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2010/08/13

中立より多元主義  ~マスコミを考える~

 NHKの政治解説者の自殺をめぐって、ネット上では、相も変わらず、根拠のない「憶測」が飛び交っている。〈中立〉を旨とする公共放送団体で起きた事件が、こうした「憶測」によって、噂を広げ、世論に影響を及ぼし、都市伝説に変えられていくことが恐ろしい。そして、そうなることを承知で、無記名による、乱暴な、罵りが、警察の発表も、報道をも無視して、先取りして人々の耳に刷り込まれていく社会も不気味だ。

 マスコミのジャーナリストたちの「良心」「良識」を問う前に、無記名の言論に左右されない、情報を正しく取捨選択できることも確かに必要であるのかもしれない。そういう議論は、メディアリテラシーとして、結構よく聞かれる。

 だが、私自身は、マスコミや公共組織に求められる〈中立〉とは一体何なのか、ということを問うてみたい。

 そもそも、ある人や組織が、まったく政治的に〈中立〉であることが果たして可能であるのだろうか?

 マスコミの「偏向」を安易に批判する人たちは多い。しかし、この人たちは、「中立」などという立場で人や組織がものを言える、ということを本当に信じているのだろうか。批判しているその人たちが、批判されているマスコミを「偏向」と呼ぶ、そのことが、すでに、その人たちの立場の表明であり、「中立」とは程遠いのものなのではないのか。

 オランダの公共放送は、政治的にも、宗教(倫理)観おいても、それぞれ立場の異なるNPO団体が、それぞれの会員数の規模に従って、一定の時間枠を得て、その中で、自由に意見や立場を表明できる。

 どの番組一つをとっても、何らかの立場、何らかの「偏向」の中で報道が行われていることを、はじめから前提としている、と言い換えてもいい。

 肝心なのは、誰ひとりとして、排除されないことだ。マイノリティ集団であっても、公共のメディアを通して、声をあげ、その声を、他の人々に「聞かれる」権利が守られている。

 では〈中立〉とは何なのか。
 〈公共〉とは何なのか。

 それは、中立や公共という名の下で、一つの価値観を普遍化させることではない。
「中立」と「公共」は、法と制度の問題だ。誰もが、同じように声を挙げ、誰もが人間として同じ価値を認められて意見を聞かれること、それを保障するのが、中立的な『公』の立場にある、「公」務員と「公共組織」
がやるべきことだ。何度も繰り返すようだが、〈中立〉な意見、〈公共〉の立場、など、あり得ないものなのだ。「公」は、国民すべてのために「平等」を守ることに徹すればそれでよい。法によって示された、人としての権利を、すべての人に「平等」に守ること、そのために機能していれば、それ以上のことをしてくれなくてよい。してはいけない。

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 社民主義のヨーロッパといえども、イタリアでは、ベルロスコーニがマスメディアを掌握しているといわれた。マフィアとのつながりも取りざたされた。そんな中で、この数年、命を賭してマフィア批判の映画を作る動き、シシリア等の商店街がマフィアボイコット運動を起こす動きなどがしばしばイタリアから聞こえてくる。国外には、そういうイタリア市民の動きを報道するメディアがある。ヨーロッパ連合は、マフィアを初め、暴力団体の社会からの一掃を目標に掲げている。

 日本のマスメディアの零落ぶりは目に余る。経済不況が拍車をかけ、儲けのないもの、金銭的に損になるものには手を出さなくなってしまったようにも映る。それどころか、カネになるなら、ジャーナリズムの使命などどうでもよいのか、と思えるような報道すらある。日本のマスメディアに、常に脅しをかけてきたのも暴力団体だ。

 そんな日本の新聞やテレビは、もはや、世界各地でどんな災害が起こりどれだけの人命が失われているのかということや、IMFやOECDが次々に発表している、世界各国の経済状況などのニュースは、とんと伝える気がなくなっているようだ。来る日も来る日もニュースのテーマに上がってくるのは、殺人・自殺・暴行事件ばかり。一億人を恐怖に駆り立て、一億人を悲観に追い立てる報道に、いったい何の意味があるのだろう。

 オランダならば、こどもニュースで小学生でも知っている世界の災害と被災地の様子、中学生が加わって議論する経済政策の話し、死刑や刑罰をめぐる議論。日本の若者たちは、言葉ができないから議論に加われないのではない。知っておくべき情報を知らされていないから、議論の基盤がないのだ。

 それだというのに、暢気に構えた知識人らは、「いや、ネットがあるから大丈夫」とでも言わんばかりだ。そのネット上で、無記名で人を罵倒したり、独善的な言質をばらまいたり、既存メディアには報道できないだろう、とばかり、根拠のない情報を垂れ流していても、だ。

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 問題は、何が「中立」か、ではない。
 問題は、誰でも、一人ひとり、平等に声を聞かれる公共メディアがあるかどうか、なのだ。

 私たちが、求めるべきは、ありもしない〈中立〉ではなく、マジョリティもマイノリティも、同じ土俵で語り合える「多元主義」の社会だ。マジョリティにもマイノリティにも、何が重要で何が社会で議論されるべきかについては、優先順位があるはずだ。それぞれの価値観が認められていてこそ、民主主義は健全に機能していく。

 日本という国が、本当に新しい「公共」を確立させたいのなら、まず取り組むべきは、マスメディアの、公共資金源を確保し、メディア関係者の法外な給与慣行をやめ、暴力団による圧力から守って、マイノリティにも、マジョリティと同様に平等に開かれた機会を与えることだ。