Translate

2009/12/23

主権者の自尊心

 第1次湾岸戦争が勃発して間もない1991年2月、私たち一家は、南米の貧しい国ボリヴィアの政府所在地ラパスに降り立った。

 標高4000メートル以上の空港から、高山病を避けて、タクシーでバタバタと市街地に運ばれていく。アンデス山脈の大地に、すり鉢のようにぽっかり空いたラパスの町は、中心が、すり鉢の底にあった。すり鉢の縁に近いほど、アドべといわれる泥塀の貧しい民家が、坂道に沿ってひしめくように並び、すり鉢の底に近い、わずかな中心地に、近代的なビルやオフィス、ショッピングストリートが並んでいた。狭い歩道にひしめくような通行人の流れ、ビルの谷間の緑地や歩道や階段には、ぼろを着たインディオたちが、あるいは横になり、あるいは赤子を抱いて、通行人の投げるコインを乞うていた。高地に特有の、澄み切った青い空の下、路上生活者のいる公園や階段は、糞尿などの饐えた匂いが立ち込めていた。

 到着直後住まいが見つかるまでの1カ月間を過ごしたラパスのホテルのすぐ近くには、官立のサン・アンドレス大学の本部があった。
 その大学の門の近く、塀一面、そして、大学に近い路上の電柱という電柱、壁という壁に、隙間もなく張り巡らされていたのは、湾岸戦争でイラクへの軍事攻撃を始めたアメリカ合衆国に対する批判のビラだった。

 ボリヴィアに来る前に、5年余りを暮らしたコスタリカは、アメリカの裏庭といわれていた中米地域にある。そういわれながらも、当時の中米には、共産政権となっていたニカラグアがあり、軍を放棄して中立を維持していたコスタリカがあった。しかし、そんな中米の雰囲気とも打って変わった貧しさと、率直な反米意識が、ついたばかりのボリヴィアの印象だった。

 80年代には、度重なるクーデターや軍事政権で疲弊していた国。私たちが滞在していた90年代前半も、民間政権であったとはいえ、一握りの政治エリートが、先進国の開発援助資金と外国企業がもたらす労働機会を奪いあい、貧しいインディオたちは、都市化と環境汚染と、麻薬問題の中で、生活はよくなるどころか、ますます苦しいものになっているように見えた。

 サン・アンドレス大学には、中等教育を終えた若者たちが無条件で入学できた。しかし、質の高い教授は国外に出て行ってしまうし、いてもかけもち教員。頭もよく、研究意欲もあり、高い社会参加意識や動機があっても、不安定な政治と、向上しない経済の中で、出口のないうつうつとした青春を強いられているようにも見えた。

 湾岸戦争は、原油をめぐる利権争いだ。それは、イスラム教への差別でもあった。しかし、そんな事態の中で、ボリヴィアの若者や労働者たちは、自らキリスト教国の人間でありながら、攻撃を仕掛けた米国の傲慢を声高に批判していた。

 南米は、かつて、スペインの植民地支配者に荒らされつくした国々だ。キリスト教化も、支配者とともに送られてきた宣教師のわざによるもので、その偽善の歴史を、現地の人々は見抜いて生きてきた。
 6年足らずのボリヴィアでの滞在中、くるくると交代する政権のもとで、いったい何度路上に人々のストライキやデモを見たことだろう、、、。この国に、いったい、民主主義なるものが生まれるのはいつのことだろう、そう、部外者ながら思ったことだ。

 そんなボリヴィアに、2005年、エヴォ・モラレスというアイマラ系のインディオ出身で、中卒の大統領が誕生した。革新派で平和志向の政治家だ。そのエヴォ・モラレスが、今年、圧倒的な支持を得て再選された。

-------

 世界の最貧国から数えた方が早いボリヴィアという国。滅多に世界のニュースにも取り上げられることのない国だが、この国の人たちは、長い抑圧の歴史とグローバリゼーションで広がる貧富の差の中で、誰に聞かれることがなくとも、声を上げ続けている。たぶん、それは、尊厳のある暮らしを求めるひとびとの声なのだろう。札束で頬を叩くような援助や投資をし続けるアメリカ合衆国の、うそに満ちた『自由』や「民主主義」を見抜いている人たちが、アンデスの山の中のあの国にはいる。そして、インディオの大統領を選んだ、その国の有権者たちは、一国の主権が、その国の人々にあることを示してあまりない。

------

 日本の新聞は、こぞって、普天間問題をめぐって日米関係が緊張していると騒いでいる。公約が果たせないかもしれない、前途多難で、実績を示していない民主党に批判をするつもりなのはわかる。しかし、日本の新聞はだれのためのものなのか、、、。アメリカの政治家の言動に一喜一憂するのも結構だが、もっとやらなくてはならないのは、国内の多様な声を公開し、普天間問題を、アメリカの機嫌取りによってではなく、国民の合意として解決するための情報を提供することなのではないのか。
 日本の新聞は、長く続いた自民政権の<体制>の枠でしか、いまだにモノを考えられないものであるらしい。
 先見の明がマスメディアになければ、世論は作れない。どんなに良い考えも、社会には伝わらない。