Translate

ラベル 日本を想う の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 日本を想う の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2009/08/31

2大政党交代制か多党連立政権か

 民主党が308議席を獲得した今回の衆院選。自民党支配に「ノー」と声を上げた意味では歴史的に意義ある選挙だった。しかし、その背後で、民主党と協力して議席を分け合うはずだった小政党は意外に票を伸ばせなかった。いったいどれほどの有権者が本当に各政党のマニフェストを自分から読んで投票をしたのだろうか。単なる抗議票が集まったということであれば、心配だ。

 選挙後民主党は、早くも来年の参議院選に向けて、単独過半数を取る意欲を見せた。これが、社民党ら、今回の選挙協力者との亀裂の原因にならなければ、と思う。もっとも亀裂を起こしても痛みを感じないほどの多数ではある。

 こういう状況は、果たして一般の有権者にとって望ましい状況なのだろうか。日本の政治体制は、日本社会は、本当に根本的に変わるのだろうか。

 2大政党交代制の国として代表的な国はアメリカ、イギリスだろう。交代のたびに政策が極端に左右に揺れ、継続性を保ちにくい。長期的な政策を進めにくい仕組みだ。その代わり、確かに、官僚組織の硬直化は起こりにくい。アメリカなどでは、官僚体制が政権交代のたびに一掃される。

 しかし、有権者の意識との関連はどうだろう。二者択一を迫られる有権者は、本当に自分が求めている政治を実現できるだろうか。官僚制にしても、多党連立で微調整が繰り返される政治体制であれば、むしろ、官僚らの専門性が求められ、硬直化は起こりにくい気がする。

 オランダのような多党連立制では、確かに、1党の持つ総合的な政権構想は実現しにくい。しかし、各党が持つ政策優先順位を持って駆け引きを行うことはできる。駆け引きは議論だ。議論は報道される。だから、おのずと有権者の政治意識は日ごろから高まりやすい。自分の気持ちや考えに最も近い政党に投票できる。その選択肢は多い。

 せっかく歴史的な政権交代を実現した日本の政権だ。
 単に自民党から民主党へ首を挿げ替えただけとならないように、また、有権者は政治エリートに期待するだけ、という社会を変えるためにも、一日も早く、機運が高まっているうちに、日本は二大政党制を求めているのか、多数連立制を求めているのかを、街頭・路上の議論に乗せていったほうがいい。

***日本の現行選挙制度は、本当に有権者の意思をよく反映できる仕組みであるのかどうか、
ブログ「オランダ・人と社会と教育と」で、オランダの政党政治制度についての報告を3回に分けて報告中http://hollandvannaoko.blogspot.com/2009/09/blog-post.html:)

2009/08/30

歴史的な一日:2009年衆院選

今日の日本を目撃できてよかった。
自民党独裁への「ノー」がやっと選挙に結集した。

対米追従、企業依存、官僚主導、マスコミ抱き込み、右翼放任、どれもこれも、時代遅れの、民主主義とは程遠い政治だった。

ひとびとの不幸感、未来に希望を持てない閉塞感が社会に堆積し、とうとう飽和点を越えたのだ、と思う。やっとひとびとの尊厳を奪ってきた日本社会のあり方に、憤りを発する人たちが増えてきた。長い時間がかかった。欧米や開発途上国などなら、もっともっと早く人々が声をあげていたのではないか。

問題が起こるたびに、自らを省みて自らを正すことから始めようとする日本人の謙譲の美徳が、もしかすると、声を上げることを遅らせてきたのかもしれない。

けれども、声はあってもそれを取り上げてこなかったのではないのか、、、

選挙戦が沸騰したこの夏、ニュースを伝えるマスコミの姿勢が変わった。党首討論会など、政治家自身に、言責を問う動きが目立ってきた。喜ばしいことだ。

新政権は、間もなく山積した問題に取り組み始めなくてはならない。日本社会を幸福感の高い社会に変えるには、少々時間がかかるような気がする。困難と障害は多い。世界的に難しい時期にあるからだ。新しい政権には、有権者の声に耳を傾ける姿勢を持続してほしい。有権者も知恵を結集して、忌憚なく政治に働きかけていけるとよいと思う。

新聞やテレビは、今後、これまでのようにマジョリティの声だけを届けるのではなく、マイノリティの声をきちんと届けるメディアになってほしい。それが、視聴者や読者を引き付ける。それが、有権者に考える姿勢を生む。有権者自身が、手の届くところから社会に働きかける姿勢を生むだろう。それが、民度を高めるジャーナリズムであると思う。

そこまでいけば、一つ一つの変革のモデルになるものは、世界にいくらも転がっている。そこから学んで日本なりの施策を生み出していけばいい。欧米ではすでに使われた切り札が、日本ではまだまだ有効に通用するものがあるに違いない。

誹謗・中傷のネット放言とは明らかに異なる、信憑性の高い、理性に基づいた、建設的批判のできるマスメディアを読者は待っている。

出版は、人を売るのではなく、多様な多元的な議論に目を開かせるメディアとなってほしい。収益優先でつくられた風に乗るのではなく、新しい風を生む媒体として、新しい時代に大股で踏み込んでいってほしい。


きょうの日を境に、戦後、急ぎ足の近代化を遂げてきた日本が、直面する独自の問題をどう乗り越えていくのか、日本に成熟した市民社会が生まれれば、それはいずれ、遅れた、しかも急ぎ足の産業化を果たしつつある中国やインドなどの国々の人々にとっても、ひとつのモデルとなるだろう。周辺の国々はこれからの日本に注目している。かつて、高度成長の奇跡を生んだ日本は、今度は、人々の幸福を保障し世界平和に貢献できる、成熟した市民社会の実現という奇跡を生み出せるかもしれない。ぜひそうなってほしいと思う。

そしていつか近い将来、ヨーロッパ連合のように、アジア連合を、日本が率先して語れる日がくることを心から祈っている。

2009/08/15

マイナス評価からプラス評価へ

 今朝、犬を連れて散歩に出たら、大きな森林公園の入り口、路面電車の停留所付近で、高校生か大学生くらいの若者たちが数人、ビデオカメラを据え付けて映画撮影をしていた。その中の一人は、停留所のポールによじ登って高い位置からカメラを回していた。
 ちょうど通りがかったパトカーがその付近に止まって、補助席の窓ガラスを下げて、巡査官がひょいと顔をのぞかせ、この若者たちに話しかけた。
「映画撮ってるのかい?」
 ボサボサ頭で色の褪めたT シャツによれよれジーパン姿の若者が、
「うん、そうだよ」
と答えて、パトカーの方に近づき、巡査の差し出す手をとって握手をした。

 それからの短い会話は、私にはよく聞き取れなかったが、数分ほどして、
「じゃあ、がんばれよ」
と巡査は声をかけて、また、パトカーを走らせ消えていった。

 短い出来事だったが、オランダの警察官の気さくさ、威圧的、高圧的ではない態度をよく示す場面だった。

 ある人がこんなことを言ったのを思い出す。
 オランダはじめヨーロッパで長く人気だったサッカーは、入っていく点数を数えるプラス評価のスポーツだが、日本やアメリカで人気の野球は、失敗の数を数えるマイナス評価のスポーツだ、と。
 スポーツのことはよくわからない。でも、オランダ人と日本人が他人に対する評価を見て要ると、確かに、オランダ人たちは、マイナスの点には目をつぶり、できるだけプラスに目を向けようとするのに対し、日本人は、どうも欠点や失敗を探して、それを修正することに懸命なようだ。

 実を言うと、オランダ人も、昔は、欠点探しの方をやっていたのだと思う。学校などは皆そうだった。このことは、オランダ人に限らず言えることで、ピーター・センゲなども、「産業型社会の教育」の特徴として、子どもを「欠陥品」としてとらえ、学校は欠陥ばかりの子どもたちの足りない部分を補うものとして考えられてきた、と言っている。
 しかしそれは、大量生産型の教育、工場の規格品生産をモデルにした、つまりは、産業社会の歯車を作ることにしか関心がなかった時代の学校のことだ。そうして、そういう学校教育をあまりにも長く続けてきた結果、子どもたちは、自分の頭で考えることをやめ、社会に「人として」参加することをやめ、十羽ひとからげの取り扱いを受けることに何の疑義も呈さないで黙々と働き続ける大人として育てられるようになった。こういう教育の仕方、こういう人間を作ることは、確かに、一面で、品質保証のある生産物を生み出す基本にはなってきたかもしれない。失敗、欠陥を補正する授業は、人々の考え、文章にできるだけ間違いを作らない、粗悪品の少ない社会を生んできたかもしれない。
 しかし、それだけでは幸福な人々の社会にはならなかった。創造的な、失敗を恐れずに何かを試みてみるという人々を生む原動力は欠いていた。
 両者のバランスは必要であると思う。また、マンパワーというものを目の前の現今の産業発展のためだけに使おうとする狭い了見では、人間の能力の計り知れない広さや深さを十二分に活用することもできなかったはずだ。

 マイナス評価からプラス評価に変えなくてはならない理由はここにあると思う。
 規制の規範、権威、評価基準で何もかもを管理しよう、押さえつけようというのは、人間が持っている無限の力を抑えつけてしまうものにほかならない。

ーーーーーーーーーーー

 明日十八日の衆院選公示を前に、すでに、選挙をめぐって活発な議論が起きている。
 民主党の支持率が増えているだけに、政権交代の可能性が現実のものとなり、長く、本当に長く続いた自民党一党独裁に終止符が打たれそうな様子だ。
 政権が変わるかもしれない、変えられるかもしれない、というくらい、有権者の政治参加意識をそそるものはない。

