Translate

2009/08/23

市民社会発展の要件

 かつて西側と呼ばれた欧米先進諸国は、1970年代に大きな文化変容を経験した。
 この時代の人々の価値意識の変容、それに伴ってその後に続いた社会制度の変容との連関を、大量のデータを駆使し、長期にわたって観察を続けているのは、アメリカ人社会学者ロナルド・イングルハートとその仲間たちだ。

 イングルハートは、1990年に出した「文化シフト」という本の中で、市民社会発展は、経済的な豊かさだけでは不可能である、ということを言っている。経済的豊かさは、市民社会発展の条件の一つだが、それだけでは十分ではない、と。それに加えて必要なのは、人々の価値意識の変化であり、その変化とは、脱物質主義的(ポスト・マテリアティズム)な価値観への変容であると言っている。

 脱物質主義的価値観とは、私流の言い方をすれば、排他的な競争主義を批判して、寛容な共生を求める意識である。エクスクルージョンからインクルージョンの意識、と言ってもいいかもしれない。
 実際、1970年代の(西側)ヨーロッパ先進諸国やアメリカでは、反戦運動とともに、女性解放運動、同性愛者の権利保護、障害者福祉制度の充実、個性や尊厳の重視といった議論が進んだ。
 オランダのように、保守的なキリスト教主義的価値観が強かった国ですら、70年代には、極端ともいえる勢いで教会離れが進み、旧態依然のモラルやタブーを一度突き放してみて見直すという議論が繰り返された。それは、キリスト教主義の価値観を頭ごなしに否定するということではなく、それを絶対不滅のものとしてではなく、相対的に自分の頭を使って考え直してみるという行為だった。

 そういう文化シフトは、かつて植民地支配によって富に潤っていたにもかかわらず、戦争を体験することで、富を失い、植民地を失って、ひたすら戦後復興に取り組んだ親の世代と、これに対して、急速に復興していく戦後社会の中で、経済的な豊かさと広く庶民にまで行き渡るようになった教育機会の中で育てられた若い世代との間の、世代間の価値意識の違い、「世代間断絶」と言われた価値観の対立の中から生まれてきた。
 復興を求める親の世代が「物質主義」にとらわれたままであったのに対し、未来を見つめる若者たちは「脱物質主義」に向かっていく価値観変容の嵐の中にいた。

 イングルハートは、豊かな経済に支えられた中で、こういう脱物質主義が、社会の中の主要な部分を占めることで、市民社会が徐々に形を整えていく、という。そして、この70年代の若者たちの価値観が、社会の中で、ドミナント(多数派)を占めるようになるには、世代交代のための、2,30年という時間を必要とするという。

 市民社会は、社会の個々の成員の個別の意思が自由に解放され、また、お互いにその自由を認め合うことで成り立つものだ。そういう意味で、同じキリスト教の伝統を持つ社会と言っても、個々の信者の聖書解釈を尊重するプロテスタントの社会の方が、市民社会的な価値観に近く、そのための制度もより整っている。北欧諸国やオランダなどは、そういう意味で、市民社会的な価値意識が、制度の中により広く反映している国であると言っていいと思う。そのことは、主観的幸福度や自尊感情の調査などに顕著に反映している。(ヨーロッパにおけるプロテスタント社会とカトリック社会の厳然たる違いについては、別の折にまた触れてみたい)

 現に、1970年代から、ほぼ40年の歳月を経た現在、オランダ社会に住んでいる人々の価値観は、物質主義から脱物質主義へとほぼ完全に移行した。政治家、官僚、企業の管理職者など、社会的エリートと言われる人々ですら、ほとんどが、この70年代の脱物質主義議論の洗礼を受けている。だから、たとえ、キリスト教保守主義やリベラル派の立場にあるエリートたちであっても、脱物質主義的な議論をすりぬけて、一方的に伝統的なモラルや資本主義的な価値意識と言った立場を主張することは、もはやできない。価値観の異なる他者との共生、自然(環境)との共生は、この社会の大多数の人々に受け入れられた議論の余地のない前提になっている。

---------

 イングルハートの「文化シフト」の中では、日本のデータが大変重要な位置を占めており、西側先進諸国の70年代における日本社会の明らかな特殊性が指摘されている。

 日本でも、戦後復興期を経た後、若者や知識人による、脱物質主義的な議論はあった。けれども、世界が冷戦体制になだれ込み、中国の共産化と朝鮮半島の分断、ベトナム戦争の激化などの中で、日本は、アメリカ合衆国にとってなくてはならぬ西側の拠点とされた。戦後間もなく「民主化」を求めて言論のリーダーとなった人々のうち少なくない数の人々が、変節し転向していった。
 その時代の世界の雰囲気とそこからもたらされた外圧、日本の置かれていた地理的な位置などが、戦後「民主化」政策を捻じ曲げ、機会均等を求める社会主義的な市民運動を意図的に抑圧するものとなったことは周知のことだ。
 しかし、本当にそれだけだったのか、本当に、外圧だけが日本の民主化を妨げてきたのか。それ以上に、そういう捻じ曲げを受け入れてしまう日本人自身の、一種の「未熟さ」があったからではないのか、この問いに対する納得のいく答えを、私自身、長く求めてきた。

 イングルハートの「文化シフト」は、この問いかけに、データを持って一つの答えを示してくれている。

 18世紀の啓蒙主義を経て19世紀初頭にまがりなりにも近代国家制度を打ち立て、産業革命を経て競争主義の、しかし、物質的な豊かな社会を築いた欧米先進諸国では、価値観として、すでに、「個人の自由」は存在していた。西洋の人々は、すでに長い間、近代主義がもたらした個人主義を経験していた。そして、個々の人々の価値観が問われ、お互いの価値観に干渉しない個人主義をみとめる価値意識は、個々人の精神をどこまでも孤独にするものでもあった。ナチズムの熱狂は、エーリッヒ・フロムが言う通り、孤独な魂に耐えきれなくなった近代人たちの「自由からの逃走」であったことは、多くの人々が同意することだ、と私は思う。

 ドイツに起こったナチズムと、それに協力し、それに共感した周辺諸国の人々にとって、戦後の価値意識の変化には、差別に対する決別があった。そして同時に、「ではどうしたら自分とは異なる他者と共生できるのか」という課題は、大変深刻なものであった。共生とは、自然に放っておいても起こるものではなく、自分から働きかけ、意図して努力しなければならないもの、という意識は、当時、市民運動を強く勧めていた若者や知識人たちに共有されていた意識であったらしい。

