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2009/08/30

歴史的な一日:2009年衆院選

今日の日本を目撃できてよかった。
自民党独裁への「ノー」がやっと選挙に結集した。

対米追従、企業依存、官僚主導、マスコミ抱き込み、右翼放任、どれもこれも、時代遅れの、民主主義とは程遠い政治だった。

ひとびとの不幸感、未来に希望を持てない閉塞感が社会に堆積し、とうとう飽和点を越えたのだ、と思う。やっとひとびとの尊厳を奪ってきた日本社会のあり方に、憤りを発する人たちが増えてきた。長い時間がかかった。欧米や開発途上国などなら、もっともっと早く人々が声をあげていたのではないか。

問題が起こるたびに、自らを省みて自らを正すことから始めようとする日本人の謙譲の美徳が、もしかすると、声を上げることを遅らせてきたのかもしれない。

けれども、声はあってもそれを取り上げてこなかったのではないのか、、、

選挙戦が沸騰したこの夏、ニュースを伝えるマスコミの姿勢が変わった。党首討論会など、政治家自身に、言責を問う動きが目立ってきた。喜ばしいことだ。

新政権は、間もなく山積した問題に取り組み始めなくてはならない。日本社会を幸福感の高い社会に変えるには、少々時間がかかるような気がする。困難と障害は多い。世界的に難しい時期にあるからだ。新しい政権には、有権者の声に耳を傾ける姿勢を持続してほしい。有権者も知恵を結集して、忌憚なく政治に働きかけていけるとよいと思う。

新聞やテレビは、今後、これまでのようにマジョリティの声だけを届けるのではなく、マイノリティの声をきちんと届けるメディアになってほしい。それが、視聴者や読者を引き付ける。それが、有権者に考える姿勢を生む。有権者自身が、手の届くところから社会に働きかける姿勢を生むだろう。それが、民度を高めるジャーナリズムであると思う。

そこまでいけば、一つ一つの変革のモデルになるものは、世界にいくらも転がっている。そこから学んで日本なりの施策を生み出していけばいい。欧米ではすでに使われた切り札が、日本ではまだまだ有効に通用するものがあるに違いない。

誹謗・中傷のネット放言とは明らかに異なる、信憑性の高い、理性に基づいた、建設的批判のできるマスメディアを読者は待っている。

出版は、人を売るのではなく、多様な多元的な議論に目を開かせるメディアとなってほしい。収益優先でつくられた風に乗るのではなく、新しい風を生む媒体として、新しい時代に大股で踏み込んでいってほしい。


きょうの日を境に、戦後、急ぎ足の近代化を遂げてきた日本が、直面する独自の問題をどう乗り越えていくのか、日本に成熟した市民社会が生まれれば、それはいずれ、遅れた、しかも急ぎ足の産業化を果たしつつある中国やインドなどの国々の人々にとっても、ひとつのモデルとなるだろう。周辺の国々はこれからの日本に注目している。かつて、高度成長の奇跡を生んだ日本は、今度は、人々の幸福を保障し世界平和に貢献できる、成熟した市民社会の実現という奇跡を生み出せるかもしれない。ぜひそうなってほしいと思う。

そしていつか近い将来、ヨーロッパ連合のように、アジア連合を、日本が率先して語れる日がくることを心から祈っている。