 テレビを通じて党首討論会は報道される。従来の記者クラブの記者会見などでは見られなかった政治家の「討論能力」が有権者の前に晒される。
 今日の六党党首会談では、党首らが、みんなで握手をして見せている写真が公開された。政治とは、みんなで作るもの、日本の政治は、与野党が討論して、より良いもの、有権者が望むものを反映するものだ、ということが、伝わるようになるのではないか、と思う。
 やっと、しかし、一気に、日本の政治が欧州の先進国並みの、民主主義国家らしい形状を見せ始めている。

 「経験が少ない」と言われマニフェストの有効性も問われる民主党ではあるが、今回の選挙は、「政権交代を有権者の手で実現させること」に意義があるのだと思う。自民党以外に政権をとるチャンスを与えてこなかったのは有権者自身だ。政権が代われば、経験のなさは当然マイナス要因となるだろう。だが、それは、はじめからわかりきったこと。むしろ、この新しい政権に、忍耐強く時間を与えて、新しい試みで、今の日本の問題のいくつかを打破させてみることではないか。マスコミの言論がこれほど重要なカギとなる時期はないと思う。政治的な動きを、淡々と、オープンに、公正に人々に伝えていってほしい。そして、評価できるものを評価させる時間を設けるべきだと思う。

 マスコミ丸抱え、偏向メディアによる大衆操作、画一教育による価値観一元化、言論ではないけたたましい右翼的な集団の暴力まがいの恐喝、アメリカからのバックアップ、世界第二の経済力、そして、世襲と言う名の「家柄」「経験」のある政治家をもってしても、日本を立て直せず、世界中の先進国の中で、最も不幸感の高い国を作ったのが、自民党の戦後政治ではなかったか。チャンスは、自民党以外に回してみるべきだ。自民党は、野党になって、一度、政党としての体質を根本的に改善し直してみるべきだと思う。
 それで初めて、日本の政治は、保守、リベラル、社会主義、環境派などと、立場と強調点を異にする政党が、それぞれにぶつかりあい妥協しあって、日本という船のかじ取りをしていく、成熟した民主主義にやっと一歩を踏み出せる。

 


2009/06/02

貧困という危なさ

 「貧困」が最近の政治議論のキーワードになりつつある。
 なぜ「貧困」が危ないのか。
 人間としての尊厳が保てないからだ。

 日本政治のキーワードになりつつある「貧困」は、今、すでに、権力者からまんまと利用されつつある。人間としての尊厳を保てないほどの貧困に喘ぎ、なおかつ、そういう貧困の中でまともにものを考え判断する教育さえ受けられなかった人々は、権力者の力で赤子の手をひねるようにどうにでもなる存在だ。

 私の海外在住体験の第一歩はマレーシアの最貧地域の貧村での入村調査だった。電気はまだ村の一部にしか通っておらず、ほとんどの家には、トイレをはじめ下水溝がなかった。
 80年代初頭のことだ。
 
 当時、日本経済は繁栄の頂点。その年、マハティール首相は、「ルック・イースト政策」と呼んで、日本を見習え、をスローガンに掲げていた。日本は、開発途上資金を落としてくれるパトロンだった。日本の建設会社は、現地にビルを建てては、元をとり返していた。その金で、私のいた貧村がどういう事態になっていたのか、、、

 私の当時の研究テーマは「マレー村落の権力構造」。
 そこで見たものは、貧困地域の生活向上のために開発資金が落とされる中、村の中で、現政権に対して「イエスマン」になる人々を(近代的)リーダーとして引き上げ、それらのリーダーを通して、村の中で、最も底辺にある、粗末な住居とぎりぎりの自給生活をしている人々に、少額の補助金を落としていくことだった。貧困にあるものは、少しでも補助金がもらえれば息がつける。他の村人との格差を見せつけられれば、補助金はもっと嬉しい。こんなに、恩恵深い政党なら支持しようと、村人たちは、トラックに荷台に乗せられ投票場に行き、保守政権への投票をした。

 反対していたのは、イスラム教急進派と呼ばれる政党の人々だ。
 自営業を営み、そこそこに自分の生計を立てている人々には、補助金は降りてこない。村長のイエスマンにならず、毅然と自分の尊厳を守るような連中は、政府関係者にとっては目障りでやりにくい。カネに目がくらんだ村長や、州の権力者が天下りさせる村長が増える。穏健派、実は優柔不断な政府系モスクのイマムが、なぜか家を新築し、電気を引き、要りもしない養漁場を作って、村はずれの貧農にカネをばらまいて票を集める。見苦しさに、反対の声を上げる人々は、哀しいかな、原理主義に走り、宗教を利用して抵抗する以外にない。
 急進的な原理主義が、民主制にあってはならない「暴力」を使わざるを得ないところまで追い込まれていく。

 思いもかけないやりきれない悪循環を目の当たりにして、日本の間接的な加担が惜しまれた。
 しかし、当時の日本は、まだ、格差の少ない、平準性の高い国だった。しかも、開発途上資金は、かつてに日本の侵略国に対してより多く支払われていた。日本にしてみれば、よく言えば罪滅ぼし、悪く言えば、口封じのカネだったのだと思う。

 どうせカネを使うのなら、なぜはっきりと侵略への謝罪をしないのか、、、、まあ、日本流の、言葉の外交ではなく情に訴える外交か、、、それにしても、それでは歴史には刻まれていかない、、、、、と釈然としない思いでいるうち、日本社会そのものがおかしくなっていった。一億総中流と言われたのは、今では、夢のかなた。「貧困」が問題になるなど、いったい、20年前の日本人のだれが予想していたことだろう。しかし、そうならざるを得ない、内側の矛盾は、日本にはずっとあった。金融危機がどうの、グローバル化がどうのという以前の、日本社会の民主性の基盤そのものが、初めから疑わしい質のものだったのだ、と思う。外的要因が今の日本を生んだのではなく、内側に巣くっていた問題が、グローバル化と金融危機によって見事に露呈しただけだ、と私は思っている。

 有識者会議への関心が熱心だ。
 非正規雇用者への保険制度、子育て支援などで、貧困層への支援策が浮上している。
 なぜか、マレーシアの村で見た、成り上がり村長と、最貧農民の関係を想起してしまう。そうでなければいい、と思いつつ、「有識者会議」のあり方は危ない、と思う。

 「貧困」が世の中の話題になっているだけに、ここに目を付け、庇護のスタンスをとることで、日本社会の本質的な問題、戦後政治の本質的な誤りから、目をそらさせようということらしい、わたしにはどうしてもそうみえてしまう。

 権力者の「貧困」利用は、マレーシアに限ったことではない。

 開発途上国援助の専門家である夫に伴って、アジア、アフリカ、ラテンアメリカで15年を暮らした。
 食うや食わずの遊牧民を定住化させ、食物ではなく「綿」を作らせる政府。不作で綿ができなければ、この農民たちには、カネが入るどころか種子購入のために支払われたクレジットへの借金返済が待っている。政府は、借金を返せと追い詰めることもできるし、また、返せと迫らずに、「恩情」を見せれば、この農民らは、政府を支持する。どっちに転がっても権力者には失うものがない構造が既にできている。

 途上国に大きな橋をかけるといって事業を起こす大国は、まず、現地の権力者にカネをばらまく。橋梁工事の予算の半分がこういう現地の政治家の懐に入ったからと言って、橋さえできれば問題はない、そういう開発援助がどれだけごろごろしていたことか。そして、工事を受注するのは、結局は、大国本国の企業だ。これまた、失うものは何もない。

 80年代に、そういう議論は、山ほどあった。日本の開発途上政策は、その後どれだけ変わったのか。議論は、影響を与えることができたのか。
 オランダの開発途上政策は、あの頃大きく変わった。自分たちの社会の機会均等を追及していたオランダ市民は、世界における格差が、やがて世界平和を危うくさせるものであることを、実感として知っていたからだ。

 不当解雇や派遣労働で、こんなにも多くの貧困者を生んでいる日本もまた、どうやら、そういう権力者のトリックでどうにでもなる大衆社会に転落してしまったようだ。

 識者は言う。「近代化は産業化に他ならない。産業化が生んだ社会で、わたしたちはみな被害者、社会に出口がなくなっている。さあ、みんなで考えましょう」と。

 ちょっと待ってくれ、近代化はそういうものではない、、、私は、一人で、そういう心の叫びを聞いている。近代化の本質を人々の目から隠したまま、ただひたすら、産業社会の歯車を作るだけの教育を作ってきたのは、それからメリットを受ける人々が意図的にしてきたことだったのではないか。日本の産業化は、ただ、知らないうちに、そうなってしまった、というようなものではない。意図して、市民を作るという営みを排除してきて成り立っているだけではないか、、、。余計なことを考えずに、ただひたすら、勤労精神に励む人間を大量に作っていれば、経済は安定し、未来は約束される、、、そこには、「指導者」の明らかな「意図」があったはずだ。

 近代とは、人間が、他人の作った既成の価値観から解放され、自分の頭でものを考えること、「良心の自由」に従って生きるという決意をしたことから始まっている。だから、科学が必要だった。一定の、誰にでも共有できる問いを立て、共有できる手続きを持って、結論を引き出す。科学には、だれもがアクセスできなくてはならない、そう考えるのが近代というものだ。だから、近代教育は、「科学」を教える、「科学的な探求の態度と技術」を教えるため、子供が自分の力で学び続けることができる大人になれるように「育てる」ために生まれたものだ。しかし、哀しいかな、どの先進国でも、近代教育は、短時日のうちに、産業振興型の競争画一教育へと変容を遂げてしまう。

