Translate

2010/01/22

悲観シナリオは事態をもっと悪化させる~~~70年代オランダのコメディアンが生んだ叡智

 『評論』という言葉を、私は好きになれない。問題を指摘するだけで、解決策のない評論があまりに多いからだ。そして、『評論家』という語には、当事者意識を免れていてもかまわない、というようなエリート意識が匂い立つ。

 日本の今は問題が山積しているという。確かにそうかもしれない。しかし、それでも、日本は、まだまだ経済的な地位は世界で2,3位を争うし、失業率だって欧米に比べてずっと低い。教育程度だって全体としてみればとても高い。UNDPのHDI(Human Development Index)指標は、ずっと高位を保っている。

 悲観的な評論ばかりでは、いつか本当に世の中の活力が一挙に減少してしまうのではないのか。

―――――

 1970年代、第1次石油ショックで経済停滞に直面したオランダ。冷戦大戦の中での核戦争への恐怖、急速な産業開発による環境破壊などの中で、人々が未来に大きな不安を感じていた時代だ。

 当時、若者たちは、山積する問題に押しつぶされそうになりながら、未来への不安という暗さを、ユーモアですり抜けていこうと必死だった。だって、若者たちは、まだまだこの社会をずっと長く生きていかなくてはならなかったのだから、、、

 その頃、時事風刺で大人気となった二人組のコメディアンがいた。ファン・コーテンとデ・ビーと呼ばれたこの二人組は、山積する問題に、悲観的な未来のシナリオを描いて見せる評論家たちを指して、「doemdenker(=悲運思想家)」と呼び、当時の社会に大きな影響を与えた。

 この言葉は、経済学者たちにも頻繁に使われるようになった。
 未来に対する悲観(doem denken)は、社会に不必要により大きな悲観の種をまき、実際に社会や経済を不活性にさせてしまい、輪をかけて問題を深刻化させるというものだ。

―――――

 世に『評論家』と呼ばれる人たち、、、
『評論』する気なら、まず、解決策を探してからモノを言ってほしい。当事者意識のない評論に、世の中の人々は耳を傾けるほど暇ではない。そして、評論などしているひまもないほど、解決につながりそうなことやモノは、世界にいくらでも転がっている。

 人間は馬や牛ではない。人間が、知恵を使う限り、文化は発達し、解決策はどこかに必ず転がっている。