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2008/10/22

 一人で暮らしていた母がクモ膜下出血で倒れた時、母は、自分で救急車を呼び、手に医者の従兄の電話番号を書いたメモを握りしめ、茶の間の床に数冊の本を重ねてそれを枕にし、横になって気を失ったという。間もなく救急車が駆けつけた時には意識はなく、病院に運ばれた時には瀕死の状態だった。
 従兄から連絡を受けて、私はすぐに帰国し、それから2週間後に母が亡くなるまで傍にいることができた。外国人と結婚して、その後の一生を外国に暮らすと決意した時に、父母の死に目には会えないかもしれない、と覚悟していただけに、こうして、母の最期に立ち会えたのは、天から授かった幸運というよりなかった。

 2週間を、母のその日までの暮らしが肌身に感じられる実家に寝泊まりして過ごした。帰りついた時、台所には、まだお茶っぱのぬれた急須や、洗いあげたばかりの茶碗と箸などが無造作に置かれ、仕事場の机には、書き続けていた万葉集の短歌が途中まで書かれて途切れた和紙があり、墨の残った硯に、母の号が入った小筆が凭せ掛けてあった。

 父が亡くなった後は、茶の間のロッキングチェアは母が愛用していた。卓袱台の上に、5ミリほどの厚さの単行本くらいの大きさの白表紙のメモ帳がおいてあった。それを開いてみると、母が、倒れた時に枕にしていた数冊の本の中から引き出した、お気に入りの言葉が、数ページにわたって母の文字で書き写されていた。 母を一人故郷に残していることを、いつも不甲斐なく思いながら何もできずにいた私には、こうして自分で自分の楽しみを見つけて生きていてくれたことに、ホッとするような思いだった。愚痴も不平も私に言うような人ではなかった。

 母は本が本当に好きな人だった。

 母方の祖父は、戦前、まだ、母が小学生の頃、町に仕事で出かけるのに、ある日母を伴い、近所の本屋にきて、母に、「すぐに戻ってくるから、ここで好きな本を選んでおきなさい」と言って出て行ったという。母は、それから、2,3冊の本を棚から選り出し、父親が返ってくるのを待っていた。祖父は、戻ると、母の選んだ本を見て、「これだけか、ほかに読みたい本はないのか、もっと取り出してこい」と促したという。恐る恐る本を引き出してくる母をゆったり眺めるともなく待ちながら、祖父には、いつまでたっても、「さあ、それじゃあ勘定をしてもらおうか」という気配がみえない。ようやく、両腕を伸ばし、顎で抑えてやっと抱えられるほどの本が積みあがったところで、祖父は、「よし、じゃあ行くか」と勘定を済ませて家路に就いた。どんな本を選んだのかとか、これはいいから読めなどとは、一切干渉しなかった。祖父も、家族に対して口数の少ない人だった。

 母は、その日のことが余程うれしい思い出だったのだろう。何十年もたってから、私に、それは懐かしそうにこの日の思い出話を聞かせてくれた。

 母は歴史小説が好きだった。書道を始めてからは、万葉集、古今・新古今集、源氏物語、紫式部や和泉式部の歌集、それらについての解説書、研究者たちのエッセイなどをよく読んだ。若いころから、小説に浸り、戦後間もなくは、フランス文学・ロシア文学にも傾倒していたようだ。韓国や中国の歴史書も好んで読んでいた。 趣味だった書や俳句が、やがて仕事として自分の収入につながるようになると、好きな書や俳人のものは、どんなに高い復刻版でも、惜しみなく買って手に入れていた。住まいや服にはほとんど興味がなかった。

 父と母の共通の趣味も読書だったと思う。
 一方が大部の小説を買ってきて読み始めると、もう一方が、横取りして我先にと読み始め、寝床で、サイドランプの明かりで朝方までかかって読みあげた、などという話をよくしていた。安普請の家の中には、全集の類がところ狭しと置かれていた。

 そんな父母からみると、私たち姉妹は「本を読まないねえ」と嘆かれるような存在だった。確かに、テレビの世代、山のような宿題に追われていた私たちは、父や母の時代ほどに本を読むという習慣を持っていなかった、と思う。

 父も母も、本を読むことで時空の限界を超えていたのだと思う。

 私が、飛行機に乗り、スーツケースを抱えて遠い地に行き、たまに持って帰る話は、確かに、父や母の興味をひくものだった。二人とも、身を乗り出して、話に耳を傾けて、写真をのぞきこんでくれた。でも、実家にしばらく滞在していると、決まって、母は、自分が読んだ最近の本のことを教えてくれたり、「これ読んだから持っていかない」と数冊の本をくれたりしたものだ。母が好む本は、私だったら本屋に行っても買わなかっただろう、というような、一見すると関心の少しずれているものが多かったが、それだけに、私を知らない世界に無理やりに連れて行ってくれ、自分の関心とは違うものに目を開かせてくれるよい機会だった。普段日本語に触れる機会がないだけに、こうして母の本をもらうと、むさぼるように日本語に浸っていた。

 私が日本を出て、自らの身体を使って世界を広げようとしていたのに対して、父や母は、本を読むことで、古い時代や外国へ「精神」の旅をしていたのだなと思う。結局、どちらも、自身の位置、自分を外から眺めたいという無意識の衝動だったのではないのだろうか。

 父が亡くなってからの数年、母と私は日本とオランダの間でよく長電話をした。その時にも話の中に、話題の本のことがよく出てきた。私も、海外で話題になり英語で読んだ本が翻訳されるとすぐさま「あれはよかったよ」と勧めた。そして私が勧めるものに、必ずと言っていいほど目を通してくれた。
 倒れる少し前の電話で、母はこう言っていた。
「最近は目が霞むのよね、、、でもね、目が悪くなっても面白い本は読めるもんだねえ、、」

母らしい冗談だな、と思う。糖尿病を患っていたから、本当に、視力は落ちていた。でも、最後の最後まで本を離さずにいたし、実際、最後の最後まで、活字を読み続けた人だった。

母が亡くなって、3冊単行本を書いた。雑誌や新聞に短い文章を書くことも増えてきた。どれも生きた母には見てもらえなかった。でも、どれも、母がどこかできっと読んでくれていると思われてならない。