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2009/02/08

マレーシアの夜鳴き(焼き)ソバ

 留学生としてクアラルンプールに住んでいた今から27年前。
 日本人らしく夜更かしをしているとよく夜鳴きそばのラッパが聞こえた。
 マレーシアの夜鳴きそばは焼きソバだ。大家のインド人のおばさんに、「あれ、結構おいしいのよ」と言われて、時々食べに行った。

 熱い熱帯の夜、ラッパにつられて外に出ると、舗道の木立の下で、ランニングシャツ一枚、咥え煙草の中国人のおじさんが、自転車でい引いてきたリヤカーの上にプロパンガスにつないだガス台を据えて、大きな中華鍋に、茹で麺を投げ込み、客の注文に従って、刻みキャベツ、キノコ、トウガラシ、卵と放り込んでさっと炒めてくれる焼きそばは確かにおいしかった。
 何回かそういうことを重ねているうちに、このおじさんも、そのころはまだ珍しかった日本人の女学生に興味を持ったか、いろんな話をポツポツしてくれるようになった。
 昼間は夫婦で食堂で焼きそばを売り、夜はこうしてリヤカーを引いて焼きそばを作りながら、二人の息子をイギリスの大学に留学させ、その子たちも無事卒業、余裕が出てきたので、今は、お金が貯まったら海外旅行さ、という。「去年は東京と香港に行ったよ」とさり気もなく言う言葉に、私は目を丸くするばかりだった。

 マレーシアには、植民地時代から多くの華僑、印僑がいるが、独立以後、マレー人が政治の主導権を握り、「マレー人優先政策」を続けてきたので、中国人やインド人たちは、いろいろな意味で、差別を受け、特に中下層の人々は教育機会や労働機会を奪われて、自力で子どもたちを育て、老後のために貯蓄する以外になかった。
 
 その後私は、日本での学歴を利用して日本で仕事に就くこともなく、そういう可能性を放棄してオランダ人の夫について世界を転々と移り暮らすという選択をした。
 言葉も満足に話せない土地を転々とする中で、もしものことがあったらどうしよう、という気持ちはいつも心の底に抱えていた。現に、山も谷もある暮らしだった。谷底が見えそうになるたびに、
「いいや、いよいよのことがあったら、焼きソバでいけばいいわ」
と、あの夜鳴きソバの中国人の伯父さんをいつも頭に浮かべたものだ。そうして、空威張りでそんな風にわたしが言えば、夫も「ハハハ、よしそれでいこう」と笑ったものだ。

 結局、そのたびに、なんとか切り抜けてきた。夫の頑張りにわたしの方が甘えてきただけだ。
 私にリヤカーを引くほどの根性はないだろう、と見透かされていたのにちがいない、、、

 ま、少しだけ人生経験を積んできた今になって振り返ってみると、心の中にそういう「切り札」を持って生きるのは、悪いことではないな、というくらいのことは言えそうな気がする。

 80年代、日本がバブルの頂点にあって浮かれていた時、何か、地に足のついたものがほしかった。当時言葉にすることのできなかった日本に居続けることの不安は、そのあたりにあった。