 
 産業化は、科学振興によって生まれた技術が可能にした拡大生産の結果であり、拝金主義は、近代の本質を忘れて産業化にまい進した人間の愚弄の結果にすぎない。人間の知恵が生んだはずの産業が、人間の尊厳を奪い去った。だから、ここから、どうやって足を洗ったらよいのか、、、、

 私たちは、働くために生きているのか、生きるために働いているのか、、、。男と女の分業は、カネのためか、それとも、よりよく生きるためか、、、。
 よくよく考えてみなくてはならないと思う。

 拝金主義から足を洗わない限り、「貧困」は政治に利用されるし、どっちに転がっても勝ち目のない戦いとなる。だから、危ない。カネがなければ息の根を止められるほどに貶められた貧困は、人間が、誇りを持って生きることを許さないだけに危ない。

 貧困を生まない、貧富の格差を生まないことを最優先してきた、デンマークやオランダ、そして北欧の国々の制度はだから強い。持続可能性のある社会とは、貧困を絶対に生み出さないシステムのある社会だ。

 いよいよ、日本の民主性を問われる正念場がやってきた、そう見える。

 貧困は、「民主的な社会」の健全さを保つためには、絶対に作ってはならないものだった。
 それを生んだ日本の政治は実に醜い。それを放ってきたマスメディアはさらに醜い。
 知っていながら、分かっていながら、この期に及んで「独善」と「シニシズム」に浸る知識人は、風上にも置けない。

2009/04/20

小国の方がいいこともある???

 かつてサッカー選手として世界に名声をはせたオランダ人ヨハン・クラウフ。
 彼は、選手をやめてからもバルセロナのサッカーチームの監督をし、また、オランダでも、サッカーの重要な試合があるごとに解説者として登場する、いわば「サッカーの神様」のような存在となった。日本でもサッカーファンなら一度は聞いたことがある名前だろう。実際、現役中のクラウフのプレーは、今ビデオで見ても、華やかで美しい。
 
 ただ、天は人に二物を与えない、というか、彼は、オランダ語の方はあまり得意ではなかったらしい。サッカーの試合の解説中にポンポン飛び出す、文法も論理もめちゃくちゃな彼のものの言いまわしは、かえって、彼が何を言おうとしているかがよく分かるだけに、逆に「的を得た表現」しかも「面白おかしい表現」として名言集が作られるほどとなった。

 そんな中でもとくに有名なのは「どんな難点にも必ず利点がある」というもの。
 まあ、クラウフが言いたかったのは、「どんなに苦しく困難な状況にあっても見方を変えればそれをよい方向に動かす力が引き出せるものだ」というようなことだったのだろう。もちろん、もとはサッカーの試合の解説だから、プレー中の状況を言っている。だが、あまりに物事の核心をついたこの表現に、オランダ人はすっかり喜んで、流行語に仕立て上げた。流行語というより、もう、オランダ人の中には知らない人はいない、というほどの哲学的(?)名言となった。
 たぶん、大きく譲って「どんなことにも難点と同時に利点がある」と言えば、論理的には受け入れられる表現になったのだろうが、それをすっ飛ばして上のような表現にしたことが、かえって人々に訴え、大爆笑と共に、オランダ人の多くが、何かにつけてこの表現を口にするようになった。

 それにしても、オランダ人にはもってこい、オランダ人が喜んで使うはずだ、とつくづく思う。

 オランダ人らは、その昔、ぬかるみの湿地帯、海とも陸とも思えない河口デルタ地帯を堤防で囲い風車で干拓して、人が住み、生業をして生きていける土地を作った。よほど食えない人々がこの土地に集まってきていたのだな、と思う。もともと、移民の国なのだ。もともと、既存の体制的な権力や権威を嫌う人々がいる。そういう場所に、どこよりも先駆けて「市民」の国ができた。

 つい先ごろ、ある雑誌の中で、またオランダ人の面白い言葉を発見した。

「小さな国の利点は、大きな外国を持っているということだ (The advantage of a small nation is that she has a great foreign place)」

 これなど、小国の負け惜しみにしてはあまりに極端なので、つい気の毒になり、同時に、スカッとした気分になる。ヨハン・クラウフなら、真剣な顔をして大きくうなづきそうだ。
 この言葉は、かつて、外国人から、オランダにはなぜ外交のために二人の大臣を置いているのか、という質問に応えて、ヨセフ・ルンスという元外務大臣で、NATOの事務総長にもなったオランダ人政治家が応えていったものだそうだ。

 外交のための二人の大臣とは、ひとりは、外務大臣のこと、もう一人は開発協力大臣のことだろう。

 オランダは、世界を向いている。オランダはいつも世界を向いてきた。
 現に、オランダが地球の表面積に占めている割合は、0.008%だが、経済的な地位は世界で第16位なのだそうだ。開発途上国への協力は、世界でも常に1,2位を争う。こういう外交を、大国に依存してではなく、小さくとも、独立して、多方位外交でやってきたというのだから見事だ。小国オランダの国民が自慢したい気持ちもわかる。確かに、連合政権で、コーポラティズムのオランダは、そのために、政策が常に左右に揺れ続ける、見方を変えれば典型的な「日和見政治」と言えなくもないが、少なくとも、自分たちの力で、自分らの国を守っていこうという姿勢だけは模範にしたい。

 さて、日本はどうか。
 アメリカ経済が日ごとに傾いていく中、日本ももうアメリカには頼っていられそうもない。アメリカに依存しない日本は果たして「大国」なのか「小国」なのか。

 もしも、ヨセフ・ルンスの言葉に従うならば、「小国」である方が、利点があるようだ。

 パラドックスとはこういうことを言う。パラドックスを見極めるには、相対観が必要だ。物事に対して、相対感を持ち、パラドックスを読み取ることができれば、おのずと未来への道は開かれていく。「小国」と言ったって、日本は知恵のある人材を何十万と抱えた人的資源の質の高い国だ。みんなが力を合わせ譲り合って知恵をしぼりだせば、日本人にしかできない未来を拓く方法が必ず見つかると思う。

 日本は、自らを過大評価する人為的に作られた「大国主義」や「大国依存」を捨てて、そろそろ、虚心坦懐に「小国」の利点を無駄なく最大限に利用していく時代に来ているのではないか??? 日本を守るのは、日本人しかいない。そのためには、みんなが、忌憚なく発言でき、マイノリティの声が聞こえる議会制民主主義の社会がまず何よりも必要だ。



 少なくとも、小国の人間は、偉そうな態度をとならないから外国でも付き合いやすい。



2009/02/19

和魂洋才という惨禍

 日本人が外国に出かけて行って、「ああ、この遅れはどうして取り戻したらいいのだろう」と愕然とするたびに、まるで慰めのように心に湧いてくる言葉のひとつが「和魂洋才」という語ではなかっただろうか。

 しかし、このことばこそが、魂と才の二項対立を、また、和と洋の二項対立を、日本人の頭の中に想像で生み出した、越え難い淵の両側に分けて、日本人の意識を解放することを阻んできた、取り返しのつかぬ惨禍ではなかったか、と私は思っている。

 当たり前のことだが、魂と才とは切り離すことができない。また、和も洋も、人間の社会であるという意味では大きな差異はない。

 和魂洋才と言い続けてきたのは日本人に島国根性があったからだ。和魂へのこだわりは、鎖国意識から解放されていないことの証しだ。本当に日本人にユニークな魂があるのであれば、和魂洋才などとケチなことを言いはしない。その魂は、他人に気付かれないところに大切にしまって、相手の魂を包み込むことができるはずだ。

――――

 オランダについて伝えている私が、ついため息を漏らさずにおれなくなるのは、次のような言葉を聞く時だ。

 オランダは「やっぱり」いいわね、人の意識が違うから、、
 ヨーロッパはやはり歴史が違う、、、

 言うだけいって、自分をどっぷり未知の文化に投げ込んでみる覚悟は果たしてあるのだろうか、と思う。

 そして、アメリカが栄えている時には、アメリカに追随し、フィンランドの学力が高いといえばフィンランド詣でに明け暮れ、、、。魂から変えてみる気などさらさらなく、才だけ安易に移植してみて、育たないとなれば、「魂」が違うから、と放り出す。つきつめれば、和魂洋才とは、これまた日本人が捨てきれない「甘え」の産物なのではないか、と思う。

 和洋の間に境はない。どちらも同じ、生まれた時は同じ姿の「人間」の社会だ。人間、どこの社会でも大して違う感じ方、考え方はしないものだ。日本人には共有できない洋魂というものが仮にあるのだ、とすれば、それは、西洋の人々が、「自分の国の発展は自分たちで決めるという覚悟をしている」というだけのこと、そして、「歴史」というものを、未来を生み出すための材料にしているという姿勢だろう。それが洋魂の神髄であるならば、日本人は、確かに、そういう精神をはじめから取り入れてこなかった。

 「和魂」は別だ、とありもしないものを後生大事にするくらいなら、そんな「和魂」など口にせず、「洋才」などとみみっちい猿真似などせずに、日本の発展は自分たちの手で、魂も才も自分たちの頭で、と考えるべきだろう。和魂、洋魂と分ける前に、日本という国の文明は、だれの手も借りずに自分たちで生み出していくものだ、と正々堂々と、人がどう見ているかなど気にせずに、髪振り乱してでも取り組むべきだろう。


 いっそのことこれからは「洋魂和才でいってみれば?」どうだろう。
 最近の和魂にはあまり見るべきものがないが、和才の方は、まだ世界でもましな方だ。

2009/01/29

競争という名の非効率

 競争社会は人々に幸せをもたらさない。人々が何度口を酸っぱくしてそう訴えても、日本の競争文化はなくならない。学校でも社会でも、指導者たちは、「競争」さえ煽り立てていれば、万事安泰と思っているらしい。それが証拠に、学校では、学力競争が以前にも増して煽り立てられ、社会では、一方で失業者がどんどん増えているというのに、エリートたちは休む間もないほどの残業と忙しさに追い立てられている。スローに人生を楽しみたくても、そんなことをすれば「敗者」になって、社会のどこにも自分の生きる場を見つけられない、と流れに任せるより選択の余地がないという人が山ほどいる。

 でも、競争文化は、本当に効率的にこの国の経済基盤を支えているのだろうか。経済大国日本の地位を今後も支え続けるために、競争をあおることが、ほんとうに、何よりも効果的なのだろうか。競争をやめると、日本は、ほんとうに今の地位から転げ落ちてしまうのだろうか。競争は、だれのために、効率的なのか。競争社会のメリットを享受しているのはいったい誰なのか? そんな人が本当にいるのか?

