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2011/07/08

合格発表の仕方から、ふと随想

 今年は10月末まで半年フランスに滞在中。とはいっても、日本に行ったりオランダに帰ったりとバタバタ落ち着かないが、、、

フランスで生活してみると、あれやこれやで、オランダとの違いが目につき面白い。

どちらもヨーロッパの民主主義国ではあるのだが、どっちが日本に似ているかというと、圧倒的にフランスの方だ。

先週、「バック」と略称される、高校卒業資格(バカロレア)試験の発表があった。合格率は75%程度だというから、受験者の4人に1人が不合格、かなり厳しい試験だ。オランダでも、同じような高校卒業資格があり、こちらはディプロマと呼ばれているが、バックもディプロマも、大学入学資格となる重要なものだ。これがあれば、どこの大学にも入学できるわけで、大学教育を受けて専門家や指導者としてのキャリアをすすむ道が開かれた、ということになる。

バックのニュースを見ていて、オランダとずいぶん違うな、と思ったのは、合格発表の仕方だった。バックの試験を受験した子供たちは、発表の日、自分の学校に行って、大きく張り出された合格者名簿の中から自分の名前を探す。つまり、日本の大学入学試験の発表と同じだ。発表当日、学校では、自分の名前を見つけて歓喜の声を上げるものと、不合格で落胆するものとの悲喜こもごもの姿が、親も一緒にやってきた発表会場の雑踏の混沌となって見られる。

ふと、数年前に我が家の子どもたちがディプロマのための全国統一試験結果を受け取った時のことを思い出した。
オランダでは、合格発表は、各学校(高校)に送られてきて、それから、担任の先生に伝えられ、担任の先生が、クラスの子どもたち一人一人に電話をかけて合否を伝える。だから、子どもたちは、合格発表の日は、朝からそわそわしながら、いつ電話がかかってくるか、と待っていることとなる。ほかのこの結果がどうなったかは、親しい友人たちがお互いに連絡しあって初めて知る、という格好だ。もちろん、こういう時の風のうわさの伝わり方は素早いことは素早い。

そういえば、オランダでは、学校の試験成績も、壁に貼り出して公表するということがない。試験の総合結果が最高得点で、学年で1番だった、というような話も聞いたことがない。子どもたちも、高校に通っている間、学年で何番だったというようなことを聞かされたことは一度もない。
唯一あるのは、卒業式の時に、すべての学科の平均点が、10点満点中8点以上だった子どもたちが集められて、「クムラウデ」(最優秀性)として表彰されることだ。
競争しなくても、できる子どもはよい成績を収めるものだ。そして、それは、1番になるということではなく、ある基準に従って、一定の高いレベルへの到達をどの教科でも果たした、という意味だ。

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こういうオランダのやり方は、やはり、子どもたちの、人間としての人格を尊重していると思う。子どもを大人の基準でドッグレースのように競争させるのではなく、また、合否を公表して、子どもたちの間に、これみよがしに明暗のカーテンを引くこともない。それは、学習というものが、他の誰のための者でもなく子ども自身のためのものだ、ということに徹した考え方から来ているものでもあると思う。他人との比較で、負けたくない、という気持ちをてこに勉強させるのではなく、自分の発達のために勉強するという考え方だ。

