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2009/02/14

へそまがりのアイデンティティ

 アイデンティティという言葉が流行った時代があった。私が学生のころのことだ。
 「自国へのアイデンティティなくして、コスモポリタン(世界市民)などありえない」だとか「外交官の妻として世界を転々とするうちに、自分がどこに属しているのかわからない、アイデンティティを失って精神を病んでしまった」というようなことが、まことしやかに語られていた時代だ。
 日本が世界中の先進国から「目を見張るような奇跡」と言われる戦後の高度成長を果たしたころのこと。あの当時は、わざわざ「美しい日本」だとか「国家の品格」などと声高に負け惜しみをいわなくても、日本人であるというだけで、世界に対して十分堂々としていられた時代だった。同時に、一般の日本人が、やっとパスポートを持って国外に恐る恐る出て行き始めた時代でもあり、異文化との、ちょっと恥ずかしがりながらの接触を始めたばかりだった。だから、「愛国心」とはいわず、「アイデンティティ」というおしゃれなカタカナ言葉が耳によく響いたのかもしれない。

 カタカナ言葉にはつきものだが、この「アイデンティティ」という語も、なんとなしに使っているうちにわかった気になってしまうものの、実はそれほど簡単な言葉ではない。英和辞典を引いても「アイデンティティ」は、「同一人であること、本人であること」「同一であること、一致、同一性」などと書かれているばかりで、一体何のことなのか、一向にらちが明かない。

 かつて日本でも流行った「アイデンティティ」は、何か自分が属するものに向かってのアイデンティティという意味で、国民的アイデンティティ、もう少し軽く言えば集団的なアイデンティティのことを言っていたのではないか、と思う。
 今まで外国に出たことが一度も無かったような人が、日本の外の国に出て暮らし始める、そうすると、自分が今まで気づいていなかった、「日本人」に固有のいろいろな行動様式や思考様式をもっている自分を再発見する。その時に、「日本人としての」アイデンティティを自覚させられる、、、。ま、そういった感じだ。

 だが、その「日本的なもの」「日本人としての性格」が、本当に誰にとっても共通なものであるのならいいのだが、実はゆっくり考えてみると、それもだんだんに怪しくなってくる。

 日本人といったって、山の中や谷間の農村で暮らしてきた人もいれば、高層ビルの立ち並ぶ東京のような町の真ん中で育った人もいよう。半年近く冬が続く北海道と、亜熱帯の沖縄では、気候に合わせた暮らし向きだって天と地ほどの違いがある。地方の歴史を見れば日本人がみなお互いに共感ばかりしているとは思えない。宗教だって仏教徒であると限られたわけではなく、キリスト教者もいれば神道の家庭の出の人もいる。ましてや、年間、七万冊以上の本が売れているという日本。読んでいるものだってものの考え方だって限りなく多様であるはずなのだ。トヨタだとかソニーだとか世界に名だたる有名な日本企業の名をいわれて、少々誇りに感じる日本人は少なくないと思うが、その企業に勤めてでもいない限り、それらがすなわち、その人たちそのものを表している、というわけではなかろう。

 アイデンティティという語は、「国民的」とか「集団的」という語を冠さない限り、単に、「自分はいったい何者なのか」ということにすぎない。集団だって、一人の人間が帰属感を感じている集団は複数あるのが普通で、そういういくつもの集団への帰属感が織りなして、その人だけのアイデンティティが作られるものであろう。わたしは、どういう町の生まれで、どういう学校に行き、趣味の仲間は誰で、どんな仕事をしているか、とたどっていけば、世の中に、誰一人として、同じ人間はいない。

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 19歳の時にホームステイの語学研修でイギリスに行った。まだ、そういう学生旅行がほんの走りの時代だった。「日本人として、自分がいったいどれほど異文化ショックを受けることだろう」と期待していたら、意外にショックらしいショックはなかった。異文化ショックは国内の沖縄や隣国の韓国に行った時の方がはるかに大きかった。

 あの当時、アイデンティティという語が流行る中で、私自身も、自分探しを始めていたのだな、と今振り返る。

 自分の普段の立ち位置を離れてみて、自分自身が何なのかを知りたかったのだろう、無意識のうちに。もっといえば、私は単に「日本人」というおおざっぱで十羽一絡げのアイデンティティだけに満足していたくなかったのだと思う。いわゆる「日本人」という、自分たち自身、あるいは、外の人に作られたイメージとしての型の中に、感受性の豊かな自分を嵌め込みたくなかった。違う何かを求めていた。

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 最近、世代のアイデンティティということを感じる。

 両方の親が亡くなると、日本に帰って自分が心おきなく話のできる人というのは、やはり学校時代の同窓の友人たちだ。まだ、職業にもつかなかった若い時代に同じ教室で学んだ、というのは、家族と同じくらいに、ときにはもっと素直に関われる仲間だ。同じ時代を共有したということが、他の世代に対する違いを際立たせ、それがまた仲間意識として世代のアイデンティティの根源となる。

 私たちの時代は、小学校で東京オリンピック、中学・高校時代には、月面着陸や三島由紀夫の割腹自殺、連合赤軍による一連の事件、大学に入った年に第1次オイルショックを経験し、学生時代は、大学紛争で学生がヘルメットをかぶっていた時代はもう過去のこととなり、「シラケ世代」とか「モラトリアム世代」いわれた年代だった。いろいろあったが、結局は、戦災復興が終わって落ち着いた時代に生まれ、経済成長と共に成長し、就職してからも、これまでのところは、なんとか、仕事でもどちらかといえば安定し田中で乗り切ってこれた世代ではないか、と思う。何となく、ベビーブームの団塊の世代がいつも目の上のたんこぶのように目ざわりだった。

 私たちの後には、「新人類」だとか「バブル世代」だとか、「団塊第二世代」だとかが続く。

 世代には行動やモノの見方に無意識のうちに共通のものがあるし、世代の仲間に対する共感も確かにある。あるのだが、同時に、へそまがりの私は、国家アイデンティティのようなものに、自分を同化させたくないのと同じように、世代アイデンティティの中に無抵抗に溶け込むことに対しても、つい、偉そうに心のブレーキをかけてしまう。

 国にも、世代にも流されてしまいたくない。誰も別に振り返ってくれるわけでもないのに、意地のようにそう思う。

 実を言えば、私は、one of themになりたくないのだ。些細なことでもいいからオリジナルでいたい。
 へそ曲がりはへそ曲がりなりのアイデンティティを持っている。

 個々の人々が、昔ながらの伝統的な社会をあとにして、洗練された都会でアトム(原子)のように心さびしく生きていく時代に、人々が売らんかなと生みだすモノや、人の気配を感じさせない無機的な制度の中で流されるように生きていかなければならない中で、自分自身を見失いたくないのだと負け惜しみのように思っているだけのことかもしれないが。