 受験競争に追い立てられる子供たちに、本を読み浸る時間はない。友達と議論しているひまもない。同じ練習問題を、早朝の補習、学校の授業、放課後の塾、夜間の自宅での勉強と繰り返し、それでも、入試に受かるかどうか不安な子供たち。いくら勉強しても、「これでわかった」と安心できる基準がないからだ。
 その結果、本を読む量は少なくなる。自分から働きかけて情報を集める時間もない。そういう子どもが、よしんば首尾よく有名一流大学の入試に合格したとして、この子たちにエリートとしてのどんな才能があるというのだろう。同じ問題を何時間もの時間をかけて繰り返し説くという才能が、いったいどんな仕事の役に立つというのだろう。

 友達と議論したことのない子は、自分の頭で物事を考え、自分の意見を持つということを知らない。自分の意見が、他の人の意見と違うという経験がない。複数の人間がいれば、複数の意見があってよいのだ、ということを考えてみたこともない。そういう子が、よしんばエリートとして国や会社の重大事にかかわり、外国で他国の人々と交渉する立場になったとして、いったい、どういう交渉術を持っているというのだろう。ウィン・ウィンの合意を生むのは、立場の違うものが心を開いて話し合って、どちらも満足できる結果を導くという経験をいくつも積んでおかなければできるものではなかろう。いったい、そういう訓練は、どこでするのだろう。だれが、若者にそんな訓練を与えることができるのだろう。

 けれども、競争の非効率の、もっと大きな問題は、もっとほかのところにある。競争に落ちこぼれる敗者が持つストレスと敗北感から生まれる社会不安だ。いつ、だれが、凶器を振り回し、有毒ガスをまき散らすか分からない、、、そういう悲惨な事件は、これまでにもう数えきれないほど経験しているというのに、この国の指導者は、その原因が、競争社会にあるということを認めるつもりがないようだ。

 「競争」は、競争をしている本人たちではなく、それをさせているものが決めた尺度によっておこる。その尺度は、たいていの場合、数ではかれる基準だけだ。文字を使わない表現力、情緒の安定、社会性や責任感、議論やディベートの力、深い思考力、物事を立体的にとらえる力、問いかける力、自分の問いを追求していく意欲や忍耐力、他の人の意見を聴く力、物事の洞察力、そういった、人間に特有のかけがえのない能力をみな看過して、目先の利益に結びつく力だけ、それも、紙の上ではかれるものだけで競争させようとするのが入試だ。

 人間、誰だって人には負けたくないものだ。自分の子供を「敗者」にしたくもない。
 なぜ、勝者と敗者がいなくてはならないのだろう。競争をやめれば、勝ちも負けもないはずなのに。

 
 競争社会は、そういう無意味な勝ち負けを作り、そのために山ほどの無駄を世の中に残している。

 経済が低迷し、パイの取り合いが激しくなると、競争はまたもや激しくなる。

 日本という社会では「競争」に勝たなければ一人前にはなれない、と思い込んでいるそのことが、どんなに非効率で非生産的な不幸きわまりない社会を生む原因になっているのかを、一度みんなで立ち止まって考えてみたほうがいい、、、

 特に「勝者」たちに考えてもらいたい。いったい自分は何に勝ってきたのか、と。いったい、人より優れた何を持っているのか、と。自分は、この国の紙切れ一枚の競争に勝って、それで果たして世界で通用する一人前の人間になったか、と。

 いったい何のために、いったいどんなメリットがあって、私たちは今のような「競争」社会にいまだにこだわり続けなくてはならないのだろう。

2009/01/21

同調と協働

 オバマ大統領の就任式の模様が、ここオランダでも生放送で伝えられた。選挙キャンペーンでは「イエス、ウィー キャン(Yes we can)」をキャッチフレーズに経済の低迷と混乱の中にあるアメリカの市民らに向けて、団結を鼓舞し支持を集めたオバマ。しかし、就任式の演説では、アメリカ政治が抱える問題の多さ、厳しさを意識してか、ずいぶん険しい表情だったのが印象的だった。それにしても就任式の様子を一目見ようと集まった人々の群れ、キャピトール・ヒル周辺があれほどの群衆で埋まったのは史上初のことだという、、、
 その人々に向けてのオバマの演説の趣旨は、キリスト教徒も、イスラム教徒も、ユダヤ教徒も、ヒンズー教徒も、無宗教者も、ともに協力してアメリカを立て直そう、そして、世界の国々と友好的な関係を取り戻そう、アメリカ合衆国はそういう平和と団結の象徴となるべきだ、というメッセージだった。
 集まっていた群衆の中に、黒人が多いのが目立っていた。そして、彼らの表情が希望に満ちていたのも印象的だった。
 一夜明けてニュースを聞く。オバマはさっそくキューバにあるテロリスト容疑者らの収容所グアンタナモ・ベイの収容所閉鎖に向けて動き出した。連帯と団結の政権にとって、象徴的な第1歩だ。アメリカ人たちの気持ちが、新しい時代に向けて希望でまとまっているうちに、実現できる施策は次々にやっていってほしい、と思う。

 指導者が人々の共同を鼓舞する時、集団の集め方、あるいは、人の集まり方に二つの型があると思う。そして、その二つは、中身と方向がまるで違う、、、

 ブッシュ政権時代、そして、タカ派の共和党が政権を取る時には、必ず敵を仮想して、アメリカ国家主義で人を鼓舞する。教育も受けられずまともな職にも就けない若い人々は、まるで牛馬のように兵士として軍隊にとられ、戦場に送り出されてきた。国内で産業を支える労働者として働いている人々が、工場の歯車として働かされ、企業が経営難となれば路上に放り出される。そこで利用されるのは、「自由の国」という美しい御旗を掲げた星条旗のアメリカへの愛国心だ。
 しかし、オバマがいま求めているものは、そういう顔のない群衆を十羽ひとからげにする「同調的な集団主義」ではない。そうではなくて、たとえ何百万の人であろうとも、一人一人が顔と心と頭を持ったユニークでかけがえのない存在として、お互いの能力を認め合ってかかわる「協働」だ。だから、彼は、Yes, I canとではなく、Yes, we canと人々に呼びかけた。黒人も、褐色の人々も、黄色人も、白人も、、、と。この信念を信じたい。そしてその信念が長く続くことを。

 ヨーロッパもまた、多元主義、多文化共存の、多様性に満ちた、それに支えられた社会を理想に、平和協調の政治・経済体制を求めている。そして、それは、2つの大戦が引き起こした悲惨残虐極まりない戦争がどれだけ破壊的で無駄なものかをいやというほど知らされた時に始まった。1951年にベネルクス3国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルグ)と独仏伊の参加でつくられた「石炭鉄鋼共同体」は、武器生産の原料を敵味方が共有することから始まった平和協調の道だったのだ。
 一見、民主主義、協調の道、多文化共生の話し合いによる共同は、時間もかかり効率が悪いように見える。しかし、わずか60年足らずの時間で、この「石炭鉄鋼共同体」に始まる連帯は、27カ国を含む「ヨーロッパ共同体」にまで膨らんできている。そして、それは、同じ趣旨で参加を希望する国々を包み込みながら、今後も世界に向けて平和の共同体として地盤を築いていくのだろうと思う。

 日本の指導者たちには、そういう世界状況を踏まえた日本の未来への展望があるのだろうか。政治家はもとより、彼らを頭脳で支えなくてはならない研究者たち、人々に未来への方向づけを率先して示さなくてはならないジャーナリストたちに、展望はあるのだろうか。

 日本がいま必要としているのは、人々の無批判で盲目な同調ではなく、自立した批判的な一人一人の成員を元につくられる協働の精神だと思う。愛国心の熱狂に群れていくことではなく、一人一人が、自分の能力を知り、他人の能力を尊重して、お互いが力を出し合って共同する連帯の精神だ。そして、日本という国自身が、そこにいる人々の持つ豊かな知的資源を基礎にして、他の国と共にお互いにとって利益になるウィン・ウィンの取引をしていく交渉力だ。1960年代から80年代にかけての日本は、アジアの中で「ひとり勝ち」していることに酔いしれていた。軍事力はもう使わなかったかもしれない、、しかし、多くの国の人々の貧困の上に富を築いてきたことは確かだ。

 今、ヨーロッパでもアメリカでも、競争と戦闘の時代を背景に、協働に向けたリーダーシップの時代が始まろうとしている。日本が、本当に、「西側」として認められた国になっていたのだったら、それを現実に証明していかなくてはならないのはまさに今、この時だ。日本もまた、過去に、清算しきれていない戦争という背景を持っている。水に流すのではなく語り続けることが、「戦争が悪い」と責任逃れをするのではなく「人間というものは苦しくなれば自分のことしか考えなくなる危険極まりないものだ」という普遍の事実に率直に目を開いていることが、どれだけ大切なことか、、、

