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2012/03/14

答えのない問い

正解のある問いは、過去の問いだ。未来を切り拓くには、過去の問いの答えだけでは足りない。
 未来を切り拓く鍵は、答えがまだ誰の目にも明らかでない問いを持ち続けることだと思う。クリエイティビティとは、そこから始まるのだと思う。

 若い頭脳を、ひたすら正解探し、正解丸覚えに終始させる日本の学校教育は、未来に希望を生まない。そういう学校ばかりにしてしまったのは、入試制度。それを今も後生大事にする社会を保持し続けるのは、そんな学校に最も適応して、未来を変える意欲を失わされた入試勝ち組のエリートたち。

 日本の大学教育をダメにしているのは、入学の時期などではなく、人間が考えつづける動物であるという、何物にも代えがたい事実を拒否してすすめられた競争教育に他ならないのに。

2012/02/22

電子ブックと英語文化

日本の出版界は、「電子書籍元年」などと仰々しい呼び方で、電子ブックの到来に大騒ぎをしていたのもつかの間、結局、「電子書籍で得をするものは誰もいない」とかなんとかいう話で、いつの間にか、「やっぱり電子書籍は無理」という話で騒ぎが沈んでしまった。でも本当にそうなのか、、、それは、「誰から見ての話」なのだろう。

消費者にとって、また、書き手にとって電子ブックに本当にメリットはないのだろうか。

オランダに住んでいると、出版・新聞・雑誌は、この数年間、着実に紙媒体から電子媒体へと進みつつあることを強く感じる。特に、去年の後半あたりから、電子ブックを持っている若者たちが電車の中、バスの中でよくみられるようになった。アマゾンのプロモーションで、ネットと書籍小売店で、一斉に100ユーロ以下のキンドルブックを売り出したことが一因ではないか、と思う。

そういう私も今年の初めにキンドルブックを購入した。アマゾンがないオランダの場合、オランダの住所では、電子ブックが購入できないので、フランスの住所を使っている。

キンドルには、辞書類はついているし、約4000冊の、いわゆる「古典」ものは、無料で購入できる。つまり、シェークスピアだの、ドストエフスキーだの、オースティンだの、永遠の古典となった書籍は無料。また、少し古い本で、多分著作権や版権の契約が切れているものも極安だ。指でひと押しするだけで、1秒もかからない速さで、シェークスピア全集を手に入れることができる。もちろん、哲学書の類は、原語・英語どちらもほとんど無料か50~100円で買える。

言うまでもなく、話題の新著、最近のベストセラーも、紙書籍に比べると格安だし、正直なところ、紙よりはるかに読みやすい。字のサイズを変えることができるし、読みかけのまま閉じてもすぐにそのページを開ける、関心のある本を数冊同時進行で読むことが、紙の場合に比べてずっと簡単にできる。分厚い本を本棚に並べたり、スーツケースに押し込んで旅先に持っていかなくても、電子ブック1個さえ携帯すれば、全集、哲学書、古典、読みかけのベストセラー、関心分野の本など、ひとからげで携帯できるからだ。

キンドルブックの購入で、私がとてもうれしいのは、英語書籍へのアクセスが大変容易になったことだ。オランダの様に誰でも英語を話す国でさえ、本屋と言えばやはりオランダ語の書物が中心、定期的にいくフランスも事情は同じだ。2年前、オックスフォードの本屋に行って、ものすごい量の英語の専門書の殿堂にたち、おもわず『歓喜』の声をあげそうになった。でも、99ユーロのキンドルブックを購入したことで、一気に世界中の英語書籍へのアクセスが可能となり、なおかつ、読みたい本を、自宅の居間でくつろいだ状態で、1秒以内に自分のものとすることができるようになったわけだから。

なんだか、電子ブックの先棒かつぎのような話になってきたが、、、

実は、私が気になっているのは、もしかすると、日本人は、ますます諸外国の人々と、英語文化への「浸り度」で格差が付き始めているのではないか、ということだ。


日本での「電子ブック」議論は、日本の出版業界の話が中心だったのではないか。消費者にとっては、「電子ブック」は外国の「出版物へのアクセス」を開くパワフルなツールであるという面は、どれほど真剣に議論されていただろう。

