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2008/10/21

 粋な生き方をする人が少なくなった。いや、案外、粋などというものは、昔から少ないからこそ価値があるのかもしれない。

 物事に対して、ちょっとひねった見方ができる、自分自身の行為を含めて人の行い、身の振り方に可笑し味が見いだせる、うまくいかないことがあっても人のせいにしない、人生の様々の苦しみに「誰にでもあることさ」と小言を言わずに耐えられる、他人のことをとやかく言わず自分の掌で転がすように他人の行動を予測でき、それに自分の方を合わせるだけの余裕がある、人前で怒らない、泣かない、、、、嫉妬していても、悔しくてもすずしい顔をしていられる、、、



 できないことだな、と思う。でも、粋に生きたいという気持ちだけは、できなくてもあきらめずにいつまでも持っていたい気がする。



 人によっては鼻もちならない貴族趣味、お前らノブリス・オブリージュとでも思っているのだろう、余裕のある人間の言うことだよ、と言われそうだ。力のない人間が粋を装えば世の中からは押し出されてしまうことのほうが多いかもしれない。だが、粋は、カネのあるなしとは関係ない。カネなどなくても涼しい顔をしていて、他人に酒の一杯も酌んでやろうかというのが、「粋」というものだ。



 カネカネカネ、そして、欲望ばかりの消費者だらけの今の時代。それだけに、粋が懐かしい。



 カリスマに浮かれるどこかの知事、カネと欲望と好戦趣味のどこかの大統領、無粋も甚だしい。

 教会主義やセクト趣味も私は苦手だ。



 人間、人からの評価を聞かないと安心できないものだ。そういう弱さが、人気者になっていくことに快感を感じ、他人とつるむことに安心する人間の性につながっているのだろう。



 粋には、色っぽさがある。性欲とは別に、あるいは、それと背中合わせに、異性をこよなくいとおしむ心には、粋の本質があるような気がする。だから、男を敵視して、女性解放云々とやる女たちに、どうもついて行く気になれない。女は強くていい。月並みでない、めそめそしない女は粋だ。解放されたいなら、そういう女になればよいのに、と思う。


愛人がいることを隠さなかったかつてのフランスの大統領ミッテルラン、愛人問題で苦労させられたアメリカのクリントン大統領など、「だめな連中だな」というより、「粋」な指導者だな、と思っていた。男も女も、元来、人間は孤独なのだ。

 

 「粋」は、才能があり有能で、感覚の優れた人の防衛手段なのかもしれない。ばかばかしくて生きることがいやにならないために、自然に働く心の動きのようなものなのだろう。才能のないものが、愛人など作っても、粋でも何でもなく、無様なだけだ。



 「粋」は日本だけのものではない。

 ダンディズムという言葉がある。スティングのEnglishman in New Yorkなどは、そういう英国流のダンディズムへの憧憬だろう。ヨーロッパ人は、アメリカ人を子供っぽくて粋に欠けた人々だとみなしているようにみえることが多い。

 でも、アメリカにも粋への憧憬はある。The Legend of Bagger Vanceに登場する、ウィル・スミス演じる不思議な黒人の男や、シャーリーズ・セロンが演じる主人公の恋人などは、惚れ惚れとするほど粋な男と女を体現している。