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2010/01/14

歴史を動かす人々

 昨年の政権交代までの日本社会の動き、その後の動きを見ていると、『社会』とは実に生き物のようだ、と感じる。政権交代は、長い年月、少しずつ少しずつ積み重なってきた有権者たちの不安、不満が、一種の飽和状態となり、もう我慢できないところに達して起きたことであったのではないか、、、と。
 そういう意味では、あの政権交代が、イデオロギー議論ではない、単なるポピュリズムであった、としても一向に構わないのではないか、それが社会というものなのだから、という気がする。

 すでに、93年、細川内閣ができた時、また、それが、わずか1年に及ばない期間で終焉したときに、今につながる社会の変容は始まっていたのかもしれない。政権は、変えようと思えば変えられるという意識と、しかし、良いリーダーシップが必要だ、政治を政治家に任せてはいられない、という有権者らの気分の高まりが今の社会を作ってきたと思う。

 歴史は、確かに、ある特定の人物の社会的影響力によって大きく軌道を変えることがある。そして、いったんとった軌道を再び他の方向に移し替えるのは難しい。社会そのものが動かしがたい怒涛のような波を作ってしまうからだ。

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 政権交代を経て、今、おそらく戦後最大の過渡期を迎えている日本。過渡期の社会不安は大きい。こういうときに、世の中は、右にも左にも転びやすい。日本をどちらに向かせるかは、日本のリーダーたちがどれだけ大きな世界観を持っており、どれだけ歴史の過ちに学んでいるかにかかっていると思う。

 日本は、明治維新以来、近代化の名のもとでいくつもの誤った選択をしてきたように思う。そして、誤りに人々が気付くのに、いつも何十年もの時間を要した。そして、その結果が今の日本だ。近代とは名ばかり、社会のあらゆる制度に、近代的な民主制は浸透しておらず、すべてを行政指導で抑え込む、ほぼ『封建的』と言ってもいいような制度を温存してきた。

 日本の社会の中に、知恵がないのではない。知恵や工夫はありとあらゆる分野でありとあらゆる人が持っているというのに、それを生かし、横につなぎ、より良い社会のために参加させる制度がない。

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 歴史の転換点にある日本。

 安易なカリスマ的なリーダーが、いくら「民主制」を口先で唱えても、その人物がカリスマによって力づくの転換を図るのなら、いずれ、それはまた、相も変らぬ温情主義と前近代的な甘え文化によって日本を元の黙阿弥の中に閉じ込めてしまうことだろう。これから、本当に民主化を図る政治家らには、人物としての名声よりも、政見を大事にしてほしい。

 これからの日本は、市民に社会参加を促し、市民の知恵と工夫を生かしたネットワークづくりに寄与するリーダーたちによって作られていかなくてはならないのではないか。

 再び、私の好きなペーターセンの言葉が脳裏に浮かぶ。

「将来どんな政治的、経済的な状況が生じるか、私たちはだれも知らない。
未来は、人々の不満、利益追求、闘争、そして今の私たちには想像のできない新たな経済的、政治的、社会的状況によってきまるだろう。
けれども、たった一つ確信を持って言えることがある。
すべての厳しく険しい問題は、問題に取り組んでいこうとする人々がいて、彼らにその問題を乗り越えるだけの能力と覚悟があれば、解決されるだろう、ということを。
この人たちは、親切で、友好的で、互いに尊重する心を持ち、人を助ける心構えができており、自分に与えられた課題を一生懸命やろうとする意志を持ち、人の犠牲になる覚悟ああり、真摯で、うそがなく、自己中心的でない人々でなければならない。
そして、その人々の中に、不平を述べることなく、ほかの人よりもより一層働く覚悟のあるものがいなくてはならないだろう。」

 リーダーとは、名声と権勢を喜ぶものであるべきではない。

 こんな時代だから、不景気が人々を不安にさせる時代だから、それをなお一層強く思う。あの、ヒトラーでさえ、熱狂的な人々の支持を集めたのだ。それは、経済不安にあえぐ人々が不安に満ち満ちた社会を作っていたからだ。希望や楽観が、どれだけ社会の未来にとって大事であることか、と思う。

 社会を不安にさせてはいけない。共に希望を持って働ける場を生み出していかなくてはならないのだと思う。そして、リーダーとは、『不平を述べることなく、ほかの人よりも一層働く覚悟のあるもの』のことだ。