 けれども、同じ時代の日本で、多くの人々は、西側連合軍に「負けた」という劣等感と、戦時中、だれからも自由意思を認められることがなかったという「近代化に対する遅れ」の自覚の中で、やっとのことで先進国並みの「経済的な豊かさ」が実現しているのだ、という満足感が圧倒的であったのではないか。そして、そうであった日本人をいったい誰が批判できよう。
 あの時、近代化がもたらす個人の孤独を実体験として感じている人がいったいどれほどいたことだろう。孤独を越えて『共生』の中につながっていきたい、という希求など、いったいどれほどの人に期待することができたことだろう。日本人は、伝統という名に支えられた集団的な同調に足をからめとられたまま、そこから逃れることに必死だった。自分自身でありたい、まず、自分の意思を認めてくれる社会がほしい、と。それは、私自身の心の軌跡からも自覚できるし共感できるものだ。

 集団への同調を強要してくる日本の伝統の中で、60年代70年代の、やっと近代化に目覚めていた多くの日本人の意識は、個人化、プライバシーへの希求に強く傾いていた、そのために、脱物質主義の中で、欧米社会の若者たちが求めていた、むしろ「孤独」を乗り越えてお互いにつながり合おう、社会に参加し関与しようという、新しい形での共生への意識につながっていかなかったという点で、欧米の文化シフトとはくっきりと性格を異にするものであったことをイングルハートはデータを持って示している。

ーーーーーーーーーーー
 2000年ごろ、世界は、一斉にグロバリゼーションの時代を迎えた。欧米社会に文化シフトが起こっていながら、富をむさぼる人間の傲慢と欲望は今も変わらない。
 そして、一昨年、また、昨年と重なる金融危機は、人間の強欲が、人類社会自身に牙を向けはじめていることを自覚させられる事態にほかならなかった。

 そんな中で、欧米社会は再び『共生』的な価値意識と制度を求めて動き始めている。地球規模での人類の平等と共生を実現しなければ、地球社会そのものが存続できないことに気付き始めている。

 日本は、と言えば、、、

 私は、市民社会を実現するための要件が、今こそやっとそろい始めているのではないか、と感じている。グロバリゼーションがもたらした貧富の差、飽和値を超えてしまった人々の閉塞感は、もう、この先には市民社会を実現するしかないではないか、という気分を日本の中に広くもたらしたように思う。
 バブルがはじける前の、豊かな経済的な発展を、今の日本人は知っている。同時に、バブルがはじけ、グロバリゼーションの激しい競争にもまれたことで、人間の幸福が、物質だけから得られるものではないことに多くの人々が気付き始めている。

 1970年代の、西洋先進主義の若者たちの意識を共有できる人々が日本にも絶対数として増えてきているのではないか。急激な高度成長の中で、不幸な不登校や引きこもりを生んだ日本は、そういう社会が、個人の魂を限りなく孤独にするものであることも体験してきた。
 「こんな競争社会、もうたくさんだ」という声にならない声が聞こえる。

 やっと、日本が市民社会として成熟できる条件がそろってきたのではないか。

ーーーーーーーーーーー

 ただ、問題は、 少なくとも二つある。

 一つは、この国の戦後教育が、「考えないで追従するだけ」こそが「よい子」である、として子どもを育ててきたことだ。「考えない」よい子と、そんな学校に「適応できない」、それがために「自身も自尊感情も持てない」落ちこぼれの子、そして、そうして育てられて大人になってしまった人があまりにも多い。

 70年代のヨーロッパには、元気のいい若者がいた。しかし、せっかく成熟社会の入り口に立っている日本には、あのように元気のいい若者があまり見当たらない。言あげをすることを嫌う大人社会はいまだに根強い。

 元気がよくて、自分の頭で考え、社会に参加する意思を持つ若者を育てるのには、まだこれから確実に20年も30年もの歳月がかかる。今すぐに始めたとしてもだ。すでに大人になっている人、企業組織の中にいる人々、漫然とテレビの娯楽番組にかじりつく人々にももっと働きかけていった方がいい。

 もう一つの問題は、日本を先進国並みに押し上げた経済発展を支えた労働倫理だ。残業してこそ、一生懸命働いてこそ今の日本の発展があるという人々は、まだ、企業家の中に多い。確かに、そういう労働倫理が、高い品質の産物を生み、日本産の製品の名を高め、一見「効率の良い」組織づくりを外国にアピールしてきた。そこには、確かに短期に日本を豊かにした利点があったと思う。しかし、どんなシステムにも必ず短所があるように、こういうシステムこそが、多くの日本人の幸福を奪ってきた。このシステムの持つ問題を、冷めた目で見つめながら、どうやって改善努力をしていくか、、、、。70年代の日本の経済高成長は、欧米企業家らから称賛を浴びるものであっただけに、影の問題を認めたくない、という人は多いはずだ。これも、市民社会の成熟のために必要な制度改革にとって、非常に厄介な障害になるだろう、と感じる。

-------

 けれども、今日本社会が置かれている状況を、地球規模で見た時、、、

 西洋とは異なる、不自然に急速で、伝統の租借からではなく外から処方箋を取り入れながら近代化を果たしてきた日本が、今、どうやって日本人一人一人の幸福を保障する市民社会を実現できるか。それは、中国やインドなど、同じように、古い社会倫理を引きずりながら経済急成長をしている国々で、やがて必ず起こる問題だと思う。日本が、今、自力でこの問題を乗り越え、成熟した市民社会を実現することができたなら、それは、こういう国々に対して一つのモデルを示すことになるだろう。

 やがて、地球規模で、異文化間のすべての人の平等と幸福観が保障され、自然との共生が実現されることが究極の目的であるのなら、日本社会の現在の努力は、そういう地球のあり方に大きく貢献するものになると思う。今、という時代の世界の風は、そっちの方に吹き始めている。

2009/08/22

表現が求める共感

 この夏、久しぶりにまるまる1カ月休暇を満喫した。
 と言っても、ボーっと何もしないでいると罪悪感を感じてしまう貧乏性の日本人。「休暇を満喫」とは名ばかり。休むということに一切の罪悪感を感じることのないオランダ人の夫からすると、体も心も解放しきれない私は、「休むことが下手だなあ」と見えるらしい。

