Translate

2010/07/29

施策を国民がチェックできない偽装『民主』国家

 千葉法務大臣の死刑執行のニュースが、いまだに、喉元に引っかかったまま消化できないでいる。

 死刑廃止論者として、国外にまで名が知られていた千葉法相が、自分一人で判断して下した結果だったとは到底思えないからだ。
 だとしたら、本当に決定権を握っているのは、いったい誰なのだろう?
 考えられるのは、法務省の上層官僚だけだ。
 有権者による、民主的な手続きを通して選ばれたわけでもない、官僚たちには、いったい、どれだけの「政治的権力」があるのだろう、と空恐ろしく感じるのが、今回のニュースだ。

 官僚とは、人権保護を市場の原理とする西洋の民主制度においては、まさに「公僕」そのものの役割を果たすことを期待される。
「公僕」とは、人に仕え、人のために働く僕である、ということだ。
そして、そのために「法」がある。人々に「公表された」法律、国会という、人々が「選んだ」代表者によって立法された法律を順守しして、それに基づいて、人々の人権を守ることを旨として働くのが本来の「公僕としての官僚らの役割だ。

 死刑問題は非常にセンシティブな問題である。

 ヨーロッパ連合は、死刑制度を維持している国の参加を認めていない。後発の開発途上国家、非西洋の国々の中にも、死刑制度を廃止する国は増えてきている。

 無期懲役は、すでに、それだけで、自由を奪っているわけで、人権の大半を奪われた状態で生きることを意味している。しかも、人が裁く裁判に、100%間違いがないとは言い切れない。死刑は、刑を執行してしまったら取り返しがつかないことになるという意味でも、慎重さが問われる。犯罪の被害者の痛みは、その犯罪を犯した人を「殺せば」済む、というものではないはずだ。

 怖いのは、そういう議論がいくら社会一般の人々の間で繰り返されていても、顔も見えず、資格も明らかでなく、責任は大臣になすりつけて済ますことのできる官僚たちの判断が、何の法的な根拠もなく実行されているのではないのか、ということだ。

 そうでなかったことを祈りたい。だが、そうでなかったのなら、死刑を下した責任は、千葉法相にあくまでも残る。いったい何があったのか、日本国民には明示される日が来るのだろうか。千葉さんは、自分が、大臣という地位にありながら、これまで、国際的に明示してきた自分の立場に反して判断を下したことを、これから、どう自分自身の中で処理していくつもりなのだろう?

 日本で起こっている、人の命にかかわる事件が、こうして、いったいだれの責任なのかわからないままに、ニュースにのぼり、いつかまた忘れ去られていく、、、、。有権者はその恐ろしさをどこにも感じていないのだろうか。

 同じく、官僚が作り、官僚が管理してきた日本の学校の中で、私たちは、歴史的事実を批判的に検証することも、日々、国内外から登ってくるニュースを取り上げて議論することも、皆、「政治化する」「変更教育」という名で、禁じられてきた。それが、日本中の大人と子どもを、「批判しない」「考えない」大衆に育ててきた。ジャーナリストは、記者クラブで、官僚の報告を書き取り右から左に報告するだけ、教員は、教科書に書かれていることをマニュアル通りに一斉授業するだけ、、、、、

 日本人の不幸と自殺とひきこもりの原因は、こういう社会の中で、自由も自立も参加も奪われていることだ。それは、「奴隷」「大衆」「独善」しかない、人間として、情けないほどに恥ずべき、牛馬のような扱いの社会だ。