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2009/02/13

人間はモノではない

 国際結婚をして日本を後にした時、これで親の死に目にあうことは絶対にない、と思っていた。
 しかし、母が倒れた時、私は駆け付け、2週間後に亡くなるまでそばにいることができた。ほんとうに天から授かった幸いとしか言いようがない。

 クモ膜下出血で倒れ開頭手術を受けて集中治療室に寝かされていた母は、もはや半身不随、自分からはモノを言うこともできなくっていた。主治医に聞くと「周りの人が言っていることも聞こえないと思います」とのことだったが、わたしは、母が寝台の周りに見舞いに来る人の言葉や医師や看護婦が話していた言葉はみな聞こえていたし理解していた、と今も疑わずに思っている。その証拠に、私が帰ってきたことを伝えると、まぶたがかすかに動き、手を握りしめ、お見舞いにもらった花束の中の花を一つ一つ指し示して見せると、視線が動いていた。いつも財布の中に入れていた私の一家の写真も、見せるとじっと見つめていた。

 そんな母が、検査では順調に回復しているということだったのに、2週間後、突然悪化して、わずか1日の間に帰らぬ人となってしまった。まるで、自分で死に際を決めるような逝き方だった。

 なぜだったのだろう、、、と時々思う。
 
 2週間の間母を見舞いながら、私は、もしも母が自分の今の姿を自覚しているのだったら、どんなに辛かろう、とそればかりを思っていた。実際、母を知る親戚のものや友人たちの中には、わざわざ遠くから見舞いに来てくださっていながら、「あんな姿を見たくない」と病室には入らず、廊下で拝むようにして帰っていく方も多かった。

 母は決して着飾る人ではなかった。けれども、自分の生き方はこうなんだ、と確固としたものをもっていた人だった。だからこそ着飾る必要もなかったのだろう。その代わり、自分らしさを、存分に言葉にし、表情に表さずにはおられない人だった。

 倒れた後、そういうことができずに、ベッドの上で、患者服を着せられ、表情を変えることも、話をすることもできなかった母は、何がつらかったかといって、そういう、自分で自分を演出できないことこそがどんなにつらかったことだろう、と思う。主治医の先生にも看護婦さんにもよくしてもらった。でも、よくしてもらっていても、母が、患者であり、限りなくモノに近くなっていたことは変わらない。

 「尊厳死」が熱く語られる理由がよくわかる。あの日、2週間の入院後に、母は自分で「尊厳死」を求めて旅立っていったのに違いない、と今も思う。

 人間はモノではない。

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 教育学の大学院生だった頃、教授の指導を受ける予定になっていた日の朝、時間通りに研究室に行って待っていた。その時間になると、電話がかかり、「あ、今から家を出ますから、冷房をつけておいて」と連絡があった。1時間余り遅れて始まった指導の時間にやったのは、研究費を申請するための報告書作りだった。
 ここで自分の人生を無駄にすることはもうない、ときっぱり心が決まったのはその時だった。

 教育という営みについて研究する人が、学生を生きた人間としてではなく、役に立つモノにしてしまった暁には、その先はもう見え透いている。

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 初めて学生として東京に出ていった夏。友人の女子学生と共に、ラッシュアワーの国電に乗った。皆同じ色の背広、ネクタイ姿のサラリーマンの間に隙間もなく立たされた私たちは、15分ほどの乗車の後、やっと到着した駅のホームに降りて、二人で目を合わせてため息をつかずにはおれなかった。至近距離にある男たちの顔も目も何一つ動揺していないのに、下半身に向けて何本の手が伸びてきていたからだ。
 その場限りの、自分では意図していないのに、男たちを挑発するモノになっていたことに、胸の中が悲しみに沈みこんでしまうような、そして、沈んでも沈んでも、底が見えないような嫌な気がした。

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 何だそれくらいのこと、それくらいの経験で偉そうなことを言ってくれるな、そういう人がきっといるに違いない。沖縄はそういうことを何度も考えさせてくれる場所だった。韓国もそうだった。オランダで出会った、日本軍やナチスの収容所での捕虜体験者に触れ合っても、同じことを考える。

 しかし、今の日本を見ていると、今もなお、同じことが、日々、日常の中で起きている。
 
 つい先ごろ、オランダ人と共に日本に帰国した折のことだ。
 空港始発の電車に乗るためにホームで待っていた。出発する電車が急いで清掃され、やがて私たちは指定された席について電車が動き出すのを待っていた。時間通りにスーッと走り出した電車の車窓から最初に見えたのは、ホームの最後尾に立っている3人の若い清掃婦たちの姿だった。ピンクの帽子、ピンクのエプロンをかけた、背丈もほぼ同じ3人が、みな同じように、ほぼ同じ角度で頭をかしげ、にっこり作り笑いをして、顔のそばに片手を上げ、電車に向かって手を振っているのだった。
 そんなことをやらせたければ、電気仕掛けの人形でも置いておけばよいではないか、と思った。
 そうやってホームを出ると間もなく、沿線の殺伐、雑然とした劣悪な住宅が混然と続く。窓からは、自転車も歩行者もごった混ぜの、電信柱がやたらとたっている狭い町の通りが見える。

 世界第2の経済大国日本の姿はこれだ。

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 自分という人間が、モノとしか見なされていない瞬間があることに、いったいどれだけの人が気づいているだろう。気づけば、生きていくのが苦しくてたまらないはずだ。人間には理性がある。だからこそ、モノにさせられることに本能的に抵抗せずにはおれない。しかし、そういう瞬間があまりに多く余りに毎日続いていくと、自分の心に蓋をしてしまう以外に生きる道がなくなる。感受性のスイッチを切ってしまうしかない。

 でも、多分それでも生きられなくなる。それが、不登校、引きこもり、うつ病、そして自殺増加の原因であるのに違いない、と私は思っている。
 だが、エリートや保守派の政治家は、不登校も引きこもりもうつ病も、「弱い人間」「負け組」としてしか認めない。理性と感受性のスイッチを切れないで、「人間として」苦しんでいるのは、この人たちであるというのに。

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 母は、潤沢な家庭に育った。戦争中は、飢えも病気も不自由も経験しているが、ほかの多くの人に比べれば、「自分は恵まれている」と思える家庭に育った人だった。そんな母が、戦後間もなく、潤沢とはいえない公務員の父と結婚した時、野の花を一輪積んでテーブルの上の花瓶に挿したという。雛人形が買えないからと、端切れの布を集めて人形を作り、道具を作り、雛段を飾った人だ。

 こんな風に母のことを自慢すれば、「やめてよ、恥ずかしいから、昔は、そんな人がいっぱいいたのよ」というに違いない。

 しかし、そういう母の生き方が、尊厳ということを、わたしに教えてくれた。

 公務員の父は「毅然としていろ」が口癖だった。


 でも、、、
 尊厳を持ちたくても、持てないほどに生活苦を感じている人がいるのではないのか。毅然としていたくても、それでは、生きていくことができないほどに追い詰められている人がいるのではないのか、、、。「清貧」などは、最低限の生活が保障されている人たちの戯言にすぎない。

 経済大国第2位のこの国は、ほんとうに人間の社会として発展したのだろうか、それとも、尊厳に蓋をしてしまった人間ばかりになってしまったのだろうか。