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2009/03/19

越中富山の薬売り

 こんなタイトルをつけたら、なんと古い人間か、と思われてしまいだけれど、、、

 私がまだ物心ついて間もない頃まで、家には、時々、薬売りのおじさんが来ていた。家には、小さな引き出しが付いた常備薬の木箱があり、母は、このおじさんがやってきて玄関に斜交いに腰掛けて風呂敷包みを広げ始めると、奥からその箱を持って応対に出てきた。一粒一粒少しずつ大きさが違う丸薬や湿布薬が入れてあったように思う。丸薬は頭痛薬、消化剤、の類だったはずだ。

 風呂敷包みを広げるおじさんは、箱の中の薬を見て、なくなっている分を数え、それにまた足していくというだけだ。いったい、それがいくらのお金になっていたのだろう、と思う。

 たぶん、思い返してみると、あれは、60年代の初めごろまで続いていたのではないか。

 薬は効かなければ使わない。使わなければ減らない。減らなければカネにならない。こんなわかりやすい商売もない。こんなに嘘のない商売もないと思う。丹精をこめて一粒一粒丸めた薬は、効き目がなければカネにならないのだ。

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 講演をするたびに、なぜか、私は、この「越中富山の薬売り」という言葉がいつも頭に浮かぶ。丹精をこめて書いた本に嘘はない。嘘がないから「これは効きますよ。きっと役に立つ。騙されたと思って買って読んでみて」と心の中でつぶやきながら、自分の本を重ねて、講演をしている。書店で手に取ってもらえないなら、こうして自分で売るしかない、と。

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 金融危機は、この10年ほど続いた産業のグロバリゼーションが、世界中に、どうでもよい水増し価値の商品をばらまいてきたことを人々の前に露呈させた。あるはずもない価値に、あるはずもないカネが投資され、あるはずもないブームを引き起こす。ヴァーチャルな世界の膿が一気に溢れだした。

 思えば、あの、越中富山の薬売りの時代に比べて、モノづくりの良心は、それからの時代、ほんとうに地に落ちてしまったのではないか、と思う。モノにも仕事にも、実際の価値の何百倍のカネが報酬として払われることに人々は何も不思議を感じなくなってしまった。モノの価値、カネの価値に対する判断力がマヒしてしまったのかもしれない。反面、本当に価値のあるモノや人が、不当に軽視される風潮も作られてきた。


 人類が、みんなで一緒に、ぜい肉を落とす作業、本当に大切なものは何なのかを見極める作業を始める時期に来ているらしい。

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 かつて、経済発展の入り口に立っていた日本人は、品質の高さを追求することで、製造業に成功し、世界に市場を広げていった。それは、もしかすると、徳川時代に培われた地場産業の向上精神が基盤にあったのかもしれない。品質に対する誇りが、日本人の誇りだった。まさに、「効く」丸薬への誇りそのものだ。

 だが、それが、いつの頃からか劣化の一途を辿ったのは、政権の姿にも象徴される。

 政治的リーダーとしての人間の質、マスコミに書かれる記事の質、公共・民間の仕事の対価に対する責任、学者や官僚の責任、それらに、「これは効くから使ってもらえる、そうすればカネになる」と信じて背中に丹精込めて作った薬を背負ってきた人たちの心意気に筆頭するものは、本当に少ない。皆が、自分の責任をよそに、悪者探しをし、世の中はバラバラに崩壊し、いつまでたっても一つにまとまっていかない、、、、

 けれども、時代は変わりつつある。世界は、大きなうねりを作って変わろうとしている。変えなければ、という人々の思いが、情報のグロバリゼーションのおかげで、ものすごいスピードで、地球上の人々をつなぎつつある。その流れに私たちもつながっていなくてはいけない。私たちなりに、2本の足でしっかり地に足を踏みしめて、、、