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2009/08/22

表現が求める共感

 この夏、久しぶりにまるまる1カ月休暇を満喫した。
 と言っても、ボーっと何もしないでいると罪悪感を感じてしまう貧乏性の日本人。「休暇を満喫」とは名ばかり。休むということに一切の罪悪感を感じることのないオランダ人の夫からすると、体も心も解放しきれない私は、「休むことが下手だなあ」と見えるらしい。

 そういう夫の視線をひしひし感じつつ、「ようし」とやっと丸2日間浸り切った読書。世界中で売れに売れているスペインのカルロス・ルイス・ザフォンが、この初夏に出したばかりの新著、娯楽長編ミステリーThe Angel's Gameを、日ごろの頭を切り替えて、青胡桃の緑陰にガーデンチェアを持ち出して堪能した。

 この作家は、以前、「The Shadow of the Wind」という本を書いて、爆発的なベストセラーとなり、世界中で何カ国語にも訳され、ロングセラーを続けている。普段、あまりベストセラーには手が伸びないのだが、この本は、舞台がバルセロナで、この都市はゆっくり訪れ散策したことがあるだけに、つい引き込まれて読んだのが最初だった。本の中に出てくる地名、通りの名など、カタルーニャの民族意識を受け継いだバルセロナという土地の人々の感情、そして、長く独裁政権だったスペインの閉塞感など、時代の暗い影が付きまとう中でのミステリーは、背後に、きりきりとした人間不信の冷たさを感じ、それだけでも興味深い。

 新作The Angel's Gameの主人公は、貧しい少年時代を背景に持つ売れっ子作家。この主人公に投影されているルイス・ザフォン自身の姿、また、登場する書店主、ジャーナリスト、出版業者、編集人ら、本にまつわる職業人たちの言葉が、作家の、文章を媒介とした表現者としてのややあからさまなほどの思い、本作りへの姿勢を表している。それだけでも十分に読み応えのある、また、表現としても、すぐれた文章の数々、巧みな構成と出会えて、一カ月もある休暇の、わずか2日を占める読書になった。

 中身をばらしてしまったのでは興ざめなので、一つだけ。

 重要登場人物の一人である、謎の編集者アンドレアス・コレリが、こう語る部分がある。

An intellectual is usually someone who isn’t exactly distinguished by
his intellect. He claims that label to compensate for his own
inadequacies. It’s as old as that saying: tell me what you boast of
and I’ll tell you what you lack. Our daily bread. The incompetent
always present themselves as experts, the cruel as pious, sinners as
excessively devout, usurers as benefactors, the small-minded as
patriots, the arrogant as humble, the vulgar as elegant and the
feeble-minded as intellectual. Once again, it’s all the work of
nature. Far from being the sylph to whom poets sing, nature is a
cruel, voracious mother who needs to feed on the creatures she gives
birth to in order to stay alive. (Carlos Ruiz Zafon,The Angel's Game, p.170)
知識人というのは、普通、正確にいうなら、本人の知性をみてそうだと選ばれたわけではない人のことをいうんでね。そういう奴は自分につけられたこのレッテルが自分の不足を補ってくれると思っているのさ。ほら、昔から言うじゃないか、おまえさんが自慢できることを俺に言ってみな、そうしたら、おまえに欠けているものがなんなのかを教えてやるから、とね。欠けているのは毎日のパンさ。力のない奴はいつも自分を専門家だと見せかけるもの。残酷なやつは敬虔な人間になりすまし、罪深い奴はものすごく献身的な人の振りをし、高利貸しは恩人ぶって、小心者は愛国者に、傲慢なやつほど謙遜な振りをして、品のない奴こそ気品を装い、意志薄弱なものほど知識人の顔をする。もう一度言っておくがね、これもみんな自然のなせる技なのさ。自然なんてものはね、詩人たちが詠って見せる、ほっそりとしたやさしい妖精なんかとは影も形も違うものでね、自分が生みだす生き物たちが、生き延びていくために食わせていかなくてはならない、残酷で貪欲な母親なのさ。(リヒテルズ試訳)

 シニシズムの骨頂というよりない、この冷たい、しかし読者をして考えさせずにおれない皮肉極まりない言質。この謎の編集者に翻弄されつつ、主人公は、こういう、結局はありふれたシニシズムを越えて、生きて血の通った人間としての作家の生きようを見せる。ルイス・ザフォン自身の、作家としての、人としての生きがいの理想を投影しているのだろう。

 彼の公式サイトには、こういう言葉も出てくる。

I do not write for myself, but for other people. Real people. For
you. I believe it was Umberto Eco who said that writers who say they
write for themselves and do not care about having an audience are full
of shit, and that the only thing you write for yourself is your
grocery shopping list. I couldn't agree more.
http://www.carlosruizzafon.co.uk/
私は自分のために書いたりしない、他人のために書いているんだよ。現実にいる人たち、つまりはあなたたち読者のみなさんのためにね。自分自身のために書いている、読者なんて気にしちゃあいないなんていう作家なんて糞ったれもいいところ、人が自分のために書くものは雑貨屋に出かけるときに持ってくショッピングリストだけさ、と言ったのは、確かウンベルト・エコだったと思うけど、これくらいうまく言い当てた言葉を私はほかに知らないなあ。(リヒテルズ試訳)

 物を書くことが、単なる自己実現のためなのであれば、しない方がいい。私自身もそう思う。
 
 物を書くとは、そして、おそらく、文章に限らず、ありとあらゆる媒介による「表現」とは、他者とコミュニケーションにほかならないのだろう。自身に課された自身にしかできないものを、他者に提供すること、お互いに提供し合うことと言ってもいいのかもしれない。

 しかし、作家もビジネス。人間の行為の多くはビジネスだ。
 だから余計に、最初に引用した謎の編集者の言葉が響く。私たちは、パンなくしては生きていられない。しかし、パンは、お互いに、相手を楽しませ、相手の役に立つものを提供し合って得ようではないか、、、、そんな風なことを言っているのでは、と深読みする。

 誤解を恐れずに言うが、私は、あの、ガウディという建築家がどうも好きになれない。
 あの、永遠に未完のままかもしれない、奇妙で巨大な建物サグラダ・ファミリアが聳え立つ、あのバルセロナに育ったこの作家は、ガウディをどんなふうに感じているのだろう。