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2008/12/17

ダイアローグからモノローグへ

 亡くなった父や母は、私たち子どもといろいろな話題について話をするのが好きだった。特に、末っ子の私は、姉たちが結婚して家を出てからも数年間、26歳で外国に出ていくその日まで実家にいたので、両親とは本当にいろいろな話をした。

 話題は、若いころの思い出だとか、出会った人、親族や亡くなった昔の人のこと、読んだ本、仕事のことなどなど、ごく日常的なもので、別に、政治について意見を述べるとか、議論を戦わせるというような大げさなことではなかった。気さくに、冗談を交え、笑いながら続ける会話が心地よく、すっかり夜が更け、それでも床に就くのが億劫な気がしたことがよくあった。

 かといって、そういう気さくさの中で、父母が、私が聞かれたくない秘密や悩みを根掘り葉掘り探り出そうとするようなことは決してなかった。
 親子というのは、意外に、お互いのプライバシーには触れたがらないものらしい。現に、あんなにたくさん話をしてきたつもりだったのに、父や母がなくなってしまうと、父や母の若いころの話や、辛かった時代のことなどは驚くほどに知らないままだったということに気付く。聞いておくべきことがまだたくさんあった、という気持ちと、そんなことはもうどうでもいい、という気持ちの両方がある。

 親子、家族といえども、プライバシーには立ち入らないという無言の了解があったからこそ、他のいろいろなことをずっと長く気兼ねなく話せる関係でいられたのではないかと思う。父や母にしてみれば、私の心の中にねじ入ってくるようなことをしなくても、普通の話題に対して、私がどう関心を示し、反応しているかを見ていれば、私のその時の心の風景など多分何の苦労もなく手に取るように分かっていたのではないか。

 それは、私自身、自分の子供らを20歳を過ぎる大人の入り口に立つ年齢にまで育ててみた今になってみると、とてもよくわかる。子どもだった自分自身の、不安も、迷いも、悩みも、恋も、失恋も、そのことをわざわざ話題にしていなくても、親の目には、きっと手に取るように見えすいていたことであろう。

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 親が死んでしまった後、それまでのダイアローグはモノローグになった。

 何か考え事をしていると、何かの弾みでふと「父ならどう応えるだろう」「母ならどう言うだろう」と思うことがある。そうして、父ならば、母ならば、とそれぞれが言いそうなことは、冗談や笑顔の表情まで一緒に、容易に自分の心に浮かんでくる。父や母と同じ立場に立ってみると、あの時は苦しかっただろうな、というようなことが、わがことのように実感できたりもする。

 人として親が子に残す最大のものというのは、多分、そういうものなのではないのか。

 モノというより、人間としての姿勢や生き方そのもの。それは、生きているうちに、たくさんのダイアローグを積んでおくことで残されていくもののようだ。多分、それは、子どもにとってそのまま受け継がれるものでなくてもよいのだと思う。ただ、子供が、鏡に照らすように、自分の思いを反映させる相手になってやること、それが親の役割であるのだろう。子どもには嘘はつけない、子供には嘘をつきたくない、という気持ちが、親をまた活かしてくれる。子どもが親を親らしく育てるというのは本当だ。

 ダイアローグがモノローグになる時、子どもは、やっと親から完全に自立して、自分の足で立って歩き始めるのだろう。そして、このモノローグ(自立)は、ダイアローグ(ガイダンス)の長いプロセスがあってこそ生まれるものだ。

 親ができる子供への家庭教育とは、こうして、親子の絆と愛情に支えられながら、ダイアローグの相手になり、やがて、子どもが一人で巣立っていく、モノローグの始まりの日に、すべてを託してこの自立を信じて舞台から去っていくことなのだろう。本当のモノローグは、親が亡くなる日に始まる。

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 夫婦や恋人同士の愛情も含め、愛情のある関係には、ダイアローグとモノローグが欠かせない。
たくさんのダイアローグを重ねながら、お互いの生き方や考え方を、心を開いて学び合うことができるなら、それは、本当に恵まれた愛の関係であると思う。そうして、ダイアローグを重ねて行くうちに、相手の小さな仕草、小さな一言が、「あれはどういう意味だったのだろう」と考え続けるに足るほど、愛している者にとって重要な意味を持つものになる。

 愛する人の心を手に掬い取るように分かりたい、そう思うからこそ、私たちはたくさんのダイアローグを求め、同時に、ありすぎるほどのモノローグの孤独に耐えていく。そうしてやがて、小さな言の葉ひとつが、何百の言葉を尽くしても足りないほどの愛の結晶を結ぶようになるまで、、、、