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2010/01/15

市民運動から政治参加へ

 民主政権への交替からまだ半年もたっていないが、あちこちで、市民運動がニョキニョキニョキニョキ立ち上がってきた。たぶん、意識のある若者たちは、政権交代までの1,2年、不満が飽和状態に達していて何かせずにはおれない、という気分になっていたのだろう。

 似ている。オランダの70年代にとても似ている。
 あの時代、オランダでは、親子の世代間断絶が問題となり、新しい世代の若者たちが、ありとあらゆる市民運動を起こしていった。そして、それが、瞬く間に政党へと成長していった。

 農民党、高齢者党、民主66党(新聞記者が主導して知識人を集めて作った)、保守キリスト教政党から分かれてできた革新はキリスト教党、ヒッピーたちの平和主義党、そして、緑の党など、、、

 短命に終わった政党もあるし、短期間で政権に入った民主66党などもある。いわゆるエスタブリッシュされた大政党、自由主義、キリスト教保守、労働者といった立場の主流に甘んじていられない人々が個々に声を上げ始め、それが全国的にネットワークとしてつながっていった。

 幸い、こういう動きが、そのまま政権に反映される仕組みがオランダにはあった。選挙制度が完全な比例代表制だったことだ。

 日本の現在の市民運動が政党としての運動を始めるならば、やがて、選挙制度の見直しが議論されることだろう。同時に、これまで、エスタブリッシュ政党の派閥争いをおって世間おろしをしさえしていればジャーナリズムの批判精神を満足させることができた大新聞等の、これまたエスタブリッシュされたマスメディアの政治記者たちは、慌て始めることだろう。それが、マスメディアを覚醒させる動きになれば、と思う。きっとなるにちがいない。

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 やっとこさ、日本が、ポスト・マテリアリズムの時代にこぎつけてきている。やはり、社会の成熟が必要だったのだな、と思う。ヨーロッパでも、心の豊かさを求める前に、生存の安全が守られるだけの経済力が必要だった。そして、平均して高い教育程度があることも条件だった。

 これから多分、労働者の権利としての組合運動の在り方、労働条件をめぐる議論、性意識に関する議論、尊厳死、死刑廃止、外国人差別などの問題が、なお一層、議論の的になっていくに違いない。
 市民運動ではシングルイッシューでも、政党化すれば、社会のさまざまの問題に対する立ち位置を明記せざるを得なくなるからだ。

 多様な価値観を、小政党が体現できるようになれば、これまでのような勝ち組・負け組の構図の中で、お互いにそしり合い独善的に分立する分極化は避けられる。立場は違っていても、分極せずに、話し合いに参加する姿勢が、社会全体のより良い変革をはぐくむ。

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 面白い時代がやってきた。うまくいけば、日本は、後発近代諸国に一つのモデルを示すことができるようになるだろう。絶対に捨てたもんではない。市民運動家は、ある種の楽観があるからこそ、一緒にやってみようじゃあないか、と集まるものだ。日本の市民運動は、定評があるとも聞いたことがある。堅実な草の根の運動はあったのに、その声が、メディアに届いていなかっただけだから、ジャーナリズムが変われば日本はかならず変わるだろう。

 こういう動きをもっと若い人たちとも共有できるといい、と思う。高校生や中学生とも。
 貧困も性も安楽死も、経済不況も労働者の権利も、国内外の差別問題も死刑問題も、10年後20年後に有権者になる子どもたちと一緒に議論せずして、いったいどうやって市民社会の行方を決める地盤を作るというのだろう。