ただ、60年代終わりから徐々に徹してきたこういうオランダ社会の、子どもの発達観というものは、その陰で「6点文化」を生んできたことも事実だ。
「6点文化」(ゼッセンクルチュール)とは、各科目の合格ボーダーである10点満点中6点を取れば、あとは必死になって勉強しなくてもいい、というもので、そのおかげで、子どもたちが、自分の能力を最大限に伸ばす努力をしなくなってしまう、というものだ。確かに、どの教科もいつも6点クリアし、卒業試験でも全教科6点を達成すれば、大学には入れる。子どもは馬鹿じゃない。6点でいいよ、と言われて、しゃにむに頑張ってそれ以上の力を発揮しよう、という無駄はやらない。だが、そのおかげで、力を持っている子供ががんばらなくなる、という憂慮が確かにある。
それは、特に、グロバリゼーションのおかげで、ヨーロッパの労働力の強みが、ますます狭まり、高学歴・高い科学性や専門性に集約されてきた中で、問題になっていることだ。2000年ごろから特に、
「子どもたちが安易な学科ばかりを選ぶ。数学や物理、技術など、難しい理論の学科に行きたがる子供が少なくなった。そういう学科で先端の研究をしているのは、オランダ人の子ではなく、外国からの留学生たちだ」
というような話も聞かれるようになった。

個性尊重、子どもの人格村長は、確かに、そういう裏の面を持っている。

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だが再び、「しかし」と思う。それは、私自身が、フランスと同じように、合格発表といえば掲示板で公表、中学から高校までは、試験のたびに上位者が発表されるという学校で育ってきたからだろうと思うのだが、、、そういう、人間の子どもを牛か馬にブランドの刻印を押すようにして育てるシステムの中で育ってきたものの目から言うと、やはり、オランダのように、人間を大切にしてくれるシステムがうらやましい。

他人から、しかも、「点数」や「順位」で評価されるというのが、私は大嫌いだった。

ある場面では、高い点数を取ったり『高位』につくことは、それほど努力せずにできることもあった。そういう時はなおさら、何か、高い下駄をはかされて歩かされているというだけで、いつ下駄から転げ落ちるかもしれないのに、という不安があった。点数がよくても、順位が高くても、それだけでは、自分というものがいつまでも見えず、何をしたらいいのかわからない、という内心の不安をどこに向けようもなかった。

オランダの子どもたちは、点数評価や順位付けはされない代わり、そうではないもっと質的な評価を受け、子ども同士の相互評価や対話を通して、自分がなんであるのか、自分には何ができるのか、ということを考える機会が多いように思う。成績だけがすべてではないので、子どもと子供の間に協力したり、共生するチャンスは多い。一緒にプロジェクトで頑張れば、一緒によい成績をもらうことができる。

確かに、うちの息子は、「6点文化」の典型で、一旦合格レベルに達したと思ったら、後は、ほかのことばかりしていた。陸上クラブで走ったり、友達とポップコンサートに出かけたり、修学旅行で言った街の建造物の模型を作ったり、卒業プロジェクトで氷点下5度の中、天体望遠鏡で木星観測をしたり、、、、。それらはどれも、自主選択の者であるし、学科の勉強のように合否が正確に点数で決められるようなものではないが、そういう勉強や活動なら、自分の最大限の力を発揮して、自分で納得のいくものを生もうと夜中まで頑張っていたりした。ある種の「完全主義」がそこで力を発揮していたのだ。

私は、点数評価や順位づけによる競争による教育は、子どもたちが、こういう質的な活動に取り組む時に「完全主義」に徹して、何かをやり遂げるとか、質の高いものを生み出すとか、ユニークなものを生み出すというような経験を奪ってしまうのではないか、と感じている。

そして、そういう訓練をしながらある職業を見つけるという機会は、実は、10代の終わりから20代の初めにしかチャンスがないのだ。

子どもたちが最大限の力を発揮する可能性を奪っているのは、競争教育なのか、それとも、「6点文化」「甘ったるい」といわれる個性尊重の共生教育なのか、いったいどっちなのだろう?

