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2009/01/21

同調と協働

 オバマ大統領の就任式の模様が、ここオランダでも生放送で伝えられた。選挙キャンペーンでは「イエス、ウィー キャン(Yes we can)」をキャッチフレーズに経済の低迷と混乱の中にあるアメリカの市民らに向けて、団結を鼓舞し支持を集めたオバマ。しかし、就任式の演説では、アメリカ政治が抱える問題の多さ、厳しさを意識してか、ずいぶん険しい表情だったのが印象的だった。それにしても就任式の様子を一目見ようと集まった人々の群れ、キャピトール・ヒル周辺があれほどの群衆で埋まったのは史上初のことだという、、、
 その人々に向けてのオバマの演説の趣旨は、キリスト教徒も、イスラム教徒も、ユダヤ教徒も、ヒンズー教徒も、無宗教者も、ともに協力してアメリカを立て直そう、そして、世界の国々と友好的な関係を取り戻そう、アメリカ合衆国はそういう平和と団結の象徴となるべきだ、というメッセージだった。
 集まっていた群衆の中に、黒人が多いのが目立っていた。そして、彼らの表情が希望に満ちていたのも印象的だった。
 一夜明けてニュースを聞く。オバマはさっそくキューバにあるテロリスト容疑者らの収容所グアンタナモ・ベイの収容所閉鎖に向けて動き出した。連帯と団結の政権にとって、象徴的な第1歩だ。アメリカ人たちの気持ちが、新しい時代に向けて希望でまとまっているうちに、実現できる施策は次々にやっていってほしい、と思う。

 指導者が人々の共同を鼓舞する時、集団の集め方、あるいは、人の集まり方に二つの型があると思う。そして、その二つは、中身と方向がまるで違う、、、

 ブッシュ政権時代、そして、タカ派の共和党が政権を取る時には、必ず敵を仮想して、アメリカ国家主義で人を鼓舞する。教育も受けられずまともな職にも就けない若い人々は、まるで牛馬のように兵士として軍隊にとられ、戦場に送り出されてきた。国内で産業を支える労働者として働いている人々が、工場の歯車として働かされ、企業が経営難となれば路上に放り出される。そこで利用されるのは、「自由の国」という美しい御旗を掲げた星条旗のアメリカへの愛国心だ。
 しかし、オバマがいま求めているものは、そういう顔のない群衆を十羽ひとからげにする「同調的な集団主義」ではない。そうではなくて、たとえ何百万の人であろうとも、一人一人が顔と心と頭を持ったユニークでかけがえのない存在として、お互いの能力を認め合ってかかわる「協働」だ。だから、彼は、Yes, I canとではなく、Yes, we canと人々に呼びかけた。黒人も、褐色の人々も、黄色人も、白人も、、、と。この信念を信じたい。そしてその信念が長く続くことを。

 ヨーロッパもまた、多元主義、多文化共存の、多様性に満ちた、それに支えられた社会を理想に、平和協調の政治・経済体制を求めている。そして、それは、2つの大戦が引き起こした悲惨残虐極まりない戦争がどれだけ破壊的で無駄なものかをいやというほど知らされた時に始まった。1951年にベネルクス3国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ)と独仏伊の参加でつくられた「石炭鉄鋼共同体」は、武器生産の原料を敵味方が共有することから始まった平和協調の道だったのだ。
 一見、民主主義、協調の道、多文化共生の話し合いによる共同は、時間もかかり効率が悪いように見える。しかし、わずか60年足らずの時間で、この「石炭鉄鋼共同体」に始まる連帯は、27カ国を含む「ヨーロッパ共同体」にまで膨らんできている。そして、それは、同じ趣旨で参加を希望する国々を包み込みながら、今後も世界に向けて平和の共同体として地盤を築いていくのだろうと思う。

 日本の指導者たちには、そういう世界状況を踏まえた日本の未来への展望があるのだろうか。政治家はもとより、彼らを頭脳で支えなくてはならない研究者たち、人々に未来への方向づけを率先して示さなくてはならないジャーナリストたちに、展望はあるのだろうか。

