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2010/02/13

信頼

 人に聞かれて自分が教えてあげたこと、自分が何かに書いていたこと、論文、発表したことが、他の人の筆や口から、あたかもその人のものであるかのように使われたことが、これまで2度あった。

 ああでもない、こうでもないと考え続け、身銭を切って調査し、やっと引き出した自分の業績には、誰だって執着と誇りがある。そうでなくとも、他人の言葉は、必ず、その人の名を出して、つまり情報の原点を示すことは、少なくとも『科学』という名の活動を専門とし、それでよそ様からカネをもらって生きている人間にはなくてはならないことであるはずだ。

 しかし、そうなってみれば、『やられた』側は、裁判にかけるか、諦めるしかない。盗作をした人間が、社会的地位や権威のある組織の人間であれば、同じ地位と組織を持つ同僚らは、それを表ざたに認めることで汚名を着ないためにも、その罪を犯した人を、まずは庇護することは目に見えている。

 だから、そんな盗人猛々しい行為をする人とその同僚たちに自分自身の尊厳を傷つけられることがないために、盗作者たちと同じ土俵に立って、相手を追求することは、自分のために避けてきた。おそらく、盗作した人間は、心のどこかで、自分自身に誇りを持てない哀しさを抱え持って生きていくことだろう、それがその人にとっての人しれない罪悪感として続くのであろうから、それでいい、そう思ってきた。

 最近、そういう経験が、3度に増えた。

 何が哀しいか、って、、、、盗まれることが哀しい、悔しいのではない。そうやって、人の尊厳を微笑みの裏で平気で踏みにじっていく人間が、結局は、私を、他人を無条件に信頼することに躊躇させる、用心深い人間にさせてしまうことが哀しい。
 右の頬を打たれたら、左の頬を出せ、、という。しかし、その、わが頬を打つ人間が、まるで、小便をかけられてもつるりと目をむく蛙のようであれば、、、傷ついている自分が、やはり情けない。それでも、天や仏や神は、『ゆるせ』という。たぶん、『ゆるす』という行為を、自分から進んでしなければ、人間不信に足を取られることしか、わたしの背後に残されないからだと思う。

 3人とも、人の人間形成にかかわる仕事にかかわっている人たちである。罪作りなことだ。

 なぜか、3つの、この苦い経験は、日本で、日本人の手によってしか味わったことがない。