2011/07/02

時代を変えるのは若者たち

 震災後の日本を訪れた。
何よりも若者たちが変わったと感じた。真剣さが違う。

私たちの世代のことを思う。
物心ついたころ、日本にはまだ、プラスチック製品などなかった。お弁当箱はアルマイト、おもちゃはセルロイドだった時代だ。煙を出してシュッポシュッポと行く汽車に乗れば、駅弁と一緒に陶器に入ったお茶が買えた時代だ。
でも小学生に入ったころからあれよあれよという間に、世の中がプラスチック製品でいっぱいになった。インスタント食品があふれ、化繊衣料や混紡衣料が増えた。
学生時代には、大型コンピューターが一台あるコンピューターセンターで、紙製のカードにキーパンチャーで穴をあけてデータを入力していた。

たった一世代の間に、地球はこんなにも汚れてしまったのか、と思う。

地球を汚しながら、さまざまの矛盾をごみ屑のようにためながら、私たちの世代は生きてきたのではないのか? それをいまさら、若者たちよがんばれ、というには、あまりにも心苦しい。申し訳ないとさえ思う。

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しかし、社会というものを大きく変えるのは、いつの世もどこの土地でも若者の力だ。

差別と闘い、すべての人の平等を原理として取り入れていった60年代後半以降の欧米先進社会の社会変革は、若者によって担われたものだ。

ある社会学者は、人間の価値観は、20代半ばまでに決まり、それ以降はあまり変化しないのだ、ということを調査で証明している。社会の現状にある矛盾に築き、それと闘おうと決意した若者が、結局は、一生を通して、変革を進める力になるというのだ。

恥ずかしながら、溢れるような物質に埋もれきった60年代70年代に青年期を過ごした自分自身も、「何か変」「これでいいのか」と思いつつ、何もできないままここまで来てしまった。できたことは、日本を離れ、外から日本を見てきたことだ。ようやく、最近になって、日本の置かれている世界での一夜、時間軸の上での文明発展の段階のようなものが、ぼんやりと見えてきた。

今の若い人たちのために、何か力になりたい。

震災にすべてを流され、原発が林立する放射能汚染大国という汚名を着た日本に生を受け、それでも、これからまだ40年も50年も暮らしていかなくてはならない若者たち。「自由」と「幸福」と「安心」を躊躇することなく求めてほしい。そして、そのために何をすればいいのか、しっかり議論してほしい。独りよがりの独善に陥るのではなく、お互いに尊重しあって生きる共生の社会のために、あえて議論を続けてほしい。


そういう議論のために、もしも私に何か貢献できるものがあれば、ぜひとも利用してほしい。若いころには見えなかったいくつかのことが、今、私には見えているから。

2011/05/12

リーダーに「聖人」を期待するカリスマ・ポピュリズム文化

序列型社会のトップを競わせる競争教育で生まれるエリートたちには、そもそも「公僕」意識は育ちにくい。ところが、エリートへの競争教育の敗北者、または、そういう体制型のエリートになることを阻んで、競争社会から「一抜けた」と足を洗った他の人達は、こうしてトップの座に上り詰めたエリートに「聖人」のような人格者を求める。そもそも、日本の学校のように、知識詰め込みしかやらない場で競争に勝ったぐらいの人間に「人格者」など生まれるはずもないのだけれど、、、、

いずれにしても、勝って序列の頂点(の近く)へと登りつめたエリートたちと、そうならなかった、いわゆる「一般大衆」との間には、期待と現実の凄まじいギャップが生まれることとなる。
そして、勝手エリートとなった側も、そうならなかった側も、どちらも、そういうどうしようも無いシステムであることには気づきもしないようだ。エリートは、自分に期待された役割に自分自身を合わせようとして無理をし、「00らしく」振舞うことばかりに気をとられ、その結果、実態のない空洞化したエリートとなり、他方、不満な一般大衆は、システムや体制のほころびの原因を、勝者であるエリートらに一切帰してしまうことのみに躍起となり、社会参加への意欲は失ってしまう。

やがて、保身に走って「らしさ」にとらわれる勝者エリートの奔走と、不満で社会や政治に背を向けてしまう一般大衆との間の、間隙に、マスコミで受けの良い知識人(まがい)、空虚な青春スポーツドラマの主人公のような「明るく」「朗らか」で「一般視聴者に受けの良い」タレントが、まんまと地方や国の政治に影響力を持つようになって跋扈する、という、もう目も当てられないような事態となる。

