そんな瞬間、こちらの心は五感の塊になる。その人は、今、どんな気分でいるのだろう、初めて会う人はどんな人なのだろう。そういう瞬間に言葉はいらない。人間とは不思議なもので、存在するというだけで、言葉がないまま、その場の雰囲気を変えてしまう。
出会いの瞬間に心に鎧を着る人は多い。ふと、その瞬間に、自分を生の自分ではない、自分が理想としている人間像に変えて人に見せたい、という心が動くことはよくある。闘争心や嫉妬心がもしかするとその後ろに見え隠れしているのかもしれない。
大げさな身振り手振り、世界の不幸を一人で背負ったようなしかめつら、毛羽立った化粧、奇をてらう声、目立ちたがりの服装、、、、
なるほど、人は、自分を自分以上のものに見せたがるものなのだ。でも、それは向上心などではなく、場当たりの見栄にすぎないことの方がずっと多い。
自分があるがままでいられる社会に暮らして随分と時がたった。
どこに行っても、自分はどうせ外国人、奇異に見られて当たり前、という暮らしを続けてきた。
時折日本に帰ってきてみても、私はもう、普通の日本人ではない。自分はそのつもりでも、周囲はそうは見てくれない。
どっちにしたって、周りは私を「奇異」だと思うのだもの、別にどうでもいいじゃあないか、と開き直る癖がついてしまった。
「何かに合わせる」その「何か」がなくなって随分と楽になった。
鎧を着ずとも人に会えるようになった。
最近、心地よい存在でありたい、と思う。その場に対して、そして、他の人に対して。
粋とはそういうことなのではないか。
粋は、自分ではなかなかできない。けれども、しかめつらも、難しい言葉遣いも、奇をてらうこともしない、、、 そんな人が私は好きだ。そういう人のそばに近づいていって、何かたくさんの大切なものを、ひそかにもらい受けたい、おこぼれにあずかりたいと思う。そして、いつの日か、そんな粋な人間になれたら、と思う。人間、ただ、生まれたままに生きるだけではつまらない。美しく生きていたい。