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2009/02/19

和魂洋才という惨禍

 日本人が外国に出かけて行って、「ああ、この遅れはどうして取り戻したらいいのだろう」と愕然とするたびに、まるで慰めのように心に湧いてくる言葉のひとつが「和魂洋才」という語ではなかっただろうか。

 しかし、このことばこそが、魂と才の二項対立を、また、和と洋の二項対立を、日本人の頭の中に想像で生み出した、越え難い淵の両側に分けて、日本人の意識を解放することを阻んできた、取り返しのつかぬ惨禍ではなかったか、と私は思っている。

 当たり前のことだが、魂と才とは切り離すことができない。また、和も洋も、人間の社会であるという意味では大きな差異はない。

 和魂洋才と言い続けてきたのは日本人に島国根性があったからだ。和魂へのこだわりは、鎖国意識から解放されていないことの証しだ。本当に日本人にユニークな魂があるのであれば、和魂洋才などとケチなことを言いはしない。その魂は、他人に気付かれないところに大切にしまって、相手の魂を包み込むことができるはずだ。

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 オランダについて伝えている私が、ついため息を漏らさずにおれなくなるのは、次のような言葉を聞く時だ。

 オランダは「やっぱり」いいわね、人の意識が違うから、、
 ヨーロッパはやはり歴史が違う、、、

 言うだけいって、自分をどっぷり未知の文化に投げ込んでみる覚悟は果たしてあるのだろうか、と思う。

 そして、アメリカが栄えている時には、アメリカに追随し、フィンランドの学力が高いといえばフィンランド詣でに明け暮れ、、、。魂から変えてみる気などさらさらなく、才だけ安易に移植してみて、育たないとなれば、「魂」が違うから、と放り出す。つきつめれば、和魂洋才とは、これまた日本人が捨てきれない「甘え」の産物なのではないか、と思う。

 和洋の間に境はない。どちらも同じ、生まれた時は同じ姿の「人間」の社会だ。人間、どこの社会でも大して違う感じ方、考え方はしないものだ。日本人には共有できない洋魂というものが仮にあるのだ、とすれば、それは、西洋の人々が、「自分の国の発展は自分たちで決めるという覚悟をしている」というだけのこと、そして、「歴史」というものを、未来を生み出すための材料にしているという姿勢だろう。それが洋魂の神髄であるならば、日本人は、確かに、そういう精神をはじめから取り入れてこなかった。

 「和魂」は別だ、とありもしないものを後生大事にするくらいなら、そんな「和魂」など口にせず、「洋才」などとみみっちい猿真似などせずに、日本の発展は自分たちの手で、魂も才も自分たちの頭で、と考えるべきだろう。和魂、洋魂と分ける前に、日本という国の文明は、だれの手も借りずに自分たちで生み出していくものだ、と正々堂々と、人がどう見ているかなど気にせずに、髪振り乱してでも取り組むべきだろう。


 いっそのことこれからは「洋魂和才でいってみれば?」どうだろう。
 最近の和魂にはあまり見るべきものがないが、和才の方は、まだ世界でもましな方だ。