日本にももちろん翻訳出版の伝統はある。しかし『翻訳』は、所詮が原著者の声そのもではあり得ない。外国の文化に根差した内容は、「直訳」では伝わらない。よい訳者が必要だし、今の時代のスピード感にあう翻訳書を出していくのは、時間と労力から言って、あまり将来も続く話ではないと思う。しかし、今や世界語としての英語で書かれた膨大な量の書籍の中には、日本の出版業界では到底手の届かないレベルの高い議論と論拠を含んだ書籍が、絶対数として圧倒的に多数存在する。もともと、英語以外の言語で書かれている本が、「英語」に訳されているということ自体が、内容の高さ、世界の読者の関心の高さを表すものでもあるからだ。


そういう時代であるというのに、今でも、日本の学者・研究者の大半は、日本語と同じ濃密さで外国語の書籍に目を通している人が少ないように思う。

「生きた英語」と称して、小学生から英語会話を必修にしました、と言ってお茶を濁しているような時代ではないのだ。少なくとも、まだ、社会人として、世の中のことに役割を担っている人なら、今すぐに英語を「読みこなす」練習を始めるべきだと思う。そして、その材料は、電子ブックさえ手に入れれば、難なく始められる。

読者が求める情報の質が、英語文化へのアクセスを通して高まれば、日本の出版社の、誰が生き残るか見えてくる時代が来る。それとも、ただひたすらに、『鎖国』を続けるつもりなのだろうか。片や『維新』を叫び人心をつかもうとしている人たちは、果たして、どうやって世界スタンダードの情報を常時アップデートできているのだろう?

ただ、変な言い方かもしれないが、せっかくならば、日本の電子ブックは、英語書籍のために先に普及してくれるとよいな、ともひそかに思っている。なぜなら、スマートフォン初め、ネット文化の普及で日本が変わったのは、日本語文化内部でのコミュニケーションが濃密になったということだけで、英語サイトへのアクセスはほとんどないのが現実のようだからだ。変に出版界が電子ブックに一斉に移行したりなんぞすれば、またもや、電子ブックは持っていても英語の本なんか読まない、という人ばかりになってしまいそうだ。











2011/10/04

春よ来い!

 2007年の不況プレリュード、2008年のリーマン・ショック、そして、ヨーロッパではギリシャに端を発する債権危機と続き、世界経済の雲行きは実に怪しい。

 そんな中、失業率の高さと、政府政策に不満を感じるアメリカの若者たちが、ウォール街で抗議運動を起こした。この運動は、ウォール街だけではなく、全国に広がりつつあるという。市民の不満は、ごく少数の企業エリート、それに密着した政治エリート、市民の声を顧みないマスコミ・エリートに向けられている。「アメリカの春」という言葉も聞かれ始めた。

 そういえば、今年初頭、エジプトやチュニジアなどから次々に広がっていったアラブ諸国の市民たちの運動も、歴史的な事件だった。カダフィのリビア初め、混乱は続いているとはいうものの、石油の権益を一手に占めてきた権力者に対する市民の抵抗は「アラブの春」と呼ばれた。

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 1990年代後半頃から「グロバリゼーション」という語で、世界規模の自由主義競争が社会問題視されるようになった。先進国の企業家らは、国境を超え、世界に購買者を求めて市場競争を激化させる。同時に、中国やインドをはじめ、低価格の労働力をも彼らはむさぼり集めるようになった。その結果が、自国の労働者の行き場を無くし、世界中の市場から得られる利益が、ごく少数の人々の手に収まるようになる。
 世界規模でのバブル経済化、カネカネカネの世界の中で、極小規模の富者と大多数の貧者の格差が生まれることとなった。かつて、豊かで安定していた先進国社会は、大多数の中流階級に支えられていたが、今や、いつ貧困へと転落するかもしれない不安の中に多くの市民が置かれている。ましてや、高齢化社会は待ったなしで近づいている。

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 自由市場経済の旗手と言えば、アダム・スミス。

 しかし、哲学者チョムスキーによれば、「見えざる手」の理論を提唱したアダム・スミスは、自由市場経済は、得られた富を市場に還元することで、やがて、社会に「平等」を実現するものである、と言っていた、という。
 また、アメリカ人哲学者デーヴィッド・コルテンも、この点に触れ、自由市場制は、スミスが意図していたようなものとして、完全に機能するには至っていない、と言っているという。
(チョムスキーとコルテンについては、Rob Wijnberg, En Mijn Tafelheer is Plato, De Bezig Bij
 2010から参照したもの)

