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2009/09/05

相手の「ノー」に立ち向かえる力

「イエス」と同じように「ノー」と言えることは大切だ。しかし、人から「ノー」といわれて動じずに関係を保っていけることももっと大切だ。

 「ノー」と言えない日本、という言い方が巷によく聞かれるようになったのは、高度成長を果たし、日本が先進国の仲間入りをしたころからではなかっただろうか。日本人がエコノミックアニマルと揶揄され、日本製品が海外で不買運動にあった頃から、日本人のそういう自覚が一般に意識されるようになっていたような気がする。しかし、日本人は、とかく海外で「ノー」と言えない、というような話は、それよりもさらにずっとずっと前から言われていた。

 最近、またぞろ「~~~って言うな」というような言葉づかいやタイトルが流行っている。日本人は、自国にいても「ノー」とはなかなか言えないものらしい。
 率直にいって、21世紀のこの時代に、日本人の中に、いまだにそんな風なタイトルの本が出てくるほど、なにか人に対して拒否したり、「ノー」と言うことを躊躇する人たちがいるのだろうか、とやり切れない気持になる。
 「ノー」と言えない日本人を作ってきたのは、いったい何なのだろう。
 画一教育、迎合メディア、カリスマ礼賛の大衆文化が一役を果たしてきたことには疑いの余地もない。それを「日本の文化なのだから」などとくくられてしまったのではたまったものではない。
 村八分の伝統の後ろには、村八分にされてでも自尊心を抑えきれなかった人たちがいたことを忘れるべきではないだろう。
 外に向かって、ことに西洋先進国に向かって「『ノー』と言える日本」と肩肘を張って見せつつ、実は同時に、日本の中にある「ノー」という声を、文化や伝統の名のもとに押さえつけてきたのは、狭量な愛国主義者たちではなかったか。そんな道理のないやり方は一日も早くやめた方がいい。

 「ノー」ということに強い抵抗を感じるという感情は、多分今でも、日本人が初めて外国に出てみて最初に感じるものであるはずだ。
 だが、気楽に、しかもはっきりと「ノー」と言える人々というのは、私の知る限り、欧米先進国だけではなく、中国やアフリカ、ラテンアメリカなどでも、割合に普通に見られる。日本人に強制されてきた同調行動は、なぜか、やはり、例外的ともいえるほどに強い。

 パーティなど人が集まる場で、飲み物や食べ物や行く先の好みを聞かれると、つい「ええ何でも、、、」とやってしまうのが日本人で、自分の選択をなかなか言えないし、決められない。仕方がないので、周りはどんな選択をしているのかと様子をうかがい、そろりそろりと、目立たず、当たり障りのない選択をするのが、関の山だ。

 しかし、そういう段階を乗り越えて、現地の生活にも慣れ、言葉もかなりこなせるようになってくると、またまた次の問題に直面する。自分の意見は何とか表現できるかもしれない。しかし、その意見に他人から「疑義」をさしはさまれたり、「それは少しおかしいんじゃない」「私はあなたの意見には不賛成だわ」「ノー、それはちがう」とやられると、もうそれだけで、どう会話を続けていったらいいものか、言葉を知らない、議論の方法を知らない、という戸惑いの経験をもつ日本人は少なくないはずだ。

 言葉遣いに注意深く、レトリックがうまく、相手の深刻すぎる反応にはユーモアでかわせる、そんなテクニックを、「ノー」が気楽に言える社会の人々はよく知っている。

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 私は、「ノー」といえるということと同時に、相手が自分に対して発してくる「ノー」という言葉にどう対応するかについての準備がなければ、言い放つだけの「ノー」にはあまり意味がないと思う。

 これからの世界は多様な価値観を背景に持ついくつもの文化がぶつかり合う世界になる。そういう多様性を受け入れ、多元的な社会で生きていくつもりならば、「ノー」と言えると同時に相手の「ノー」を受け入れ、それとどう共存していくかを考えてみることは避けられないことだと思う。異文化社会という、自分の意見をはっきり持つと同時に、相手と四つに組んで交渉していく覚悟、相手との対立の中からウィン―ウィンを生み出す意欲と覚悟がいる。
 
 国際化とは、パスポートを作って飛行機に乗って外国に行けばできるというようなものではない。国境を越えなくても、今自分がいる場所で、周囲の人、あるいは、自分のいる場所の政治に対して、イエスとノーをはっきりさせ、同時に、相手の「ノー」を認め、どうしたら共存できるかを考える態度が持てるのであれば、それはもう立派な地球市民だ。

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 今回の衆院選で、自民党は、大多数の有権者の「ノー」に直面した。さて、自民党は、これから、この大きな「ノー」に対してどう応えていくつもりなのか、、、

 他方、衆院選で圧勝を果たした民主党は、早速、数日後にアメリカの 牽制に直面した。アメリカ政府は、こうして高圧的に牽制してみることで、「さあ、これからが交渉だ」と思っているのに違いない。欧米の交渉は「ノー」から始まると言ってもよい。それは、「私(たち)には、あなたとは異なる利害がある。」というサインなのだ。

 まずは、お互いの立ち位置をはっきりさせること、交渉はそこから始まる。
 
 政治家とは、そもそも、交渉の名人・レトリックの達人であるはずだ。政権交代を繰り返してきた欧米先進国の政治家というものは、2大政党制にしろ、多党制にしろ、相手の「ノー」にどう対応するかについては、特別長けた、いわば交渉の専門家たちだ。

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 いまだに、「~~~って言うな」と言い放ちつつ、「おれたちは理解されていない」と被害者意識を蔓延させるやり方は、だから、それで本当に良いのか、とても気になる。

 私たちは、一人ひとりが社会の成員だ。カネやコネがなくても、ひとりひとり一票の価値を持つ有権者だ。自分もまた、決定にかかわり、その帰結に責任を持つつもりならば、「ノー」と断るだけの言い放ちはおかしい。「ノー」と発信すると同時に、自分と相手の立場の違いが確立する。問題は、その違いをどうやって出来る限り狭め、お互いが納得するところまで持っていくことができるかだ。

 大人の市民としての矜持は、もっていたい。人としての尊厳がなかなかに認められない時代と社会であればあるほど、、、、