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2010/04/29

バラバラの個人で民主主義は可能か?

 政権が交代して半年余り、もともと、不況下のカネなしの政権だ、難航することは目に見えていた。そんな中で、「民主化」を再度根本から問い直さなくてはこの国の未来がない、という自覚が、政権にあることだけはよく読み取れる。

 メディアの方はといえば、政権交代以後、どっちを向いてモノを書いたらいいのかわからないらしく、参院選を前に、自民崩れの新党が生まれたといえば、やたら大声で書いている。少し、距離を持ってこの現象を眺めてみれば、早い話が、自民党の内側からの事実上の崩壊にすぎないのではないか、と思うのだが。

 案を出してみては叩かれる新政権。叩いているのは人か、日和見メディアか?いったいだれが選んだ政権なのか、マスメディアは何をしたいのか、、、。米国政府の対日見解は伝えられても、その背景としての米国社会の事情まで踏み込んだ解説はほとんどない。そんなにっちもさっちもいかない状況で、カネがない上、案も通せないとなれば、有権者に問いかける以外にない。なにしろ、民主主義国なのだから、、、と思い出したように、市民に脚光が浴び始めた。

 最近、新しい公共のための円卓会議初め、市民の声を集め、ネット上の議論を刺激するイニシアチブが、政権・官僚の方からとられている。民主化のスタンスにすぎないのかもしれない。反面、自民政権時代に比べると、ずっと市民にオープンで、案外本気なのかな、とも見える。だが、仮に本気で会ったとして、果たして、こういうやり方は、本当に、具体的な政策の実現、特に、急を要する問題の対策を決めていく際に、効果的であるのかどうか。

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 多数決主義が究極まで行きつくと、社会は、完全に分極化してしまう。2大政党制のアメリカ合衆国はそのよい例だ。だが、日本の場合、マイノリティの声を取り上げないマスメディアのために、2大政党どころか、一党独裁が延々と続き、意図的、人為的にトップダウンの形で、無理やり多数派が作られてきた。しかも、多数派の価値観が、学校教育制度を通じて社会に敷衍されてきたのだからたまったものではない。社会は行きつくところまで究極の分極化の事態となった。

 円卓会議などの、市民の声を集めるやり方は、どうやら、アメリカあたりで発生してきた、市民意識活性化のメソッドであるらしい。だが、そういうやり方は、どこまで効果を発揮できるのか、、、、

 もともと、民主主義政治は、衆愚政治に陥りやすい。だから、そうならないための装置が必要だ。その装置の最も重要なものが公教育だ。公教育の中に、お互いに対立する意見を言いあう場、意見が対立していてもお互いを受け入れ、互いに場を与えあうという共生と協働に対する意欲的な姿勢、対立の中から共同のための合意を生み出す方法などを、子どもの時から練習していなければ、民主的な市民社会は成り立っていかない。

 そんなものが何もない状態で、不満と独善に満ちた人々が多数うごめいていたのが自民政権末期の状態だった。新政権では、そこに、政府が主導して人々がモノを言える場をつくるようになった。事業仕分けしかり、熟議議論しかり、、、だ。

 しかし、この数年、私たちは、ネット上の議論が、誰という指導者もないまま、結局は、意見の対立で硬直し、生産的な成果を生むよりも、個々の勝手な意見で雲散霧消するか、デッドロックに陥ってしまうような事態を頻々と見てきた。政府が、「公的に」公開した、市民の意見も、また、ありとあらゆる立場からのものであるだろう、それを、いったい、だれが、どんな権威で取りまとめていくというのだろう?そんなことが実際に可能なのだろうか。

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 ふと、オランダには、そういうシステムがあるだろうか、と振り返ってみる。どうも、それに似たものはあまりない。なぜなのだろう、と考えて見て、はたと気づいたのは、オランダが、多党連立の政党政治であるという事実だ。有権者の一票が確実にみんな同じ比重で計算される完全比例代表制の選挙では、大政党も小政党も、同じ土俵に一様に並んでその政治指針を表明し、有権者の審判を受ける。