 日本がいま必要としているのは、人々の無批判で盲目な同調ではなく、自立した批判的な一人一人の成員を元につくられる協働の精神だと思う。愛国心の熱狂に群れていくことではなく、一人一人が、自分の能力を知り、他人の能力を尊重して、お互いが力を出し合って共同する連帯の精神だ。そして、日本という国自身が、そこにいる人々の持つ豊かな知的資源を基礎にして、他の国と共にお互いにとって利益になるウィン・ウィンの取引をしていく交渉力だ。1960年代から80年代にかけての日本は、アジアの中で「ひとり勝ち」していることに酔いしれていた。軍事力はもう使わなかったかもしれない、、しかし、多くの国の人々の貧困の上に富を築いてきたことは確かだ。

 今、ヨーロッパでもアメリカでも、競争と戦闘の時代を背景に、協働に向けたリーダーシップの時代が始まろうとしている。日本が、本当に、「西側」として認められた国になっていたのだったら、それを現実に証明していかなくてはならないのはまさに今、この時だ。日本もまた、過去に、清算しきれていない戦争という背景を持っている。水に流すのではなく語り続けることが、「戦争が悪い」と責任逃れをするのではなく「人間というものは苦しくなれば自分のことしか考えなくなる危険極まりないものだ」という普遍の事実に率直に目を開いていることが、どれだけ大切なことか、、、

 幸福感や自己肯定感の少ない子どもたち、増加する大人の自殺、定職につかない、つけない、つくための人間的な育ちを保障されてこなかった若者たち。現政権の政治家に展望はなく、かといって、野党にも確固とした世界観と未来の方向を示す力のないこの国、、、
 いったい、あの豊かな時代に、私たち日本人は何をしてきたというのだろう、、、

 「集団主義」はペシミズム(悲観)に鼓舞される。だが、「協働」はオプティミズム(楽観)がなくては生まれない。
 今の日本、ユーモアがなくてメランコリーばかりがはびこっている。メランコリーの原因は、不満や怒りをどこに向けたらよいのか、どこにも責任の所在が見えないからだと思う。責任は、政治家にも市民にも、両方にあると思う。世の中のすべての人がそれぞれの身の丈に合うように負わなければならない責任というものがある。
 オプティミズムは、こういう時にこそ必要なものなのだ。苦しい時、閉塞感の強い時にこそ、オプティミズムが求められる。そういう時にこそ、「何とかなるさ、大丈夫」と笑って見せる強さが要る。日本人のメランコリーは、今も、まだまだ飢えても路頭に迷ってもいない日本という大国の、甘えた子供じみた感傷でしかないと思う。

 「コップに半分しか水が残っていないのではなく、コップにはまだ半分も水が残っている」という言い方がある。日本はまだまだ経済大国だ。残っている資源には、財源だけではなく、日本人の勤勉さや真摯さ、明晰な頭脳を育てる力、温かい思いやりもあろう。その残った資源を使って、日本が再生できるかどうか、、、隣国や世界の国々の人たちと協働していけるかどうか、それが今試されているのだと思う。

 最近数年間の間に経済の急成長を遂げた中国やインドなどの国々は、いずれ、何年かの先、日本と同じような社会の軋みを体験すると思う。成長期とはいえ、貧富の格差、地位の格差がとても広がっているからだ。これらの国にも、近代社会の基本である、個人の人権はいまだに保障されていないのではないか、と思う。
 だからこそ、いま、日本が、経済成長の時代を過去のものとして、成熟した近代社会として、人々に平等に認められた人間の権利とは何なのか、人間の豊かさとは何なのかを問い続け、日本なりの近代化の道筋を見出していくことができれば、それは何年かの後、再び、新しい意味で、西洋以外の国々の人々にとって励みとなるモデルを示していく可能性にもつながっていると思う。