 そういう夫の視線をひしひし感じつつ、「ようし」とやっと丸2日間浸り切った読書。世界中で売れに売れているスペインのカルロス・ルイス・ザフォンが、この初夏に出したばかりの新著、娯楽長編ミステリーThe Angel's Gameを、日ごろの頭を切り替えて、青胡桃の緑陰にガーデンチェアを持ち出して堪能した。

 この作家は、以前、「The Shadow of the Wind」という本を書いて、爆発的なベストセラーとなり、世界中で何カ国語にも訳され、ロングセラーを続けている。普段、あまりベストセラーには手が伸びないのだが、この本は、舞台がバルセロナで、この都市はゆっくり訪れ散策したことがあるだけに、つい引き込まれて読んだのが最初だった。本の中に出てくる地名、通りの名など、カタルーニャの民族意識を受け継いだバルセロナという土地の人々の感情、そして、長く独裁政権だったスペインの閉塞感など、時代の暗い影が付きまとう中でのミステリーは、背後に、きりきりとした人間不信の冷たさを感じ、それだけでも興味深い。

 新作The Angel's Gameの主人公は、貧しい少年時代を背景に持つ売れっ子作家。この主人公に投影されているルイス・ザフォン自身の姿、また、登場する書店主、ジャーナリスト、出版業者、編集人ら、本にまつわる職業人たちの言葉が、作家の、文章を媒介とした表現者としてのややあからさまなほどの思い、本作りへの姿勢を表している。それだけでも十分に読み応えのある、また、表現としても、すぐれた文章の数々、巧みな構成と出会えて、一カ月もある休暇の、わずか2日を占める読書になった。

 中身をばらしてしまったのでは興ざめなので、一つだけ。

 重要登場人物の一人である、謎の編集者アンドレアス・コレリが、こう語る部分がある。

An intellectual is usually someone who isn’t exactly distinguished by
his intellect. He claims that label to compensate for his own
inadequacies. It’s as old as that saying: tell me what you boast of
and I’ll tell you what you lack. Our daily bread. The incompetent
always present themselves as experts, the cruel as pious, sinners as
excessively devout, usurers as benefactors, the small-minded as
patriots, the arrogant as humble, the vulgar as elegant and the
feeble-minded as intellectual. Once again, it’s all the work of
nature. Far from being the sylph to whom poets sing, nature is a
cruel, voracious mother who needs to feed on the creatures she gives
birth to in order to stay alive. (Carlos Ruiz Zafon,The Angel's Game, p.170)
知識人というのは、普通、正確にいうなら、本人の知性をみてそうだと選ばれたわけではない人のことをいうんでね。そういう奴は自分につけられたこのレッテルが自分の不足を補ってくれると思っているのさ。ほら、昔から言うじゃないか、おまえさんが自慢できることを俺に言ってみな、そうしたら、おまえに欠けているものがなんなのかを教えてやるから、とね。欠けているのは毎日のパンさ。力のない奴はいつも自分を専門家だと見せかけるもの。残酷なやつは敬虔な人間になりすまし、罪深い奴はものすごく献身的な人の振りをし、高利貸しは恩人ぶって、小心者は愛国者に、傲慢なやつほど謙遜な振りをして、品のない奴こそ気品を装い、意志薄弱なものほど知識人の顔をする。もう一度言っておくがね、これもみんな自然のなせる技なのさ。自然なんてものはね、詩人たちが詠って見せる、ほっそりとしたやさしい妖精なんかとは影も形も違うものでね、自分が生みだす生き物たちが、生き延びていくために食わせていかなくてはならない、残酷で貪欲な母親なのさ。(リヒテルズ試訳)

 シニシズムの骨頂というよりない、この冷たい、しかし読者をして考えさせずにおれない皮肉極まりない言質。この謎の編集者に翻弄されつつ、主人公は、こういう、結局はありふれたシニシズムを越えて、生きて血の通った人間としての作家の生きようを見せる。ルイス・ザフォン自身の、作家としての、人としての生きがいの理想を投影しているのだろう。

 彼の公式サイトには、こういう言葉も出てくる。

I do not write for myself, but for other people. Real people. For
you. I believe it was Umberto Eco who said that writers who say they
write for themselves and do not care about having an audience are full
of shit, and that the only thing you write for yourself is your
grocery shopping list. I couldn't agree more.
http://www.carlosruizzafon.co.uk/
私は自分のために書いたりしない、他人のために書いているんだよ。現実にいる人たち、つまりはあなたたち読者のみなさんのためにね。自分自身のために書いている、読者なんて気にしちゃあいないなんていう作家なんて糞ったれもいいところ、人が自分のために書くものは雑貨屋に出かけるときに持ってくショッピングリストだけさ、と言ったのは、確かウンベルト・エコだったと思うけど、これくらいうまく言い当てた言葉を私はほかに知らないなあ。(リヒテルズ試訳)

 物を書くことが、単なる自己実現のためなのであれば、しない方がいい。私自身もそう思う。
 
 物を書くとは、そして、おそらく、文章に限らず、ありとあらゆる媒介による「表現」とは、他者とコミュニケーションにほかならないのだろう。自身に課された自身にしかできないものを、他者に提供すること、お互いに提供し合うことと言ってもいいのかもしれない。

 しかし、作家もビジネス。人間の行為の多くはビジネスだ。
 だから余計に、最初に引用した謎の編集者の言葉が響く。私たちは、パンなくしては生きていられない。しかし、パンは、お互いに、相手を楽しませ、相手の役に立つものを提供し合って得ようではないか、、、、そんな風なことを言っているのでは、と深読みする。

 誤解を恐れずに言うが、私は、あの、ガウディという建築家がどうも好きになれない。
 あの、永遠に未完のままかもしれない、奇妙で巨大な建物サグラダ・ファミリアが聳え立つ、あのバルセロナに育ったこの作家は、ガウディをどんなふうに感じているのだろう。

2009/08/15

マイナス評価からプラス評価へ

 今朝、犬を連れて散歩に出たら、大きな森林公園の入り口、路面電車の停留所付近で、高校生か大学生くらいの若者たちが数人、ビデオカメラを据え付けて映画撮影をしていた。その中の一人は、停留所のポールによじ登って高い位置からカメラを回していた。
 ちょうど通りがかったパトカーがその付近に止まって、補助席の窓ガラスを下げて、巡査官がひょいと顔をのぞかせ、この若者たちに話しかけた。
「映画撮ってるのかい?」
 ボサボサ頭で色の褪めたT シャツによれよれジーパン姿の若者が、
「うん、そうだよ」
と答えて、パトカーの方に近づき、巡査の差し出す手をとって握手をした。