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かつて、アメリカの大統領だったクリントンは、現職時代に、インターンだった女性との性関係を追求され、テレビカメラの前で釈明に四苦八苦させられた。

日本では、自民党時代から、政治が行き詰まると首相が辞任するというお笑いにもならない無責任な交代劇が、外国人にも有名な日本政治の伝統になってしまっている。

アメリカでも、日本でも、政党は野党に降りれば、与党に対して「ネガティブキャンペーンをするもの」という意識しかない。アメリカの共和党のティーパーティー、日本でやっと野に降りた自民党政治家らの、「これでも政治家か」と言えるようなお粗末な言質を見てみるといい。新聞やテレビも、そういう仕組の持つ問題には気づいてもいないかのように、阿呆のごとくに、誰がなんと言おうが、中身はどうでもいい、ひたすら、反体制の風を煽っていればいい、それが民主主義だとでも勘違いしているようだ。

まさに、そういう社会が、実は、ポピュリズム(大衆政治)の培養基なのだ。

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リーダーに「聖人」や「万能選手」のような人気者、人格者を期待すべきではない。

リーダーには、血の通った人間を期待すべきだ。間違っていい。不完全な人間でいい。その代わり、間違ったらやり直しのチャンスを与え、自分の失敗を取り返す努力を促せばいい。政治家を殿上人にしてはいけない。政治家は、「私たちの仲間」「私たちの代弁者」であることを忘れてはいけない。



かつて、フランスには、ミッテルランという大統領がいた。
婚外交渉と、その結果として生まれた娘の存在が週刊誌に取り沙汰されたことがあった。しかし、だからといって、政治生命が絶たれるようなことはなかった。プライバシーと公人、エリート政治家・大統領としての仕事との間には一線が画されていて、有権者らもそれを認めていた。

「無粋なことを言うな」とでもいいそうなこの雰囲気は、フランスを始め、ヨーロッパの国々の政治が、粋なおとなの有権者に支えられたものであることを象徴している。

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菅首相が、原発抑制への態度を示しているのは歓迎したい。強者・富者の原理ではなく、弱者・敗者の立場を考慮した、国民全員が幸せになる国づくりへの、とりあえずは第1歩であると思うからだ。
早くも、野に降りた保守は、それを良い所している知名人たちが、ネガティブキャンペーンを展開し始めた。

大半の有権者というものは、そもそも、ネガティブキャンペーンは嫌いなものだ。ばかばかしくて、無粋で、見たくない。

大衆政治(ポピュリズム)を生んでいるのは、大衆ではない。
人間がみたくない、嫌なものを引き出して、それを利用している、エセ知識人や、政権を取れなくて欲求不満に陥り、かと言って、国民の幸福を約束するビジョンを展開できないでいるというだけの、無能の政治家たちだ。


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では、人間としての政治家の間違いを補い、世の中を有権者の求める方向へと確実に動かしていくものはなんなのか???
それは多分、個別の政治家の人間的な資質に依存した序列型社会の中央集権的な統制によってではなく、専門化による確実で信頼のできるデータを有権者が共有し、その同じ出発点にもとづいて人々が忌憚なく議論でき、それをマスコミが過不足なく吸い上げて広く他の人々に伝播し、誰にとっても公平なオープンな政治決定の仕組みを作ることだろう。

繰り返すが、大衆(ポピュリズム)を生んでいるのは、大衆自身ではない。弱者・敗者をうみつづけ、エリートと大衆の間に大きな壁を設け、その狭間に、カリスマ人気のタレントまがいを送り続けて大衆を操作し続ける、目先の利益に囚われたマスコミのエリートたちだ。

2011/05/03

テロリストの殺害

 昨日のオサマ・ビン・ラディン殺害のニュースは、砂を噛むような後味の悪さを残した。
テロリズムを支持する気は毛頭ない。アルカイーダのテロによって命を失った人々の遺族の辛さもわかる。だが、、、

死刑反対と同じ議論がここで起こってこなくていいのだろうか、、、

昨夜のオランダのニュース解説では、アラブ諸国では、民主化運動が始まったことで、アルカイーダのような急進派への支持は急速に低下しており、昨日のニュースへの反応も静かなものだった、という。それならばなぜ???

