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2009/01/29

競争という名の非効率

 競争社会は人々に幸せをもたらさない。人々が何度口を酸っぱくしてそう訴えても、日本の競争文化はなくならない。学校でも社会でも、指導者たちは、「競争」さえ煽り立てていれば、万事安泰と思っているらしい。それが証拠に、学校では、学力競争が以前にも増して煽り立てられ、社会では、一方で失業者がどんどん増えているというのに、エリートたちは休む間もないほどの残業と忙しさに追い立てられている。スローに人生を楽しみたくても、そんなことをすれば「敗者」になって、社会のどこにも自分の生きる場を見つけられない、と流れに任せるより選択の余地がないという人が山ほどいる。

 でも、競争文化は、本当に効率的にこの国の経済基盤を支えているのだろうか。経済大国日本の地位を今後も支え続けるために、競争をあおることが、ほんとうに、何よりも効果的なのだろうか。競争をやめると、日本は、ほんとうに今の地位から転げ落ちてしまうのだろうか。競争は、だれのために、効率的なのか。競争社会のメリットを享受しているのはいったい誰なのか? そんな人が本当にいるのか?

 受験競争に追い立てられる子供たちに、本を読み浸る時間はない。友達と議論しているひまもない。同じ練習問題を、早朝の補習、学校の授業、放課後の塾、夜間の自宅での勉強と繰り返し、それでも、入試に受かるかどうか不安な子供たち。いくら勉強しても、「これでわかった」と安心できる基準がないからだ。
 その結果、本を読む量は少なくなる。自分から働きかけて情報を集める時間もない。そういう子どもが、よしんば首尾よく有名一流大学の入試に合格したとして、この子たちにエリートとしてのどんな才能があるというのだろう。同じ問題を何時間もの時間をかけて繰り返し説くという才能が、いったいどんな仕事の役に立つというのだろう。

 友達と議論したことのない子は、自分の頭で物事を考え、自分の意見を持つということを知らない。自分の意見が、他の人の意見と違うという経験がない。複数の人間がいれば、複数の意見があってよいのだ、ということを考えてみたこともない。そういう子が、よしんばエリートとして国や会社の重大事にかかわり、外国で他国の人々と交渉する立場になったとして、いったい、どういう交渉術を持っているというのだろう。ウィン・ウィンの合意を生むのは、立場の違うものが心を開いて話し合って、どちらも満足できる結果を導くという経験をいくつも積んでおかなければできるものではなかろう。いったい、そういう訓練は、どこでするのだろう。だれが、若者にそんな訓練を与えることができるのだろう。

 けれども、競争の非効率の、もっと大きな問題は、もっとほかのところにある。競争に落ちこぼれる敗者が持つストレスと敗北感から生まれる社会不安だ。いつ、だれが、凶器を振り回し、有毒ガスをまき散らすか分からない、、、そういう悲惨な事件は、これまでにもう数えきれないほど経験しているというのに、この国の指導者は、その原因が、競争社会にあるということを認めるつもりがないようだ。

 「競争」は、競争をしている本人たちではなく、それをさせているものが決めた尺度によっておこる。その尺度は、たいていの場合、数ではかれる基準だけだ。文字を使わない表現力、情緒の安定、社会性や責任感、議論やディベートの力、深い思考力、物事を立体的にとらえる力、問いかける力、自分の問いを追求していく意欲や忍耐力、他の人の意見を聴く力、物事の洞察力、そういった、人間に特有のかけがえのない能力をみな看過して、目先の利益に結びつく力だけ、それも、紙の上ではかれるものだけで競争させようとするのが入試だ。

 人間、誰だって人には負けたくないものだ。自分の子供を「敗者」にしたくもない。
 なぜ、勝者と敗者がいなくてはならないのだろう。競争をやめれば、勝ちも負けもないはずなのに。

 
 競争社会は、そういう無意味な勝ち負けを作り、そのために山ほどの無駄を世の中に残している。

 経済が低迷し、パイの取り合いが激しくなると、競争はまたもや激しくなる。

 日本という社会では「競争」に勝たなければ一人前にはなれない、と思い込んでいるそのことが、どんなに非効率で非生産的な不幸きわまりない社会を生む原因になっているのかを、一度みんなで立ち止まって考えてみたほうがいい、、、

 特に「勝者」たちに考えてもらいたい。いったい自分は何に勝ってきたのか、と。いったい、人より優れた何を持っているのか、と。自分は、この国の紙切れ一枚の競争に勝って、それで果たして世界で通用する一人前の人間になったか、と。

 いったい何のために、いったいどんなメリットがあって、私たちは今のような「競争」社会にいまだにこだわり続けなくてはならないのだろう。