 それからの短い会話は、私にはよく聞き取れなかったが、数分ほどして、
「じゃあ、がんばれよ」
と巡査は声をかけて、また、パトカーを走らせ消えていった。

 短い出来事だったが、オランダの警察官の気さくさ、威圧的、高圧的ではない態度をよく示す場面だった。

 ある人がこんなことを言ったのを思い出す。
 オランダはじめヨーロッパで長く人気だったサッカーは、入っていく点数を数えるプラス評価のスポーツだが、日本やアメリカで人気の野球は、失敗の数を数えるマイナス評価のスポーツだ、と。
 スポーツのことはよくわからない。でも、オランダ人と日本人が他人に対する評価を見て要ると、確かに、オランダ人たちは、マイナスの点には目をつぶり、できるだけプラスに目を向けようとするのに対し、日本人は、どうも欠点や失敗を探して、それを修正することに懸命なようだ。

 実を言うと、オランダ人も、昔は、欠点探しの方をやっていたのだと思う。学校などは皆そうだった。このことは、オランダ人に限らず言えることで、ピーター・センゲなども、「産業型社会の教育」の特徴として、子どもを「欠陥品」としてとらえ、学校は欠陥ばかりの子どもたちの足りない部分を補うものとして考えられてきた、と言っている。
 しかしそれは、大量生産型の教育、工場の規格品生産をモデルにした、つまりは、産業社会の歯車を作ることにしか関心がなかった時代の学校のことだ。そうして、そういう学校教育をあまりにも長く続けてきた結果、子どもたちは、自分の頭で考えることをやめ、社会に「人として」参加することをやめ、十羽ひとからげの取り扱いを受けることに何の疑義も呈さないで黙々と働き続ける大人として育てられるようになった。こういう教育の仕方、こういう人間を作ることは、確かに、一面で、品質保証のある生産物を生み出す基本にはなってきたかもしれない。失敗、欠陥を補正する授業は、人々の考え、文章にできるだけ間違いを作らない、粗悪品の少ない社会を生んできたかもしれない。
 しかし、それだけでは幸福な人々の社会にはならなかった。創造的な、失敗を恐れずに何かを試みてみるという人々を生む原動力は欠いていた。
 両者のバランスは必要であると思う。また、マンパワーというものを目の前の現今の産業発展のためだけに使おうとする狭い了見では、人間の能力の計り知れない広さや深さを十二分に活用することもできなかったはずだ。

 マイナス評価からプラス評価に変えなくてはならない理由はここにあると思う。
 規制の規範、権威、評価基準で何もかもを管理しよう、押さえつけようというのは、人間が持っている無限の力を抑えつけてしまうものにほかならない。

ーーーーーーーーーーー

 明日十八日の衆院選公示を前に、すでに、選挙をめぐって活発な議論が起きている。
 民主党の支持率が増えているだけに、政権交代の可能性が現実のものとなり、長く、本当に長く続いた自民党一党独裁に終止符が打たれそうな様子だ。
 政権が変わるかもしれない、変えられるかもしれない、というくらい、有権者の政治参加意識をそそるものはない。

 テレビを通じて党首討論会は報道される。従来の記者クラブの記者会見などでは見られなかった政治家の「討論能力」が有権者の前に晒される。
 今日の六党党首会談では、党首らが、みんなで握手をして見せている写真が公開された。政治とは、みんなで作るもの、日本の政治は、与野党が討論して、より良いもの、有権者が望むものを反映するものだ、ということが、伝わるようになるのではないか、と思う。
 やっと、しかし、一気に、日本の政治が欧州の先進国並みの、民主主義国家らしい形状を見せ始めている。

 「経験が少ない」と言われマニフェストの有効性も問われる民主党ではあるが、今回の選挙は、「政権交代を有権者の手で実現させること」に意義があるのだと思う。自民党以外に政権をとるチャンスを与えてこなかったのは有権者自身だ。政権が代われば、経験のなさは当然マイナス要因となるだろう。だが、それは、はじめからわかりきったこと。むしろ、この新しい政権に、忍耐強く時間を与えて、新しい試みで、今の日本の問題のいくつかを打破させてみることではないか。マスコミの言論がこれほど重要なカギとなる時期はないと思う。政治的な動きを、淡々と、オープンに、公正に人々に伝えていってほしい。そして、評価できるものを評価させる時間を設けるべきだと思う。

 マスコミ丸抱え、偏向メディアによる大衆操作、画一教育による価値観一元化、言論ではないけたたましい右翼的な集団の暴力まがいの恐喝、アメリカからのバックアップ、世界第二の経済力、そして、世襲と言う名の「家柄」「経験」のある政治家をもってしても、日本を立て直せず、世界中の先進国の中で、最も不幸感の高い国を作ったのが、自民党の戦後政治ではなかったか。チャンスは、自民党以外に回してみるべきだ。自民党は、野党になって、一度、政党としての体質を根本的に改善し直してみるべきだと思う。
 それで初めて、日本の政治は、保守、リベラル、社会主義、環境派などと、立場と強調点を異にする政党が、それぞれにぶつかりあい妥協しあって、日本という船のかじ取りをしていく、成熟した民主主義にやっと一歩を踏み出せる。

 


2009/06/24

静かな衝撃

 よく訪ねるイエナプランの小学校に最近またある視察団とともに訪れた。
 イエナプラン校は、何度も訪ねているのにたずねるたびに新しい発見がある。

 この日、訪問者とともに職員ホールに通され説明を聞いた。若い女の校長先生が、いつものように学校の概要を説明してくれた。そして、それから、ちょっとほほ笑んで、私の方に目配せをし、
「それからね、今日は、実を言うと今学校に特別のお客さんがいるんです。最上級生が今そのお客さんを囲んでサークルで話し合いをしています。そのお客さんというのは、実は、刑事犯罪を犯した人で、TBSクリニックからきています。ちょうど、今子どもたちは『法律』について学んでいるところなので、ホンモノの勉強をするために、こうしてゲストとして招いて、子どもたちと話をしてもらっているの」

 TBSクリニックというのは、殺人事件や強姦事件などを起こした、かなりの凶悪犯罪者で、少なくとも4年間の留置の刑が科された犯罪に対し、犯罪を犯した時期に、精神的に異常であったことが証明され、そのために、服役能力がないと考えられる人が収容される施設だ。
 ほとんど回復の見込みがない精神異常であるため、治療を受けながら一生クリニックで過ごすケースも多い。

