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2011/07/08

合格発表の仕方から、ふと随想

 今年は10月末まで半年フランスに滞在中。とはいっても、日本に行ったりオランダに帰ったりとバタバタ落ち着かないが、、、

フランスで生活してみると、あれやこれやで、オランダとの違いが目につき面白い。

どちらもヨーロッパの民主主義国ではあるのだが、どっちが日本に似ているかというと、圧倒的にフランスの方だ。

先週、「バック」と略称される、高校卒業資格(バカロレア)試験の発表があった。合格率は75%程度だというから、受験者の4人に1人が不合格、かなり厳しい試験だ。オランダでも、同じような高校卒業資格があり、こちらはディプロマと呼ばれているが、バックもディプロマも、大学入学資格となる重要なものだ。これがあれば、どこの大学にも入学できるわけで、大学教育を受けて専門家や指導者としてのキャリアをすすむ道が開かれた、ということになる。

バックのニュースを見ていて、オランダとずいぶん違うな、と思ったのは、合格発表の仕方だった。バックの試験を受験した子供たちは、発表の日、自分の学校に行って、大きく張り出された合格者名簿の中から自分の名前を探す。つまり、日本の大学入学試験の発表と同じだ。発表当日、学校では、自分の名前を見つけて歓喜の声を上げるものと、不合格で落胆するものとの悲喜こもごもの姿が、親も一緒にやってきた発表会場の雑踏の混沌となって見られる。

ふと、数年前に我が家の子どもたちがディプロマのための全国統一試験結果を受け取った時のことを思い出した。
オランダでは、合格発表は、各学校(高校)に送られてきて、それから、担任の先生に伝えられ、担任の先生が、クラスの子どもたち一人一人に電話をかけて合否を伝える。だから、子どもたちは、合格発表の日は、朝からそわそわしながら、いつ電話がかかってくるか、と待っていることとなる。ほかのこの結果がどうなったかは、親しい友人たちがお互いに連絡しあって初めて知る、という格好だ。もちろん、こういう時の風のうわさの伝わり方は素早いことは素早い。

そういえば、オランダでは、学校の試験成績も、壁に貼り出して公表するということがない。試験の総合結果が最高得点で、学年で1番だった、というような話も聞いたことがない。子どもたちも、高校に通っている間、学年で何番だったというようなことを聞かされたことは一度もない。
唯一あるのは、卒業式の時に、すべての学科の平均点が、10点満点中8点以上だった子どもたちが集められて、「クムラウデ」(最優秀性)として表彰されることだ。
競争しなくても、できる子どもはよい成績を収めるものだ。そして、それは、1番になるということではなく、ある基準に従って、一定の高いレベルへの到達をどの教科でも果たした、という意味だ。

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こういうオランダのやり方は、やはり、子どもたちの、人間としての人格を尊重していると思う。子どもを大人の基準でドッグレースのように競争させるのではなく、また、合否を公表して、子どもたちの間に、これみよがしに明暗のカーテンを引くこともない。それは、学習というものが、他の誰のための者でもなく子ども自身のためのものだ、ということに徹した考え方から来ているものでもあると思う。他人との比較で、負けたくない、という気持ちをてこに勉強させるのではなく、自分の発達のために勉強するという考え方だ。

ただ、60年代終わりから徐々に徹してきたこういうオランダ社会の、子どもの発達観というものは、その陰で「6点文化」を生んできたことも事実だ。
「6点文化」(ゼッセンクルチュール)とは、各科目の合格ボーダーである10点満点中6点を取れば、あとは必死になって勉強しなくてもいい、というもので、そのおかげで、子どもたちが、自分の能力を最大限に伸ばす努力をしなくなってしまう、というものだ。確かに、どの教科もいつも6点クリアし、卒業試験でも全教科6点を達成すれば、大学には入れる。子どもは馬鹿じゃない。6点でいいよ、と言われて、しゃにむに頑張ってそれ以上の力を発揮しよう、という無駄はやらない。だが、そのおかげで、力を持っている子供ががんばらなくなる、という憂慮が確かにある。
それは、特に、グロバリゼーションのおかげで、ヨーロッパの労働力の強みが、ますます狭まり、高学歴・高い科学性や専門性に集約されてきた中で、問題になっていることだ。2000年ごろから特に、
「子どもたちが安易な学科ばかりを選ぶ。数学や物理、技術など、難しい理論の学科に行きたがる子供が少なくなった。そういう学科で先端の研究をしているのは、オランダ人の子ではなく、外国からの留学生たちだ」
というような話も聞かれるようになった。

個性尊重、子どもの人格村長は、確かに、そういう裏の面を持っている。

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だが再び、「しかし」と思う。それは、私自身が、フランスと同じように、合格発表といえば掲示板で公表、中学から高校までは、試験のたびに上位者が発表されるという学校で育ってきたからだろうと思うのだが、、、そういう、人間の子どもを牛か馬にブランドの刻印を押すようにして育てるシステムの中で育ってきたものの目から言うと、やはり、オランダのように、人間を大切にしてくれるシステムがうらやましい。

他人から、しかも、「点数」や「順位」で評価されるというのが、私は大嫌いだった。

ある場面では、高い点数を取ったり『高位』につくことは、それほど努力せずにできることもあった。そういう時はなおさら、何か、高い下駄をはかされて歩かされているというだけで、いつ下駄から転げ落ちるかもしれないのに、という不安があった。点数がよくても、順位が高くても、それだけでは、自分というものがいつまでも見えず、何をしたらいいのかわからない、という内心の不安をどこに向けようもなかった。

オランダの子どもたちは、点数評価や順位付けはされない代わり、そうではないもっと質的な評価を受け、子ども同士の相互評価や対話を通して、自分がなんであるのか、自分には何ができるのか、ということを考える機会が多いように思う。成績だけがすべてではないので、子どもと子供の間に協力したり、共生するチャンスは多い。一緒にプロジェクトで頑張れば、一緒によい成績をもらうことができる。

確かに、うちの息子は、「6点文化」の典型で、一旦合格レベルに達したと思ったら、後は、ほかのことばかりしていた。陸上クラブで走ったり、友達とポップコンサートに出かけたり、修学旅行で言った街の建造物の模型を作ったり、卒業プロジェクトで氷点下5度の中、天体望遠鏡で木星観測をしたり、、、、。それらはどれも、自主選択の者であるし、学科の勉強のように合否が正確に点数で決められるようなものではないが、そういう勉強や活動なら、自分の最大限の力を発揮して、自分で納得のいくものを生もうと夜中まで頑張っていたりした。ある種の「完全主義」がそこで力を発揮していたのだ。

私は、点数評価や順位づけによる競争による教育は、子どもたちが、こういう質的な活動に取り組む時に「完全主義」に徹して、何かをやり遂げるとか、質の高いものを生み出すとか、ユニークなものを生み出すというような経験を奪ってしまうのではないか、と感じている。

そして、そういう訓練をしながらある職業を見つけるという機会は、実は、10代の終わりから20代の初めにしかチャンスがないのだ。

子どもたちが最大限の力を発揮する可能性を奪っているのは、競争教育なのか、それとも、「6点文化」「甘ったるい」といわれる個性尊重の共生教育なのか、いったいどっちなのだろう?