オサマの遺体は、イスラム教徒の習慣だの、土葬にすると支持者が訪問するだのとの屁理屈で、早くも海に沈められた。写真とDNAで確認したというけれど、第三者が再確認する機会は葬られたも同然だ。新聞ニュースの一読者ですら、胡散臭さを感じずに折れないこの一件、、、

嫌な展開にならないといいが、、、

暴力による行為が暴力によって報復されるこの時代、果たして「文明」と呼べるのだろうか?

私たちは、本当に「人の命」が大切にされる時代を生きているのだろうか?

2011/04/11

震災・原発事故後の何が変わる?

地震・津波・原発事故という三重の大災害が一気に日本を襲った。すでにバブル崩壊後二〇年続いた経済不況、加速化する高齢化社会、政治への不信、などなどと問題が山積していた日本に押し寄せたこの積み重なる危機に、日本社会はどこまで対応できるのだろうか?

「こんどこそチャンス」と新生日本に希望の光を求める声と共に、早くも「原発擁護論」が見え隠れする日本。これだけの大問題を抱え、今も余震に揺さぶられ、放射能漏れの危険は世界の環境破壊にもつながるかもしれないという時、「クリーンで安価」もなかろう、と思うのだが、、、、。そして昨日の都知事選では、なんと石原四選目。失言・暴言・無駄遣いは、諸外国の新聞でも報道されているこの人が、なぜ、四選なのだろう? あいも変わらず、高度経済成長時代に売れた「青春もの」の小説で鳴らした大衆人気が、今もモノを言うとは、どんな有権者たちなのか、とわが目を疑う。日本社会は、こういう子どもじみたイデアリズムから解放されて、粋なおとなの現実主義に移る気はないのだろうか?

しかし、いくつかの変化はすでに始まっていると思う。そして、それは、他に選択肢のない、不可逆的な変化になるのではないか、とも思う。

まず、連帯感が戻ってきたことだ。お上に任せてはいられないという、人々の連帯感は、民主社会の最大の基盤だ。民主化とともに個人主義かの行き過ぎた西洋の人々は「日本人の我慢強さ」を賞賛した。この我慢強さ、そして、その我慢強い表情の裏に隠された苦しみに思いやる人々の連帯的な行動は、きっと新生日本の基盤になるとおもう。

さらに、ツイッターやフェイスブックなどでの一般の人々の言質が、マスコミを揺さぶり始めていることだ。漫然と、体制派・反体制派の枠組みでしか記事をかけないマスコミの低迷ぶりは今も続いているが、今後は、徐々に変わっていくのではないか。少なくとも、一般の人々は、マスコミだけに情報操作される危険は無くなっている。

次に、東京への権力や経済活動の一極集中の問題は、議論として語られるだけではなく、現実問題として人々に迫ってきていることだ。否が応にも、活動を全国に拡散しておいたほうが、リスクも拡散できると考えるようになるのでは? それは、地方文化を再生するだろうし、序列型のピラミッド社会に風穴を開け、多元的な社会への道を開くだろう。もとより、インターネットでつながれる時代に、人が一箇所に集まる必要は無くなっている。エネルギーネットや交通網が張り巡らされている日本で、地方の潜在力を使わない手はない。無駄に全国に林立された赤字空港は、今なら復興日本のために活かされるかもしれない。