 しかし、治療を受けて数年すると、社会復帰トレーニングのために、はじめは、クリニックの周辺、また、期間をおいて、自宅に帰ることができるようになったりする。無論、精神異常の程度が強くて復帰トレーニングができない場合もあるのは当然だ。
 ただし、こういうTBSクリニックから、社会復帰トレーニングとして一時的に復帰訓練をしている患者が、介護人の監督のすきを見て逃げ出し、その結果、薬品の摂取をやめ、精神異常の状態が起こり、強姦や殺人などの再犯が起きてしまったケースも確かにある。そして、そのたびに、責任問題や、今後の対策が熱い議論になって問われている。

 だが、こういう患者たちの社会復帰トレーニングの「あり方」を変える議論はあっても、「やめてしまえ」という議論はほとんど聞かれない。それは、凶悪犯罪を犯したこの人たちが、精神以上と言う、本人にはどうしようもない原因を持っているからであり、そういう人たちの人権を守ることは、社会の成員すべての共通の義務である、と考えられているからだ。オランダ社会の人権はそこまで守られている。

 というわけで、その日、そのイエナプランの小学校では、学校の真ん中の明るいホールの中央で、TBSクリニックから一時帰宅しているという「元」凶悪犯罪人の患者が、15人ばかりの小学六年生に囲まれ、子どもたちから出されるいろいろな質問に答えていた。手枷、足かせをしているわけではなく、若い二〇代後半くらいの女性が、付添い人としてそのサークルの輪の中に入っていただけだった。

 校長先生と、その分校の分校長とは、私が連れてきた二〇人ばかりの日本からの視察団の応対をしているし、ほかのクラスでは、いつもと同じように、普通の授業が普通の時間割通りに行われていた。
 
 警察官が学校の周辺や校内に来て見張りをしているわけでもなかった。

----

 数年前、TBSクリニックから一時帰宅していた患者に誘拐され強姦され、国境を越えてドイツにまで連れ去られていた女子中学生のことがニュースになったことがあった。無事に発見されたその中学生は、中国系の移民だったと記憶するが、誘拐されている間、犯人の心を動揺させまいと、出来るだけ刺激的な態度を取らずにいたのだ、と、発見後テレビカメラに向かって淡々と答えていた。
 相当な精神負担があったはずだが、とても冷静な様子に印象付けられた。当然、その後トラウマ(心の外傷)対策のカウンセリングが行われたものと思う。


 罰すべき、憎むべきは、犯罪行為であって、人の存在そのものを否定することはできない。
 
 オランダに「死刑」がないのはそのためだ。
 『死刑』がないのはオランダには限らない。ヨーロッパ連合加入の条件の一つは、『死刑』制度がないことだ。

 

2009/06/12

徳と尊厳と狭き門

 徳という言葉がある。英語ではVirtue, オランダ語だとDeugdだ。
 英語のVirtueという語は価値(Value)という語に近い。ありとあらゆるものに対する価値の置き方は一人一人ちがう。それを価値観という。人は、自分が持って生まれた背景や生きてきた経験を通して一つの善悪の判断基準を作り上げ、何らかの価値観を持って生きている。その価値観に従って生きることが、徳の実践ということだ。

 しかし、価値観を持つことと、それを体現できることとの間には、大きな大きな隔たりがある。
 理想のとおりに生きていくことは難しい。


 徳は、社会性の高いものだな、と思う。なぜなら、徳の実践は、他人がいるところでこそ真価が測られるものだからだ。 

 尊厳という言葉がある。人が人として、自分の信じる価値観に従って行動できることだと言ってよいと思う。しかし、この尊厳を阻むものが世の中にはごろごろ転がっている。転がっているどころか、意図して阻む行為が外からも押し寄せてくる。

 多分、尊厳に従って生きるのが最も難しいのは、最低限度の衣食住を保障されない人たちだ。「清貧」という言葉があるが、言うほどにやさしいものではない。それを、私は、アジアやアフリカの国々で見てきた。

 でも、多くの人々が手を携えていれば、社会の結合が強ければ、尊厳を保てることもある。

 徳を持って生きるのが難しいのは、権力者もそうだろう。カネや権力は、人を他の人に対して懐疑的にさせるものだ。他人を信じられなくなれば、頼るものは、カネと権力。尊厳などとは言っていられない。

 尊厳をもち、徳に従って生きるのは、ことほどに難しい。「狭き門」とは、多分、そのことを言っているのだろう。

 なぜ、人は「自由」でなくてはならないのか。それは、自由が奪われたところでは、人の徳が引き出されないからだ。特に従って生きることは難しい。だからこそ、それが少しでも実践できるだめに「自由」がなくてはならない、多分、そういうことなのだろうと思う。

 「中庸」は、洋の東西を問わず、徳の神髄にある。
 しかし、中庸を、中途半端、妥協として、独善やシニシズムに走る人は多い。

 独善とシニシズムが心に芽生えた時、他者への受容は消え去ってしまう。そして、思いもよらず、不徳な傲慢と排斥の行為に足を取られてしまう。

 徳に従って生きるとは、、、、中庸に生きるとは、孤独であるし、ほんとうにほんとうに難しい。
 人として成熟するというのは、多分、こういう徳との戦いを続け自分を見つめ続けるということなのではないか、と思う。

2009/06/02

貧困という危なさ

 「貧困」が最近の政治議論のキーワードになりつつある。
 なぜ「貧困」が危ないのか。
 人間としての尊厳が保てないからだ。

 日本政治のキーワードになりつつある「貧困」は、今、すでに、権力者からまんまと利用されつつある。人間としての尊厳を保てないほどの貧困に喘ぎ、なおかつ、そういう貧困の中でまともにものを考え判断する教育さえ受けられなかった人々は、権力者の力で赤子の手をひねるようにどうにでもなる存在だ。

 私の海外在住体験の第一歩はマレーシアの最貧地域の貧村での入村調査だった。電気はまだ村の一部にしか通っておらず、ほとんどの家には、トイレをはじめ下水溝がなかった。
 80年代初頭のことだ。
 
 当時、日本経済は繁栄の頂点。その年、マハティール首相は、「ルック・イースト政策」と呼んで、日本を見習え、をスローガンに掲げていた。日本は、開発途上資金を落としてくれるパトロンだった。日本の建設会社は、現地にビルを建てては、元をとり返していた。その金で、私のいた貧村がどういう事態になっていたのか、、、