 幸福感や自己肯定感の少ない子どもたち、増加する大人の自殺、定職につかない、つけない、つくための人間的な育ちを保障されてこなかった若者たち。現政権の政治家に展望はなく、かといって、野党にも確固とした世界観と未来の方向を示す力のないこの国、、、
 いったい、あの豊かな時代に、私たち日本人は何をしてきたというのだろう、、、

 「集団主義」はペシミズム(悲観)に鼓舞される。だが、「協働」はオプティミズム(楽観)がなくては生まれない。
 今の日本、ユーモアがなくてメランコリーばかりがはびこっている。メランコリーの原因は、不満や怒りをどこに向けたらよいのか、どこにも責任の所在が見えないからだと思う。責任は、政治家にも市民にも、両方にあると思う。世の中のすべての人がそれぞれの身の丈に合うように負わなければならない責任というものがある。
 オプティミズムは、こういう時にこそ必要なものなのだ。苦しい時、閉塞感の強い時にこそ、オプティミズムが求められる。そういう時にこそ、「何とかなるさ、大丈夫」と笑って見せる強さが要る。日本人のメランコリーは、今も、まだまだ飢えても路頭に迷ってもいない日本という大国の、甘えた子供じみた感傷でしかないと思う。

 「コップに半分しか水が残っていないのではなく、コップにはまだ半分も水が残っている」という言い方がある。日本はまだまだ経済大国だ。残っている資源には、財源だけではなく、日本人の勤勉さや真摯さ、明晰な頭脳を育てる力、温かい思いやりもあろう。その残った資源を使って、日本が再生できるかどうか、、、隣国や世界の国々の人たちと協働していけるかどうか、それが今試されているのだと思う。

 最近数年間の間に経済の急成長を遂げた中国やインドなどの国々は、いずれ、何年かの先、日本と同じような社会の軋みを体験すると思う。成長期とはいえ、貧富の格差、地位の格差がとても広がっているからだ。これらの国にも、近代社会の基本である、個人の人権はいまだに保障されていないのではないか、と思う。
 だからこそ、いま、日本が、経済成長の時代を過去のものとして、成熟した近代社会として、人々に平等に認められた人間の権利とは何なのか、人間の豊かさとは何なのかを問い続け、日本なりの近代化の道筋を見出していくことができれば、それは何年かの後、再び、新しい意味で、西洋以外の国々の人々にとって励みとなるモデルを示していく可能性にもつながっていると思う。



2008/12/05

あとずさる民主主義???

 人間の社会は、普通、権威主義から民主主義へと発展していくものだと思っていた。けれども、今、日本では、民主主義が権威主義へ激しく撤退していこうとしているという。そうだとしたら、世界のなかでもそんな例はあまりにないのではないか。

 かつて日本通のオランダ人ジャーナリスト、カレル・ファン・ウォルフェレンは「日本・権力構造の謎」などの本を著わし、民主主義の発展を阻む日本社会独自の権力行使の在り方を外国人の目で鋭利に分析した。この本は、90年ごろ、”The Enigma of Japanese Power”というタイトルで、国際的にも広く知られた本だ。当時、ウォルフェレンの著作は、日本の中でも、少なくとも知識人階層の間ではかなり広く良く読まれたのではなかったか、と思う。バブルが崩れて先行き不安になった日本人にとって自らを省みるために重要な客観的な視点を与えてくれる本だったのではなかったろうか。

 最近、彼よりも何年かあとに、オランダの主要紙の特派員として10年余り日本に滞在したハンス・ファン・デル・ルヒトというジャーナリストが、日本についての本をオランダ語で著わし、そろそろ書店の店頭に出てきている。「くびきにひかれた民主主義―――スクリーンの後ろの日本」とでも訳そうか。彼は、90年代の後半からつい数年前まで、日本から様々の特集記事をこの紙面で発信していたので、日本に少しでも関心のあるオランダ人読者にはよく知られた記者だ。

 この3日、その広報の意味もあってか、ファン・デル・ルヒト自身が、NRC紙のオピニオンページの紙上で、かなり目立った記事を書いていた。
「非民主的な日本はゆっくりと後退していく」と題されたこの記事、副題には、「保守的なリーダーたちは将来へのビジョンを欠き、日本の伝統の豊かさを好んで話題にする」、そして、リード部分には「経済大国日本は、アジアの他の諸国が嵐のような成長を遂げているそばで、権威主義の過去へのノスタルジーにあとずさりしている」とある。
 ファン・デル・ルヒトは、バブル崩壊後の日本の経済について、日本の政治が無策であったこと、先進諸国の中では例外的なほどに大きな国庫負債を背負っていて尚、今回の金融危機でも将来への何の見通しもなく国庫から多額の金融支援注入を決めたこと、その一方で、失業率は急増、しかも、失業者として登録される数には疑いが多く、引きこもり・ニート・フリーターは増え続け、自殺者の数は倍増、生命保険の保険金を遺族に残してやっと家族を守る人がいると述べる。田母神問題にも触れ、日本の政治家や企業家の常軌を逸した歴史認識に慨嘆してもいる。

そして彼はこう続ける。
「(田母神の)この更迭は、実は、見せかけのものにすぎない。自由民主党の政治家たちは自分たちもまた戦争について肯定的な言葉で語りたくて仕方がないのだ。更迭などをするよりも、戦争についてのオープンな議論をすべきであった。こういう議論を行うことで、日本という国はこれからどんな国になりたいと思っているのか、それは、権威主義の国なのかそれとも民主主義の国なのか、という問いをやっと議論できたはずだ。現在政治の主導権を握っている人々は今もまだ岸信介の人形劇を演じているだけだ。岸は1930年代40年代の戦時内閣におり、一度は、アメリカ合衆国によって戦争犯罪人の容疑で刑務所に入れられた人だ。政治的日和見主義が彼を1948年に自由の身にした。」

 オランダの主要紙の紙上で、日本についてこのような報告がなされているのだ。
 日本国内の新聞には到底取り上げても貰えそうにない論説が、海外では公的に発表される。せめて、国外のメディアがどんな風に日本を伝えているかくらいは、日本人も知っていて良さそうなものだ。

 ウォルフェレンのころまでは、日本の書籍市場の中には、まだ、外国から見た日本や、外国の者への関心が大きかったと思う。しかし、最近は、日本人の海外事情への関心がとても薄くなってきているようだ。日本国内に山積した問題があまりに多く、海外のことなど考えている余裕がなくなっているのかもしれない。「お前らにオレたちの苦しみがわかってたまるか、自分たちだけいい生活をしていて偉そうなことを言ってくれるな」とでも思っているのかもしれない。

 しかし、それだけではないように思う。
 特にテレビや新聞といった、一般市民への影響力が極めて大きなマス・メディアのジャーナリズムが、日本社会についての自己批判を書きたがらなくなっているのではないか。もともと、政権を獲得している与党の議論以外は避け、批判的な意見には発言の場を与えてこなかったのが日本のテレビや大手の新聞だ。その中で、唯一、率直で忌憚のない意見が聞こえたのは、日本国内に政治的立場を持たないだけに偏見の少ない外国(人)からの視点だった。しかし、それさえも、最近はあまり大きな影響力を持たないような気がする。少なくとも、様々の世界の出来事について諸外国のジャーナリストたちの論説がほとんど同時で伝わるオランダとは大きな違いだ。

 日本は、戦後アメリカ占領の下で「民主主義」制度を取り入れた。アメリカ主導の上からの「民主主義」を、ファン・デル・ルヒトは、日本人の政治的な確信によって生まれたものではなく、単なる「日和見主義」からのものだった、という。現に、朝鮮戦争勃発以後、米ソの冷戦体制が固まっていく中、日本の社会主義的な運動はことごとく抑圧され、日本の政治は、アメリカ合衆国の傘の中に完全に置かれることになる。その時代、戦争を放棄した日本人が、過去に目をつぶって、ひたすら「経済発展」のために身を粉にして働いていた、ということを思えば、その非は、日本人自身のものではなかったと言い訳することもできなくはない。

 だが、それが、どれだけ日本人と日本という社会の未来を担う子供たちを不幸に陥れるものであったことか。ヨーロッパの国々では、この同じ時代に、高度の社会福祉制度が確立し、人間一人ひとりの価値を認める社会意識が力強く発達していったのだ。そして、その差は、バブルがはじけた時に、日本人の目にも一目瞭然であったはずではないか。

 けれども、そのすべてが誰の目にも明らかになった今、日本人はまたしても、世界に目をつぶろうとしている。まるで耳を両手で塞いで「イヤイヤ」と首を横に振っている子どものようだ。そして、今回の日本人の選択は、60年代のそれのようにアメリカのせいにするわけにはいかない、日本人自身の選択だ。

 かつて黒船が来て日本が開国を迫られた時に、指導者たちは、日本が世界から技術的に後れをとっていることを垣間見ていたにもかかわらず「イヤイヤ」をした。唯一長崎の出島に窓を開いて見ていたオランダから、日本の遅れは見えていた。

 今回の日本の閉塞はあの時代の鎖国主義と同じだ。誰が風穴をあけるのか。 

 しかし、ここには大きな大きな問題がある。
 こんなに議論することも政治に参加することも知らないままの日本人であるというのに、自分たちで勝手に「民主主義を見てしまった」と思い込んでいることだ。日本のテレビやジャーナリズムは、反対意見を持つ知識人を公共の場から押し出しているというのに、それでもまっとうに、民主主義国のメディアを背負っているつもりでいることだ。多くの学者たちが、日本語の論文を書くだけで、英語での学術論争をしないままにお茶を濁してしまっていることだ。批判のない政策や科学は退化するだけであるというのに。