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自由市場制を、平等にではなく、極端な貧富の差へと動かしたものは何か? 
資本を手に、あくなき欲望を追求していった少数のエリートたちだ。

ハーバード大学の教育学教授、ハワード・ガードナーは、21世紀の徳として、学校などの教育機関が教えるべき3つの徳として、『真実』『美』『善良さ』を上げている。

 カネと欲望の世界の中では、確かに、真実も美も善良さも、金銭の価値に比べれば、取るに足らぬものとされてきたのではないか。それは、宗教や文化の差を超えて、世界の価値観にまでなっていたのではないのか。

 その意味で、「アメリカの春」そして「アラブの春」で、人々が抗議の矛先を向けているものは共通だ。


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 3.11の東日本大震災、とりわけ、大津波によって起きた福島第1原発の事故は、その後まもなく、電力会社という大企業と保守系政治家、官僚、そしてマスコミの癒着を国民の目にあらわとした。なぜ、火山列島地震大国の日本に54基もの原発が作られてきたのか、その裏には、電力会社の利権、政治家の権力的地位、個人名を問われることのない官僚らの無責任、マイノリティの声よりも広告収入を頼りに「上層階級」の生活を守りたいマスコミ人たちらの利害が、見事に、社会のピラミッドの上部に掃き集められたエリートたちの利権として一致していたからだ。

 原発反対の国民の意図や願望に反して、早くも原発回帰へと進む政治議論。

 なぜ、日本に「春」が来ないのだろう。

 春よ来い、、、、日本が世界からに孤立して、いよいよ、人類の文明進化への道を、ひとりで踏み外してしまう前に。


2011/07/08

合格発表の仕方から、ふと随想

 今年は10月末まで半年フランスに滞在中。とはいっても、日本に行ったりオランダに帰ったりとバタバタ落ち着かないが、、、

フランスで生活してみると、あれやこれやで、オランダとの違いが目につき面白い。

どちらもヨーロッパの民主主義国ではあるのだが、どっちが日本に似ているかというと、圧倒的にフランスの方だ。

先週、「バック」と略称される、高校卒業資格(バカロレア)試験の発表があった。合格率は75%程度だというから、受験者の4人に1人が不合格、かなり厳しい試験だ。オランダでも、同じような高校卒業資格があり、こちらはディプロマと呼ばれているが、バックもディプロマも、大学入学資格となる重要なものだ。これがあれば、どこの大学にも入学できるわけで、大学教育を受けて専門家や指導者としてのキャリアをすすむ道が開かれた、ということになる。

バックのニュースを見ていて、オランダとずいぶん違うな、と思ったのは、合格発表の仕方だった。バックの試験を受験した子供たちは、発表の日、自分の学校に行って、大きく張り出された合格者名簿の中から自分の名前を探す。つまり、日本の大学入学試験の発表と同じだ。発表当日、学校では、自分の名前を見つけて歓喜の声を上げるものと、不合格で落胆するものとの悲喜こもごもの姿が、親も一緒にやってきた発表会場の雑踏の混沌となって見られる。

ふと、数年前に我が家の子どもたちがディプロマのための全国統一試験結果を受け取った時のことを思い出した。
オランダでは、合格発表は、各学校(高校)に送られてきて、それから、担任の先生に伝えられ、担任の先生が、クラスの子どもたち一人一人に電話をかけて合否を伝える。だから、子どもたちは、合格発表の日は、朝からそわそわしながら、いつ電話がかかってくるか、と待っていることとなる。ほかのこの結果がどうなったかは、親しい友人たちがお互いに連絡しあって初めて知る、という格好だ。もちろん、こういう時の風のうわさの伝わり方は素早いことは素早い。

そういえば、オランダでは、学校の試験成績も、壁に貼り出して公表するということがない。試験の総合結果が最高得点で、学年で1番だった、というような話も聞いたことがない。子どもたちも、高校に通っている間、学年で何番だったというようなことを聞かされたことは一度もない。
唯一あるのは、卒業式の時に、すべての学科の平均点が、10点満点中8点以上だった子どもたちが集められて、「クムラウデ」(最優秀性)として表彰されることだ。
競争しなくても、できる子どもはよい成績を収めるものだ。そして、それは、1番になるということではなく、ある基準に従って、一定の高いレベルへの到達をどの教科でも果たした、という意味だ。

