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2009/03/12

玉石混淆って?

 人の感情の中で、嫉妬ほど醜く、嫉妬ほど無駄なエネルギーはない。
 でも、嫉妬は、それを起こしている人よりも、嫉妬を起こさせるような環境の方に、本当は問題があるのではないのだろうか。

 玉石混淆という言葉がある。あまり好きな言葉ではない。

 たぶん、人間には、一人ひとり原石のような石が、生まれた時にインプットされているのだろう。そして、生きるということは、自分の中にインプットされている石が一体どんな光を秘めているのかを見つけ出し、それを自分の力で磨き上げていくことなのだろう。

 同じ親から生まれた子どもたちを見ていても、原石の質はひとりひとり違う。

 長男は小さい時から車輪のようにくるくる回るものがあると目をそらすことができなかった。無機質のものを組み立てて何かを作り出すことに人一倍関心が強かった。他所に行って珍しいものがあると、手で触れて触ってみなければ納得できず、私は何度親として冷や汗をかかされたかわからない。多分、物事を、空間の中で立体的につかみ、質感を感じずにおかなかったのだろう。親の私がそう気づくまでに、10年以上の歳月がかかった。物心ついた時から、手押し車、三輪車、自転車と、車輪で動くものを身近に置いておかなければ気の済まないような子だった。
 他方、長女の方は、長男があれだけ擦り切れるほどに使った手押し車にも三輪車にも愛着を持たず、生きた動物が大好きだった。家の中には、必ずペットがいた。一番多い時には、庭中を17匹のウサギがぴょんぴょんはねていた。駐車中の路上の自動車の下に野良猫が隠れていると、自分も地面に横になって猫に話しかけるような子だった。今でも、野花の名前は覚えないけど、鳥の名前なら、いつの間にか覚えて、空を飛んでいる鳥を見つけるのも誰よりも早い。
 二人のその後の進路を見ていても、何か、そういう生まれた時に授かったものがどこかでつながって、今に至っているような気がする。

 うちの子供たちだけのことではない。親戚の子を見ても、自分の兄弟を見ても、人間というのは、一人ひとり持って生まれた原石は、他の誰もが持っていないたった一つのものなのだな、と思う。一人一人の顔かたちや声色が違うのと同じように。

 嫉妬の感情というのは、自分にないものを欲しがる感情だ。そして、そういう嫉妬を引き起こさせる環境とは、人が持っている原石が、一つ一つ、同じように価値のあるものであることを認めずに、玉石混淆だ、と言ってしまう環境だと思う。
 良さとか美しさとは、主観的な判断から生まれるものだ。多数の人が美しいと感じるものは、確かにあるかもしれない。しかし、美しいと感じられるものが、どういう形であるのか、それには、いくつもの無数の形と表現があると思う。良いとか美しいとかを決めるのは、一人一人の判断だ。

 たぶん、わたしたちが持って生まれた原石のようなものとは、自分自身の中にある「自分だけのもの」「ユニークなもの」「私だけのもの」なのだろう。
 「個性の重視」とか「個人主義」には、そういうユニークさの尊厳に対する尊重の念がある。同時に、自分の中にある、決して人には譲ることのできないユニークさを、自分自身で固く守ろうという意志にもつながるものかもしれない。

 子どもを育てるというのは、多分、子ども自身に自分の原石に気付かせること、そして、その原石を磨いていく方法を一緒に考えてやることなのではないか、と思う。
 何か一つのスタンダード化された標準に合わせて、そこで作られた物差しだけで競争させられる日本の学校の子供たち。そこで、「玉」といわれるのは、単なる学力という名のみすぼらしい手垢のついた物差しの上の右端に座れるものだけだ。そんな「玉」など、子どもが大人の力を借りて丁寧に磨きをかけてきたようなものではない。

 一人の人間の中に、原石は一つだけ見つかればいい。それが、やがて、天命と思えるような自分の人生の証しになる仕事に結びついていけば、、、。そして、それは、何も、いい大学に入るためなどと、高々20年くらいで見えてこなくたっていいはずだ。親も子も、教師も生徒も、みんな、自分の石はいったいどんな光を放つようになるのだろう、と磨きをかけ続けるだけでいい。
 そんな教育がほしい。そんな学校がほしい。そういう生き方を支える社会がほしい。

 みんながお互いにお互いの原石を認め合うようになれば、嫉妬などという無駄なエネルギーを注いでいる暇はなくなってしまうだろうに、と思う。

 そう思っているのに、嫉妬心を起こす自分がいる。自分自身を見失っている時のことだ。