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2009/12/29

市民社会のリーダーとは?

 リーダーシップについての議論が最近よく聞かれる。
 特に、オランダのように、世の人々が、世間的な権威主義を嫌い、強い平等観と、現実に貧富の差を最大限に縮小させようとしてきた国にとって、権威によらないリーダーシップは何なのか、と再考されているように思う。
 とりわけ、テロリストの搭乗を許してしまったスキポール空港について、いったい、だれが、責任を持つべきなのか、もしも、権威的なリーダーがいないのなら、いったい、組織として、隙間のない運営をするには、どんなプロトコルが必要なのか、という問いが、人々の頭をよぎるもののようだ。

 他方、世界中の人々が大きな先行き不安の中にある地球温暖化問題について、各国の利益を越えて確実な成果を生むための施策に同意するに至らなかったコペンハーゲンでの会議。大国の利害衝突、先進国・新興国・更新の貧困国の間の利益衝突などを、いったい、現行の国連の決議様式で処理し得るのか、という問題もある。

 個々の国家の制度と伝統的な文化様式の差異を受け入れ、その多様性をもとに全体としての発展を目指しているヨーロッパ連合のあり方は、そんな中で、コーポラティズムを基盤とした国際化のモデルを実験的に進めようとしているように見える。しかし、そんなヨーロッパ連合ですら、詳細にみてみれば、独・仏・英などの大国の発言権はいまだに大きい。各国それぞれの、自国中心主義やナショナリズムは、再々登場するアイデンティティ議論が象徴している。

 そんな中で、2009年9月以降の日本の新政権のリーダーたちには、政治家としてのリーダーシップのあり方に、これまでの日本の政治リーダーには見られなかった、ある種の理想主義が垣間見られるように思う。こんな時代だから、人心をつかむリーダーシップが必要である、やっとアメリカ依存の似非民主主義の時代を脱却して、これから本当の民主社会を作る門口に立った日本が、これから、どんな市民作りをして行くのか、その、主権者としての市民を率いる政治レーダーとはどうあるべきか、を、とにもかくにも、今政権のリーダーたちは、注意深く言動を選びながら考え始めているように思う。

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優れたリーダーの条件とは何だろう。

個人の利益や名声よりも、集団の利益を優先できることは、リーダーの根本条件だ。

そして、自分の力の限界を知っており、その不足を、他の優れたリーダーとの協力に求める姿勢、それは、多元的な、これからの世界社会に不可欠な条件であると思う。

大衆からの人気取り・威圧的態度・脅しをかけるような大声、そんなものは、リーダーには要らない。

『良い教師とは、自分では舞台に上がらない舞台監督のようなものだ』という言葉を、オランダの教育研修者が教えてくれた。
民主化時代のリーダーも同じだと思う。
『良いリーダーとは、自分では舞台に上がらない舞台監督のようなもの』そう思う。

日本政治のリーダーシップは、今、とてもいい感じで整いつつあるようにみえる。
ただ、愕然とするのは、

『いったい何をしたいのか、はっきりさせてくれ』という有権者たちだ。

何をしたいのか、はっきりさせなくてはならないのは、有権者一人ひとりであるはずだ。
政治とは、政治家がもたらす温情、そう思ってきた戦後日本の民主主義は民主主義ではない。

政治リーダーは、どんな問題にも効く万能薬の処方人ではない。

日本がこれから取り組むべき問題に対して、万能薬になる先例は、アメリカにも、ヨーロッパにも、中国にもない。一つ一つの具体的問題に、現場で取り組む覚悟のある一人ひとりの日本人が必要なだけだ。そして、一人ひとりが、自由意思で取り組める制度的な環境が整えられればそれでいい。