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2009/08/15

マイナス評価からプラス評価へ

 今朝、犬を連れて散歩に出たら、大きな森林公園の入り口、路面電車の停留所付近で、高校生か大学生くらいの若者たちが数人、ビデオカメラを据え付けて映画撮影をしていた。その中の一人は、停留所のポールによじ登って高い位置からカメラを回していた。
 ちょうど通りがかったパトカーがその付近に止まって、補助席の窓ガラスを下げて、巡査官がひょいと顔をのぞかせ、この若者たちに話しかけた。
「映画撮ってるのかい?」
 ボサボサ頭で色の褪めたT シャツによれよれジーパン姿の若者が、
「うん、そうだよ」
と答えて、パトカーの方に近づき、巡査の差し出す手をとって握手をした。

 それからの短い会話は、私にはよく聞き取れなかったが、数分ほどして、
「じゃあ、がんばれよ」
と巡査は声をかけて、また、パトカーを走らせ消えていった。

 短い出来事だったが、オランダの警察官の気さくさ、威圧的、高圧的ではない態度をよく示す場面だった。

 ある人がこんなことを言ったのを思い出す。
 オランダはじめヨーロッパで長く人気だったサッカーは、入っていく点数を数えるプラス評価のスポーツだが、日本やアメリカで人気の野球は、失敗の数を数えるマイナス評価のスポーツだ、と。
 スポーツのことはよくわからない。でも、オランダ人と日本人が他人に対する評価を見て要ると、確かに、オランダ人たちは、マイナスの点には目をつぶり、できるだけプラスに目を向けようとするのに対し、日本人は、どうも欠点や失敗を探して、それを修正することに懸命なようだ。

 実を言うと、オランダ人も、昔は、欠点探しの方をやっていたのだと思う。学校などは皆そうだった。このことは、オランダ人に限らず言えることで、ピーター・センゲなども、「産業型社会の教育」の特徴として、子どもを「欠陥品」としてとらえ、学校は欠陥ばかりの子どもたちの足りない部分を補うものとして考えられてきた、と言っている。
 しかしそれは、大量生産型の教育、工場の規格品生産をモデルにした、つまりは、産業社会の歯車を作ることにしか関心がなかった時代の学校のことだ。そうして、そういう学校教育をあまりにも長く続けてきた結果、子どもたちは、自分の頭で考えることをやめ、社会に「人として」参加することをやめ、十羽ひとからげの取り扱いを受けることに何の疑義も呈さないで黙々と働き続ける大人として育てられるようになった。こういう教育の仕方、こういう人間を作ることは、確かに、一面で、品質保証のある生産物を生み出す基本にはなってきたかもしれない。失敗、欠陥を補正する授業は、人々の考え、文章にできるだけ間違いを作らない、粗悪品の少ない社会を生んできたかもしれない。
 しかし、それだけでは幸福な人々の社会にはならなかった。創造的な、失敗を恐れずに何かを試みてみるという人々を生む原動力は欠いていた。
 両者のバランスは必要であると思う。また、マンパワーというものを目の前の現今の産業発展のためだけに使おうとする狭い了見では、人間の能力の計り知れない広さや深さを十二分に活用することもできなかったはずだ。

 マイナス評価からプラス評価に変えなくてはならない理由はここにあると思う。
 規制の規範、権威、評価基準で何もかもを管理しよう、押さえつけようというのは、人間が持っている無限の力を抑えつけてしまうものにほかならない。

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 明日十八日の衆院選公示を前に、すでに、選挙をめぐって活発な議論が起きている。
 民主党の支持率が増えているだけに、政権交代の可能性が現実のものとなり、長く、本当に長く続いた自民党一党独裁に終止符が打たれそうな様子だ。
 政権が変わるかもしれない、変えられるかもしれない、というくらい、有権者の政治参加意識をそそるものはない。

 テレビを通じて党首討論会は報道される。従来の記者クラブの記者会見などでは見られなかった政治家の「討論能力」が有権者の前に晒される。
 今日の六党党首会談では、党首らが、みんなで握手をして見せている写真が公開された。政治とは、みんなで作るもの、日本の政治は、与野党が討論して、より良いもの、有権者が望むものを反映するものだ、ということが、伝わるようになるのではないか、と思う。
 やっと、しかし、一気に、日本の政治が欧州の先進国並みの、民主主義国家らしい形状を見せ始めている。

 「経験が少ない」と言われマニフェストの有効性も問われる民主党ではあるが、今回の選挙は、「政権交代を有権者の手で実現させること」に意義があるのだと思う。自民党以外に政権をとるチャンスを与えてこなかったのは有権者自身だ。政権が代われば、経験のなさは当然マイナス要因となるだろう。だが、それは、はじめからわかりきったこと。むしろ、この新しい政権に、忍耐強く時間を与えて、新しい試みで、今の日本の問題のいくつかを打破させてみることではないか。マスコミの言論がこれほど重要なカギとなる時期はないと思う。政治的な動きを、淡々と、オープンに、公正に人々に伝えていってほしい。そして、評価できるものを評価させる時間を設けるべきだと思う。

 マスコミ丸抱え、偏向メディアによる大衆操作、画一教育による価値観一元化、言論ではないけたたましい右翼的な集団の暴力まがいの恐喝、アメリカからのバックアップ、世界第二の経済力、そして、世襲と言う名の「家柄」「経験」のある政治家をもってしても、日本を立て直せず、世界中の先進国の中で、最も不幸感の高い国を作ったのが、自民党の戦後政治ではなかったか。チャンスは、自民党以外に回してみるべきだ。自民党は、野党になって、一度、政党としての体質を根本的に改善し直してみるべきだと思う。
 それで初めて、日本の政治は、保守、リベラル、社会主義、環境派などと、立場と強調点を異にする政党が、それぞれにぶつかりあい妥協しあって、日本という船のかじ取りをしていく、成熟した民主主義にやっと一歩を踏み出せる。