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2010/06/24

「ここ」と「今」から距離を置く:パラダイムシフト

 オランダの乳幼児教育の専門家を伴って日本に来た。2日間の研修の通訳・コーディネーターをしながら、彼が数年間にわたって組み立てた乳幼児教育プログラムの内容を改めてじっくりしっかり学ぶことになった。

 その中で彼がとても強調する考え方にディスタンシング理論というものがある。「ここ」と「今」から距離を置くことが、子どもにとって、そして、人間一般にとっては物事を把握し思考を深めていく際にとても重要だ、という。

 自分の生まれた土地を出て文化習慣、社会制度の異なる土地や国に暮らすことは、それまで「ここ」でしかものを考えられなかった自分に「あそこ」の視点を与える行為だ。「あそこ」に立って「ここ」を見直すことによって見えてくるものは多い。それは、本や情報を通しても疑似的に体験できることではあると思う。だが、字面の本はやはりメディアだ。映画や動画でさえも、視覚と聴覚を刺激しても、嗅覚や触覚までを刺激するものでは、残念ながらない。百聞は一見にしかずとはそのことを言うのだろう。

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 「今」を見直すにはどうすればいいのか。
 歴史を学ぶことにほかならない。しかし、過去を五感で体験することはほとんど不可能だ。歴史家の書いた歴史書に頼る以外にない。しかし、それは、他人の目というフィルターを通した二次体験にすぎない。そして、その歴史家さえも、過去に居合わせそこで生きていたわけではない。

 過去の時代の社会状況、人々の暮らし向き、政治の様子、経済の状態、その時代のものの考え方、などをできるだけその当時のままに知るということは、どれだけ掘り起こしても探りきれないものだろう。しかし、その行為が、今の時代を見つめる目を養う。だから、歴史は、人に習うものではなく、自分自身が検証するものでなくてはならない。

 近い過去なら、その時代を生きた人たちの証言を聞くこと、遠い過去なら、その当時に使われていたもの、書かれたもの、など原資料をたどって現代というフィルターをできるだけ書けずに当時の人々の社会感覚の中で出来事を見直す作業が必要だ。

 それが、「今」という時代を、私たちが相対視する力をつけてくれる。未来はどうあるべきかを考える力を与えてくれる。

 だが、情けないことに、日本の学校でおこなわれる歴史の授業は、他人が自分の解釈で書き連ねた歴史の流れを知識として覚えることだけだ。「もう一つの教科書」論争はその問題を如実に表している。

 当時の論争は「どの解釈なら教科書として受け入れ可能か」という観点からだけ議論された。それは、あまたある解釈のうちのひとつ、one of themとしては誰も議論しなかった。
 数年前、私は、日本の中学校の歴史家の学習指導要領について調べてみたことがある。すると、その中に、20数か所、「この点についてはあまり深入りしないように」と書かれている。いずれも、歴史家によって、解釈の違いがあり争点になっている箇所だ。なぜ、そこに深入りしてはいけないのか。まさに、そういう箇所こそ、なぜこの人はこう解釈し、他の人は異なる解釈をしているのか、と議論すべき個所ではないのか。そんなことをいちいち議論していたのでは「授業が進まない」「1年間の課題を終えられない」「試験問題を出しようがない」施政者たちはそう思っているのかもしれない。

 しかし、ここでも、学校教育の受益者であるはずの肝心の生徒たちの権利はなおざりにされている。

 争点がある場所こそ議論をしてみるべきなのだ。それが、「今」を相対化して見直す、という歴史の意義を学んでいる子どもたちに、計り知れない好奇心を誘い、自分の「今」と「ここ」から距離を置くまたとない練習の場を提供するはずであるのに。

 歴史の勉強をするなら、いろいろな歴史書をつきあわせてみるに越したことはない。
 うまい具合に、日本の歴史を簡潔にまとめた学校の教科書という材料があるのなら、違う教科書を並べてつきあわせ、その違いは何か、違いはいったいどこからきているのか、それをやってみるに越したことはない。

 私たちの思考を深め、モノを考える力を養い、自分の頭で考える訓練の場を与えてくれるのは、「ここ」と「今」ではなく、「あそこ」と「過去」なのだ。それが、未来のあるべき姿を、それぞれに考え、みなでつきあわせて時代を切り開いていく力となる。