 私の当時の研究テーマは「マレー村落の権力構造」。
 そこで見たものは、貧困地域の生活向上のために開発資金が落とされる中、村の中で、現政権に対して「イエスマン」になる人々を(近代的)リーダーとして引き上げ、それらのリーダーを通して、村の中で、最も底辺にある、粗末な住居とぎりぎりの自給生活をしている人々に、少額の補助金を落としていくことだった。貧困にあるものは、少しでも補助金がもらえれば息がつける。他の村人との格差を見せつけられれば、補助金はもっと嬉しい。こんなに、恩恵深い政党なら支持しようと、村人たちは、トラックに荷台に乗せられ投票場に行き、保守政権への投票をした。

 反対していたのは、イスラム教急進派と呼ばれる政党の人々だ。
 自営業を営み、そこそこに自分の生計を立てている人々には、補助金は降りてこない。村長のイエスマンにならず、毅然と自分の尊厳を守るような連中は、政府関係者にとっては目障りでやりにくい。カネに目がくらんだ村長や、州の権力者が天下りさせる村長が増える。穏健派、実は優柔不断な政府系モスクのイマムが、なぜか家を新築し、電気を引き、要りもしない養漁場を作って、村はずれの貧農にカネをばらまいて票を集める。見苦しさに、反対の声を上げる人々は、哀しいかな、原理主義に走り、宗教を利用して抵抗する以外にない。
 急進的な原理主義が、民主制にあってはならない「暴力」を使わざるを得ないところまで追い込まれていく。

 思いもかけないやりきれない悪循環を目の当たりにして、日本の間接的な加担が惜しまれた。
 しかし、当時の日本は、まだ、格差の少ない、平準性の高い国だった。しかも、開発途上資金は、かつてに日本の侵略国に対してより多く支払われていた。日本にしてみれば、よく言えば罪滅ぼし、悪く言えば、口封じのカネだったのだと思う。

 どうせカネを使うのなら、なぜはっきりと侵略への謝罪をしないのか、、、、まあ、日本流の、言葉の外交ではなく情に訴える外交か、、、それにしても、それでは歴史には刻まれていかない、、、、、と釈然としない思いでいるうち、日本社会そのものがおかしくなっていった。一億総中流と言われたのは、今では、夢のかなた。「貧困」が問題になるなど、いったい、20年前の日本人のだれが予想していたことだろう。しかし、そうならざるを得ない、内側の矛盾は、日本にはずっとあった。金融危機がどうの、グローバル化がどうのという以前の、日本社会の民主性の基盤そのものが、初めから疑わしい質のものだったのだ、と思う。外的要因が今の日本を生んだのではなく、内側に巣くっていた問題が、グローバル化と金融危機によって見事に露呈しただけだ、と私は思っている。

 有識者会議への関心が熱心だ。
 非正規雇用者への保険制度、子育て支援などで、貧困層への支援策が浮上している。
 なぜか、マレーシアの村で見た、成り上がり村長と、最貧農民の関係を想起してしまう。そうでなければいい、と思いつつ、「有識者会議」のあり方は危ない、と思う。

 「貧困」が世の中の話題になっているだけに、ここに目を付け、庇護のスタンスをとることで、日本社会の本質的な問題、戦後政治の本質的な誤りから、目をそらさせようということらしい、わたしにはどうしてもそうみえてしまう。

 権力者の「貧困」利用は、マレーシアに限ったことではない。

 開発途上国援助の専門家である夫に伴って、アジア、アフリカ、ラテンアメリカで15年を暮らした。
 食うや食わずの遊牧民を定住化させ、食物ではなく「綿」を作らせる政府。不作で綿ができなければ、この農民たちには、カネが入るどころか種子購入のために支払われたクレジットへの借金返済が待っている。政府は、借金を返せと追い詰めることもできるし、また、返せと迫らずに、「恩情」を見せれば、この農民らは、政府を支持する。どっちに転がっても権力者には失うものがない構造が既にできている。

 途上国に大きな橋をかけるといって事業を起こす大国は、まず、現地の権力者にカネをばらまく。橋梁工事の予算の半分がこういう現地の政治家の懐に入ったからと言って、橋さえできれば問題はない、そういう開発援助がどれだけごろごろしていたことか。そして、工事を受注するのは、結局は、大国本国の企業だ。これまた、失うものは何もない。

 80年代に、そういう議論は、山ほどあった。日本の開発途上政策は、その後どれだけ変わったのか。議論は、影響を与えることができたのか。
 オランダの開発途上政策は、あの頃大きく変わった。自分たちの社会の機会均等を追及していたオランダ市民は、世界における格差が、やがて世界平和を危うくさせるものであることを、実感として知っていたからだ。

 不当解雇や派遣労働で、こんなにも多くの貧困者を生んでいる日本もまた、どうやら、そういう権力者のトリックでどうにでもなる大衆社会に転落してしまったようだ。

 識者は言う。「近代化は産業化に他ならない。産業化が生んだ社会で、わたしたちはみな被害者、社会に出口がなくなっている。さあ、みんなで考えましょう」と。

 ちょっと待ってくれ、近代化はそういうものではない、、、私は、一人で、そういう心の叫びを聞いている。近代化の本質を人々の目から隠したまま、ただひたすら、産業社会の歯車を作るだけの教育を作ってきたのは、それからメリットを受ける人々が意図的にしてきたことだったのではないか。日本の産業化は、ただ、知らないうちに、そうなってしまった、というようなものではない。意図して、市民を作るという営みを排除してきて成り立っているだけではないか、、、。余計なことを考えずに、ただひたすら、勤労精神に励む人間を大量に作っていれば、経済は安定し、未来は約束される、、、そこには、「指導者」の明らかな「意図」があったはずだ。

 近代とは、人間が、他人の作った既成の価値観から解放され、自分の頭でものを考えること、「良心の自由」に従って生きるという決意をしたことから始まっている。だから、科学が必要だった。一定の、誰にでも共有できる問いを立て、共有できる手続きを持って、結論を引き出す。科学には、だれもがアクセスできなくてはならない、そう考えるのが近代というものだ。だから、近代教育は、「科学」を教える、「科学的な探求の態度と技術」を教えるため、子供が自分の力で学び続けることができる大人になれるように「育てる」ために生まれたものだ。しかし、哀しいかな、どの先進国でも、近代教育は、短時日のうちに、産業振興型の競争画一教育へと変容を遂げてしまう。

