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2008/12/10

子どもが生きづらい時代

15歳の子供が警官の放った銃弾に倒れたことをきっかけに、ギリシャでは、未成年の子供たちの抗議運動がおこり、それがついに、労働組合までを巻き込んで大規模のストにまで広がっている。ニュースでは、まだ、その子供が撃たれた時の背景などが詳しく伝わってこないので予断を許さない。しかし、少なくとも、こういう抗議が一気に全国に広がり、大人達までを巻き込んで、現政府への抗議にまで広がったことの前提には、人々の間に余程の不満があったらしいことがうかがわれる。

 子供たちの犯罪について、最近、興味深い話を二つ聞いた。

 一つは、尾木直樹氏が主宰しておられる臨床教育研究所「虹」が行った「大人の子供観に関するアンケート調査」報告の中で問題提議されていたものだ。日本では、この数年、一般に、子供の少年犯罪が増えたり凶悪化している、というイメージがあるが、実はデータをくわしくみてみると、少年事件は増加も凶悪化もしておらず、むしろ沈静化している、というのだ。

 凶悪犯罪、ことに未成年がかかわった凶悪犯罪が起きると、日本の新聞やテレビは、総立ちになって繰り返し繰り返し視聴者の目や耳に同じ情報を送り込む。きっとそういうジャーナリズムのあり方が現実の姿を必要以上に誇張し、人々を不安に駆りたてているのだろう、と思っていた。

 そうしたらつい先ごろ、オランダのテレビの政治討論番組に、ユトレヒト大学の少年犯罪の専門家が出演し、オランダでも、少年犯罪の数はこの20年ほどの間減っていること、それにもかかわらず、国は、少年犯罪の予防のためにと「取り締まり」の強化ばかりを強調していると述べていた。対談の相手の、元警視庁総監の自由主義派の政治家に、「もっと子供たちの現実を見よ」と熱く訴えていた。

 日本でもオランダでも、大人たちは子供に対する信頼を揺らがせ、取り締まりに走らせているという。いったい何が、大人を不安にさせているのだろう。

 「凶悪犯罪」の数は、どちらの国でも「増えていない」という。しかし、「凶悪」さの中に、急速に変わり行く情報化社会の中で、大人たちが自分たちが子供のころには考えられなかったような犯罪が含まれてきていることに、いわれのない不安を感じているのかもしれない。 また、情報がインターネットやメールを通して、目に見えないところでいち早く不特定多数に伝播する今の時代、犯罪の連鎖を恐れているのかもしれない。

 しかし、そういう子供たちの環境を作ってきたのは大人たちだ。未成年の子供たちから、子供らしく育っていける環境を奪っているのは、大人のほうだ。

 日本と同じように、オランダでも、小学校の教員たちは、この10年ほどの間、ずっと「家庭教育が崩れてしまった、子供たちの社会性や情動性の発達を学校がしっかり担わなくてはならなくなっている」と議論し続けている。
 この10年ほどの間に起きた、日本やオランダでの急激な変化は、やはり、カネカネカネの産業グロバリゼーションのなせる業であった。カネの価値以外で、人の行動やモノの考え方、理想の生き方を堂々と示すことができにくい社会になってきた。

 モノを消費し、モノを買うための金を稼ぐために、大人たちは、男も女も一日の大半を労働のために使う。労働機会を求めて都市で生活しなければならない労働者たちには、親せきや友人と過ごす時間も少なくなってきていることだろう。都市空間には、子供が安心して遊べる場はなくなり、仕事に追われて疲労困憊している大人たちの姿に、未来への夢を描くこともできない。

 昔の子供たちは、「遠いよその国」に夢を描くこともできた。しかし今の子供たちの目には、インターネットを通じて、世界の隅々からの様子が手に取るように見える。人との対話、体温を感じる触れ合い、同じ場に生きることから生まれる共感、そういったものを何一つ経過せずに「見てしまい」「知った気分」になってしまう子供たちの意識には、冒険への夢は育ちにくいことだろう。なにより、家庭生活というほどの時間を家族と共有しない子供たちに、「対話」「触れ合い」「共感」を実感として感じられる育ちがあるのかどうか、、、

 いじめや不登校や自殺、そして、犯罪は、子供たちの悲鳴だ。五体満足に生まれてきたはずの子供たちですら、たった数年で精神を病んでしまうのだ。
 本当は声を上げて泣き叫びたい大人の感情や病状を体現しているのは、この子供たちのほうなのではないのかと思う。

 現実には、子供たちの「犯罪は増えていない」という。
 それなのに、大人は、こうして悲鳴を上げている子供たちに、もっと規則を、もっと規制をと躍起になっている。そうすることで、いったい誰が幸せになれるというのだろう。

 「産業先進国」といわれる国々が成し遂げた今の世界の、なんというみすぼらしさであろう。

 できることなら、政治家にもマスメディアにも、もっと人間としてポジティブに人間らしく生きようとしている人々の姿をこそ取り上げてほしい。数は少なくても、そういう人々の姿をこそ、繰り返し繰り返し伝え、社会の希望に結びつけてほしい。特に、未来を担っていく若者や子供たちのために。