原発エネルギーの縮小と化石エネルギー拡大の緊縮に最も効果的なのは「節電」だと言われる。計画停電や自主的な節電のために、これまでのような意味のない残業や、必要のない無駄遣いはきっと少なくなっていくだろう。人の働き方も効率的にせざるを得ない。今こそ、残業制限やパートタイム就業の正規化のチャンスだ。人々のライフ・ワーク・バランスを取り戻すきっかけになるのではないか。賃金を生む仕事だけではなく、子どもを育て、人間としての精神の回復を生む仕事や余暇に時間をかける生活が、日本人の生き方のノルムになる可能性は大いにある。それが人々の精神生活に与えるポジティブな効果は計り知れない。

最大の課題は、そういう転換をスムーズに行えるような制度を生み出せるかどうかだ。明治以来のトップダウンの全体主義、戦後の産業型競争社会の原理というパラダイムをどう脱皮できるか、それを、官僚や政治家がどう、みずから実践し、制度変革へとつないでいけるか、だ。



しかし、そうなる前に、今の日本には、何か「元の木阿弥」を思わせる動きの方が散見されるのが気味悪い。

2011/01/03

人類社会の展望

 人間の社会の発展の目的は、すべての人が幸せに安心して生きられる社会を作ることに尽きる。
どんなに産業が発展し、どんなに軍事力が大きくても、その社会に暮らす人が不幸せで不安だったら、「発展」とは呼べない。

社会のリーダーが為すべきことは、ひとりでも多くの人が、幸せで安心だと感じられる仕組みを作り、守っていくことだ。

2011年、世界はどこに向かっていくのだろう。どの地域、どの国が、よりたくさんの幸せと安心を生んでいくのだろう?

2010/11/25

ネット時代の幸不幸

 メール、ブログ、ツイッター、フェイスブックと、ネット時代のコミュニケーションツールはますます広がる。私などはこのブログあたりまでがやっとで、秒刻みで地球の裏側の人につながるツールは使いきれていない。
ネットテクノロジーは、確かに、国境を越えて、人をつなぎ、異文化の壁を超える協力で、希望の持てるツールであることは間違いない。今や、言葉の壁だけが大問題で、それをこれからどう越えていけるかだ。

ただ、そんな中で、日本からも、そして、オランダからも聞こえてくるくらい面もある。ネット中毒の問題だ。ネットでいつも誰かにつながっていなくては不安、という症状を持つ大人や子どもが増えていることだ。

つい先日のオランダの新聞に、「何をやる気も、また、将来の設計に取り組む意欲もない子どもたちが増えている」というのだ。しかも、それは、経済的にも豊かで、何不自由なく育てられてきた子どもに多い。大半の時間を家に閉じこもり、大学で勉強を始めても、そのうちやる気をなくして退学してしまう。かと言って、次に何をしたらいいのかわからない、そういう子どもたちが、オランダでも増えているという。

産業化社会は、どこも、共稼ぎ家庭が増えている。就学率の上昇、高学歴者の増大は、教育投資に見合う人材を産業界で使うのが当然だろう。また、少子化・高齢化社会が進む中、若年労働者が、労働市場にとどまれるようにすることも正当化される傾向がある。

そんな中で、置き去りにされる子どもたちの発達は本当に大切に考えられているのだろうか。

子どもたちが親と触れ合う時間、学校で社会性や情緒を育てるための真剣な取り組み、地域社会を子どもたちにとって過ごしやすい場とする取り組みはあるだろうか。

オランダの子どもたちについての記事の中には、「どうしてこんなに多くの子どもたちがやる気なく、冒険信をもたないのかについては、まだ、きちんと調査研究されていない、しかし、この子たちには、潜在的なうつ病予備軍であることは間違いない」というようなコメントがあった。

オランダには、一部に、子どもたちの自立性・共同性に熱心に取り組むオールタナティブの学校があり、自由裁量権を得て非常に先進的な取り組みをする機会がある。そういう一部の学校の影響からか、全体としては、子どもたちの幸福度が極めて高い。そういうオランダでさえ、上のような、受け身でやる気のない子どもたちの問題が表面化してきている。