 
 産業化は、科学振興によって生まれた技術が可能にした拡大生産の結果であり、拝金主義は、近代の本質を忘れて産業化にまい進した人間の愚弄の結果にすぎない。人間の知恵が生んだはずの産業が、人間の尊厳を奪い去った。だから、ここから、どうやって足を洗ったらよいのか、、、、

 私たちは、働くために生きているのか、生きるために働いているのか、、、。男と女の分業は、カネのためか、それとも、よりよく生きるためか、、、。
 よくよく考えてみなくてはならないと思う。

 拝金主義から足を洗わない限り、「貧困」は政治に利用されるし、どっちに転がっても勝ち目のない戦いとなる。だから、危ない。カネがなければ息の根を止められるほどに貶められた貧困は、人間が、誇りを持って生きることを許さないだけに危ない。

 貧困を生まない、貧富の格差を生まないことを最優先してきた、デンマークやオランダ、そして北欧の国々の制度はだから強い。持続可能性のある社会とは、貧困を絶対に生み出さないシステムのある社会だ。

 いよいよ、日本の民主性を問われる正念場がやってきた、そう見える。

 貧困は、「民主的な社会」の健全さを保つためには、絶対に作ってはならないものだった。
 それを生んだ日本の政治は実に醜い。それを放ってきたマスメディアはさらに醜い。
 知っていながら、分かっていながら、この期に及んで「独善」と「シニシズム」に浸る知識人は、風上にも置けない。

2009/05/15

1+1>2

 教育評論家の尾木直樹さんとの対談が本になった。
 オランダの教育についての情報を日本に報告しながら、何が伝えたかったかといえば、日本の現状を外から見直す必要があるのではないですか、ということであったから、この対談は、私にとっても、初めて、日本の教育について直裁率直に意見を言える初めての機会だった。
 それはともかく、、、
 対談というのは、実に面白い作業だな、と改めて思う。
 人間、一人一人顔も違えば考え方も違う。その二人が意見を出し合い語り合うことで、お互いが、今まで考えてもみなかったことに気付き、ふっと意識が別の次元に浮上する。いい作業をやらせてもらったと思う。これもひとえに、こういう機会を作ってくださった尾木さんのおかげ、また、出版業界苦境の中を押して本づくりをして下さった柴田さんのおかげだ。

 考えてみると、夫婦というのも、そういうものではないのか。夫婦になれば子供が生まれる、だから1+1>2だ、という単純な話ではない。男と女、そして、私たちの場合は、オランダ人と日本人という、とんでもなく背景が異なる二人が出会い生活を共にしてきた。しかし、そのことで、どんなにたくさんの付加価値を得ることができたことか、、、どんなにたくさん新しい発見をし、自分を見つめなおし、何度となく新しい地平を広げることができたことか、、、

 船は一人でこぐより二人でこぐに越したことはない。
 荒波を行く船が転覆しないように保つには、一人より二人の方がずっと良い。

 本づくりにおける著者と編集者もまた、1+1>2とする作業だな、と思う。そして、考えてみれば、著者と読者も、そうなのかもしれない。発信者と受信者は、互いが歩み寄ること、お互いが理解しようと努めることで、それぞれがそれぞれの中で、何か今までになかったものを受け止め発展させる力になる。

 長いこと、人に頼らず一人で何でもやってしまおうと思ってきた。自立していたいという気持ちは今も変わりはない。でも、それとは別に、最近、すこし力が抜けてきて、人とつながって何かをした方がずっと大きな力になる、と感じられるようになってきた。

 人間一人で生まれひとりで死んでいく。それなら、せめて生きている間、つながってみたいという開かれた意欲を持っている人たちと一緒につながっていた方が多分ずっと幸せだ。

問い続けるということ

 イエナプランについてもっと詳しく知りたい、そう思ってケース・ボット氏に電話をしたのは5年前の夏のことだ。ボット氏は、1960年代にドイツからイエナプランを紹介したスース・フロイデンタールの片腕となって、ワールドオリエンテーション(イエナプラン教育のハートといわれる総合的な学び)の理論と教材研究をし、長くオランダ・イエナプラン教育の理論的な基礎を築くうえで指導的な役割を果たした人だ。もともと、経済的にも余裕のない家庭に生まれ、助教師の資格を取って小学校で教えていた。
 電話の受話器を取ったのは、ボット氏の奥さんで、明らかに外国人とわかるオランダ語で面会を求めてきた私に、少し戸惑ったようにこう答えた。
「ケースは今耳がほとんど聞こえないので筆談しかできないけど、それでもよかったら、用件を伝えますからいってください」
と。
 思いがけない返答に、ちょっと面食らった。
 それから1週間後、うまくコミュニケーションができるだろうか、と内心ハラハラしながら、オランダ中部にあるボット氏の自宅を訪れた。静かな住宅街にあるその家で、ボット氏は、奥さんとともに、私の来訪を待ち構えていてくれた。
 そうして通された3階の小部屋は、白い壁に水彩の鳥の絵がかかり、窓越しに、家の前の通りを超えて白樺やポプラの緑の木立が見張らせる、静かな落ち着いた一室だった。

 さて、耳の聞こえないボット氏とどうやって会話をしたものか、、、
 仕方がないので、持ってきたノートに質問を書きつけて見せながら話をすることにした。
 ボット氏は、初めから聾唖だったわけではない。その前年、中耳炎がもとで耳が聞こえなくなってしまっていたのだ。だから、ノートに書いた質問を読むと、少し、大きすぎるかな、と思われる声だったが、次々にたくさんの答えを話して下さった。一旦話し始めると、とても仔細にわたり、また、外国から来た私に伝えられるだけのことを伝えずにはおれない、という熱気さえ感じた。

 ボット氏の蔵書はおびただしく、話が進んでくると、隣室の本棚に行って、ありとあらゆる資料を引き出して見せて下さった。
 そうして、第1回目のおよそ3時間にわたる会談は、あっという間に終わった。

 2時間の帰路を、いささか興奮と心地よい疲れを感じながら運転して家に帰りつき、メールボックスを開いてみると、早速ボット氏からのメールが入っており、短く「これも参考になるでしょう」と書かれたメッセージとともに、添付ファイルには、ぎっしりとその日の会談に関係した報告書の類が貼り付けられていた。