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こういうオランダのやり方は、やはり、子どもたちの、人間としての人格を尊重していると思う。子どもを大人の基準でドッグレースのように競争させるのではなく、また、合否を公表して、子どもたちの間に、これみよがしに明暗のカーテンを引くこともない。それは、学習というものが、他の誰のための者でもなく子ども自身のためのものだ、ということに徹した考え方から来ているものでもあると思う。他人との比較で、負けたくない、という気持ちをてこに勉強させるのではなく、自分の発達のために勉強するという考え方だ。

ただ、60年代終わりから徐々に徹してきたこういうオランダ社会の、子どもの発達観というものは、その陰で「6点文化」を生んできたことも事実だ。
「6点文化」(ゼッセンクルチュール)とは、各科目の合格ボーダーである10点満点中6点を取れば、あとは必死になって勉強しなくてもいい、というもので、そのおかげで、子どもたちが、自分の能力を最大限に伸ばす努力をしなくなってしまう、というものだ。確かに、どの教科もいつも6点クリアし、卒業試験でも全教科6点を達成すれば、大学には入れる。子どもは馬鹿じゃない。6点でいいよ、と言われて、しゃにむに頑張ってそれ以上の力を発揮しよう、という無駄はやらない。だが、そのおかげで、力を持っている子供ががんばらなくなる、という憂慮が確かにある。
それは、特に、グロバリゼーションのおかげで、ヨーロッパの労働力の強みが、ますます狭まり、高学歴・高い科学性や専門性に集約されてきた中で、問題になっていることだ。2000年ごろから特に、
「子どもたちが安易な学科ばかりを選ぶ。数学や物理、技術など、難しい理論の学科に行きたがる子供が少なくなった。そういう学科で先端の研究をしているのは、オランダ人の子ではなく、外国からの留学生たちだ」
というような話も聞かれるようになった。

個性尊重、子どもの人格村長は、確かに、そういう裏の面を持っている。

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だが再び、「しかし」と思う。それは、私自身が、フランスと同じように、合格発表といえば掲示板で公表、中学から高校までは、試験のたびに上位者が発表されるという学校で育ってきたからだろうと思うのだが、、、そういう、人間の子どもを牛か馬にブランドの刻印を押すようにして育てるシステムの中で育ってきたものの目から言うと、やはり、オランダのように、人間を大切にしてくれるシステムがうらやましい。

他人から、しかも、「点数」や「順位」で評価されるというのが、私は大嫌いだった。

ある場面では、高い点数を取ったり『高位』につくことは、それほど努力せずにできることもあった。そういう時はなおさら、何か、高い下駄をはかされて歩かされているというだけで、いつ下駄から転げ落ちるかもしれないのに、という不安があった。点数がよくても、順位が高くても、それだけでは、自分というものがいつまでも見えず、何をしたらいいのかわからない、という内心の不安をどこに向けようもなかった。

オランダの子どもたちは、点数評価や順位付けはされない代わり、そうではないもっと質的な評価を受け、子ども同士の相互評価や対話を通して、自分がなんであるのか、自分には何ができるのか、ということを考える機会が多いように思う。成績だけがすべてではないので、子どもと子供の間に協力したり、共生するチャンスは多い。一緒にプロジェクトで頑張れば、一緒によい成績をもらうことができる。

確かに、うちの息子は、「6点文化」の典型で、一旦合格レベルに達したと思ったら、後は、ほかのことばかりしていた。陸上クラブで走ったり、友達とポップコンサートに出かけたり、修学旅行で言った街の建造物の模型を作ったり、卒業プロジェクトで氷点下5度の中、天体望遠鏡で木星観測をしたり、、、、。それらはどれも、自主選択の者であるし、学科の勉強のように合否が正確に点数で決められるようなものではないが、そういう勉強や活動なら、自分の最大限の力を発揮して、自分で納得のいくものを生もうと夜中まで頑張っていたりした。ある種の「完全主義」がそこで力を発揮していたのだ。

私は、点数評価や順位づけによる競争による教育は、子どもたちが、こういう質的な活動に取り組む時に「完全主義」に徹して、何かをやり遂げるとか、質の高いものを生み出すとか、ユニークなものを生み出すというような経験を奪ってしまうのではないか、と感じている。

そして、そういう訓練をしながらある職業を見つけるという機会は、実は、10代の終わりから20代の初めにしかチャンスがないのだ。

子どもたちが最大限の力を発揮する可能性を奪っているのは、競争教育なのか、それとも、「6点文化」「甘ったるい」といわれる個性尊重の共生教育なのか、いったいどっちなのだろう?

