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2009/03/23

ネイチャーとカルチャー

 オランダの話をしていると、日本人にはよく「でも文化が違うからね」といわれる。確かにその通り、「文化」が違う。しかし、異文化の議論には、「人間はどこにいても同じ」という常套句もある。

 ネイチャーとカルチャーという言葉が対語であることを知ったのは、子どもたちの中学校での地理の授業がきっかけだった。あ、そうか、と膝を打つ思いだった。

 ネイチャーnatureという語は、nationという語にも関係があるし、nacer (生まれる)というスペイン語にも関係が深い。ラテン系の言葉だ。「土着の」というような、何か、土から生まれ出るような意味があるらしい。したがって、natureとは「自然」そのもの、ひいては、「自然界の摂理」につながったことを、naturalと言う。
 これに対して、カルチャーcultureの方は、何か、人間が自然の一部、自然に働きかける時に生まれる作用を指す言葉であるらしい。「人為」のものをカルチャーcultureという。agriculture(農業), horticulture(園芸), aviculture(鳥類飼養)などの言葉がある。いずれも、自然のものに対して、人が人為をめぐらして働きかける活動を指している。

 ネイチャーは動かし難いが、カルチャーは環境(場)や時代(時)とともに変わる。

 では、人間の生まれつきの(自然の)質とは何だろう。人間が複数集まって集団をつくった時に、起こりやすい社会的現象とは何なのだろう。
 人間の本能としての、様々の生き(延び)るための行為、種の保存にまつわる性をめぐる行為などは、まさに、ネイチャーの代表的なものだろう。外界からの圧力で、生存の危機に陥る時に、人間を戦闘的な行為に仕向ける欲求も、また、その危機がいまだに現実には存在していなくても怖れを感じたりおののいたりする感情もその一つだ。

 ネイチャーは人間の力では動かし難い。けれども、望ましくないネイチャーのさまざまの現象を、管理したり、予測したり、利用したりすることはできる。それが、カルチャーなのだと言ってもよいだろう。
 ネイチャーは、人間の力では変えることができないが、カルチャーは、その時代時代の人間や人間社会の求めているものによって、姿を変え形をかえ、言うならば柔軟に発展を遂げていくべきものなのだ。

 そうだとすれば、、、

 「文化(カルチャー)が違うからね」と、ものごとの変革をハナからあきらめることは、それ自体、カルチャーというものの質を知らない、人間の誤り、怠慢というものに他ならないではないのか。

 異文化接触とは、異なる文化がぶつかり合う様を言う。

 今、さまざまの文化が、現に、人の流れと情報の流れを通じてぶつかりあい、お互いに変容し合う時代にある。そんな中で、「わが国の文化は違うから」と外の文化に一瞥をくれる気もない人がいる。それはおかしい。

 人が動き情報が飛び交うというのは、一つの、時代の流れだ。そういう時代に私たちは生きている。その時代にあって、放っておけば何をしでかすかわからない人間の本生、人類の傲慢、その傲慢から生まれた自然環境の破壊、などなどの問題に取り組むのも、ほかならぬ私たち人間でしかない。そして、そういう時代に生きる知恵を見つけること、それ自体が、新しい文化なのだ。未来の文化発展はそこからまた導かれる。

 異文化に接触し、それを通じて自身の文化を見直し、さらに、今、自分たちが生きているさまざまの自然と人為の条件の中から何を選択していくのか、それこそが、人間が考えるべき課題なのだと思う。

 西洋の人々は、航海を通じて外界に出始めた時から、世界各地の様々の文化現象についてのコレクションを集め研究を重ねてきた。その伝統は、何か、世界で重要な事件が起きた時に、それを解説できる専門家がいること、また、一般市場での売れ行きにかかわらず、重要な研究者の外国研究は、国が間違いなく網羅して集めるという態度にも表れている。

 日本には、公的機関にも民間市場にも、そういう万遍のなさがない。だから、自文化中心主義に陥ってしまう。他と比べたからなのではなく、他を知らないままに不安が募ってそうなってしまう。

 日本の伝統文化には、確かに美しいもの、優れたものも多い。だが、新しい変革を求める人為の働きがなくては、過去へのこだわりを人々の間に増長させ、未来への希望のない社会を生むだけだ。