 日本では、民主主義が後退しているのではない。日本には、いまだかつて、一度も「民主主義」など存在したことがない。そして、非民主的なままの日本は、せっかく到達した「先進国」という肩書も、ひょっとしたら、いつか返上してしまわなくてはならなくなるかもしれない。
 

2008/12/01

反骨の血

 わたしの母の父方の家系は、かつて九州一の家具の町といわれた大川で、製材所がつかう機械を導入したり、電気機器を取り扱うなど、技術畑の仕事をしていたらしい。いわゆる「家柄」というほどの由緒のある家ではなかったが、先取の気性はあったようだ。

 父のほうの家系は、代々続く神主の家柄、数代前には国学者もいた。しかし、そういう父方の親戚の人々のことを、私は子供心にも、なんとなく線質が細いと感じ、母方の親戚の方が、家柄などにこだわらない、男っぽい気性の人たちだと思っていた。


 戦時中の、自由な空気が閉ざされた堅苦しい世の中で働き盛りの年齢を過ごした母方の祖父は、そういう嫌な時代に、自分なりに反骨の気分を心に滾らせていた人であったらしい。


 当時十代の半ばだった母。学びたかった英語は授業から締め出され、県大会で優勝までいったバスケット部での活躍も、全国大会の廃止で夢が閉ざされる。女学校の授業は徐々に学徒動員で飛行場での飛行機作りに代えられた。食糧は次第しだいになくなり、家にある金属類は拠出させられ、空襲警報が度重なるようになり、母たちの青春は、鬱々とした時代の中に奪われていった。


 若かった母の神経はそういう緊張の中で研ぎ澄まされていったのだろう。空襲警報が鳴る前に敵機の到来を感知して、家族を気味悪がらせたという。夜間には、家の室内の灯りが外に漏れて空襲の的にならないようにと、近所の役回りが始終見張りに来ては注意をして回っていた。

 母は、そういう時代、祖父の勧めで仕舞の稽古に通っていた。夜間、外に灯りが漏れないように真っ暗に目張りをした家の座敷で、祖父は母に「さあ仕舞でも舞え」と促したという。近所近辺の人たちは、そういう祖父をどんなふうに見ていたのだろう。「こんな時に贅沢な風流」と後ろ指を指していたのだろうか、それとも、ぎすぎすと息苦しい時代に、風流を忘れない祖父を陰ながら「いい奴だ」と思ってくれる人もあっただろうか。平和な時代に生まれ育った私には、祖父の反骨をただ誇りに思うばかりだ。何をするにも、他人がどう思うかを気にしてしまう気の小さい私などには、こんなに緊張の続いていた時代に、祖父のような言動は到底できなかったことだろう、と思う。



 そういう祖父の一人息子で母の兄、つまり私の伯父は、この父親の男気のある凡庸とした大きさがために、かえって反りを合わせることができず、ずいぶんと苦しんだらしい。反骨精神の旺盛な父親のもとで、自分もまた同じ反骨の血をひいていた息子には、若者らしい<反抗>以外に自分らしく生きる術はなかったのではないか。


 この伯父のことを私は長く識らなかった。嫡子であったにもかかわらず、若いころに家を飛び出し、長く行方不明だったからだ。飛び出したが最後、家には一切寄りつかず、母が嫁いだ時も、祖父が亡くなった時にも姿を現さなかった。やっと故郷に帰ってきたのは、私が中学生の時だった。家を出てから、たぶん20年くらいの歳月を経ていたのではなかったか、と思う。



 伯父は、祖父が亡くなって未亡人になった祖母が、とうとう自分で身の回りのことが出来なくなり母の嫁ぎ先に来て一緒に住むようになっていた頃、ある日突然、空き家になっていた実家に帰ってきた。そして人づてに母の居場所を訪ねてきた伯父を、母はそれでも嬉しそうに迎えた。だが私は、この伯父について、長いこと、「身勝手な親不孝者」という先入観を持ってしか受け入れられなかった。祖母や母と共に伯父の家を訪問しても、「この人は親を捨てて出ていったようないい加減な人なのだから」という気持ちが先に立ち、伯父の言動をまともにを受け止めようとは一度も思わなかった。
 
 そんな伯父は、晩年、いくつもの慢性病を患っていたというのに、結局、母よりも長生きすることになった。  8年前に元気だった母が急逝してしまったあとに、母方の血のつながった親戚としてのこされたのはこの伯父ひとりだ。母の思い出を手繰るように、私はその後、帰国するたびに、伯父夫婦を訪ねるようになった。ずっと疑心暗鬼の気持ちを抱いて真面目に会話などしたことのない姪だ。伯父の方も、私には、粗っぽい言葉遣いしかしなかった。それでも、訪ねていけば、叔母と共にいつも大事にはしてくれた。
 
 そういう風にして伯父の元を訪ねていたある日、伯父にふと、昔母から聞いていたことを尋ねてみたくなった。母は、伯父が、昔、戦時中に徴兵で兵隊にとられていた時、ある事件を起こして、それが原因で、祖父が村の権力者たちに大盤振る舞いをして伯父に汚名が残るのを避けたことがあった、と言っていたからだ。

 しかし、その「事件」とは一体何だったのだろう。今まであまり気にかけてはいなかったが、その時、はずみで、ふと聞いてみたくなった。

 小春日和の庭を眺めながら、炬燵に足を突っ込んだまま横になっていた伯父は、そういう私の問いに驚く様子もなく、徴兵先で、自分ともう一人の同僚に夜の見張りを命じた上等兵が、自分の持ち場で居眠りをしていたのが気に食わず、カッとして殴りつけたんだ、という話をしてくれた。血気盛んな年だったのだなと思う。今、そのことを思い出話として語る伯父の言葉にも、その上等兵の体たらくを思い出してか、幽かな苛立ちが浮かんでいる。

 なぜこんなに気持ちの良い話を今まで一度も聞かずに来たのだろう、と私はその時思った。伯父を誤解してきた自分がさびしく、長い間の誤解が、その時ポロリと力なく落ちたことが、変に滑稽でもあった。別に、大げさに、伯父に言葉を返したわけではない。記憶の底の思い出を語って、少し自虐的に笑っていた伯父と一緒に私も笑って返しただけだったように思う。
 今年の夏、その伯父も、とうとうなくなった。亡くなる前に、あの話を聞いていてよかった。今、帰国して手を合わせる仏前の伯父には、血の通った伯父への懐かしさはあっても、親不孝者とという責めの心持ちはない。

 ともあれ、兵隊だった伯父が起こしたこの一件は、天皇崇拝、上意下達の極限をいっていた戦時中のことだ。そのたった一夜の事件は、もしかすると伯父のそれからの一生を台無しにするかもしれない大事件だった。だから、祖父は、村の権力者を集めて息子の汚名を果たすために、大枚をはたいて飲めや唄えの宴会をしたのだった。

 何という時代であろう。
 戦時中のことだ。そこそこに潤沢な家計だったとはいえ、先行き不安のその時代、蓄えは、どんなにあっても十分とは思えない時代だったろう。それでも祖父にとって息子の将来はカネなどには代えられないという思いがあったのにちがいない。
 しかし一方、親の資力で人生を救われた息子にとって、そんな父親の元にいられなくなったのは当然といえば当然のことだ。ほんとうに、何という時代であろう、、、、

―――――

 オランダ人の夫との結婚が決まって間もなく、わたしは、オランダ人たちの間に、400年余りに及ぶ友好的な日蘭通商という歴史に所以する温かい日本へのまなざしのほかに、他方で、相当に厳しい反日感情があるということを知った。
 第2次世界大戦中に、蘭領インドと呼ばれた今のインドネシアの地域で日本軍の捕虜となった経験を持つオランダ人たちが多数いるからだ。乳飲み子の年齢で、強制労働に取られる父親と引き離され、劣悪な生活環境の収容所に捕虜となって押し込められた人たち、9歳ほどの年齢で母親から引き離され、男だけの捕虜収容所で、病人の世話や死人の始末をさせられた子供たち、異常な生活環境で発狂する母親に精神の安定を奪われた子どもたち、捕虜体験の果てに終戦後両親や兄弟姉妹を失って着のみ着のままで赤十字社が配給した襤褸衣装を着て寒い北国のオランダに帰還した人は少なくない。慰安婦とならされ性の奪われた少なくない数のオランダ人女性らの恨みは今も続いている。捕虜収容所時代の記憶から解放されず、今もトラウマが続いている人たちは、日本人が周囲にいると知るだけで、不安でいてもたってもいられなくなるという。

 こうした、日本軍の捕虜となった経験を持つ人、その子どもたちがどれだけいるのか、日本人はほとんど知らない。だが、前政権の外務大臣は自身が捕虜体験者、現政権の厚生省国務次官は捕虜体験をトラウマとして持っていた父のもとで育った人だ。いま日本に駐在しているオランダ大使のお父さんも捕虜体験だということを最近知った。有名な作家の中には、日本軍への怨念ともいえる思いを今も題材に本を書き続け講演している人もいる。それほど、オランダには、日本軍の捕虜体験者やその家族がたくさんいる。そして、そういいながらも、その人たちのみながみな、今の日本に恨みや怒りを抱いているとも限らない。戦争というものの異常さを理解し、日本人に対する不信や反感、トラウマを乗り越えた人たちもいる。