2011/07/02

時代を変えるのは若者たち

 震災後の日本を訪れた。
何よりも若者たちが変わったと感じた。真剣さが違う。

私たちの世代のことを思う。
物心ついたころ、日本にはまだ、プラスチック製品などなかった。お弁当箱はアルマイト、おもちゃはセルロイドだった時代だ。煙を出してシュッポシュッポと行く汽車に乗れば、駅弁と一緒に陶器に入ったお茶が買えた時代だ。
でも小学生に入ったころからあれよあれよという間に、世の中がプラスチック製品でいっぱいになった。インスタント食品があふれ、化繊衣料や混紡衣料が増えた。
学生時代には、大型コンピューターが一台あるコンピューターセンターで、紙製のカードにキーパンチャーで穴をあけてデータを入力していた。

たった一世代の間に、地球はこんなにも汚れてしまったのか、と思う。

地球を汚しながら、さまざまの矛盾をごみ屑のようにためながら、私たちの世代は生きてきたのではないのか? それをいまさら、若者たちよがんばれ、というには、あまりにも心苦しい。申し訳ないとさえ思う。

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しかし、社会というものを大きく変えるのは、いつの世もどこの土地でも若者の力だ。

差別と闘い、すべての人の平等を原理として取り入れていった60年代後半以降の欧米先進社会の社会変革は、若者によって担われたものだ。

ある社会学者は、人間の価値観は、20代半ばまでに決まり、それ以降はあまり変化しないのだ、ということを調査で証明している。社会の現状にある矛盾に築き、それと闘おうと決意した若者が、結局は、一生を通して、変革を進める力になるというのだ。

恥ずかしながら、溢れるような物質に埋もれきった60年代70年代に青年期を過ごした自分自身も、「何か変」「これでいいのか」と思いつつ、何もできないままここまで来てしまった。できたことは、日本を離れ、外から日本を見てきたことだ。ようやく、最近になって、日本の置かれている世界での一夜、時間軸の上での文明発展の段階のようなものが、ぼんやりと見えてきた。

今の若い人たちのために、何か力になりたい。

震災にすべてを流され、原発が林立する放射能汚染大国という汚名を着た日本に生を受け、それでも、これからまだ40年も50年も暮らしていかなくてはならない若者たち。「自由」と「幸福」と「安心」を躊躇することなく求めてほしい。そして、そのために何をすればいいのか、しっかり議論してほしい。独りよがりの独善に陥るのではなく、お互いに尊重しあって生きる共生の社会のために、あえて議論を続けてほしい。


そういう議論のために、もしも私に何か貢献できるものがあれば、ぜひとも利用してほしい。若いころには見えなかったいくつかのことが、今、私には見えているから。

2011/05/12

リーダーに「聖人」を期待するカリスマ・ポピュリズム文化

序列型社会のトップを競わせる競争教育で生まれるエリートたちには、そもそも「公僕」意識は育ちにくい。ところが、エリートへの競争教育の敗北者、または、そういう体制型のエリートになることを阻んで、競争社会から「一抜けた」と足を洗った他の人達は、こうしてトップの座に上り詰めたエリートに「聖人」のような人格者を求める。そもそも、日本の学校のように、知識詰め込みしかやらない場で競争に勝ったぐらいの人間に「人格者」など生まれるはずもないのだけれど、、、、

いずれにしても、勝って序列の頂点(の近く)へと登りつめたエリートたちと、そうならなかった、いわゆる「一般大衆」との間には、期待と現実の凄まじいギャップが生まれることとなる。
そして、勝手エリートとなった側も、そうならなかった側も、どちらも、そういうどうしようも無いシステムであることには気づきもしないようだ。エリートは、自分に期待された役割に自分自身を合わせようとして無理をし、「00らしく」振舞うことばかりに気をとられ、その結果、実態のない空洞化したエリートとなり、他方、不満な一般大衆は、システムや体制のほころびの原因を、勝者であるエリートらに一切帰してしまうことのみに躍起となり、社会参加への意欲は失ってしまう。

やがて、保身に走って「らしさ」にとらわれる勝者エリートの奔走と、不満で社会や政治に背を向けてしまう一般大衆との間の、間隙に、マスコミで受けの良い知識人(まがい)、空虚な青春スポーツドラマの主人公のような「明るく」「朗らか」で「一般視聴者に受けの良い」タレントが、まんまと地方や国の政治に影響力を持つようになって跋扈する、という、もう目も当てられないような事態となる。