 こういう政党政治の背景には、どの立場もマジョリティではない、という多元主義の社会がある。権威を振り回せる人物や集団は、社会のどこにもいない。権威があるとしたら、政治的には中立の独立のシンクタンクだけだ。
 こういうオランダでは、時代とともに新しく登場するさまざまの社会問題に対して、大小の政党が、それぞれの立場を明らかにする。有権者は自分の立場に最も近いものを、複数の政党の中から選べる。また、自分の意見を反映する政党がなければ、自分で政党を作ればいい。小さな政党であっても、全国の有権者から票を集めれば、議席をとることができるからだ。

 9.11事件の後、専従のオランダ人たちと、イスラム教系の移民たちの間の関係がぎすぎすし始めた時、移民対策省の大臣は、イスラム系の人々に、一つの集団を作って、その内部で、政治的な立場を明らかにして、公表せよ、と示唆した。多元社会の中で、一つの束になった集団を構成し、団体で交渉せよ、といったわけだ。
 こんな例もある。王室行事や戦没者記念事業などをやるたびに登場する、反王制派や戦争被害者集団など、不満分子、一つ間違えば暴力に走らないとも限らない社会的な要因がある場合、そういった行事の場で、必ず、そういう反対派の人たちが集まる場が特別に、まるで特等席のように準備される。民主社会では、不満も抗議も、暴力を使わず、言葉で正々堂々とやってもらわなければ困る、そのための場を、私たちは排除しない、という政府のスタンスだ。

 これなどは、今日本で起きている、市民の声を引き上げるための、市民参加の場づくりに、似ているようであり、異なっているものでもある。
 異なっている点は、マイノリティのさまざまの立場を、<束>としてまとめるように政府が率先して刺激することだ。結局、そうでもしなければ、個々ばらばらの意見は収拾がつかなくなる。マイノリティ内部の、独善的な分子による意見対立などに、国はいちいちかかわっているひまはない。

 さて、日本は、どうやら「静かなる革命」の真っただ中にいるらしい。だが、革命ならば、それは成功裏に完成されねば革命とはいえない。良い、民主的な、市民社会の仕組みが、具体的形として作られなければ、議論の意味はない。そこに至るために、市民の声を漫然とオープンのフォーラムで引き上げる今のやり方がほんとうに効果的であるのか、、、、

 元来、民主主義は衆愚政治に陥りやすい、と前に言った。
 個々ばらばらの人々の議論ではまとまりがつかないことは、初めからわかっていたことなのだ。だから、政党政治の形が生まれた。しかし、各国の政党政治は、民主的な制度という観点から見た時に、さまざまの問題をいまだに持っている。小選挙区制はその象徴だ。小選挙区制は、カネや権力を持っているものが、一件「民主的」な制度の中で、どう票集めをするかの小賢い手段であるとすら言える。

 本当に効率よく、民主的な社会を作りたいのであれば、小選挙区制を廃止して、比例代表制の政治にすればいい。本当に、民主的な社会を望むのであれば、新聞などのマスメディアへの圧力を緩め、マスメディアに、マイノリティの声がそのまま反映されるような仕組みにすればいい。そうしてこそ初めて、市民一人ひとりに等価の選択肢が与えられる。そうすれば、後援会もいらなければ、コネもカネもいらなくなる。国庫支出の無駄は大きく節約される。これまで体制マスメディアに顧みられることがなく、烏合の衆とみなされてきた顔のない人々が、選ぶ主体、考える主体として、主体的・能動的に社会に参加する市民になる。
 余計なカネをかけて、パンドラの箱を開け、収拾のつかないカオスを招き寄せるような回り道はせずに済むはずなのに、、、。

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 されど日本、、
 世の中の変革は、社会の中に、現今の問題を意識し、それに苦悩している人の数が絶対数として高まり、何かが飽和状態にならないと動き出さないものであるらしい。去年の政権交代は、それを思わせる事態だった。それが人々目に見える形になって現れること、市民自身が体験的にそれを学べること、今、日本で起こっている市民参加の円卓会議的なやり方には、少なくともその効果だけは期待できるのかもしれない。問題は、そういう社会の刻一刻と動き形を変えている事態を、人々がつかめるような記事を、マスメディアがどれだけ成功裏に流し続けることができるか、だ。