-------

 その後、何回か、こうしてボット氏を訪れた。耳の方は、手術を受け、以前より回復してきているようだった。訪れるたびに、気の置けない関係となり、資料なども、「ナオコ、上にあがって取ってこいよ」とあけすけに見せて下さるようになった。
 それにしても、いつ行っても、ボット氏の頭には、また一つ、また一つと新しい情報がちゃんと入ってきているのには驚いた。イエナプラン教育の指導者ではあったが、教育に関する、あるいは、新しい理科教育に関するありとあらゆる情報、それも、オランダ語に限らず、英語、フランス語、ドイツ語の資料を今も蓄え増やしていっている姿には、感服する以外になかった。

 ある時、どうしてイエナプラン教育と出会ったのですか、という質問をしたことがあった。
 するとボット氏は、このように答えた。
「私は、昔、小学校で助教師をしていたんだが、ある時に、理科教育の方法を探していてね。何か、子どもたちが自分で発見的に勉強できるいい方法はないのかな、と思っていたんだよ。そうして、たまたま自分がとっていたある教育誌を読んでいたら、フロイデンタールという女性がいて、イエナプラン教育というのを紹介しているというのが分かってね。よく見たら、うちからそんなに遠くないユトレヒトにいるっていうだろう。すぐに連絡してみたんだよ。すると、向こうも、今、ワールドオリエンテーションの教材を開発しようと人を探していたんだ、と言って、とても熱心にそのことを話してくれてね。あっという間に意気投合さ。それから、イエナプラン教育にかかわり始めたってわけだ。全くの偶然だね。、、、、、私は、それから、いったい、オランダの理科研究っていうのは、どんなことをしていてどのくらいのレベルにあるんだろう、そう思ってね。全国の大学の研究者や博物館で仕事をしている人たちに、手当たり次第に電話をかけ、面会を申し入れて取材して回ったんだ。その時のことは、当時のイエナプランの機関誌にも書いているけどね。そうして、研究者たちに会っているうちに、およそのことが分かってきたんだな。ああ、オランダ国内の理科研究は、今、このあたりのレベルなんだなって。よしわかった、って思ったよ。」

 ボット氏とは実にたくさんの話をした。しかし、この時の話は、その中でも特に印象に残っている話の一つだ。

--------

 私も、単純に知りたい、そう思って、ボット氏に電話をかけた。ボット氏の名前にたどりつくまでに、イエナプラン協会などにいろいろ問い合わせたことは当然だ。そうして、ボット氏と会話をし、彼が見せてくれたり送ってくれる資料を渉猟しているうちに、イエナプラン教育のことが、はっきりと見えてきた。学校を訪れていても、枠組みがしっかりできていた。

 彼の研究者としての姿勢には脱帽というよりほかない。しかし、私が「知りたい」という気持ちだけから、自宅に電話を入れて尋ねてきたことについて、多分、彼もまた、「へー、面白い日本人がいるものだな、昔自分もこうして電話をかけて人を訪ねて行ったなあ」と心の中で感じていたのではないか、とほぼ確信している。

--------

 ボット氏が打ち立てていったワールドオリエンテーションの学び方は、まさしく、科学検証のステップそのものに他ならない。

 小学生に対して、まず、対話をしたり、戸外で遊んだり、無秩序にごちゃごちゃとおかれたものを探索する中から、子供たちの「問い」を引き出せ、という。そして、その「問い」をみんなで集めろ、と。子どもたちとそれを指導する大人の教員とが一緒になって、ああでもない、こうでもない、と問いを出し合いそれを整理する。それから、さあ、どうやって、この問いに答えを出したらいいだろう、とみんなで話し合う。図書館に行こう、専門家に会いに行こう、実験してみよう、森で観察しよう、などなどと手続きを話し合う。子どもが自分でできる研究は自分でやり、大人の教員が教えてやれる探索方法は授業で教える。そうして、見つけてきた答えや、答えへの手がかりを、再びみんなで持ち寄って話し合う。できた成果を保管し、次の研究、次の世代の子供たちへの遺産とする、、、、、

 探求は、あくまで「問い」から始まる。手続きは、あくまで、自分の頭で考え生み出す。集めてきた答えは、みんなで出し合うことにより、批判的なフィードバックをする。成果を整理し、次の世代へと受け継いでいく。

 これは、問題意識、仮説と検証、成果の整理、結論、次の人への先行研究としての保管、という科学検証の手続きに他ならない。

 小学生の子供たちを指導するために作られたこのイラストレーションのモデルを見ながら、私は、こんなに簡単なことを、なぜ、私は大学生になるまで一度も気付けなかったのだろう、と思った。
「あなたの問題意識は何ですか」
と教授や同僚に問われて、答えられない自分が情けなかった。しかし、内心、「問う」ということができない教授や学生がほとんどだということも感じていた。

-------

 思えば、30年足らずの間外国を転々としながら、私は、心にいつもいくつかの「問い」を抱えて過ごしてきたのだな、と思う。13年前にオランダに来た時、これからオランダに定住できる、と思った時、知りたい、わからないという問いが、むくむくと心に沸き起こってきた。どうせ、私は、学者でもなければ、研究者でもない、だれも振り返ってみるわけではないし、自分が知りたいからやるだけさ、、、そう思って、問いの答え探しを始めた。初めて、それを意図的に始めた時、私は、オランダにあるありとあらゆる教育協会に手紙を出して、資料を送ってもらった。自分の子供たちが通っている学校の校長先生に頼んで、自宅で、聞きたいことを思う存分聞かせてもらった。

 問えば答えがもらえる。

 一つの答えが得られたら、そこから、さらにまたいくつもの問いが生まれる。ああでもない、こうでもないと考えているうちに、自分なりの仮の真理が形を成してくる。ああ、「仮説」とはこういうことだったのか、と思った。そして、自分が一つの問いに対して探し、見つけた答えもまた一つの「仮説」に過ぎないのだと。

--------

 ボット氏は、私がイエナプラン教育を熱心に勉強していることについて、こうも言う。
「別に、イエナプラン教育なんて名前にこだわることはないんだよ。個別教育だって、共生教育だって、、、名前なんてものはどうでもいい、、、人に分かってもらいたいならゲリラ戦だな、方法にこだわる必要はない、できるところから、可能性のあるところがあれば、どんどんそこから攻めていくんだよ」

 探求者にとって、どこかに「とどまる」何かに「こだわる」ことは死に態となることなのだろう。問い続ける、ということは、どこかで出来上がったり、安心することではないのだろう。そういう意味でのこだわりは持たない方がいい。独善を避け、いつも、批判と反証に心を開いておけ、、、、、彼はきっとそういう意味のことを言っているのだろう。