 そういう捕虜体験者との対話の会にわたしも加わっている。トラウマを乗り越え、日本の今の世代の人々との対話を求めているオランダ人と、年に1回集い、お互いに意見交換をしている。
 
 日本軍の犠牲になった外国の人たちに「詫びる」現代の日本人は少なくない。「和解」「赦し」という言葉がそういう会合では飛び交う。キリスト者の中には、宗教を媒介に、犠牲者と共に「和解」の祈りをする人も多い。若い学生など、自分の国の歴史の汚点を初めて知らされ涙を流す以外にすべを知らない子もいる。それらがすべて間違っているとは、私も、もちろん思わない。しかし、私には、「詫びる」「和解を求める」「赦しを請う」「共に祈る」という行為が、素直に、自分の率直な意思としてできない。
 
 わたしには、軍の上官の指令を受けて、オランダ人捕虜を強制労働に駆り立て、人間の仕業とは思えない拷問をしたり、女たちを強姦していた日本人兵士の方が、苦しみの底にあったオランダ人に比べて、どう見ても、より一層みじめな存在に思われて仕方がないのだ。彼らは、人間としての理性と感情を誰からも認められていなかったのではないのか。
 捕虜としての苦渋の日々にも、強制労働に取られていた夫と愛情に満ちた文通を続けていたオランダの女性たち、収容所でなけなしのガラクタを上手に集めて、絵を描き、楽譜を作り、日本人兵士の風刺画を描き続け、すごろくなどのゲームを作って遊んでいた捕虜たち。死の床にあって「日本人を憎んではいけない、これは神の仕業なのだから」と言い残して神への祈りの中で死んでいったという母親たち。日本人の行動を理解しようと日本文化についての本をむさぼり読んでいたという人たち。彼ら彼女たちの方が、人間の尊厳ということをどれだけ信じて豊かに生きていたか、と思うと、上官の命令だけで自分の意志など持つことも許されなかった日本人兵士の方が、みじめで惨めで情けない。今になって「詫び」「和解」など偉そうに言えるほど、日本人は、尊厳をもって生きることを許されていたのだろうか、今の日本人は、そんな偉そうなことが言えるほど人間としての尊厳のある生き方をしているのか、と思ってしまう。

 あの時代の日本の精神、あの時代の日本の教育は、しかし、戦後も何一つ変わっていない。
 変わらないままの日本、そこに生まれ育った私は、戦争中の出来事、沖縄のことを学校では何一つ学ばずに過ごした。そういう自分に、一体、どんな気持ちで、このオランダ人たちに「詫び」たり「和解」せよというのだろう。

====

 祖父や伯父の反骨の血が私の中にも少しは流れているのではないか、そうであったらよいな、と時々思う。
 
 反骨は理性だ。

 しかし、戦後60年以上たち、物質的には何不自由ない社会となった日本でさえ、祖父や叔父のような反骨は、きっと出る杭を抜き取るように排除されるのではないか。
 人間としての普通の感情、人間としてごく自然に行きつくはずの善悪についての理性を心に抱いていても、なお、そういう社会の中で「協調して」生きなければならない人たちの不幸は、捕虜の苦しみと変わらぬほどに、あるいは、それ以上に深刻に、人間の生にとって重篤な不幸だ。

2008/11/26

いつの時代も若い者は

 シチズンシップ教育という語が、最近、ヨーロッパの国々で盛んに聞かれるようになった。背景に、2001年の9.11事件以後のイスラム教原理主義者の側からのテロによる脅威、また、デンマーク風刺画事件などで露呈した、西側の非西洋文化への理解の浅さ、また、それから来る「後進性」への差別、ひいては我々・彼ら感情による、感情の対立がある。

 現にシチズンシップ教育にかかわっている教育者たちには、実際に、近代化の歴史的な背景も宗教も文化も異なる子供たちが、現に、同じ社会で生きて大人になっていくという現実を前に、相当に深刻な取り組みを始めているように感じる。何せ、取り組んでいる教育者自身が、意識すると否とにかかわらず、独自の生い立ちの中でさまざまに身につけてきた既成概念に何重にも取り巻かれて生きているのだから。

 西側の国の子供たちには、個人主義や自立といった近代的価値が、外の世界では必ずしも自明のことではないことに気づかせなくてはならないし、他方、非西洋の背景を持つ子供たちには、家族や伝統的価値規範に対して、無批判に自分の行動を合わせるのではなく、自分自身で自己責任をもった行動をとらなくてはならない、つまり、近代社会の基本である<良心の自由>を教えなくてはならない。二つの世界の子供たちは、家庭や近隣での生活基盤があまりにも違うために、どう両方の子供たちに、同じ場を通じて、異なる方向のものの考え方を身につけさせていかなくてはならないか、大変深く悩むところだと思う。

 そんな中で、今回来日に同行したユトレヒト大学のこの分野第1線の教授や、彼とともに授業づくりをしている研究者たちは、「仲間市民としての子供たち」ということを大変強調する。子どもに、既成の価値判断の仕方や道徳的理念を教えたり、それについて話し合ったりするだけでは駄目だ、それをこそ対象に、子ども自身が考え、行動し、彼らの考え方感じ方に寄り添いながら、社会参加の訓練の場とすべきだ、というのがこの人たちの立場だ。

 そして、こういう考え方に私も心底同意する。近代意識がほとんど身につかないままに、高度消費社会だけをあたかも近代そのものであると誤解して生きている日本人。唯一、本当の意味での近代市民への取りかかりを見つける手段があるのだとしたら、それは、もう、若い世代に対して、こうして、社会参加の訓練をしていくこと以外にないだろう、と思っている。既成概念を身にまとうことだけに特化された画一教育を受けてきた大人たちを相手にでは、世界市民になるための意識変革など、ひょっとしたら、もう手遅れなのでは、とさえ思う。

 訪問中の東京都内の小中一貫校で、市民科教育に従事している先生方と話し合いの機会をもった。その折に、このオランダ人の教授が語りかけた言葉に、はっとさせられた。

「あなた方は市民教育が必要だ、と言っていますね。しかし、なぜ必要なのですか。あなた方は、今の子供たちの社会行動に問題があるといっておられるようですが、それは、本当にそうなのですか。太古の昔から、人間の社会は、いつもどこでも『いまどきの若い者たちは』と言ってきました。若い者というのはそういうものなのです。そもそも、若い人たちは、新しい時代を生きていかねばならず、大人たちとは違った目で社会を見ているのです。彼らが持っている情報や生活条件は私たち大人のものとは違います。だからこそ行動も異なるのです。しかし、そういう若者たちの行動は、大人たちが矯正していかなくてはいけないものなのでしょうか?」

 日本の先生方との会話が進んでいく間、私は、いろいろなことに思いを巡らしていた。
 私たちは、「問題だ問題だ」と騒ぎたてるジャーナリズムに惑わされているのではないのか。本当に社会にとって問題のある行動が増えているのだとしたら、どれくらいどんな風に増加しているのか、という具体的なデータを持っていなくてもいいのだろうか。私たちが安易に「問題だ」とする子供たちの行動は、果たして、本当に「問題」行動なのだろうか、、、、と。
 意外に、私たちは、自分の目でよりも、新聞や雑誌、テレビでセンセーショナルに伝えられる事件にばかり目を奪われ、現実には良い変化やよい動きがあるにもかかわらず、問題のほうばかりに目をとらわれているのではないのか。 私たち大人が、メディアの操作にまんまと騙されてしまっているのではないのか。

 その時、ある日本の先生がこういわれた。
「子供たちの間にいろいろと問題のある行動が増えているのは確かなことです。いじめもそうですし公共の場でのポイ捨てなども増えている、、人の迷惑を考えない子供たちの行動は確かに増えています。それに、電車の中など、公共の場所で、お化粧をしたり、男女で抱き合ったりキスをしたりしている若者も増えています。」

 と、この最後の言葉を聞いた時に、私は「あ、これはちょっと違うな」と思った。

 「公共の場で抱き合ったりキスをしたりする」

 これは、今、オランダに限らず、ヨーロッパの国々では、もう当たり前の光景だ。国際空港の到着口では、相当な年輩の人にとっても「公共の場で抱き合いキスをする」のは当たり前のことだし、太陽の日が燦々と降り注ぐ初夏の町のカフェテラスでは、若い男女の睦まじい光景は、ごく自然に見られる解放された夏の風物でさえある。
 新緑の萌え出る5月のある日、二つの自転車に乗って颯爽と車輪を回していく二人の男女の若者が、手をしっかりつなぎ、じっと見つめ合っている様子に、まぶしさを感じたことすらある。卒業試験合格の結果が出た日、明らかに合格発表を受け取ったばかりに違いない18歳くらいの男の子が、住宅地の路上をローラースケートを蹴って走ってきて、反対側から、これもローラースケートを蹴りながら髪をなびかせてきた女の子と真正面からぶつかるようにして抱き合い、キスをしながら喜びを分かち合っている光景を微笑ましく目にしたこともある。

 たぶん、こういう光景は、日本人にとってすら、相当な年輩の人であっても、ヨーロッパやアメリカであれば独特の光景として何の抵抗もなく受け入れられたものではないのだろうか。そして、それを見て、「風紀が乱れている」と思う人も、まさかいまい。むしろ、たいていの大人たちは「いいわね、ヨーロッパは人間らしくて」などと嘯くに違いなのだ。なぜ、同じ行動が、ヨーロッパではパチンとまわりの風景に収まり、日本ではだめなのだろう。

