのだろうか。日本の政治体制は、日本社会は、本当に根本的に変わるのだろうか。

 2大政党交代制の国として代表的な国はアメリカ、イギリスだろう。交代のたびに政策が極端に左右に揺れ、継続性を保ちにくい。長期的な政策を進めにくい仕組みだ。その代わり、確かに、官僚組織の硬直化は起こりにくい。アメリカなどでは、官僚体制が政権交代のたびに一掃される。

 しかし、有権者の意識との関連はどうだろう。二者択一を迫られる有権者は、本当に自分が求めている政治を実現できるだろうか。官僚制にしても、多党連立で微調整が繰り返される政治体制であれば、むしろ、官僚らの専門性が求められ、硬直化は起こりにくい気がする。

 オランダのような多党連立制では、確かに、1党の持つ総合的な政権構想は実現しにくい。しかし、各党が持つ政策優先順位を持って駆け引きを行うことはできる。駆け引きは議論だ。議論は報道される。だから、おのずと有権者の政治意識は日ごろから高まりやすい。自分の気持ちや考えに最も近い政党に投票できる。その選択肢は多い。

 せっかく歴史的な政権交代を実現した日本の政権だ。
 単に自民党から民主党へ首を挿げ替えただけとならないように、また、有権者は政治エリートに期待するだけ、という社会を変えるためにも、一日も早く、機運が高まっているうちに、日本は二大政党制を求めているのか、多数連立制を求めているのかを、街頭・路上の議論に乗せていったほうがいい。

***日本の現行選挙制度は、本当に有権者の意思をよく反映できる仕組みであるのかどうか、
ブログ「オランダ・人と社会と教育と」で、オランダの政党政治制度についての報告を3回に分けて報告中http://hollandvannaoko.blogspot.com/2009/09/blog-post.html:)

2009/08/30

日本人よ、もっと率直に臨機応変に忌憚なく

時代を画する衆院選をNHKワールドを見ながらリアルタイムで追ってみた。
解説者にもっと数人の立場の異なる人を迎え、下書きなしで率直な話をしてもらいたかった。政治解説者が、その場でアンカーの質問に答えるのではなく、いちいち英語の下書きを用意して読み上げる姿には、落胆した。

政治専門家の登場はありがたい。しかし、「一般の熟練ジャーナリストの中に、英語で議論できる人はいないのか。日本ほどの国に」という感想はきっと諸外国の視聴者にとって避けがたいものであったろうと思う。外国のプレスの特派員でもよかったはずだ。複数の立場の人間を集め、その場で議論することはできたはずだ。

世界に向けられる公営放送が行う、歴史に刻まれる衆院選の報道にしては、お粗末だった、との印象は否めない。

---------

衛星放送のおかげで世界各国の衛星放送を受信できるようになった。
中国の英語放送に登場する発言者たちには、目を見張るほどの自然さ、率直さ、そして、考えを言葉にしてまとめて伝える巧みさがある。英語を手繰れるエリートたちが、決して、英語が流暢と言うだけではない、高い質の教養を身につけているのが分かる。

ある意味で、開発途上国の国々のエリートたちは、英語ができるし、専門的な知識の豊富な人が多い。その層は、日本のエリートには見られないくらいに厚い。植民地支配の伝統があるからでもある。

しかし、長く共産主義国として国を閉ざし、思想統制してきた中国に、今、これほど多くの自由な発言ができ、その場で、臨機応変に誰とでも議論ができるエリートたちがいるのだ。日本とは比べ物にならない。言葉の問題であるとともに、創造的な思考力の熟練度の違いに見える。忌憚ない発言をマスメディアという媒体を通じて自由にできること、その程度は、今、共産国の中国の方が、自由主義国であるはずの日本の何十倍も大きい。中国という国の懐の深さ、したたかさに驚く。

衆院選が終わり、日本はこれから、ようやく市民がそれぞれ自分自身の意見を言葉にし、参加していく時代を迎えようとしている。

テレビも新聞も、型にはまった、すべてを事前に統制した報道をするのではなく、人々の臨機応変のステレオタイプではない声を率直に出していくべきではないか。型どおりの公式表明や、ほとんど「やらせ」にみえる登場人物のあからさまな印象操作、世論(視聴率)の期待に応えるだけのお定まりの発言などはもうたくさんだ。いったい、どこのだれを恐れて、報道内容を統制するのだろう、、、、自由社会にあるまじきことだ。

