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2009/01/29

恋する若者たち

 若者に恋はつきもの。
 でも、恋をしている若者を温かく見守る社会と「品行方正ではない」と咎め立てする社会とがある。

 北米やヨーロッパの国々は前者、日本は後者に属すると思う。OECDなど、経済的な富裕国としては堂々「西洋」の仲間入りを果たしているはずの日本だが、この点、他の国に比べて、特異な性格を持っている。もっとも、日本が、他の先進諸国と比べて特異な点は、これに限らない、、、

 日本がさまざまの点で特異であるのは一向にかまわない。アジアという文化的な背景もあることだし、なにも、何から何まで西洋のサル真似をする必要はない。それなりに、日本人自身が、それでよいと納得した理由があって、伝統を保っているのであれば言うべきことはない。
 ただ、日本の特異性と見えるものの中には、時として、あまりにもタテマエとホンネのダブルスタンダードが多いのが気になる。若者の恋についても、日本のそういうダブルスタンダードの典型的な例だと思えるから気になるのだ。このダブルスタンダードがある限り、日本人の文化的な「価値観」などと偉そうなことは言えなくなる。

 西洋社会の人々が、概して若者の「恋」にオープンで寛容なのは、それが、人間性を謳歌するものだからだろう。

 人として生まれてきた以上、少なくとも一生に一度くらいは、みな切ない恋心を抱くという経験をどこかでするものではなかろうか、、、それは、大声で周りの人に言えることではないかもしれない。けれどもかといって、包み隠さなくてはならないものでもなかろう。人を好きになることについて後ろめたさを感じなくてはならない理由はない。

 「親の脛をかじって勉強している身で、異性と付き合うなんて」という声がどこかから聞こえてくるような気がする。でも、思春期というのは、本人たちの意思ではどうすることもできない、体の一大変化を迎える時期なのだ。むしろ、大人たちは、その変化を受け入れて、子供とともに、この時期を上手に乗り越える方法を考えた方がいい。子どもには、大人の頭ごなしの禁止よりも、経験のある大人からのガイダンスが必要だ。
 勉強に身が入るも入らないも、その結果どうなるかも本人次第ではないか。長い人生、そんなに何でもかんでも急がせなくてもいいではないか、、、

 もしも、本当に、きれいな気持ちで異性に恋心を抱いているのだったら、まずは、それをきちんとオープンに話し合う機会をつくるか、本人が思う存分自分で自分の気持ちを整理できるように見守ってやるのがよいと思う。

 オランダの子供たちは、中学生くらいから、確かに、ボーイフレンドやガールフレンドを持つようになる。もちろんみながみなというわけではない。大半の子供たちは、高校生の終わりか大学生くらいで決まった異性の友人を持つようになるようだ。そして、異性の友達ができると、子供たちは、さっさとお互いの家に連れて行き、親に紹介する。子どもら自身が、こそこそ付き合うことを嫌うのだ。別に、こんな年齢で「婚約」するわけではないが、「今この子と付き合っているんだよ」ということを、親に対して堂々と公然と明らかにする。
 
 紹介された親の方は、子どもの誕生日などには必ずその相手の子も招待するし、夏季休暇に出かけるバケーション先に誘って一緒に連れていくこともある。そんな風に家族ぐるみで付き合っているからと言って、必ず将来結婚にゴールインしなくてはならない、などとは、今どき誰一人として思ってはいない。

 うまくいけばそのままゴールインもあるだろうし、途中で別れることだって当然あるだろう。それはそれ、本人同士の判断であって、親が傍から介入することではない。その点は実にはっきりしている。だから、その結果うまく行こうが行くまいが、それも親の関知するところではない。冷たく聞こえるかもしれないが、男女の関係は、当人以外の人間が関わるべきことではないのだと思う。

 親族が集まる誕生日のパーティなどに行くと、若い高校生や大学生たちは異性の友人を気楽に連れてくるし、おじさん、おばさん、おじいちゃん、おばあちゃんも、普通にその友人たちを受け入れ、普通に社交的な会話をする。
「あれっ、去年の彼とは別れたの」てなこともある。
 
 こんな風にして、お互いに、お互いが育った環境、親族などの社会的な背景を知ることは、お互いを理解するために必要なことなのだ。若いから、どうせ遊びだから、と子供扱いにするのではなく、その時その時に、恋も男女交際も、大人が見守っている中で、「練習」の意味を持たせてやることは大事だと思う。

 なぜ、日本では、若い十代の男の子が、街角の本屋に行って、こっそり人目を気にしながら、ポルノまがいのマンガ本を立ち読みしなくてはいけないのだろう。なぜ日本では、電車の中で、若い男性が気持ちが ムラムラしたといって、人ごみに紛れて女性の体を触り、挙句の果てに、女性から手をひねり上げられ駅員に突き出されなくてはならないのだろう。なぜ、学校の先生が生徒を相手に性交渉をしたというスキャンダルがこんなに次々に聞こえてくるのだろう。

 恋すること、人を好きになることは、人間として誇りに思ってよい素敵なことだ。子どもたちには、そう教えてやりたい。それを、大人の言葉や行動で、汚いもの、汚れたものにしてほしくない。それよりも、恋をしている若者には、相手の性を尊重する気持ちこそをぜひとも教えてやってほしい。

 男であれ女であれ、結婚するまでに幾人かの人と付き合ったからと言って、それは、あながち悪いことであるとばかりはいいきれまい。たとえ恋を成就させることができなかったとしても、それはそのたびに人間として大きな成長、人の心の襞を理解できるような大人になるための、かけがえのない糧になっているはずだ。