 日本の子供たちだって、感情を率直に表現したい、と思っている子は多いだろう。しかし、いろいろな規則や習慣や伝統的な規範がそれを阻止している。
 しかし、私が若いころには、めったに見られることのなかった男女が手をつないで歩く風景は、今の日本の都会では当たり前だ。公共の場で抱き合ったりキスをしたりすることも、ひょっとすると近い将来には、日本でも公然と明るい景色として当たり前のものになっていくのかもしれない。そうならない、という保障は、幸いなことにどこにもない。

 日本の学校の生徒手帳などにはよく「男女交際は公明正大に」と書いてあるではないか。口では「公明正大に」と言っておきながら、子供たちがそうしようとすれば、大人たちが顰蹙のまざしを向ける。子供たちの行動を公明正大にせず、あらぬ罪悪感に閉じ込め、男女の愛情を、あたかもけがらわしいもの汚れたものとして日陰に追いやっているのは、未来を子供に託す覚悟のない、大人になりきれていない大人たちの手前勝手なのではないのか、、、、

 日本の教室で行われた市民科の授業では、子供たちからいろいろな率直な意見が出されたにもかかわらず、最後に、先生が「それでは最後に先生がどう考えるかをまとめてみますね」とやっていた。そうして、「人の迷惑になることをしない、命にかかわるような危険なことをしない、相手の気持ちを考える」などといったありきたりの項目が並べられた。ごもっともなことばかりではある。しかし、そういうことは、はたして先生から「教えられて」学ぶものなのかどうか??? 「教えられ」たからと言って本当に身に付くものなのかどうか???

 子供たちには、オープンエンドで、つまり、いろいろな問いを頭に置かせたた状態で、一度家に帰してみてほしい。授業は、答えを学ぶ場でなくてよい。授業は、子どもが、自分の頭で考える問いかけを生む場所であればよい。
「なぜ、今の日本では、公共の場で抱き合ったりキスをしたりすることが人迷惑になるのだろう」「アメリカやヨーロッパの映画にはそういう光景がよくあるが、なぜ、かの国では、人々はそれを人迷惑だと感じないのだろう」
そういう問いを、若者自身が考え続けてみること。そして、そこから、自分だったら、どこでどうするかを自分自身の判断として生み出していくこと、それが、市民社会の「市民になる」ということだ。そういう、自分の頭での判断と、それとは異なる他人の判断の仕方を受け入れる意欲を持たなければ、未来の日本人は、一歩たりとも外国に足を踏み出し、他の国の人々と対等に生きていくことはできないだろう。そして、今刻一刻と増え続けている、未来の日本を日本人と共に支えるはずの外国からの移民たちは、いつか、そういう日本に嫌気が差して、さっさとお尻をまくってこの国を出て行ってしまうことだろう。
 

 

2008/11/03

三周遅れのニッポン

 世界金融危機のおかげで、ひょっとしたら、教育や医療、年金問題などの公共政策が、またしても後回しになるのではないか、という危機感がある。特に、もうこれ以上フリーターも、不登校も、いじめも、自殺も、一人暮らしの老人も、孤独死も、引きこもり、ホームレスも経済格差も増やせない日本は、今度の金融危機による一層の経済困窮にどう対応していくつもりなのだろうか、と思う。これからもっと人々が苦しみ、もっと家庭や地域社会が崩れ、もっと猟奇的な事件が起きるのだろうか。

 金融危機対策に関しては、アメリカが大統領選に縺れこんでまごまごしたのに対して、ヨーロッパの対応は、それなりにスムーズに行った。それは、ヨーロッパが、多様な価値意識の共存、多元的なリーダーシップを、積極的に評価し取り入れ、多者共存の政治・経済体制を、戦後静かに積み上げて来ていたからだと思う。そして、それは、二つの大戦を起こし、多くの犠牲者を生んだヨーロッパになくてはならぬ、ほかに選択肢のない道だった。

 ヨーロッパの社会と日本社会を見ていると、これまで、私は、日本のほうが、ヨーロッパに比べて、文明の発展という点では、二周遅れている、と思っていた。一周目は「近代」というものの理解について、また、二周目は、機会の均等・市民による多元的な価値観を受容という点についてだ。
 一周目は、宗教革命以後啓蒙主義の発達とともに起こったヨーロッパの近代思想だ。時間的にも、背景としての価値意識においても非常に懸隔のある日本では、そこに追いつこうと思い立ったのが、やっと一九世紀後半のことだ。上滑りの大正デモクラシー、そして、戦後のアメリカのパタナリズムによる民主化は、「民主」とは口先だけのことで、民不在の、理屈だけの近代だった。そして、その状態は今も続いているし、それほどに長い間軽視されてきた「民」には、もう言上げしようという意欲もなくなってしまったかにみえる。

 二周目の機会均等意識と市民参加の政治については、欧米には、なくてはならない六〇年代の意識変革があった。それは、戦前の古い価値観で生きる親の世代に対する若者たちの反発として起こった。冷戦対立の緊張、核戦争勃発への危機感がその背景にあった。そして、それは、一周目における近代意識が人々の価値意識のベースにあったからこそ起こったことだ。
 カネや権力ではなく、人間性そのものを容認し、既成の価値観にがんじがらめになった世代に対しタブーを突き破っていく意識だった。近代主義の本質としての「人間性」の尊重、「良心の自由」とはそもそも何であるのか、ということを徹底して突き詰めた時代だ。

 しかし日本は、この時、経済成長の真っただ中、そして、冷戦体制の中では、完全にアメリカの属国として行為していた。だから、若者に危機感はなく、当時の教育、特に七〇年代以降の学校教育には、時事論争は皆無・無縁となっていった。

 今、金融危機とその後の動きを見ていてつくづく感じるのは、経済や産業グロバリゼーションの終焉、ということだ。そういう意味では、よかった、と思う。自由市場体制が、すべてを自浄していくという楽観が今度の危機を生んだ。多くの銀行に、国のテコ入れが必要となった。レーガンやサッチャーの時代には民営化が大流行だったが、今度は、それが、逆に国営化されている。けれども、この国営化は一時的なもので、決して、反動や逆行ではない。自由市場が「健全に」機能するための監督者としての役割を、これからの国は背負っていくしかない。そういう議論が今ヨーロッパではなされている。そもそも、国などというものは、民から離れて「実体」として何かがあるというようなものではなく、民によって築かれた「公」であるべきなのだ。そこが、日本ではいまだに理解されていない。こういう議論は、もう何十年も言われ続けているというのに、、、だ。

 今回の危機では、人々が、それも、経済界の専門家だとか、政治家だとかだけではなくて、一般の市民、小規模の投資家、年金積立者などが、自由市場経済の落とし穴に、大挙して気付いたのだ。文明史上の画期的な出来事だと思う。国がテコ入れするといったって、結局は、国民の税金だ。国は、大枚をはたいて、経営のずさんな金融機関の尻拭いをするのならば、もっとしっかり監督せよ、という話になっていく。 民が関与する監督、民のための監督、ということが、今回のことで、どれだけ日本人に伝わったのか、、、立場の違う知識人を集めて徹底的に議論をさせるような番組、新聞がない日本は、本当に危ない。

 何のための税金、何のための監督、ということが、市民一人ひとりの意識に上ってきていると思う。

 だから、この問題を、共和党と民主党の政治論争にすり替えたアメリカよりも、ヨーロッパの首脳や中央銀行総裁らの、知恵を集めた対策のほうが、はるかに先進的で、世界史に一ページを刻むような動きだったと思う。
 市民がともに、国の役割をどう規定していくのか、国境を超えた国家間の共同、多国籍企業の動きに対して、市民はどう影響を与えることができるのか、、、ヨーロッパは、いま、確実に第三周目を走り始めている。

 日本はといえば、この三周のいずれもに、大幅に遅れをとっている。一周目の理解ができていないことが、二周目の理解を遅れさせ、それらがまた、三周目で、大幅な遅れを生んでいるように思えてならない。

 「日本は」と言った。「日本という国は」というつもりだ。なぜなら、日本にもまたそういうことに気付いている人たちが数は少なくても確実にいると思っているからだ。

 では、どうしたらいいのか、、、、三周の遅れを一気に取り返すにはどうすればいいのか、、、、

 「世界人権宣言」や「子どもの権利条約」を字義どおりに、たてまえでなく本気で実現してみることだ。法律というものの重さを、本気で議論してみることだ。人間の根本問題はそこに集約されている。法律を、「あれは建前で、、、」などと言っている間、人間の最も大きな落とし穴である<傲慢><強欲>が、社会を蝕んでいく。日本のリーダーたちはあまりにも長く、人間にはそういう醜さがあるのだということに目をつぶり続け過ぎてきた。外国人相手にテロ対策をやるのなら、まず、国内の暴力団を一掃することからはじめるべきだ。


 日本のように、西洋型の近代化を達成できなかった国は、世界に数多い。むしろそのほうがはるかに多い。その中でみると、日本は、ある意味では、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどの開発途上国では比べ物にならないくらい、近代意識を理論として理解している人たちがたくさんいる国だと思う。だからこそ、マス・メディア、各界の専門家などのリーダーの活躍に、今こそ期待したい。

 遅れた近代化・産業化によってお茶を濁した疑似近代というゆがみやいびつさが生む社会問題は、必ずや、近い将来、中国、インド、など様々の国で露呈してくると思う。上からの指導、産業優先の競争主義の近代化は、必ず、社会不安を生む。その時までに、もしも日本が、今直面している問題を賢く乗り越える道を描けていたら、それは、他国にとって有用なモデルになるだろう。

かつて、スウェーデンやオランダが、モデル国としての誇りをもったように、日本にも是非そうなってほしい。