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2009/02/11

ほめて伸ばすか、けなして鍛えるか

 人生を振り返ってみて、自分はどういう時によく成長できたかと思うと、やはり、人からけなされた時より褒められた時の方だったような気がする。褒められる時ほどうれしいことはない。その嬉しさが、次の段階へのジャンプを決める。けなされると、私のような弱虫は、ついいつまでもぐずぐず思い悩んでしまう。そのくせ、私自身が母親として子どもたちに対してよく褒めてきたか、というと、そうとも言い切れない。親とは実に勝手なもので、子供を粗雑に扱ってしまうものだな、と思う。

 けなしたり、叱ったり、「頑張れ、頑張れ」と叱咤激励するのも一つの育て方ではあるだろう。そうなふうにすると伸びきっていなかった力が発揮され発達につながることも確かにあるだろう。ほめてばかりいたのでは、子ども自身が自分に甘くなり、頑張らなくなってしまう、という議論もあろう。しかし、それは、ある特定の子供だけを、他の子に見せつけるように褒めるからではないのか。どの子も同じように、その子なりの良さを引き出して褒めてやるようにしていれば、ほめることが子供の不遜な態度を引き出すということはない。
 何かある特定の知識を吸収したり、技能を身につけたりするということだけが教育の短期的な目的なのであれば、けなしたり叱ったりする方が、褒めるよりも効率的にその目的を達成するのに役立つこともあるのかもしれない。しかし、本来、教育の目的とは、大人が決めた知識や技能を子どもに植え付けることだけではないはずだ。それは単なる知識や技能の伝達に過ぎず、「教育」というほどのものではない。

 子どもが、自分自身を知り、自分の得意な能力を生かした仕事に就けること、自分の頭でいろいろなことを考えたり編み出したりし、また、資質や能力の異なる他の子供と一緒に協力して世の中を支えていけるようになること、、、、教育の目的とは、実は、単なる知識や技能を伝えることではなく、そういう、もっと大きな「人間性」をどこまでも広げ発達させることにあるのではないのか、、、。本来、「教育」は、教え育てるという教育者の側からのアクティブな働きではなく、「学習」という子どもの方からの自発的な働きかけを引き出すものであるべきだ。(そういう意味では「教育」という語そのものに大きな問題が潜んでいる)


 日本の学校や親の態度には、けなすことと褒めることとの間のバランスが、あまりにも一方に傾きすぎている。にこにこ褒めてばかりいたのでは、学級崩壊になるとか、勉強しなくなるとか、多分、目先の成績を挙げることに夢中な大人たちは、目の前の子どもたちが、やがて未来を支える幅広い能力を持った「人間」として育たなくてはならないということを忘れてしまっている。そして、そんな近視眼的な大人たちに取り囲まれて、けなされたり叱咤激励されることが日常茶飯事となって息も絶え絶えになってしまった子供たちは、会社に入ってもモノも言えず、自分から自立して能動的に物事に取り組む自身も意欲もなく、少々の困難が起こると、それにどうして取り組んだらいいのかわからなくなり、やがてはうつ病に陥ったり、ひきこもったりしてしまうのではないのか。そういう若者たちが、今、日本には大量に蓄積され、社会を不安定にする原因の一つになっているように見える。

 大人は「けなし叱って鍛える」ことによって、「強い」子供「強い」大人を期待しているのかもしれない。しかし、そういう態度からは、学んでいる者の方に自立心は生まれない。それどころか、自尊感情はどんどん低下していくだろう。小学校から大学に入るまで、いつもいつも「お前もっとこうしろよ」「もっとこういうところをよくしたら?」「ここがまだ駄目ね」「何してんの、そんなことまだわからないの」とずっとずっと言い続けられていて、子供はいったい、どうしたら、自分に自信を持つことができるというのだろう。
 そういわれ続けることで、「僕なんか絶対にお父さんのようにはなれない。」「お母さんはぼくが悲しくても、そんなことは気にもかけてくれない」「先生はどうせ僕のようにできない子を教えるのは嬉しくないんだ。僕なんかどうせクラスのクズなんだ」と哀しさと孤独感の中に引きこもってしまうのではないか?

 かくいう私も、日本で育ち日本の学校でずっと教育を受けてきた。だから、育てるというのは、「頑張れ、頑張れ」と叱咤激励するものだ、ということにはじめのうちはほとんど何の疑いも持っていなかった。自分がそういう態度であるということにすら気付かなかった。

 そういう私の背景とはまったく正反対の、「ほめて育てる」教育で学んできたオランダ人の夫と共に子供たちを育てはじめてみて、子どもたちに対する自分の態度や言葉がけの仕方が、夫のそれとはとても違っていることに何度も気づかされた。
 せっかく何かを達成して満願の笑顔で報告する子供たちに向って、「わあ、よかったわね、すごいわね」とは言わずに、「ああ、でも、ここをもっとこうすれば」とか「今度やる時にはこうしたらもっとうまくいくわよ」とか言っていたような気がする。今から思うと、可哀そうなことをしたな、と心が疼く。
 幸い、少々時間はかかったものの、オランダに自分自身が同化し、オランダの学校を見ているうちに、私の方が変わっていった。私自身が自分らしくしていられるオランダという社会の人々が、わたしをそういう風に受け入れて育ててくれ、自立心や自信、自尊感情を持たせてくれたのではなかったか、と思う。そうはいっても、いまだに、オランダ人のように、さりげなく上手に人をほめるというのは、なかなか、うまくできないものだ。

