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2010/11/17

へそまがりのトリリンガル理論

大勢の人が飛びつく話題には乗りたくない、、、、そのもう一つ先を言わずにおれない、、、どうも私の中には、そういう手名付けにくい、へそまがりの虫が住んでいるようだ。

バイリンガル理論が日本でもどうにか一部で根付き始めたようだ。だから、私はあえて、今の時代にトリリンガル理論をすすめたい。


いまから30年以上前、「これからの時代、日本語だけではだめだ」と思って、わたしは英語会話の学校に通い続けた。当面は留学が目的だった。しかし、語学研修でイギリスに行って帰ってきたら、西洋先進諸国と言われるアメリカやイギリスへの興味が、なぜかガクンとなくなってしまった。
そうして、数年後、マレーシアに留学した。西洋文化に対するオールタナティブがほしかった。以来、ずっと、日本語+英語+OO語というトリリンガル生活が今日まで続いている。

マレーシアでは、巷のインド人中国人たちが、母語のほかに英語をペラペラしゃべっているのにあきれた。それどころか、当時、ナショナリズム政策で優先されていたマレー語もみんな使いこなしている。だからと言って、自分たちの文化的なアイデンティティを失っているわけではない。

昨日、日本の『英語教育』の視察団の方たちにお会いした。
日本の子どもたちには、ヨーロッパの国々の子どものように、異文化に触れる機会が日常生活の中にないため、英語学習への「動機づけ」が限られているという話になった。
「それならば、子どもたちを動機づけるために、<子ども国連>をしたり、英語でかかれた子ども向け雑誌を発行したり、英語のテレビ番組を作ってはどうか」と提案したら、
「日本にはいまだに、西洋支配の象徴のような英語を義務付ける必要はない、というような人たちがいまして、そういう全国的なアクションをやりにくい、、」という話だった。

その程度のナショナリズムを振り回す人に限って、日本の文化や伝統の深さを知らないのではないかと思う。そもそも、そういう人たちこそ、自分自身のアイデンティティのよりどころを確信できていないのではないのか。自分が何者か、自分の拠って立つ文化をどう自分自身が評価できているのか、それがあって初めて人間のアイデンティティは確立する。そして、そういうアイデンティティがあれば、外国語を学ぶことによって日本文化が崩壊する、などという僭越な議論には走らないはずだ。国旗を挙げ、国歌を歌えばアイデンティティが育つというのは、根拠のない迷信だ。アイデンティティは、他者を知ってこそ初めて育つものだ。他者を徹底的に知り尽くしてやろうじゃあないか、という気概がなければ、また、他者の存在を世界の同朋として受け入れようじゃないか、という懐の深さがなければ、自分のアイデンティティなどというものは生まれようがない。

なんとまあ、遅れた国際意識か、と改めて思う。チョンマゲ日本人がまだのさばっている。

日本は島国、ちょうど、英語を国語とするアメリカやイギリスと同じように、国民がモノリンガルである国の典型だ。今時、モノリンガルである地域の方が、多分、世界地図の上ではマイノリティなのではないか。モノリンガルがなぜだめか、というと、「相対的なものの見方」ができにくいからだ。

アメリカとイギリスに比べ、日本がもっと大きなハンディを背負っているのは、当たり前のことだが、日本語が世界語ではないことだ。アメリカやイギリスは、自分たちはモノリンガルでも、よその国の人が進んで情報をくれるからまだいい。日本の場合、自分たちが英語をしゃべらなければ、外国の人は気にもかけずに無視していくだけだし、逆に、外からの情報を得る手段もない。

そもそも、言語なんてものはツールでしかない。ツールは多いに越したことはない。しかし言語というツールは、ツールらしい、役に立つものにするために数年の時間が必要だ。それを国が支えてくれない、制度としてやれない、というのは、国民にとって大変な損失であり、機会剥奪でさえあると思う。

―――

と、ここまでなら、単なる英語礼賛、バイリンガル礼賛になるのだが、私は今トリリンガルの必要を強く感じている。特に、流行を追うように英語を学び、それで「国際化」の一歩を踏んだかのように思ってしまう若い人たちへの忠告として、トリリンガリズムをぜひとも勧めたい。
英語礼賛はあぶない。それだけでは、アメリカやイギリスへの留学・研修で、安易に国際化が済んだ、と思ってしまう態度につながりがちだからだ。私の専門分野である教育学でも社会学でも、学者にはその傾向が強い。それが、英語以外の言語圏への関心を相対的に低くしてしまい、場合によっては軽視、そして、アメリカ、イギリスという、特殊なアングロサクソン圏の文化や思想を、「西洋思想」として一般化してしまう傾向が強くなりすぎるからだ。英語は必要だ、バイリンガルは、今の時代を生きていくための最低条件だ、しかし、それだけでは十分ではない。

日本人一般に対しては、まずは英語能力を今の10倍にするつもりで高めてほしいと願う。しかし、日本の知識人、新しい時代を生きる若い人たちに対しては、トリリンガルになってほしいと思う。今やそのくらいの覚悟がなければ、世界に通用する知識人らしい知識人にはなれない。英語以外にもう一つ、どの言語でもいいから、ふつうに情報収集できるだけn言語能力を身につけてほしい。ドイツ語でもフランス語でも、中国語でもヒンズー語でも、ロシア語でもアラビア語でもいい。そうすれば、英語文化が相対視できるようになる。日本と英語圏の文化に対して、第3の点を設定し、それぞれの位置づけをはっきりさせることができる。

開発途上国のリーダーたちは、たいていがトリリンガルだ。彼らは、インターネットの普及の影で、今や、したたかに世界の最も先進の情報を吸収している。その同じ時間に、曲がりなりにも「大学」を出た学歴のある日本人が、閉塞感の強い社会でうんうん唸りながら面白くもない仕事を残業までしてやり、その挙句、リクリエーションと言えば、茶の間でたくわんをぱりぱりしながらバラエティ番組を見るか、インターネットで、日本語に限られた情報だけをサーフィンするか、日本語だけでブログし、つぶやきまくる、、、、はたまた、役にも立たない(エログロナンセンス)マンガを見て過ごすだけ、、、、これが「武士道」の日本人か、、、、単なるチョンマゲ日本人のやせ我慢にすぎないのではないか、、、、情けなさを通り越えて、日本人が意識もしていない間に、ますます、世界の人々の知的レベルからかけ離れたところに孤立していっていることに、ゾクっとするほどの危機感を感じるのは私だけだろうか、、、

日本人が能力が低いのではない。日本人には優れたさまざまの能力があると思う。しかし、それを外に向けて伝えることも、外からの情報をもとに、持っている能力にさらに磨きをかけていくこともしなかったら、そして、そうするための手段や機会に接近できなかったら、たんに宝の持ち腐れになるだけだ。たくさんの可能性に満ちた大人や子供の能力を引き出す機会と制度に欠けていること、それが、まさに、日本の大問題だ。