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かつて、アメリカの大統領だったクリントンは、現職時代に、インターンだった女性との性関係を追求され、テレビカメラの前で釈明に四苦八苦させられた。

日本では、自民党時代から、政治が行き詰まると首相が辞任するというお笑いにもならない無責任な交代劇が、外国人にも有名な日本政治の伝統になってしまっている。

アメリカでも、日本でも、政党は野党に降りれば、与党に対して「ネガティブキャンペーンをするもの」という意識しかない。アメリカの共和党のティーパーティー、日本でやっと野に降りた自民党政治家らの、「これでも政治家か」と言えるようなお粗末な言質を見てみるといい。新聞やテレビも、そういう仕組の持つ問題には気づいてもいないかのように、阿呆のごとくに、誰がなんと言おうが、中身はどうでもいい、ひたすら、反体制の風を煽っていればいい、それが民主主義だとでも勘違いしているようだ。

まさに、そういう社会が、実は、ポピュリズム(大衆政治)の培養基なのだ。

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リーダーに「聖人」や「万能選手」のような人気者、人格者を期待すべきではない。

リーダーには、血の通った人間を期待すべきだ。間違っていい。不完全な人間でいい。その代わり、間違ったらやり直しのチャンスを与え、自分の失敗を取り返す努力を促せばいい。政治家を殿上人にしてはいけない。政治家は、「私たちの仲間」「私たちの代弁者」であることを忘れてはいけない。



かつて、フランスには、ミッテルランという大統領がいた。
婚外交渉と、その結果として生まれた娘の存在が週刊誌に取り沙汰されたことがあった。しかし、だからといって、政治生命が絶たれるようなことはなかった。プライバシーと公人、エリート政治家・大統領としての仕事との間には一線が画されていて、有権者らもそれを認めていた。

「無粋なことを言うな」とでもいいそうなこの雰囲気は、フランスを始め、ヨーロッパの国々の政治が、粋なおとなの有権者に支えられたものであることを象徴している。

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菅首相が、原発抑制への態度を示しているのは歓迎したい。強者・富者の原理ではなく、弱者・敗者の立場を考慮した、国民全員が幸せになる国づくりへの、とりあえずは第1歩であると思うからだ。
早くも、野に降りた保守は、それを良い所している知名人たちが、ネガティブキャンペーンを展開し始めた。

大半の有権者というものは、そもそも、ネガティブキャンペーンは嫌いなものだ。ばかばかしくて、無粋で、見たくない。

大衆政治(ポピュリズム)を生んでいるのは、大衆ではない。
人間がみたくない、嫌なものを引き出して、それを利用している、エセ知識人や、政権を取れなくて欲求不満に陥り、かと言って、国民の幸福を約束するビジョンを展開できないでいるというだけの、無能の政治家たちだ。


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では、人間としての政治家の間違いを補い、世の中を有権者の求める方向へと確実に動かしていくものはなんなのか???
それは多分、個別の政治家の人間的な資質に依存した序列型社会の中央集権的な統制によってではなく、専門化による確実で信頼のできるデータを有権者が共有し、その同じ出発点にもとづいて人々が忌憚なく議論でき、それをマスコミが過不足なく吸い上げて広く他の人々に伝播し、誰にとっても公平なオープンな政治決定の仕組みを作ることだろう。

繰り返すが、大衆(ポピュリズム)を生んでいるのは、大衆自身ではない。弱者・敗者をうみつづけ、エリートと大衆の間に大きな壁を設け、その狭間に、カリスマ人気のタレントまがいを送り続けて大衆を操作し続ける、目先の利益に囚われたマスコミのエリートたちだ。

2011/05/03

テロリストの殺害

 昨日のオサマ・ビン・ラディン殺害のニュースは、砂を噛むような後味の悪さを残した。
テロリズムを支持する気は毛頭ない。アルカイーダのテロによって命を失った人々の遺族の辛さもわかる。だが、、、

死刑反対と同じ議論がここで起こってこなくていいのだろうか、、、

昨夜のオランダのニュース解説では、アラブ諸国では、民主化運動が始まったことで、アルカイーダのような急進派への支持は急速に低下しており、昨日のニュースへの反応も静かなものだった、という。それならばなぜ???

