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2010/03/03

No evidence is not an evidence

 No evidence is not an evidence
「証拠がないということは証拠ではない。」

 そう教えてくれたのは、大学に入って1年目、論文の書き方の授業を受けていた娘だった。

 何かがない、と言い切ることはできない。なぜなら一つでも反証となる事実が見つかれば、『ない』という表現は直ちに無効となるからだ。このことを感覚的・経験的に感じていた私は、それまでも、何かが『ない』という表現はできるだけ避けるようにしてきていた。だから、娘が教えてくれた表題の表現は、思わず膝を打つような思いで聞いた。同時に、なるほど、オランダでは、科学論文や論理学の原理原則として、こういうことを若いうちにみんな学ぶものなのだ、と、またしても、自分が受けてきた日本の教育の粗雑さを再認識したのだった。

 (もっとも、それからしばらくの後、自分が書いた本のタイトルに編集者から『OOゼロ、OOゼロ』というタイトルをつけられることとなり、多少の抵抗はしてみたのだが、そのタイトルが気にいってしまっている編集長に抗う術はすでになく、苦笑しつつも妥協してしまったのだが、、、)

 実に、『何かがない』ということは証明が不可能なことだ。なぜなら、すべての事例を悉皆調査することは不可能であり、一つでも『ある』ことが証明されれば、『何かがない』という表現は根底から覆されることになるからだ。

 南京大虐殺をめぐって、また、その他の軍の残虐行為をめぐって、日本では、『あった、なかった』の議論が延々と繰り返されてきた。たったひとり、誰かが『ない』とか『なかった』などということは、証明しようにも証明できないものなのだ、と明言していれば、こんな不毛な論争を続ける必要はなかったはずだ。こんなところにも、日本人の『科学』意識の貧困が垣間見られる。

 科学は倫理をささえるためにも使われる。

 虐殺は、一つでも『あった』のなら、動かしがたい現実だ。
 その数が、1万であったのと、10万であったのとで、倫理に違いがあるものだろうか。人が、人を、理由が何であれ、殺してしまうという事実は、たとえそれが、一つ限りであったとしても、その罪を犯した人は責を免れることはないはずだ。そして、そういう事態を引き起こしながら、見て見ぬふりをしている大衆を生み続ける社会もまた、たった一人の被害者に対して、大きな責任を持っているはずだ。

 私たち日本人は、いまだかつて一度も、そういう、一人ずつの尊厳を踏みにじった過去について、共に深く考えてみたことがない。