 子どもでも大人でも、他人をけなす人、というのは、よく見ていると実は自分に自信がない人が多い。他人を称賛できる人というのは、大人だし、自分をよく知っている人だな、と感じる。

 先ごろ、友人のピーターが誘ってくれ、彼がやっている教員研修を見せてもらった。ピーターは、ある教育プログラムの実施準備のために、小学校に行って、放課後、その学校の教員たち全員を相手に、ワークショップと現職研修をやっている。つまり、先生たちの先生というわけだ。

 ピーターは、その日、3時間余りの研修の中で、1時間余りたっぷりと時間をとり、前回の研修の後に先生たちの心に生まれた「質問や悩み」を発言させていた。先生たちが問題を提議するたびに、彼がしていたのは、「今の話で、あなたが、OOOOということをしたのは、とても正しいことだと思いますよ。」とまず必ずどんな小さなことでも見つけて、「ほめる」ことだった。そして、実際、かれの返答の中に「けなす」とか「批判する」という言うようなネガティブな態度は微塵もみられなかった。もちろん、見え透いた「お世辞」では、本当にほめたことにはならない。専門家であるピーターの力は、先生たち一人一人の発言に、注意して耳を傾け「本当に良いこと」を引き出して褒めることなのだ。そうしたうえで、悩んでいる教師に、迷いのないはっきりした態度で、自分の経験から役に立ちそうなコメントを述べていた。

 また、先生たちの質問や悩みに対して、ピーターは、自分が答えを出スという役割をしてしまうことを意図的に避けていたようにも思う。まず、その場に集まっている仲間の教員たちに、「何かアイデアはないかな、ほかにも意見はありますか」と、お互いに助け合って問題解決をすることを促していた。ピーターの役割は、先生たちの上に立って、上から偉そうに何かを教えることではなく、先生たちが、自信を持ち、自分たちの手で物事を解決しよう、と動いていくように、交通整理をしてやることなのだ、とわかった。

 ピーターが介在することで、普段、自分の問題を仲間に見せる勇気のない先生たちが、お互いにアイデアを出し合う雰囲気が生まれていく。

 ピーターの研修では、先生たちは、あとで自分たちが子供たちを相手にやらなくてはならない授業を、モデルとして実際に受ける。そこでは先生たち自身が、子供の立場になってみるのだ。これは、ピーターに限らず、オランダの教員研修の典型的なやり方だ。自分が教わる立場になってみなければ、その効果はわからない。

 だから、まず「褒める」ことから始める、批判をしない、生徒同士が意見を出し合う。このパターンは、あとで先生たちが、生徒たちを相手にして授業をする時にも使われるパターンなのだ。
 けなしたり、批判されたりすることよりも、ほめられることの方が気持ちがよいということを知っている先生たちは、子供に対しても、褒めることができるようになる。

 子供でも大人でも「ほめられた」時ほど嬉しいことはない。この嬉しさが、もっと伸びよう、という内側から自然に沸き起こってくる意欲につながる。同時に、たいていの人は「ほめられる」からこそ、もっと良くするところはないのかな、もっと伸びるにはどうしたらいいのかな、と自己批判的になれるものだ。ほんとうの謙遜の態度も、そういう時にこそ起こる。そういう心の動きは、「けなされた」時には起こりにくい。まして、「けなされた時」に「やらされる」のは、自分のための課題ではなくて、怒っている親や教師のための課題でしかない。だから、学ぶ側の意欲は低下し、自律心も自己責任感もなくなり、依存心だけがいたずらに助長されていく。
 つまりは、人が誰かを自分の配下として閉じ込めておきたければ、その人をけなし、怒鳴り続けていればいい、ということだ。学校の先生がこういうテクニックを使えば「学級崩壊」は起こらず、表面的には静かでいいクラスかもしれない。しかし、自尊心をもった人間は育っていない。そんな風にして生み出している集団は、誰にとっても、もちろん、指導者や教師にとっても、決して居心地の良いものではないはずだ。

 これから、子供たちを育てていく人たちには、子供たちを、一人残さず、ほめて褒めてほめちぎって伸ばしていってほしい。そうすれば、子供たちの方も、自立して自分でものを考え、自分のやっていることに責任を持つようになり、自分で自分の人生を設計するようになるはずだ。
 同時に「ほめられる」ことで、自分の能力を知るようになった子どもは、他人の力を認め受け入れる人間になれる。「けなされ」つづけた子供の心に育つのは、他人への嫉妬、または、時々起る優越心だけだ。

 家族や学校の中だけのことではない。たぶん会社でも組織でも同じだと思う。
 ただ、今の日本のすべての組織は、けなし叱咤激励するという学校文化しか知らない人たちばかりだ。それ以外にもこんな方法があるのだ、ということを知ってほしい。

 ある会社研修で、自己紹介の代わりに、他人紹介をしてもらった。隣に座っている人が、会社にとってどんなに大切な役割を果たしているかを言ってもらいながら一巡した。それだけで、組織の雰囲気はガラリと変わる。自分は、仲間から理解されているのだ、ということが、どれだけ、連帯感に通じるものであるかわからない。

 寛容や受容とはそういうことを言う。それは、力強い連帯感を生みだすためのものだ。

 けなすことは悲観に、褒めることは楽観につながっている。
 人生の苦しみも、社会の閉塞も、それを乗り越える力は、悲観からではなく楽観からしか生まれない。

 楽観は、苦しい時にこそ意義がある。褒めるというのも、自分の中にも他人の中にも褒めるに値する質があるということを見極めてこそ意義がある。