オサマの遺体は、イスラム教徒の習慣だの、土葬にすると支持者が訪問するだのとの屁理屈で、早くも海に沈められた。写真とDNAで確認したというけれど、第三者が再確認する機会は葬られたも同然だ。新聞ニュースの一読者ですら、胡散臭さを感じずに折れないこの一件、、、

嫌な展開にならないといいが、、、

暴力による行為が暴力によって報復されるこの時代、果たして「文明」と呼べるのだろうか?

私たちは、本当に「人の命」が大切にされる時代を生きているのだろうか?

2011/04/11

震災・原発事故後の何が変わる?

地震・津波・原発事故という三重の大災害が一気に日本を襲った。すでにバブル崩壊後二〇年続いた経済不況、加速化する高齢化社会、政治への不信、などなどと問題が山積していた日本に押し寄せたこの積み重なる危機に、日本社会はどこまで対応できるのだろうか?

「こんどこそチャンス」と新生日本に希望の光を求める声と共に、早くも「原発擁護論」が見え隠れする日本。これだけの大問題を抱え、今も余震に揺さぶられ、放射能漏れの危険は世界の環境破壊にもつながるかもしれないという時、「クリーンで安価」もなかろう、と思うのだが、、、、。そして昨日の都知事選では、なんと石原四選目。失言・暴言・無駄遣いは、諸外国の新聞でも報道されているこの人が、なぜ、四選なのだろう? あいも変わらず、高度経済成長時代に売れた「青春もの」の小説で鳴らした大衆人気が、今もモノを言うとは、どんな有権者たちなのか、とわが目を疑う。日本社会は、こういう子どもじみたイデアリズムから解放されて、粋なおとなの現実主義に移る気はないのだろうか?

しかし、いくつかの変化はすでに始まっていると思う。そして、それは、他に選択肢のない、不可逆的な変化になるのではないか、とも思う。

まず、連帯感が戻ってきたことだ。お上に任せてはいられないという、人々の連帯感は、民主社会の最大の基盤だ。民主化とともに個人主義かの行き過ぎた西洋の人々は「日本人の我慢強さ」を賞賛した。この我慢強さ、そして、その我慢強い表情の裏に隠された苦しみに思いやる人々の連帯的な行動は、きっと新生日本の基盤になるとおもう。

さらに、ツイッターやフェイスブックなどでの一般の人々の言質が、マスコミを揺さぶり始めていることだ。漫然と、体制派・反体制派の枠組みでしか記事をかけないマスコミの低迷ぶりは今も続いているが、今後は、徐々に変わっていくのではないか。少なくとも、一般の人々は、マスコミだけに情報操作される危険は無くなっている。

次に、東京への権力や経済活動の一極集中の問題は、議論として語られるだけではなく、現実問題として人々に迫ってきていることだ。否が応にも、活動を全国に拡散しておいたほうが、リスクも拡散できると考えるようになるのでは? それは、地方文化を再生するだろうし、序列型のピラミッド社会に風穴を開け、多元的な社会への道を開くだろう。もとより、インターネットでつながれる時代に、人が一箇所に集まる必要は無くなっている。エネルギーネットや交通網が張り巡らされている日本で、地方の潜在力を使わない手はない。無駄に全国に林立された赤字空港は、今なら復興日本のために活かされるかもしれない。

原発エネルギーの縮小と化石エネルギー拡大の緊縮に最も効果的なのは「節電」だと言われる。計画停電や自主的な節電のために、これまでのような意味のない残業や、必要のない無駄遣いはきっと少なくなっていくだろう。人の働き方も効率的にせざるを得ない。今こそ、残業制限やパートタイム就業の正規化のチャンスだ。人々のライフ・ワーク・バランスを取り戻すきっかけになるのではないか。賃金を生む仕事だけではなく、子どもを育て、人間としての精神の回復を生む仕事や余暇に時間をかける生活が、日本人の生き方のノルムになる可能性は大いにある。それが人々の精神生活に与えるポジティブな効果は計り知れない。

最大の課題は、そういう転換をスムーズに行えるような制度を生み出せるかどうかだ。明治以来のトップダウンの全体主義、戦後の産業型競争社会の原理というパラダイムをどう脱皮できるか、それを、官僚や政治家がどう、みずから実践し、制度変革へとつないでいけるか、だ。



しかし、そうなる前に、今の日本には、何か「元の木阿弥」を思わせる動きの方が散見されるのが気味悪い。