 若い時に、自分の心に嘘をつくことなく、人を愛し、人から愛される経験を積んでおいた方が、結婚後の、自分の決断に対する責任や、子育てということに自覚が深くなると思う。

 かつて、どこの文化にも、思春期の男女に対しては、それぞれ、「イニシエーション(入社式)」と呼ばれるものがあった。からだの変化とともに、大人の仲間入りをするための儀式だ。同性の少し年長の者たちが、仲間入りの儀式とともに、いろいろな性にまつわる知識を伝授する場だった。
 そこには、思春期という、何よりも本人にとって難しい時期に、親にはできない役割を代わり持つという意味があったのだと思う。多くの文化の伝統の中には、男尊女卑の慣習も多い。多くの場合、女性の自立や、女たちの人権は、軽視され、時として、男が大人になるための「道具」「商品」「所有物」とみなされることがあったのは、もちろん望ましいことではない。けれども、その点を留保してみれば、昔、若者たちが大人になる過程を見守るという、伝統的な社会の役割は、今、そういう伝統的な共同体の仕組みが崩れてしまった時代、誰も担っていない、放置された領域なのではないか、と不安になる。

 近代化の長い経過を経て、ようやく女たちの地位は男性と同じように認められるようになった。しかし、不本意な、または一方的な暴力を用いた交渉でからだとこころに癒しようのない傷を受けてしまうのが女性であることは今も変わらない。性を解放するためには、男性による女性の性への理解と、女性たちが自分で自分のからだとこころを守り、自分の意思で選択できる手段を持つことは不可欠の前提だ。同時に女性もまた、男性の性のしくみについて冷静に学び知っておくべきだ。

 
それでもなお残されているのは、若者たちが大人へと成長していく過程を、その心と体の変化の激しい時期にある若者たちを、誰が、どんな風に見守るか、という点だ。

 家庭が崩れている。地域社会と呼べるものも、そういう点ではなんの機能ももたない。むしろ、村八分の伝統の強い日本では、「品行方正」というタテマエの元に、男女交際をするような若い子らを、後ろ指で冷たく差してしまう、いやな文化がある。

 そう考えるとき、今、学力だけ、競争だけに熱心な日本の学校教育の惨禍が又もや心配になる。性教育の大切さを思わずにおれない。

 子どもたちにとって、若者たちにとって、性について男女の別なくオープンに語れるようになることは、とても大切なことなのだ。本人たちにとっても、また、社会の安定のためにも。伝統的な慣習もなく、かといって、原子のように個別にばらばらに生きている今の子供たち。歪んだ性の知識だけは、メールやインターネットを通して、大人の目に見えないところで、子供たちの心を侵食している。まだ、性の体験もない子供のうちから、歪んだ性意識が子供たちの心に植え付けられているのではないか、と心配だ。
 コミュニケーションや社会関係の取り方を学ぶのと同じように、異性のからだを知り、心理を知ることは、学習の大切な一環であると思う。語りにくい話題であるからこそ、オープンに語れる場を作るのは、学校という守られた場をおいて他にはない。それは、やがて、夫婦として家庭を築き、子供を育てていくための基盤になるから。次の世代の子供たちの心や体を健全に育てるためにも、今、目の前の若者たちの恋と真正面から向き合う必要があるのではないのか。

 わたしが知っている、ある日本人とオランダ人の間に生まれ日本で育った20代の女性がこう言っていた。
「日本社会はウソに塗りつぶされている。中学の頃から、同級生の中には、いくらでも男の子と性交渉をしている子がいた。堕胎する子もいたわ。でも、みんな親は知らない、といい子ぶって、、、。私はすごくイヤだったわ、そういう嘘をつく子たちが。それにね、クラスの子の誰に聞いても、ほとんどの親は、夜一緒に寝ていないんだって言うのよ、、、みんな家庭内離婚の子ばかり。それなのに、学校の生徒手帳には、男女交際は公明正大に、なんてね、、、。本当にいやでいやでたまらなかったわ。私ね、今オランダに暮らしていて本当に幸せなの。自分が自分のままでいられる、、こんなに幸せでいられるのよ、って証明してやりたいって、そればかり思ってきたわ。」

 息子は、今つきあっているガールフレンドと3年越しの付き合いが続いている。時には大げんかもあるようだが、それでも結局は何とか収まりながら、今のところ関係が続いている。勉強が忙しくない限りは、ほぼ1週間おきに、週末にお互いの実家を訪ねている。夏になれば、一緒にひと月以上ヒッチハイクで海外旅行に出かける。昨夏の、日本への一家そろっての里帰り旅行にも、一緒についてきた。わたしたちも、彼女を1人前の大人として待遇しているし、彼女も、私たちには、オープンに、大人として対応している。
 息子は、大学2年の時に、彼女とはじめてお互いの気持ちを確かめ合った直後、うちに帰ってきて、それは嬉しそうにそのことを私たちに告げてくれた。一緒に散歩に出かけると、道すがら、嬉しさをこらえきれないという風に、多弁で彼女のことを語り、にこにこと笑いが止まらない風だった。からだ全体で嬉しさを隠しきれないという様子だった。
 自分の子供が、こうして、生活の一部を分かち合えるパートナーを持つまでに成長するということが、親にとってもこんなに嬉しいことだったとは、それまで思ってもみなかった。

 オースティンの小説に出てくるような、感情を控えめにした、節度あるラブレターを書くような、少し紳士的な身の振り方のできるヒーローにあこがれている娘の方は、まだ、彼女のハートを射止める恋には出会っていない、、、いつの日か「好きで好きでたまらない」と思えるような誰かを、見つけてくれるといい、、