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2009/06/12

徳と尊厳と狭き門

 徳という言葉がある。英語ではVirtue, オランダ語だとDeugdだ。
 英語のVirtueという語は価値(Value)という語に近い。ありとあらゆるものに対する価値の置き方は一人一人ちがう。それを価値観という。人は、自分が持って生まれた背景や生きてきた経験を通して一つの善悪の判断基準を作り上げ、何らかの価値観を持って生きている。その価値観に従って生きることが、徳の実践ということだ。

 しかし、価値観を持つことと、それを体現できることとの間には、大きな大きな隔たりがある。
 理想のとおりに生きていくことは難しい。


 徳は、社会性の高いものだな、と思う。なぜなら、徳の実践は、他人がいるところでこそ真価が測られるものだからだ。 

 尊厳という言葉がある。人が人として、自分の信じる価値観に従って行動できることだと言ってよいと思う。しかし、この尊厳を阻むものが世の中にはごろごろ転がっている。転がっているどころか、意図して阻む行為が外からも押し寄せてくる。

 多分、尊厳に従って生きるのが最も難しいのは、最低限度の衣食住を保障されない人たちだ。「清貧」という言葉があるが、言うほどにやさしいものではない。それを、私は、アジアやアフリカの国々で見てきた。

 でも、多くの人々が手を携えていれば、社会の結合が強ければ、尊厳を保てることもある。

 徳を持って生きるのが難しいのは、権力者もそうだろう。カネや権力は、人を他の人に対して懐疑的にさせるものだ。他人を信じられなくなれば、頼るものは、カネと権力。尊厳などとは言っていられない。

 尊厳をもち、徳に従って生きるのは、ことほどに難しい。「狭き門」とは、多分、そのことを言っているのだろう。

 なぜ、人は「自由」でなくてはならないのか。それは、自由が奪われたところでは、人の徳が引き出されないからだ。特に従って生きることは難しい。だからこそ、それが少しでも実践できるだめに「自由」がなくてはならない、多分、そういうことなのだろうと思う。

 「中庸」は、洋の東西を問わず、徳の神髄にある。
 しかし、中庸を、中途半端、妥協として、独善やシニシズムに走る人は多い。

 独善とシニシズムが心に芽生えた時、他者への受容は消え去ってしまう。そして、思いもよらず、不徳な傲慢と排斥の行為に足を取られてしまう。

 徳に従って生きるとは、、、、中庸に生きるとは、孤独であるし、ほんとうにほんとうに難しい。
 人として成熟するというのは、多分、こういう徳との戦いを続け自分を見つめ続けるということなのではないか、と思う。