世界の子どもたちは、今、どんな子ども時代を送っているのだろう。
ネット文化を、身近な足元の人間関係や問題意識を豊かに展開するために使える人はいい。しかし、目の前の生きた人間とのかかわり方を知らずに、そのさみしさを紛らわすためにネットに没頭したり、ゲームに明け暮れる子どもたちもいるということを、私たち大人はもっと深刻にとらえるべきなのではないか、と思う。

こういう子どもたちがわんさと大人になった時、未来の社会は、果たして、本当に、異文化の壁を越えた豊かな社会になっているのか、それとも、気分だけはつながっているが、本当に、共感を分かち合う手段を持たない気味の悪い人間ばかりになっているのか、、、、

2010/11/17

へそまがりのトリリンガル理論

大勢の人が飛びつく話題には乗りたくない、、、、そのもう一つ先を言わずにおれない、、、どうも私の中には、そういう手名付けにくい、へそまがりの虫が住んでいるようだ。

バイリンガル理論が日本でもどうにか一部で根付き始めたようだ。だから、私はあえて、今の時代にトリリンガル理論をすすめたい。


いまから30年以上前、「これからの時代、日本語だけではだめだ」と思って、わたしは英語会話の学校に通い続けた。当面は留学が目的だった。しかし、語学研修でイギリスに行って帰ってきたら、西洋先進諸国と言われるアメリカやイギリスへの興味が、なぜかガクンとなくなってしまった。
そうして、数年後、マレーシアに留学した。西洋文化に対するオールタナティブがほしかった。以来、ずっと、日本語+英語+OO語というトリリンガル生活が今日まで続いている。

マレーシアでは、巷のインド人中国人たちが、母語のほかに英語をペラペラしゃべっているのにあきれた。それどころか、当時、ナショナリズム政策で優先されていたマレー語もみんな使いこなしている。だからと言って、自分たちの文化的なアイデンティティを失っているわけではない。

昨日、日本の『英語教育』の視察団の方たちにお会いした。
日本の子どもたちには、ヨーロッパの国々の子どものように、異文化に触れる機会が日常生活の中にないため、英語学習への「動機づけ」が限られているという話になった。
「それならば、子どもたちを動機づけるために、<子ども国連>をしたり、英語でかかれた子ども向け雑誌を発行したり、英語のテレビ番組を作ってはどうか」と提案したら、
「日本にはいまだに、西洋支配の象徴のような英語を義務付ける必要はない、というような人たちがいまして、そういう全国的なアクションをやりにくい、、」という話だった。

その程度のナショナリズムを振り回す人に限って、日本の文化や伝統の深さを知らないのではないかと思う。そもそも、そういう人たちこそ、自分自身のアイデンティティのよりどころを確信できていないのではないのか。自分が何者か、自分の拠って立つ文化をどう自分自身が評価できているのか、それがあって初めて人間のアイデンティティは確立する。そして、そういうアイデンティティがあれば、外国語を学ぶことによって日本文化が崩壊する、などという僭越な議論には走らないはずだ。国旗を挙げ、国歌を歌えばアイデンティティが育つというのは、根拠のない迷信だ。アイデンティティは、他者を知ってこそ初めて育つものだ。他者を徹底的に知り尽くしてやろうじゃあないか、という気概がなければ、また、他者の存在を世界の同朋として受け入れようじゃないか、という懐の深さがなければ、自分のアイデンティティなどというものは生まれようがない。

なんとまあ、遅れた国際意識か、と改めて思う。チョンマゲ日本人がまだのさばっている。

日本は島国、ちょうど、英語を国語とするアメリカやイギリスと同じように、国民がモノリンガルである国の典型だ。今時、モノリンガルである地域の方が、多分、世界地図の上ではマイノリティなのではないか。モノリンガルがなぜだめか、というと、「相対的なものの見方」ができにくいからだ。