専門性よりも人気を優先した、少数のカリスマに頼ったメディア操作ではなく、幅広く、厚い層のエリートに支えられた、世論をひきつけ、建設的で懐の深い討論・議論の姿を、国内でも、また世界に向けても積極的に見せていってほしい。「多数派」が何なのかを気にしなければ、目立たないところに言語にも教養にも専門性にも優れた人たちがたくさんいるはずだ。そういう、今は名のない、しかし、地に足のついた人々の声、黒子として社会を内側から変えようとしている人々の声をもっと大きくして、報道の波に乗せていってほしい。

日本の報道は、もっと肩の力を抜くべきだ。それが、やがては、視聴者の教養と思考力に厚みを持たせる。

歴史的な一日:2009年衆院選

今日の日本を目撃できてよかった。
自民党独裁への「ノー」がやっと選挙に結集した。

対米追従、企業依存、官僚主導、マスコミ抱き込み、右翼放任、どれもこれも、時代遅れの、民主主義とは程遠い政治だった。

ひとびとの不幸感、未来に希望を持てない閉塞感が社会に堆積し、とうとう飽和点を越えたのだ、と思う。やっとひとびとの尊厳を奪ってきた日本社会のあり方に、憤りを発する人たちが増えてきた。長い時間がかかった。欧米や開発途上国などなら、もっともっと早く人々が声をあげていたのではないか。

問題が起こるたびに、自らを省みて自らを正すことから始めようとする日本人の謙譲の美徳が、もしかすると、声を上げることを遅らせてきたのかもしれない。

けれども、声はあってもそれを取り上げてこなかったのではないのか、、、

選挙戦が沸騰したこの夏、ニュースを伝えるマスコミの姿勢が変わった。党首討論会など、政治家自身に、言責を問う動きが目立ってきた。喜ばしいことだ。

新政権は、間もなく山積した問題に取り組み始めなくてはならない。日本社会を幸福感の高い社会に変えるには、少々時間がかかるような気がする。困難と障害は多い。世界的に難しい時期にあるからだ。新しい政権には、有権者の声に耳を傾ける姿勢を持続してほしい。有権者も知恵を結集して、忌憚なく政治に働きかけていけるとよいと思う。

新聞やテレビは、今後、これまでのようにマジョリティの声だけを届けるのではなく、マイノリティの声をきちんと届けるメディアになってほしい。それが、視聴者や読者を引き付ける。それが、有権者に考える姿勢を生む。有権者自身が、手の届くところから社会に働きかける姿勢を生むだろう。それが、民度を高めるジャーナリズムであると思う。

そこまでいけば、一つ一つの変革のモデルになるものは、世界にいくらも転がっている。そこから学んで日本なりの施策を生み出していけばいい。欧米ではすでに使われた切り札が、日本ではまだまだ有効に通用するものがあるに違いない。

誹謗・中傷のネット放言とは明らかに異なる、信憑性の高い、理性に基づいた、建設的批判のできるマスメディアを読者は待っている。

出版は、人を売るのではなく、多様な多元的な議論に目を開かせるメディアとなってほしい。収益優先でつくられた風に乗るのではなく、新しい風を生む媒体として、新しい時代に大股で踏み込んでいってほしい。


きょうの日を境に、戦後、急ぎ足の近代化を遂げてきた日本が、直面する独自の問題をどう乗り越えていくのか、日本に成熟した市民社会が生まれれば、それはいずれ、遅れた、しかも急ぎ足の産業化を果たしつつある中国やインドなどの国々の人々にとっても、ひとつのモデルとなるだろう。周辺の国々はこれからの日本に注目している。かつて、高度成長の奇跡を生んだ日本は、今度は、人々の幸福を保障し世界平和に貢献できる、成熟した市民社会の実現という奇跡を生み出せるかもしれない。ぜひそうなってほしいと思う。

そしていつか近い将来、ヨーロッパ連合のように、アジア連合を、日本が率先して語れる日がくることを心から祈っている。