アメリカとイギリスに比べ、日本がもっと大きなハンディを背負っているのは、当たり前のことだが、日本語が世界語ではないことだ。アメリカやイギリスは、自分たちはモノリンガルでも、よその国の人が進んで情報をくれるからまだいい。日本の場合、自分たちが英語をしゃべらなければ、外国の人は気にもかけずに無視していくだけだし、逆に、外からの情報を得る手段もない。

そもそも、言語なんてものはツールでしかない。ツールは多いに越したことはない。しかし言語というツールは、ツールらしい、役に立つものにするために数年の時間が必要だ。それを国が支えてくれない、制度としてやれない、というのは、国民にとって大変な損失であり、機会剥奪でさえあると思う。

―――

と、ここまでなら、単なる英語礼賛、バイリンガル礼賛になるのだが、私は今トリリンガルの必要を強く感じている。特に、流行を追うように英語を学び、それで「国際化」の一歩を踏んだかのように思ってしまう若い人たちへの忠告として、トリリンガリズムをぜひとも勧めたい。
英語礼賛はあぶない。それだけでは、アメリカやイギリスへの留学・研修で、安易に国際化が済んだ、と思ってしまう態度につながりがちだからだ。私の専門分野である教育学でも社会学でも、学者にはその傾向が強い。それが、英語以外の言語圏への関心を相対的に低くしてしまい、場合によっては軽視、そして、アメリカ、イギリスという、特殊なアングロサクソン圏の文化や思想を、「西洋思想」として一般化してしまう傾向が強くなりすぎるからだ。英語は必要だ、バイリンガルは、今の時代を生きていくための最低条件だ、しかし、それだけでは十分ではない。

日本人一般に対しては、まずは英語能力を今の10倍にするつもりで高めてほしいと願う。しかし、日本の知識人、新しい時代を生きる若い人たちに対しては、トリリンガルになってほしいと思う。今やそのくらいの覚悟がなければ、世界に通用する知識人らしい知識人にはなれない。英語以外にもう一つ、どの言語でもいいから、ふつうに情報収集できるだけn言語能力を身につけてほしい。ドイツ語でもフランス語でも、中国語でもヒンズー語でも、ロシア語でもアラビア語でもいい。そうすれば、英語文化が相対視できるようになる。日本と英語圏の文化に対して、第3の点を設定し、それぞれの位置づけをはっきりさせることができる。

開発途上国のリーダーたちは、たいていがトリリンガルだ。彼らは、インターネットの普及の影で、今や、したたかに世界の最も先進の情報を吸収している。その同じ時間に、曲がりなりにも「大学」を出た学歴のある日本人が、閉塞感の強い社会でうんうん唸りながら面白くもない仕事を残業までしてやり、その挙句、リクリエーションと言えば、茶の間でたくわんをぱりぱりしながらバラエティ番組を見るか、インターネットで、日本語に限られた情報だけをサーフィンするか、日本語だけでブログし、つぶやきまくる、、、、はたまた、役にも立たない(エログロナンセンス)マンガを見て過ごすだけ、、、、これが「武士道」の日本人か、、、、単なるチョンマゲ日本人のやせ我慢にすぎないのではないか、、、、情けなさを通り越えて、日本人が意識もしていない間に、ますます、世界の人々の知的レベルからかけ離れたところに孤立していっていることに、ゾクっとするほどの危機感を感じるのは私だけだろうか、、、

日本人が能力が低いのではない。日本人には優れたさまざまの能力があると思う。しかし、それを外に向けて伝えることも、外からの情報をもとに、持っている能力にさらに磨きをかけていくこともしなかったら、そして、そうするための手段や機会に接近できなかったら、たんに宝の持ち腐れになるだけだ。たくさんの可能性に満ちた大人や子供の能力を引き出す機会と制度に欠けていること、それが、まさに、日本の大問題だ。